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フエンテス『テラ・ノストラ』:英訳で読んだときと感想は同じ。力作だけど(それ故に)アナクロ。

ただの読書 むしろ感想文 書評 知識人 社会

http://honto.jp/netstore/search_10%E3%83%86%E3%83%A9%E3%83%BB%E3%83%8E%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%A9.html?srchf=1honto.jp

なんと、カルロス・フエンテス『テラ・ノストラ』の日本語訳が出てしまった! 出る出る詐欺にはひっかかるまいと思って英訳版を読んだ身としては、もう少し待てばよかったか、と悔しい思いもある一方で、それがもう数年前だしあのとき読んでおいてよかったという気もする。

さて、ご記憶の方はご記憶だろうけれど、ぼくの『テラ・ノストラ』に対する評価は、決して高いものではない。詳細に関しては以下を参照してほしい:

cruel.hatenablog.com

簡単にまとめると、以下の通り:

  • 力作なのはまちがいない。長さといい密度といい。
  • でもその長さと密度(そしてそのために必要とされる構築性)こそが、本の主張を裏切っている。
  • 本で表明されたイデオロギーは単純で、秩序を指向する現代文明にメキシコ/スペイン文化の神話や芸術を対比させてアウフヘーベンさせようというもの
  • でもその現代文明=進歩重視=秩序化=すべて固定する不毛という認識自体おかしい。だって進歩するって、固定しないってことだよ?
  • それに対する神話/芸術の力みたいな話も、きわめて退屈で妥当性のない代物。
  • しかもそのイデオロギーを説明しすぎて、小説としての広がりが犠牲になっている。

テラ・ノストラの原書が出た1975年――つまり執筆時点ではオイルショック前だろうね――では、米ソ冷戦構造が圧倒的に強くて、そのベースとなっている資本主義/社会主義とその根底にある進歩主義史観みたいなのがドーンとエスタブリッシュメントとしてあった。だからそれに対する土着主義とか反進歩とか神話とか芸術とかいうのをいっしょくたにして、オルタナティブな選択肢でございという提示の仕方には、それなりの説得力があったんだろう。ヒッピー運動も、そんな整理されない思想/指向のごった煮だ。

でもまさに本書が出たときに、オイルショックと公害問題に伴う経済後退で状況は変わってしまった。そして変な土着崇拝やドジン信仰の問題点、神話=宗教が実はやばいカルトのたまり場であること、その他フエンテスがいっしょくたにしていたものが、実はいっしょくたではなく、そんなにありがたいものでもないことがわかってきてしまった。その時点で、たぶん本書のような小説のそもそもの存立根拠はなくなったんじゃないか。

長い小説なので、そうしたイデオロギー面がなくなっても、見所はある。ただ本書の場合、そのなまくらなイデオロギーがこの長大な小説の骨格を構築しているので、それが成立しないと、もうぐずぐずになってしまう。冒頭と最後の部分はとてもかっこいい。でもその間の部分は……

もう一つ。解説にもあるけれど、本書で(いやこれまでの各種の著作で)フエンテスは、唯一のただしい読み方に対する多様で異質な読み方というのを称揚してみせる。途中で、主人公格の一人が、グーテンベルグの印刷術の話を伝え聞いて「そんなもので万人が本を読むようになったら、みんなが勝手な読み方をして、唯一の正しい読み方が台無しになってしまう」と懸念するところがある。フエンテスは、みんなが読んで、みんなが書くような状態を『セルバンテス、または読みの批判』でしている。

でもその異質な読み方ってなんだろうか。本書だと、それがエログロスカトロ奇形両性具有、風刺に茶化しになるんだけれど、それが必ずしも豊穣さにはつながっていない。むしろオルタナティブ文学とか実験小説とか言われるもののワンパターンになっていて(例:ウィリアム・バロウズ)、もはや異質であることの均質性みたいなものになっている。それが何かパワーを持てているかというと、ぼくはそうは思わない。本書の解説では、『テラ・ノストラ』の中で、実は高潔な騎士であるはずのドンキホーテが女衒の手引きで、清らかに崇拝するはずのドゥルネイシアドルシネア姫を手込めにしちゃったんだぜ、という話が出てくるのを見て、それが異質な読みだという。ふーん、そうなんですか。でもそれがどうしたんですか?

