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「国際経済学」サポートページ

お勉強 経済学

10月刊行予定のクルーグマン、オブストフェルド、メリッツ『国際経済学』にはオンライン補遺があるので、それも訳してついでにサポートページ作ったでー。オンライン補遺の原文と翻訳を対比すると、どんな翻訳になってるかはわかると思う(別にそんな変わった訳にはしてないけど)。表紙写真はまだ原著のもの。日本語版のもできてきたら、差し替えます。

クルーグマン、オブストフェルド、メリッツ『国際経済学』日本語訳サポートページ

しかし、html5 に移行するほうがいいのかなあ。まあどうせぼくみたいに文字ばっかりのサイトだとあまり関係ないんだけど。

付記:原著版元からの要請で、オンライン補遺そのものは出版社サイトだけに置くようにとのこと。そういうことで、こちらのサイトからは外しました。出版社サイトができたらリンク張り直します。

Obstfeld はやっぱオブストフェルド、だってさ。

お勉強 経済学 翻訳 自慢 トビリア

一部の方はご存じだろうけれど、こんな本の翻訳を終わっていま怒濤のゲラ直し中なのだ。

で、ご存じの方は当然ご存じだろうけれど、これは題名にもかかわらず、クルーグマンの単著ではなく、Krugman & Obstfeld の昔からの名教科書で、しかも今回の第10版はそこに Marc Melitz も入っているという豪華な布陣。クルーグマンは、比較優位とヘクシャー=オリーンだけにとどまらない、規模の経済と多様性選好も貿易の原因となることを定式化した、新貿易理論の創始者だし、メリッツはさらに、それまでの国レベルでしか描けなかった貿易理論を、企業の異質性とそれによる産業の生産性向上が貿易の源泉になることを定式化して、企業レベルに(やっと)落とした、新新貿易理論の創始者。しかも、結構面倒なこの新貿易理論と新新貿易理論を、入門(よりはちょっと上)の教科書で、簡略化しつつも手を抜かずに説明しきっているという、なかなかの力作。新新貿易理論をそれなりに説明してる本は、日本ではいまのところ田中鮎夢の本くらいじゃなかったっけ?その意味でも画期的。

そしてもちろん、貿易編だけでなく国際金融をあわせて論じているのがこの教科書の大きな売り。これまた、ここ数年の金融危機、ユーロ危機のおかげで、本当に重要な時事トピックになり、それを理解する理論的基盤として完璧。その部分を主に担当しているMaurice Obstfeld は、去年からIMF 主任エコノミストさまであらせられる。すげー。

さてこれまでの版も邦訳はあったんだけれど、必ずしも翻訳に恵まれなかった面はある模様。あと、原著の版元ピアソンの日本での体制があれこれ動いて混乱したとばっちりも受けている。もったいない。ということで今回満を持しての邦訳。翻訳も万全。まあ嫌う人もいるだろうけど、それはあくまで趣味のレベル。意味のとりちがえや構文ミスはほぼないはず。

で、出すに当たって、クルーグマンとメリッツは問題ないんだけど、問題はObstfeld. これ、これまでの邦訳だとオブズフェルドと表記されてたんだけど、オブストフェルドだろうという人もいて、はっきりしなかった。

で、はっきりしないのは嫌いなので、白黒決着つけるべく、当人にメールいたしました。が、天下のIMF主任エコノミスト、返事くるわけねーよな、と思いつつ。

ところが……きた!!!!

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いやあ……それも即答レベル。驚いた!

うれしい一方で、天下のIMF主任エコノミストでしょ??!! 即答って何?しかもこんなどこの馬の骨ともしれぬやつの、ホントどうでもいいメールに? ひょっとして実は暇?

……なーんて、そんなはずなくて、欧米の先生方は昔のノビーとの生産性論争のときもそうだったけど(あとその後、レヴィットダブナーが話題にしてたトーマスシェリングのくだらないトリビアを本人に確認したときもそうだけど)、みんなホントに親切で、きちんと聞くときちんと答えてくれるんだよね。すばらしい!

