フィッシャー・ブラック『ノイズ』とファイナンスの教え

いま訳している分厚い本がもう、話があっちとびコッチ飛びして、結局どこに移行しているのか、そもそも何の本なのかもときどきわからなくなっきて、いまは一生懸命『マヌ法典』なんか読んでおりますが、うーん。

分厚いから本当なら集中して片づけたいんだが、ついつい意識もあっちとびコッチ飛びしてしまいまして、しばらく前に目移りした先が、フィッシャー・ブラック「ノイズ」。ものすごくおもしろいので、全訳しちゃったよ。

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フィッシャー・ブラック「ノイズ」(1986) pdf版

論文として専門誌に掲載はされているけれど、実際にはこれ、当時ブラックがファイナンス学会の会長講演として行った講演。だからですます調で訳してある。そして講演だから、むずかしい数式とかはぜんぜんないので、すらすら読めます。

ところで、フィッシャー・ブラックってだれ?

MBAもどきのファイナンスの勉強をした人なら、オプション価格のブラック=ショールズ方程式を (名前は) ご存じのはず。CAPM、MM仮説とならんで金融工学の三大基盤で、特にデリバティブとかの話だとこれがすべての本家本元といっていいもの。それを考案した人だ。文句なしの大天才。

この人の最高の伝記も、ちゃんと翻訳がある。

金融工学者フィッシャー・ブラック

金融工学者フィッシャー・ブラック

この人は金融工学そのものにとどまらず、その考えを経済学も含むあらゆる部分にまで拡張してしまった、とてもおっかない人だ。そして拡張してしまった結果として彼が到達した一つの知見について、ある意味で軽くまとめたのが、この「ノイズ」となる。その知見というのは……

完全に合理的な世界というのは、何も起きない世界だ、というもの。あるいは、市場における不確定性原理みたいなものだ。

簡単に言うと:

  • 市場は、正しい情報なんか無視するバカ=ノイズがたくさんいないと成立しない (きちんとした情報に基づいたトレードが成立するのは、その相手側にきちんとした情報を無視するバカがいてくれるからだもの)

  • でもバカが多いと情報が歪むので、市場が成立すると正しい情報が得られない

  • でも市場がないと情報がそもそもできない (ふりだしに戻る)

経済活動においても同じだ。人が完全に合理的なら、お金もインフレも各種政策も全然関係ない異様な世界が生まれてくる。というか、そうなっているはずだ。その一方でそれがそうなっているかどうかは、そもそもの合理性を判断するためのデータが取れないことでまったく判断がつかない。ぼくたちはそのノイズが生み出したあいまいで不確定な領域の中で、手探りで漂うしかない……

彼がもとにしているのは、市場は効率的だという考え方ではある。でもこの論文の中で彼曰く

効率市場というのを、価格が価値の倍数2以内、つまり価値の半分よりは大きく2倍よりは小さい状態と定義してみましょう。この定義からすると、たぶんほとんどの市場は、ほとんどの場合に効率的だと思います。「ほとんど」というのは少なくとも90%ということです。

このすさまじい幅の採り方。いまだれかが、日経平均の正しい値は15000円から6万円の間です (しかもこれですら確率90%)、と言ったら、たいがいの人はおまえはバカか、と思うだろう。ブラックは天才だったけれど一方で実務家だったから、実は市場が大して効率的ではないのを知っていた。けど理論家でもあったし、CAPMのすさまじい魅力も熟知していた。そこらへんの迷いなのか自虐なのかが露骨にこういうところに出ているのがすごい。

そしてこれは、ファイナンスのいちばんの根っこのところを疑問視する話でもある。ファイナンスの講義を受けると、最初の数時間というのは、市場がいかにエライかを叩き込むのに費やされる。だいたいの議論はこんな感じだ。

  • 市場価格がおかしくても、きみにはそれはわからないよね? わかったら逆張りして儲けられるよね?→ まあそうだねえ。
  • つまり、きみの乏しい知識よりは市場の価格のほうが正しいということだよね? →いや正しいかどうかはわからないでしょ、バブルとか……
  • でもみんながバブルだと思ったら価格は自動的に調整されるはずだよね?→ いやまあ理屈はそうだけどさあ
  • そして他のみんなもいろいろ自分の情報を使って判断してるし、市場価格はその取引の結果だよね? → まあそれはそうだけどさぁ
  • つまりは、市場の価格は世の中のあらゆる情報を濃縮した結果だよね? → まあそういう言い方もできるだろうけど……
  • つまりはきみなんかのケチな情報よりはるかにリッチな情報の結果だよね? → いやそうだけどさぁ……
  • ちがうっていうなら、きみは市場に逆張りして儲けられるの? → いやそうは言わないけどさあ……
  • じゃあ市場価格はきみや、その他どんな個人より圧倒的にえらいよね? → えー、まあそうかな……
  • そして万が一おかしいとしても、それを判断する方法はないよね? あればみんなそれを使うからね? → まあそうだけど……
  • つまり市場価格は、あり得る中で最大の情報に基づくもっともよい価値推計だよね? → うーん、そこまで言うかどうか……
  • だからいろんなモデルとか理論においても、一応市場価格が正しい価値の最も優れた指標だということにしていいよね? →まあ理屈の上では……
  • じゃあ市場価格=正しい価値とおくね? いやなら他にどうしたらいい?→いやそれはわからんけど……
  • じゃあ市場価格=正しい価値ね。はいおしまい。

でもブラックのこの講演は、この基本のところにまず突っ込みを入れる。この考え方の総本山の会長でありながら。

ということで、非常に含蓄の深い講演。

ちなみにさっきの伝記を書いたメーリングは変な人だ。伝記の解説だと何かブラックの支持者のように書かれているけれど、全然そんなことはない。彼はブラックに入れ込んだのは、自分の基本的な考え方とある意味で正反対の考え方の人だからだ、と明言している。この「ノイズ」からもわかる通り、ブラックの描く世界はマネーストック公開市場操作も何の役にもたたない世界、つまり中央銀行も、ヘタをすればお金がいらない世界だ。メーリングは、そういう考え方の全貌を知りたいと考えてフィッシャー・ブラックに入れ込んで、そしてその議論の変なところを考える中で、バジョット以来の中央銀行理論であるマネービューの復活を図るんだけど……

この話はまた、こんど出る彼の主著で解説しましょう。

21世紀のロンバード街

21世紀のロンバード街

が、その前に『マヌ法典』読んでこの手持ちのヤツを片づけてしまわないと……