フエンテス以外でもそうだ。たとえばテロにあったシャルリエブドという風刺雑誌があるけれど、襲撃されちゃったもんで、なにやら立派な風刺で高度な言論であるかのような言われ方になっている。でも、実際はレベルが低いし、その風刺も大したことはない。むしろ、それを襲撃した連中の、「異質な読み」なんかいっさい認めない文字通りの「正しい」読みにこだわるやりかたのほうが、えらく衝撃力を持つようになっている。そのほうが、いまの世界のあり方に対する批評性を持ててしまっている。

(ぼくはこの点は重要だと思っていて、いまアーティストとか名乗っている人たちはこれをよく考えてほしいと思っている。ちなみに、原理主義の人たちは、批評性を持とうとしてイスラム国をやってるわけじゃない。だから批評性というのは実は作品の問題ではなく、受け手の問題なんだというのもわかる。がそれはまた別の話)。

だから『テラ・ノストラ』は、ある意味で20世紀的な新しい小説のありかたを完全に、しかも実に見事な形で実践した小説ではある。現代社会批判、その背景にある進歩思想批判、「正しい」読みに変わる異質な「読み」と「書き」。パロディ、引用に本歌取り、言葉遊び、小説内小説、時間の倒錯、猥雑な語り口、著者と読者の融合と可換性。でも、それをほぼ完璧にやったがために、本書はその限界をすべて引き受けることになってしまった。そして、20世紀的な新しい小説が前提としていた20世紀の社会が変容したとき、そうした時代認識とそれに結びついていた「技法」は、宙に浮いてしまい、いわば無駄な力作になってしまったんだと思う。

それでも、再読してぼくは、この小説にまだ救える部分があるんじゃないかな、という印象も受けた。なんかまだ整理しきれないので、これはまたいずれ。

サンフランシスコの住宅市場

ネタ トビリア 経済 社会 都市建築

サンフランシスコの住宅市場に関して、こんな記事を見かけた。

www.vox.com

どうせ君たち読まないだろうから、何が書いてあるのか教えてあげると、サンフランシスコはいま、Uberが立地したりアレとかこれとかがきたり、ブルーボトルコーヒーが出てきたりで、すごく活況を呈していて、人々が流入してきているのに、建築規制がやたらに多くて、新しい住宅がほとんど市内にできず、賃料などが高騰しているよ、というお話。記事はオークランドの話だけど、ベイエリアの他の地区も状況は似たようなものだ。

これはまさに指摘の通り。サンフランシスコを筆頭に、カリフォルニア州はこの点で悪名高くて、やれ高さ制限だ、やれ立て替え制限だ、やれ環境規制だ、やれ緑地保護だと規制ばかりがうるさくて、新しいものが全然建てられない。これは、かのヒッピー文化とアップルを生んだ自由な文化の発露であり高い環境意識と保全意識を持った高度な市民性のあらわれだ、と思ってる人が多いんだけど、実は全然そんなものではない。実際には、本当に侮蔑的な意味での「意識の高い」ポーズでしかない場合が往々にしてある。

たとえば、サンフランシスコの意識高い連中は、二酸化炭素の排出規制とかに熱心だ。さて、これをやる簡単な方法がある。都市の容積率を緩和して、もっと高層住宅を建てられるようにして、人口密度を上げることだ。郊外に戸建て住宅を建てるよりは、都心部に高密に住めば、住宅自体の排出も、人々が移動のために使う車の排出も大幅に減る。ところが、サンフランシスコではまさに温暖化対策だ排出削減だとわめきたてる連中が、同時に建築規制とか容積上げるなとか高層ビル反対とか主張する。

でも、それでどうなるか?それでカリフォルニアに住めなくなった人々は、テキサスとかフロリダとかのすさまじい郊外住宅開発が行われているところにでかけて、家を買い、自動車通勤する。排出は十倍なんてもんじゃすまないだろう。結局彼らの建設反対は、全体としては排出の大幅な増大に貢献しているのだ。本人たちは、自分が意識高いつもりでいる。でも実は、自分たちの環境意識なるものが無内容なNIMBYでしかなく、実は本当に排出を抑えることが重要だなんて思ってないことを露呈し、単に自分たちの既得権益を守りたいだけ、というのがあらわになっている。これはエドワード・グレイザーによる批判でもある。

都市は人類最高の発明である

都市は人類最高の発明である

でも、ベイエリアで住宅(特にマンション)が建たなくなっている理由がもう一つある。訴訟だ。

この話を、以前英語雑誌『アルク』の連載コラムで書いた。あの連載もはやくhtml化しないと、と思いつつ放ってあるんだけど、この話の回(2015年10月あたりの号)を以下に示そう。

 最近サンフランシスコにでかけることがあった。先進国は久々でなかなか新鮮ではあった。途上国が基準になってるもので、停電しないだけで感心したりするからぼくの感覚は当てにならないんだが、一つびっくりしたのは、テレビをつけたとき。ケーブル以外の、特に夜のネットワークテレビのCMが、弁護士事務所ばかりになっちゃっているのだ。