ということで、オブストフェルド、がご本人の選好ということで、それにあわせます。でもこういうくだらない話でも、日々不明点は明らかにしていこうぜー。人を煙に巻いて小銭貯めるのはやめようぜー。

Frankfurt, <i>On Truth</i>: やっぱウンコというのが入ってるのがまずいってことなんだろうか。

Amazon Rejects 書評

拙訳で邦訳された『ウンコな議論』の続編とも言うべき本が出ていて、初版の事情でやっと最近読みました。で、アマゾンにレビューを書いたら……掲載できないって。何もまずいことは書いてないと思うんだけど、察するにレビューを判定するAIが、「ウンコ」に反応してはじいたんだと思う。他に仮説あれば是非!

On Truth

On Truth

ウンコな議論続編:なぜ真実は重要なのかを改めて論じた本

On Bullshit (邦訳ウンコな議論)が意外なベストセラーになったフランクファートが、続編を書いた。ウンコな議論はウソよりひどい、ウソは真実を前提として、それを歪めることで利益を得ようとするから一応真実にそれなりの重きを置いている。でもウンコな議論はそもそも真実かどうかはどうでもいい、情報量がない雑音でしかないので、その蔓延は真実の価値を貶める、というのが前著の議論だったけれど、それに対して「真実なんかないからそんなのどうでもいい」というポモな人々からの批判があったそうだ。それを受けて、改めて真実は重要なんだと力説した本。結局、自分自身をはっきり省みて己にとっての価値や意義を見つけるのが重要というのがフランクファートの全哲学の基本だけれど、ある程度の客観性を持つ真実がなければ自分自身を理解することさえできない。真実はないとかいう主観論や相対主義は、部分的に白黒つけにくい部分もあるという話を必要以上にひきのばした無益な極論にすぎない。「真実は事実とはちがう」などと妄言を述べる連中も同罪。真実を重視し、自分の何たるかを見つめ直そう! というのが主張となる。日本の新書くらいのサイズに大きな字でページ数も実に少なくて、通常の論文1本にも足りないくらいの長さなので、コスパ的にどうか、とは思うけれど、手軽に読めて奇をてらわず変な時事性に色目も使わない、王道をいく哲学書です。

参考:

ウンコな議論

ウンコな議論

フエンテス『テラ・ノストラ』:英訳で読んだときと感想は同じ。力作だけど(それ故に)アナクロ。

ただの読書 むしろ感想文 書評 知識人 社会

http://honto.jp/netstore/search_10%E3%83%86%E3%83%A9%E3%83%BB%E3%83%8E%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%A9.html?srchf=1honto.jp

なんと、カルロス・フエンテス『テラ・ノストラ』の日本語訳が出てしまった! 出る出る詐欺にはひっかかるまいと思って英訳版を読んだ身としては、もう少し待てばよかったか、と悔しい思いもある一方で、それがもう数年前だしあのとき読んでおいてよかったという気もする。

さて、ご記憶の方はご記憶だろうけれど、ぼくの『テラ・ノストラ』に対する評価は、決して高いものではない。詳細に関しては以下を参照してほしい:

cruel.hatenablog.com

簡単にまとめると、以下の通り:

  • 力作なのはまちがいない。長さといい密度といい。
  • でもその長さと密度(そしてそのために必要とされる構築性)こそが、本の主張を裏切っている。
  • 本で表明されたイデオロギーは単純で、秩序を指向する現代文明にメキシコ/スペイン文化の神話や芸術を対比させてアウフヘーベンさせようというもの
  • でもその現代文明=進歩重視=秩序化=すべて固定する不毛という認識自体おかしい。だって進歩するって、固定しないってことだよ?
  • それに対する神話/芸術の力みたいな話も、きわめて退屈で妥当性のない代物。
  • しかもそのイデオロギーを説明しすぎて、小説としての広がりが犠牲になっている。

テラ・ノストラの原書が出た1975年――つまり執筆時点ではオイルショック前だろうね――では、米ソ冷戦構造が圧倒的に強くて、そのベースとなっている資本主義/社会主義とその根底にある進歩主義史観みたいなのがドーンとエスタブリッシュメントとしてあった。だからそれに対する土着主義とか反進歩とか神話とか芸術とかいうのをいっしょくたにして、オルタナティブな選択肢でございという提示の仕方には、それなりの説得力があったんだろう。ヒッピー運動も、そんな整理されない思想/指向のごった煮だ。