 しかもその内容は、すべて「集団訴訟をしましょう! うちの事務所がすべてお手伝い! XX社の製品をこの時期に買った人はただちにお電話を!」というものばっか。うっひー。

 そういえば、しばらく前にうちに突然、集団訴訟のお誘いがきたことがある。アメリカにいた頃に作った銀行口座をまだ残してあるんだけれど(小切手を切れるのは便利なときがあるもんで)、その銀行の利用者すべてに対して、何やらお手紙を送りつけてきているらしい。なんでも、その銀行が外貨取引かなんかのサービスを始めたときに、元本割れの危険性とかについて十分な説明を行わなかった、というもの。でも、ぼくはそのなんとかサービスなんか使ってもいないんだけど……

 そう思って先を読み進めたら、ちゃんとそれが書いてある。心配ご無用! 別に実際に被害があったりする必要はない。その説明不足によって、あなたはひょっとすると損害を受けるリスクに曝されていた!したがってそれについて、銀行を訴えて損害賠償をむしり取る正当な権利がある!あなたは同封の同意書にサインして送り返すだけ! あとは当法律事務所にお任せを! あわよくば大金が転がり込みますぞ!

 たぶん、読者のみなさんの多くは、こんなのを読んだだけでゲンナリすることだろう。たいがいの人は、この発想自体に嫌悪を示す。でも、当然ながら、たぶんこんなものでも大量に送ったら、ひょっとして自分に得があるかもと欲を出す連中が一定の割合いて、訴訟が成立しちゃうんだろう。

 そういう話を翌日、サンフランシスコの元同級生にしたら、不動産開発畑のその同級生が顔をしかめた。

「実は……サンフランシスコとかで、その手の訴訟がやたらにあって、いま市内ではマンションがまったく建たなくなってるんだよねー」とのこと。

 訴訟で? ぼくはてっきり周辺住民の建設反対訴訟かなんかだと思ったら、全然ちがった。

「いまは、マンションが建ったら、そこの住民管理組合が必ず建設会社を訴えるんだよ。施工に瑕疵があったといって、お金を取ろうとする。それが派手になりすぎて、もうどこの業者もマンションなんか建てなくなったんだ」

 なんと! でも、施工に瑕疵がないことだってあるだろ?「必ず」ってことはないだろ?

「いや、『必ず』なの! 絶対に、あら探しすれば何かしら瑕疵なんて見つかるから! そしてそれ以上に、それ専門の法律事務所があって、あらゆる住民管理組合にそれをけしかけるの!おまえがテレビCMで見たのと同じだよ」

 えー!!!! でも、管理組合だってそんなのいやじゃないの?うちはそんな卑しい真似しない、という倫理観のある管理組合だっているだろうに。

「それがねえ……」と友人は、言いにくそうに言った。「そうするとその法律事務所は、管理組合の委員長をつかまえて『お前はこの訴訟をしないことにより、この管理組合が得べかりし利益を逸失させている、ついては他の住民に対して、お前に対する損害賠償訴訟を起こすようけしかけるぞ』と脅すんだよ。住民は多いし、だれかがそんな訴訟に乗ってくる可能性はそこそこある。そんなの万が一おこされて負けたら、破産確実。みんなビビる。このオレだってやらざるを得なかったもん!」

 うーん。アメリカは訴訟大国というのは、国民がみんな訴訟好きだということかと思っていたけれど、ちがうんだねー。訴訟しないから損害賠償! その発想はなかった。こうして、訴訟が訴訟を生み、法律事務所がマッチポンプ的に訴訟を作り出す世界があるのか……

The Economist に出た、最近のチョムスキー

Economist お勉強 翻訳

え、チョムスキーってこんなことになってんの、というのが面白かったので、例によって勝手に翻訳して紹介。ぼくはおもしろいと思うんだけれど、昔朝日新聞にチョムスキー本の書評をのせたらfinalventがなにやら山形はまるっきりわかっていないと言いたげな、でも何もはっきりと言わない役に立たない批判めいたものを書いたので、実はぼくはチョムスキーの言っていることを全然わかっておらず、したがって以下の文も実は「わかってる」ひとにはあまり面白くないorピント外れなものなのかもしれないので、その点はご注意を。

ノーム・チョムスキー:世界で最も高名な言語学者の理論はいささか奇妙なものになってきた。

The Economist, 2016 3/26-4/1号 p.77

www.economist.com

特定の人物と、これほど強く関連づけられている学問分野はほとんどない。物理学のアインシュタイン、心理学のフロイトくらいだろうか。でもノーム・チョムスキーは、言語学に革命を起こした人物だ。1957年に「統語構造論」を書いてから、チョムスキー氏は人間の言語が他のあらゆるコミュニケーションとは根本的にちがっていて、「火星からの言語学者」がいれば、あらゆる人間言語が一つの言語の変形版でしかないと同意するはずで、子供の恐ろしく急速かつ見事な学習(親からの入力はしばしばめちゃくちゃで、いい加減なものであるにも関わらず)は、脳の中に生得的な言語機能があることを示唆すると主張してきた。こうした発想はいまや広く受け入れられている。

過去60年にわたり、チョムスキー氏は繰り返し自分の理論を単純化してきた。人間言語の一部側面は動物も持っているし、それ以外のものはもっと一般的な人間思考の一部だ。かれはますます、人間特有だと考える言語の特徴にだけ関心を狭めてきた。こうしたすべてが、昨年末に刊行された、コンピュータ科学者ロバート・バーウィックと共著の驚異的な小著『なぜ我々だけが (Why Only Us)』となった。これは人間の言語進化を説明すると称する本だ。

同じ問題は、他の生物学者や言語学者や心理学者も探究してきて、ほとんど意見の一致は見られていない。でも世界で最も高名な言語学者の発想については、同意する人はさらに少ない。ある一つの遺伝的な突然変異が、たった一人の人間に「マージ(統合)」という能力を作り出したというのだ。チョムスキー氏はこの人物を「プロメテウス」と呼び、それが人類の出アフリカのしばらく前に起きたと主張する。この突然変異は実に有益だったので、生き残って栄え、それが今日のアルバニア語からズールー語まで七千種類もの言語を作り出した。でもチョムスキー氏の議論によれば、世界の言語のすさまじいちがいは、単にその「外部化」におけるちがいでしかない。中核にあるのは「マージ(統合)」だ。

でもそれって何ですの?マージは単に、二つの心的な物体を統合してもっと大きなものにする能力だ。そしてその大きなものに対して、単一のモノであるかのように心的な操作を加えられる。Theをcatとマージして、名詞句を作り、それがwaterのようなむき出しの名詞であるかのように、文法規則がそこに作用できる。theとhatでもそれができる。これさえできたら、さらにマージを続けて、the cat in the hat なんてのも作れる。The cat in the hatを今度は動詞句とマージすることで、新しいモノである文ができる。The cat in the hat came back という具合。そしてその文をもっと大きな文にマージもできる。You think the cat in the hat came back. それがもっと続く。

これが何の役に立つんだろう?その時点では、マージを持つ人はほかにだれもいない。プロメテウスは誰と話を?誰とも話せない、少なくともマージを使っては話せない(人はすでに、ほかの多くの動物と同じく叫びや身振りは使っていたかもしれない)。でもマージにより可能となった階層構造言語は、チョムスキー氏によれば会話のために進化したものではまったくない。むしろそれは、プロメテウスが単純な概念を使い、それを文章的な形で頭の中で組み合わせるのを可能にしたのだ。結果として生じた複雑な思考が、その人間に生存上の優位性を与えた。その突然変異によるマージ遺伝子を、生き延びた子供たち数人に伝えたら、その子たちも栄えて、マージ遺伝子をさらに後代に伝えただろう。チョムスキー氏とバーウィック氏は、その子孫たちがアフリカのヒト集団を支配するようになったはずだと考える。そしてそのずっと後になって、マージが発生器官や聴覚器官と共同作業するようになってから、人間言語が生じたというのだ。

多くの学者たちは、これが不十分か、あり得ないか、トンデモの間のどこかだと思っている。これほどのすさまじい優位性を与える単一の突然変異の出現は、生物学者たちが「ご都合主義の化け物」理論と呼んでバカにするものだ。ほとんどの進化は漸進的で、たった一つではなく多くの遺伝子に作用する。マージのような能力は存在するかもしれないが、それではマージする単語としない単語がある理由が説明できないし、まして世界の言語でのマージがこれほどちがっている理由などまったく埒外となる(『なぜ我々だけが (Why Only Us)』には、英語以外の例が一つも出てこないし、索引にも外国語が一つもない)。

チョムスキー氏は、自分のますます途方もないアイデアに同意しない連中は、めくらかインチキ野郎だと言う。批判者は「偉大な指導者」を核とした「追従者たち」が「カルト」を形成し、指導者にまじめに反論しないか、非チョムスキー派の学者の研究とまじめに取り組まない状況を示唆する(ある批判者は「チョムスキーに罵倒されるのは名誉の勲章だ」と述べた)。言語学はいまや、チョムスキー派と、大量の批判者と、そして現代の言語学分野創設者などどうでもいいとするさらに多くの人々に別れている。チョムスキーは、フロイトのようにはならないだろう。フロイトは現代心理学では周縁的な存在でしなかく、その永続的な影響はむしろ人文学のほうに見られる。チョムスキー氏のキャリアは、むしろアインシュタインのようなものとなるだろう――少なくとも、その最高かつもっとも影響力の高い成果が初期にやってきたという意味で。