でもまさに本書が出たときに、オイルショックと公害問題に伴う経済後退で状況は変わってしまった。そして変な土着崇拝やドジン信仰の問題点、神話=宗教が実はやばいカルトのたまり場であること、その他フエンテスがいっしょくたにしていたものが、実はいっしょくたではなく、そんなにありがたいものでもないことがわかってきてしまった。その時点で、たぶん本書のような小説のそもそもの存立根拠はなくなったんじゃないか。

長い小説なので、そうしたイデオロギー面がなくなっても、見所はある。ただ本書の場合、そのなまくらなイデオロギーがこの長大な小説の骨格を構築しているので、それが成立しないと、もうぐずぐずになってしまう。冒頭と最後の部分はとてもかっこいい。でもその間の部分は……

もう一つ。解説にもあるけれど、本書で(いやこれまでの各種の著作で)フエンテスは、唯一のただしい読み方に対する多様で異質な読み方というのを称揚してみせる。途中で、主人公格の一人が、グーテンベルグの印刷術の話を伝え聞いて「そんなもので万人が本を読むようになったら、みんなが勝手な読み方をして、唯一の正しい読み方が台無しになってしまう」と懸念するところがある。フエンテスは、みんなが読んで、みんなが書くような状態を『セルバンテス、または読みの批判』でしている。

でもその異質な読み方ってなんだろうか。本書だと、それがエログロスカトロ奇形両性具有、風刺に茶化しになるんだけれど、それが必ずしも豊穣さにはつながっていない。むしろオルタナティブ文学とか実験小説とか言われるもののワンパターンになっていて(例:ウィリアム・バロウズ)、もはや異質であることの均質性みたいなものになっている。それが何かパワーを持てているかというと、ぼくはそうは思わない。本書の解説では、『テラ・ノストラ』の中で、実は高潔な騎士であるはずのドンキホーテが女衒の手引きで、清らかに崇拝するはずのドゥルネイシアドルシネア姫を手込めにしちゃったんだぜ、という話が出てくるのを見て、それが異質な読みだという。ふーん、そうなんですか。でもそれがどうしたんですか?

フエンテス以外でもそうだ。たとえばテロにあったシャルリエブドという風刺雑誌があるけれど、襲撃されちゃったもんで、なにやら立派な風刺で高度な言論であるかのような言われ方になっている。でも、実際はレベルが低いし、その風刺も大したことはない。むしろ、それを襲撃した連中の、「異質な読み」なんかいっさい認めない文字通りの「正しい」読みにこだわるやりかたのほうが、えらく衝撃力を持つようになっている。そのほうが、いまの世界のあり方に対する批評性を持ててしまっている。

(ぼくはこの点は重要だと思っていて、いまアーティストとか名乗っている人たちはこれをよく考えてほしいと思っている。ちなみに、原理主義の人たちは、批評性を持とうとしてイスラム国をやってるわけじゃない。だから批評性というのは実は作品の問題ではなく、受け手の問題なんだというのもわかる。がそれはまた別の話)。

だから『テラ・ノストラ』は、ある意味で20世紀的な新しい小説のありかたを完全に、しかも実に見事な形で実践した小説ではある。現代社会批判、その背景にある進歩思想批判、「正しい」読みに変わる異質な「読み」と「書き」。パロディ、引用に本歌取り、言葉遊び、小説内小説、時間の倒錯、猥雑な語り口、著者と読者の融合と可換性。でも、それをほぼ完璧にやったがために、本書はその限界をすべて引き受けることになってしまった。そして、20世紀的な新しい小説が前提としていた20世紀の社会が変容したとき、そうした時代認識とそれに結びついていた「技法」は、宙に浮いてしまい、いわば無駄な力作になってしまったんだと思う。

それでも、再読してぼくは、この小説にまだ救える部分があるんじゃないかな、という印象も受けた。なんかまだ整理しきれないので、これはまたいずれ。

サンフランシスコの住宅市場

ネタ トビリア 経済 社会 都市建築

サンフランシスコの住宅市場に関して、こんな記事を見かけた。

www.vox.com

どうせ君たち読まないだろうから、何が書いてあるのか教えてあげると、サンフランシスコはいま、Uberが立地したりアレとかこれとかがきたり、ブルーボトルコーヒーが出てきたりで、すごく活況を呈していて、人々が流入してきているのに、建築規制がやたらに多くて、新しい住宅がほとんど市内にできず、賃料などが高騰しているよ、というお話。記事はオークランドの話だけど、ベイエリアの他の地区も状況は似たようなものだ。