え、ifconfig非推奨になったの……

お勉強 ぐち

久々に Linux いじってあちこち見てたらこのページ:

yuuki.hatenablog.com

え、ifconfig ってもう非推奨になったの??!! 知らなんだ。他にもあるのかな。なんか数年遠ざかっているうちにいろいろ変わってるみたいでキャッチアップが大変そうだ……

増田のジェイコブズ翻訳に関する記述が修正された件

ぐち 経済 都市建築

2月20日に上げたエントリーで指摘した、増田悦差によるぼくのジェイコブズ翻訳に対するまちがった因縁記事が、修正された。該当する部分は削除され、その旨のコメントも最後についている。

素早い対応、感謝します。

 

一応、放置しようと思いつつも、このままだとNTT出版も可哀想かも、と思って連絡窓口に指摘をしておいたんだけれど、三日ほどで対応してくれたことになる。

 

Having said that... こうして直されてしまうとおもしろくないので、言わないままにしておけばよかったかなー。

都市って自由放任ではできないのよ

で、ついでだから中身についてもコメントしておく。増田の主張は、ジェイコブズは都市計画すべてを否定していた、自由放任の都市がすばらしい云々、というもの。

これがとっても浅はかで馬鹿な主張だというのは、都市というもの――特にここで問題にされているような大都市――を考えればすぐにわかる。

だって、高密で人が居住するためには、各種インフラ、たとえば上下水道必須ですよ。上下水道が民間の自由放任だけでできた例は、たぶんほぼないよ。井戸や、せめて浄化槽ですんでいるレベルの小さな町くらいならなんとかなるかも。でもちょっとでも大きくなれば、そうはいかない。

ジェイコブズは都市の見事な自立的秩序を示すために、「歩道のバレー」という有名な描写を使う。ジェイコブズが当時住んでいたマンハッタンのグリニッジビレッジでは、歩道を店主がはき、通勤者が使い、子供が遊び、買い物客が通り、見知らぬ人が迷子になり、それを住民が助け、あれやこれやと常時人が通って様々な活動が入れ替わりたちかわりあらわれる。それが都市の活力をうみ、そしてそれ自体が治安を守る監視装置となる。そうしたジェイコブズの描写を見て、都市の自律性に感嘆し、お役所の安易な都市計画に舌打ちしてみせるのは、まあ多くの人々の常道だ。

アメリカ大都市の死と生

アメリカ大都市の死と生

が、そこから都市計画すべてが不要だ、という結論は出てくるだろうか? はやい話が、その舞台となった歩道は自然にできたの?都市計画があったからこそその歩道が設置されたんだよ。ジェイコブズの歩道のダンスは、マンハッタンの都市計画があって、それを前提に初めて成立している。

ジェイコブズだって、その程度はわかっている。彼女は、完全なトップダウンによる計画――各種ニュータウン的な計画やブルドーザー型都市計画――に反対しているのであって、増田が言っているような公共的な介入すべてを否定してるんじゃない。

だが、ルドフスキーの賛美する非計画性は、だれも他人の行動を操作しようとせず、大衆が自分たちの都合に合わせて住むところ、働くところ、買いものをするところ、飲み食いするところ、遊ぶところを重層化させた、文字どおりの非計画性ではない。当人はそんなものがこの世にあり得るとは思っていないし、あったら自分の繊細な美的感覚にはとうてい耐えられないような猥雑な街路になるだろうと思っている。

うん、ぼくもそう思っている。それも「自分の繊細な美的感覚にはとうてい耐えられない」どころか、現代日本人の大半の美的感覚に耐えられないものになると思う。当の増田を含め。だって、実際そうなってるもの。ぼくは世界各地のスラムにもでかけている。それは「大衆が自分たちの都合に合わせて住むところ、働くところ、買いものをするところ、飲み食いするところ、遊ぶところを重層化させた、文字どおりの非計画性」の発露だけれど、決していいものではない。

ものすごく時間をかければ、そういうのもあり得るかもしれない。イタリアの一部の都市や、イスラム都市のカスバなどは自然発生的な集積から、おもしろい空間が数世紀かけてできあがってきた(ちなみにそれをがんばって指摘してきたのが、増田がけなせたつもりでいるバーナード・ルドフスキーだ)。でもそれがあらゆるところにあてはまるだろうか。ぼくはそうは思っていない。

建築家なしの建築 (SD選書 (184))

建築家なしの建築 (SD選書 (184))