これはまさに指摘の通り。サンフランシスコを筆頭に、カリフォルニア州はこの点で悪名高くて、やれ高さ制限だ、やれ立て替え制限だ、やれ環境規制だ、やれ緑地保護だと規制ばかりがうるさくて、新しいものが全然建てられない。これは、かのヒッピー文化とアップルを生んだ自由な文化の発露であり高い環境意識と保全意識を持った高度な市民性のあらわれだ、と思ってる人が多いんだけど、実は全然そんなものではない。実際には、本当に侮蔑的な意味での「意識の高い」ポーズでしかない場合が往々にしてある。

たとえば、サンフランシスコの意識高い連中は、二酸化炭素の排出規制とかに熱心だ。さて、これをやる簡単な方法がある。都市の容積率を緩和して、もっと高層住宅を建てられるようにして、人口密度を上げることだ。郊外に戸建て住宅を建てるよりは、都心部に高密に住めば、住宅自体の排出も、人々が移動のために使う車の排出も大幅に減る。ところが、サンフランシスコではまさに温暖化対策だ排出削減だとわめきたてる連中が、同時に建築規制とか容積上げるなとか高層ビル反対とか主張する。

でも、それでどうなるか?それでカリフォルニアに住めなくなった人々は、テキサスとかフロリダとかのすさまじい郊外住宅開発が行われているところにでかけて、家を買い、自動車通勤する。排出は十倍なんてもんじゃすまないだろう。結局彼らの建設反対は、全体としては排出の大幅な増大に貢献しているのだ。本人たちは、自分が意識高いつもりでいる。でも実は、自分たちの環境意識なるものが無内容なNIMBYでしかなく、実は本当に排出を抑えることが重要だなんて思ってないことを露呈し、単に自分たちの既得権益を守りたいだけ、というのがあらわになっている。これはエドワード・グレイザーによる批判でもある。

都市は人類最高の発明である

都市は人類最高の発明である

でも、ベイエリアで住宅(特にマンション)が建たなくなっている理由がもう一つある。訴訟だ。

この話を、以前英語雑誌『アルク』の連載コラムで書いた。あの連載もはやくhtml化しないと、と思いつつ放ってあるんだけど、この話の回(2015年10月あたりの号)を以下に示そう。

 最近サンフランシスコにでかけることがあった。先進国は久々でなかなか新鮮ではあった。途上国が基準になってるもので、停電しないだけで感心したりするからぼくの感覚は当てにならないんだが、一つびっくりしたのは、テレビをつけたとき。ケーブル以外の、特に夜のネットワークテレビのCMが、弁護士事務所ばかりになっちゃっているのだ。

 しかもその内容は、すべて「集団訴訟をしましょう! うちの事務所がすべてお手伝い! XX社の製品をこの時期に買った人はただちにお電話を!」というものばっか。うっひー。

 そういえば、しばらく前にうちに突然、集団訴訟のお誘いがきたことがある。アメリカにいた頃に作った銀行口座をまだ残してあるんだけれど(小切手を切れるのは便利なときがあるもんで)、その銀行の利用者すべてに対して、何やらお手紙を送りつけてきているらしい。なんでも、その銀行が外貨取引かなんかのサービスを始めたときに、元本割れの危険性とかについて十分な説明を行わなかった、というもの。でも、ぼくはそのなんとかサービスなんか使ってもいないんだけど……

 そう思って先を読み進めたら、ちゃんとそれが書いてある。心配ご無用! 別に実際に被害があったりする必要はない。その説明不足によって、あなたはひょっとすると損害を受けるリスクに曝されていた!したがってそれについて、銀行を訴えて損害賠償をむしり取る正当な権利がある!あなたは同封の同意書にサインして送り返すだけ! あとは当法律事務所にお任せを! あわよくば大金が転がり込みますぞ!