「だれも他人の行動を操作しようとせず」と増田は書く。でも都市計画は、そして建築そのものは、すべて他人の行動を何らかの形で操作する行動だ。壁を作れば、それは人の動きを制限する。ドアを作れば、それは人の動きをそこに集約させる。そしてレッシグが指摘するように、それ(アーキテクチャ)はあらゆる規制制御の力中でもっとも強く、最も強引で、最も有無をいわさないものだ。その認識がない人は、建築や都市計画について語らないほうがいいと思うのだ。そういう人々のいう「都市計画」とか建築というのは、単なる意匠のことだったりする。あるいは「願わくば、人を集める「こと」が、いい芝居、感動的なコンサート、安くてうまい露店や洒脱な大道芸であって」といったような、きれいなお店とかお芝居とか、そんなのが「都市」とか「都市計画」だと思っている。

でも都市計画は、その大道芸が行われる場所をどう確保するかとか、その「こと」で集まってきた人のウンコをどうするかとか、そもそもその人々はどうやって集まってくるかとか、そういう部分の話だ。そういうものが自然にできていると思っている増田は、そもそも都市のなんたるかがわかっていない。自由放任の都市を夢想する増田は、その「自由放任」に思えるものが、実はそれまでの計画による空間その他に規定された制約の結果なんだということをまったく理解できていない。

 

これは、経済そのものについても言える話だ。自由放任すれば経済すべてオッケーなんてことがあり得ないのは、そろそろ明らかなはずなんだけどね。本当に自由放任すれば、独占、汚職、価格操作、ギャング活動、公害、その他あらゆる被害が出る。市場がきちんと機能するための制度がないと、自由放任では話が進まない。自由放任の旗をふる人の多くは、自分たちがいかに不自由かに気がつくだけの想像力がないだけで、あらゆる人が自分と同じお行儀良さを保ってくれると無根拠に想定してしまっているんだけど、そんなことはないのだ。

前に『たかがバロウズ本。』で書いた通り、お金/経済にしても、言語にしても、それはぼくたちを解放してくれるものであると同時に、制約するものでもある。建築や都市計画もまったく同じだ。ある都市にやってきて、そこが自分をちがう形で制約するのを感じる――それと同時に、その制約が別の可能性を実現させてくれることにも気がつく。その自由と不自由両方を、同時に、同じモノとして感じることが都市体験なんだけれど、増田はその不自由のほうにまったく気がついていない。

 

確かボルヘスの小話(千夜一夜物語かなんかから採ってきたと称するものだった)に、こんなのがあった(『続審問』、だったかな?)。昔、あるところに王様がいて、巨大な迷路を作った。砂漠の国のスルタンがその国を訪ねて迷路見物を所望すると、王様はそのスルタンを迷路にほうりこみ、スルタンはそこを脱出できず三日三晩さまよい、半死半生の状態で引っ張り出された。

その数年後、スルタンはその王国を襲って滅ぼし、王様を拉致する。そして、迷路のお礼に自国の迷路を体験させてやるという。王様は、砂漠の真ん中につれてこられて放置され、そのままのたれ死んだとさ。

続審問 (岩波文庫)

続審問 (岩波文庫)

迷路は、完全に人為的な計画空間だ。砂漠は、完全に自由放任の空間だ。さて、本当に自由放任がよいんだろうか?

ねじ曲がったプライドの持ち主とは:鍋が釜をなんとやら。

ネタ むしろ感想文 感想

 なんか、うっかりこんなどうでもよいものを見て目を汚してしまったんだが……(しかも気がついてみると、これは新しい記事ですらなかった!が、内容的にはあまり時代に左右されるものではないので)

business.nikkeibp.co.jp

 こんなもの読みたくないという人のためにあらすじ:著者である遙洋子は、中年の部下の態度が悪いけどどうしようかという相談を受けています。それに答えるエピソードとして、ある番組で採られた写真5点のファイルをくれとADさんに頼んだら、依頼通りのやりかたでなかなか渡してくれず、とても苦労しました、という体験を紹介しました。それはそのADさんが質問者の部下と同様に変なプライドを持っていたせいで困ったものだけど、治らないから相手をするだけ無駄だよ、とのこと。

 で、いるんだよねー、こういうやつ。ちなみに、ここで言ってる「こういうやつ」は、文中でやり玉にあがっているADさんのことではない。さて、だれのことでしょう。

 この文章は、他人が変なプライドを持っていることで迷惑した、と言いたい文章なんだけれど、一見して変なプライドを持っているのは、実は文中の別の登場人物かもしれないという印象は抱かざるを得ない。