 たぶん、読者のみなさんの多くは、こんなのを読んだだけでゲンナリすることだろう。たいがいの人は、この発想自体に嫌悪を示す。でも、当然ながら、たぶんこんなものでも大量に送ったら、ひょっとして自分に得があるかもと欲を出す連中が一定の割合いて、訴訟が成立しちゃうんだろう。

 そういう話を翌日、サンフランシスコの元同級生にしたら、不動産開発畑のその同級生が顔をしかめた。

「実は……サンフランシスコとかで、その手の訴訟がやたらにあって、いま市内ではマンションがまったく建たなくなってるんだよねー」とのこと。

 訴訟で? ぼくはてっきり周辺住民の建設反対訴訟かなんかだと思ったら、全然ちがった。

「いまは、マンションが建ったら、そこの住民管理組合が必ず建設会社を訴えるんだよ。施工に瑕疵があったといって、お金を取ろうとする。それが派手になりすぎて、もうどこの業者もマンションなんか建てなくなったんだ」

 なんと! でも、施工に瑕疵がないことだってあるだろ?「必ず」ってことはないだろ?

「いや、『必ず』なの! 絶対に、あら探しすれば何かしら瑕疵なんて見つかるから! そしてそれ以上に、それ専門の法律事務所があって、あらゆる住民管理組合にそれをけしかけるの!おまえがテレビCMで見たのと同じだよ」

 えー!!!! でも、管理組合だってそんなのいやじゃないの?うちはそんな卑しい真似しない、という倫理観のある管理組合だっているだろうに。

「それがねえ……」と友人は、言いにくそうに言った。「そうするとその法律事務所は、管理組合の委員長をつかまえて『お前はこの訴訟をしないことにより、この管理組合が得べかりし利益を逸失させている、ついては他の住民に対して、お前に対する損害賠償訴訟を起こすようけしかけるぞ』と脅すんだよ。住民は多いし、だれかがそんな訴訟に乗ってくる可能性はそこそこある。そんなの万が一おこされて負けたら、破産確実。みんなビビる。このオレだってやらざるを得なかったもん!」

 うーん。アメリカは訴訟大国というのは、国民がみんな訴訟好きだということかと思っていたけれど、ちがうんだねー。訴訟しないから損害賠償! その発想はなかった。こうして、訴訟が訴訟を生み、法律事務所がマッチポンプ的に訴訟を作り出す世界があるのか……

The Economist に出た、最近のチョムスキー

Economist お勉強 翻訳

え、チョムスキーってこんなことになってんの、というのが面白かったので、例によって勝手に翻訳して紹介。ぼくはおもしろいと思うんだけれど、昔朝日新聞にチョムスキー本の書評をのせたらfinalventがなにやら山形はまるっきりわかっていないと言いたげな、でも何もはっきりと言わない役に立たない批判めいたものを書いたので、実はぼくはチョムスキーの言っていることを全然わかっておらず、したがって以下の文も実は「わかってる」ひとにはあまり面白くないorピント外れなものなのかもしれないので、その点はご注意を。

ノーム・チョムスキー:世界で最も高名な言語学者の理論はいささか奇妙なものになってきた。

The Economist, 2016 3/26-4/1号 p.77

www.economist.com

特定の人物と、これほど強く関連づけられている学問分野はほとんどない。物理学のアインシュタイン、心理学のフロイトくらいだろうか。でもノーム・チョムスキーは、言語学に革命を起こした人物だ。1957年に「統語構造論」を書いてから、チョムスキー氏は人間の言語が他のあらゆるコミュニケーションとは根本的にちがっていて、「火星からの言語学者」がいれば、あらゆる人間言語が一つの言語の変形版でしかないと同意するはずで、子供の恐ろしく急速かつ見事な学習(親からの入力はしばしばめちゃくちゃで、いい加減なものであるにも関わらず)は、脳の中に生得的な言語機能があることを示唆すると主張してきた。こうした発想はいまや広く受け入れられている。

過去60年にわたり、チョムスキー氏は繰り返し自分の理論を単純化してきた。人間言語の一部側面は動物も持っているし、それ以外のものはもっと一般的な人間思考の一部だ。かれはますます、人間特有だと考える言語の特徴にだけ関心を狭めてきた。こうしたすべてが、昨年末に刊行された、コンピュータ科学者ロバート・バーウィックと共著の驚異的な小著『なぜ我々だけが (Why Only Us)』となった。これは人間の言語進化を説明すると称する本だ。