「テレビ業界ではアシスタントディレクターという位置は、一応、低いことになっている。」

「下働きとされるアシスタントディレクター」

この文章は、繰り返しその相手が自分より立場が低いことを強調したがる。でも写真ファイルのコピーくれ、程度の話でそもそも立場とか下働きとか、関係ないじゃん。

何人もいる番組責任者が私の楽屋に詫びを言いに来た。

しばらくして顛末をどこからか聞きつけた上司が、ひれ伏さんばかりに詫びに来た。

 目上の人が自分に詫びに来た、というのもしつこく書かれる。よっぽど自分の地位を強調したいのね。

 いるんだよねー、こういうやつ。そしてこういうやつは、往々にして相手の(自分から見た)地位次第で、ガラリと態度を変える。

 それに、普通変な対応されたら、その人に頼むのやめて他の人に頼むと思うんだけど(番組の関係者は他にもいるんだから)、遙はこのADさんに、なぜかしつこくあれこれ要求を続けた。「私はそういうタイプには距離を置き怒らない。治らないし面倒だからだ。」と書いているけど、距離置いてないじゃん。密着してるじゃん。地位を気にする人は、往々にして地位をかさにきて、しつこくねちねちやる場合もよく見かけるけど、ここでは本当はどうだったのかなあ。

 そして、その頼み方がどれほどまともなものだったのか、どうしても疑念を抱かずにはいられない一節。

家でSDカードを見て驚いた。

 変換用メディアがないとパソコンで開けないタイプのSDカードだった。

 「これがないと見られません」と、メディアチップごと貸す方法もあったのに、一切触れずSDカードのみを黙って渡すところにまだ女性の意地が届いた。

 ???それってどういうSDカード?そんな変なSDカードあるの?ひょっとしてmicroSDとかいうこと?そんなだいじな写真なら、そのSDカードを受け取った時点でわかんなかったの?

 そしてその次の「メディアチップごと」というのがまた意味不明。SDカードのメディアチップって何?ひょっとしてこれって、microSDを変換するアダプタのこと?

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 いるんだよねー、こういうやつ。自分で思いこみで物事に勝手な名前をつけて、それを他人が理解できないと怒る人。「パソコン」というのがすべて同じだと思ってる人。他の人が知るよしもない自分の環境について、当然みんなが熟知していてみんながそれにあわせた対応をするのが当然だと思っていて、その勝手なアテがはずれると、自分がバカにされたように思って怒り出す人。どっかで変な技術用語(「メディアチップ」とか)を聞きかじってきて、得意げにつかってみせてそれが通じないと(以下省略)。パソコンサポートデスクの苦労話とか読むと、これに似た逸話が山ほど出てくる。

 遙のこの文章は、このメディアチップとか「パソコンで開けないタイプのSDカード」とか書いて、読者が理解できるという想定で書かれてるんでしょ?普通は理解できないよ。この調子で頼まれたんなら、そのADさんも対応にさぞ困ったことでしょう。

 ちなみにこれがあるので、文中の50枚の写真を一枚ずつネットに上げた、という話も実際はどういうことだったのか、ここに書かれている話だけではとても判断がつかないように思う。

 結局のところ、このコラムだけから見る限り、ねじまがったプライドを持っているのは本当にこのADさんなんだろうか、それとも……ということだけが伝わってくる。ついでに、冒頭の質問者への答えにはほとんどなってない。たまに出る番組のADなら距離を置けるけど、部下はそうはいかないでしょうに。そもそもコラム全体として無内容すぎだわ。

 なんで日経ビジネスはこんな人にこんな連載させるんですかねえ。もう打ち切ったらどうです?(人がフェイスブックに今日貼っていたのを読んだので、新しい記事だと思ってしまったよ。2011年のものだった。でも上の見解は同じ。しかも連載まだ続いてるし)。

学校行ってもちゃんと勉強しないとダメよねー、というお話&日本の教育はゴミクズらしいぞ。

Science 援助 経済 感想

Science 読んでたら、経済成長と教育の関係についての論文が出てたのでちょっと紹介。

Knowledge capital, growth, and the East Asian miracle

Eric A. Hanushek, Ludger Woessmann, Science 22 Jan 2016: Vol. 351, Issue 6271, pp. 344-345 DOI: 10.1126/science.aad7796

http://science.sciencemag.org/content/351/6271/344.full

経済成長のためには国民に教育うけさせて人的資本の質を上げないとダメだよねー、というのはもう言われすぎていてあたりまえの話になってるんだけど、でも一方で、同じ年数だけ学校に通ってるのに、東アジアは奇跡の大成長で、南米諸国はかなり出来が悪い。他のところでも、あんまりうまく相関が出なくて、開発経済学の人たちはヤッベーと思ってるんだけど、でも教育とが社会や経済の発展にまったく関係ないってことも考えにくいので、そこらへん少し口ごもり気味でゴニョゴニョしてる面がある*1