同じ問題は、他の生物学者や言語学者や心理学者も探究してきて、ほとんど意見の一致は見られていない。でも世界で最も高名な言語学者の発想については、同意する人はさらに少ない。ある一つの遺伝的な突然変異が、たった一人の人間に「マージ(統合)」という能力を作り出したというのだ。チョムスキー氏はこの人物を「プロメテウス」と呼び、それが人類の出アフリカのしばらく前に起きたと主張する。この突然変異は実に有益だったので、生き残って栄え、それが今日のアルバニア語からズールー語まで七千種類もの言語を作り出した。でもチョムスキー氏の議論によれば、世界の言語のすさまじいちがいは、単にその「外部化」におけるちがいでしかない。中核にあるのは「マージ(統合)」だ。

でもそれって何ですの?マージは単に、二つの心的な物体を統合してもっと大きなものにする能力だ。そしてその大きなものに対して、単一のモノであるかのように心的な操作を加えられる。Theをcatとマージして、名詞句を作り、それがwaterのようなむき出しの名詞であるかのように、文法規則がそこに作用できる。theとhatでもそれができる。これさえできたら、さらにマージを続けて、the cat in the hat なんてのも作れる。The cat in the hatを今度は動詞句とマージすることで、新しいモノである文ができる。The cat in the hat came back という具合。そしてその文をもっと大きな文にマージもできる。You think the cat in the hat came back. それがもっと続く。

これが何の役に立つんだろう?その時点では、マージを持つ人はほかにだれもいない。プロメテウスは誰と話を?誰とも話せない、少なくともマージを使っては話せない(人はすでに、ほかの多くの動物と同じく叫びや身振りは使っていたかもしれない)。でもマージにより可能となった階層構造言語は、チョムスキー氏によれば会話のために進化したものではまったくない。むしろそれは、プロメテウスが単純な概念を使い、それを文章的な形で頭の中で組み合わせるのを可能にしたのだ。結果として生じた複雑な思考が、その人間に生存上の優位性を与えた。その突然変異によるマージ遺伝子を、生き延びた子供たち数人に伝えたら、その子たちも栄えて、マージ遺伝子をさらに後代に伝えただろう。チョムスキー氏とバーウィック氏は、その子孫たちがアフリカのヒト集団を支配するようになったはずだと考える。そしてそのずっと後になって、マージが発生器官や聴覚器官と共同作業するようになってから、人間言語が生じたというのだ。

多くの学者たちは、これが不十分か、あり得ないか、トンデモの間のどこかだと思っている。これほどのすさまじい優位性を与える単一の突然変異の出現は、生物学者たちが「ご都合主義の化け物」理論と呼んでバカにするものだ。ほとんどの進化は漸進的で、たった一つではなく多くの遺伝子に作用する。マージのような能力は存在するかもしれないが、それではマージする単語としない単語がある理由が説明できないし、まして世界の言語でのマージがこれほどちがっている理由などまったく埒外となる(『なぜ我々だけが (Why Only Us)』には、英語以外の例が一つも出てこないし、索引にも外国語が一つもない)。

チョムスキー氏は、自分のますます途方もないアイデアに同意しない連中は、めくらかインチキ野郎だと言う。批判者は「偉大な指導者」を核とした「追従者たち」が「カルト」を形成し、指導者にまじめに反論しないか、非チョムスキー派の学者の研究とまじめに取り組まない状況を示唆する(ある批判者は「チョムスキーに罵倒されるのは名誉の勲章だ」と述べた)。言語学はいまや、チョムスキー派と、大量の批判者と、そして現代の言語学分野創設者などどうでもいいとするさらに多くの人々に別れている。チョムスキーは、フロイトのようにはならないだろう。フロイトは現代心理学では周縁的な存在でしなかく、その永続的な影響はむしろ人文学のほうに見られる。チョムスキー氏のキャリアは、むしろアインシュタインのようなものとなるだろう――少なくとも、その最高かつもっとも影響力の高い成果が初期にやってきたという意味で。

え、ifconfig非推奨になったの……

お勉強 ぐち

久々に Linux いじってあちこち見てたらこのページ:

yuuki.hatenablog.com

え、ifconfig ってもう非推奨になったの??!! 知らなんだ。他にもあるのかな。なんか数年遠ざかっているうちにいろいろ変わってるみたいでキャッチアップが大変そうだ……