それがキモチワルイってんで、開発援助に批判的なウィリアム・イースタリーは、「ほらごらん、上からの押しつけで学校作ったってだめなんだよ、開発援助で学校やってもダメなんだよ」という主張をしている。インセンティブさえうまくつければ、学校とか教育は途上国の人たちが自分で何とかするよ、という議論。でも、これまで自分で何とかしてこなかったという厳然たる事実があるからこそ援助って話がそもそも出てきたわけで……

エコノミスト 南の貧困と闘う

エコノミスト 南の貧困と闘う

で、この研究者たちは、就学年数とかじゃなくて、実際に能力テストをやってそれとの相関を見てみたらどうだろうか、というのをやった。それが以下の図。

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左は、就学年数と経済成長との相関を見たもの。同じ就学年数でも、青(ラ米諸国)は線の下にかたまり、赤(東アジア)は線の上にかたまる。

でも、右のグラフを見ると、学校通ってもちゃんと勉強しないでテスト(ここでのテストは、数学と科学のテストだそうな。具体的なデータ出所は、この論文著者たちの本に載っている模様で不詳。この論文の分析ベースらしい。はてブid:cider_kondoTNX!!)でいい点取れないようだと、経済成長には影響しない模様。テストで高い点採ってる国は、経済成長もいいよ、という話。だから東アジアの奇跡は、人々を学校に通わせるだけでなく、ちゃんとそこで勉強させてテストでいい点取れるようにしたからだったんだよ、とのこと。

正直いって(そして読者の多くもそう思うだろうけど)今さら何を言ってるんだ、という感じではある。各種テスト(IQでもいいし、大学入試でもいい)で高い点取れる人の所得が高いことは、あの『ベルカーブ』でもその他あらゆる調査でも概ね裏付けられている。就学年数とか学歴とか学校は、通常はそれ自体が目標ではなく、それが試験でよい点数というのの代理指標になってるという暗黙の前提があるから使われているだけで……

でも実際には、いろんな開発目標とかだと、就学年数挙げるとか、女の子を学校に通わせるとかいうのが目標になる。すると、学校の質はどうでもいいから形ばかり通学させればいい、ということになってしまいがち。学校の質もきちんと考えましょうよ、というお話。

当然なんだけどね。指標そのものにとらわれすぎると、変な歪み方が出て、それをさらに曲解したイースタリーみたいな極論も出てしまうので気をつけましょうというお話。

ちなみに、東アジアで唯一あまりできのよくないフィリピンが見事にこのグラフでも出来が悪いのは、さもありなんという感じなんだが、その一方で、なぜだろうね?なぜフィリピンだけこんなに低いのかね。学校の質をよくするというのは、バナジー&デュフロ『貧乏人の経済学』にも出ていたけど、なかなか難しい。インドでは、学校の狙いとしてエリート養成とか平均成績アップとかを掲げると、劣等生は無視してヘタするとどんどん退学させるとかいったことをやっちゃうから、全体の底上げが重要で、トップエリートなんかどうでもいいから、底辺の引き上げがんばろうぜ、というのを目標にすればよい、という結果が出ていたけれど、フィリピンもどうすればいいのかなあ。日本はフィリピンの学校とかにもかなり援助出してるんだけど……

貧乏人の経済学 - もういちど貧困問題を根っこから考える

貧乏人の経済学 - もういちど貧困問題を根っこから考える

あともう一つ、右のグラフを見てすぐ気になること。日本、全然ダメじゃん! ゴミクズじゃん!東アジアのブービー賞かよ!*2フィリピンの心配してる場合じゃねーや。データの出所や処理は要チェックだけど、ネトウヨ諸君、半世紀前の先人の遺業で虚勢張ってるより、現状のこういうダメなところにもっと怒りを向けようぜ!きみたちの嫌いな中韓にぼろ負けだぞ! デフレ対策もかねて、すぐに文教債券認めて、日銀が全量買い上げ!学校予算10倍増!そうでもしないと、これじゃとても景気回復しねーよ!

*1:最先端の研究者のみなさんは、「そんなのとっくに片付いてるよ!」と言うかもしれないけど、最先端の研究が現場に降りてくるまでには時間がかかるのでご容赦を。それにここで紹介した研究がわざわざ Science に掲載されるということ自体、それがまだ片付いていないという状況を示すものではある。

*2:ちがった。インドネシアのさらに下にフィリピンがいた。TNX 2 エミコヤマ。あーよかった、下から三番目なら日本も安心ね……って、そんなわけねーだろ!!