ラヴジョイ『存在の大いなる連鎖』第6講:18世紀の人間の立ち位置

はい、ラヴジョイの続き。

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今回は、18世紀に、存在の大いなる連鎖が流行って、それが人間の立ち位置についての考え方に影響し、格差社会の弁明まで出てきました、という話。

ラヴジョイ『存在の大いなる連鎖』第6講:18世紀の人間の立ち位置

比較的中身は薄いというか、言われていることはそんなに意外ではなく、ああ、こういう考え方も出てくるかねえ。というもの。全体として、存在の位階があってそれが重要なんだから、人間は自分が特別と思うな、自分のポジションだけ守ってろ、改善しようとするな、という現状肯定イデオロギーが出てきた、ということになる。それぞれについて、いろんな詩人や評論家があれこれ言っているのを引用するけれど、ざっと見ておけばいい感じ。それが18世紀社会の維持に決定的な影響を持っていた、という感じではない。

ただ、ラブジョイが社会格差正当化と努力しない議論を嫌っていたことはわかる。かなりこれらの議論についてのコメントは手厳しい (注も含め)。

それと、これは第二次大戦前だけれど、この章のような、人間を貶める発想とは逆の変な人間の傲りを煽るような発想が出てきていることへの懸念は、ロマン主義の章と同じくここでも出ている。

ラヴジョイ『存在の大いなる連鎖』第10講:ロマン主義と充満の原理

ラヴジョイの続きです。

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最後の第11講では、この存在の連鎖とか充満の原理、さらにその元になっている神様の異世界性とこの世性の両立が不可能だというのがあらわになって、それが一気に忘れ去られる様子が述べられていた。

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今回の第10講は、その一つ手前ということで、その解体の先触れみたいなのがロマン主義として出てきたか、あるいはこの世性みたいなのが嫌われて、全然別の世界を夢想する異世界性指向みたいなのがロマン主義になったとかいう話かなー、と思っていた。

結果で言うと、ぜんぜんちがった。むしろ、存在の連鎖と充満性を強調するような働きが、18世紀ロマン主義として出てきた、というのが主旨となる。まずはお読みあれ (ってきみたち読まないのは知ってるけど)。

ラヴジョイ『存在の大いなる連鎖』第10講:ロマン主義と充満の原理

啓蒙主義は、充満の原理からすべてを満たす原理がある、という信念を得て、普遍性、一般性を重視することで思考の広がりを獲得した。でも、それが硬直して、一般性がないものは全部だめ、個別性なんか無視、という硬直した考えに成りはてた。それは、シェイクスピアもゴシック建築も否定し、古いものだけが (時代を超えた一般性をもつから) よい、とするような不毛な思想になってしまった。

それに対して、神様はいろんなものを創る多様性が信条だろ、同じモノをコピーして複製してるだけじゃないよね、だから人間だって多様性を重視すべきだし、そこで神様が重視している個別性を大事にしようぜ、という発想になった。それがロマン主義の基本となる、というのが主旨となる。

詳しくはパワポのまとめを参照。

 

ロマン主義とは何か、という話については、通り一遍の解説しかないし、登場する哲学者や作家については、当然知っているものとして話が展開する。ふつうは、こういう解説では「ロマン主義とはご存じの通り〜」とか「ノヴァーリスは『青い花』などで知られたXXXを特長とする作家なのはご承知でしょうが」と、知らない人のためにサービス説明が入るけど、そういうの一切なし。これは頑張って付け焼き刃してください。ぼくも実はノヴァーリスとハイネちょっと読んだくらいでほとんど明確なイメージはない。

ここの見所は、ラヴジョイがこのロマン主義的な動き——というかそれが現代にもたらした影響——について抱いている、すごくアンビバレントな気分。彼は、ロマン主義によって多様性が評価され、それが文化や思想の大きな広がりをもたらしたことについては、ものすごく評価している。その一方で、それが安易な個別性を賞賛してしまったことで、愚にもつかないナルシストどものくだらない作品と称するゴミクズが量産されるようになったことも、非常に苦々しく思っている。

しかしそれはまた (この点ではもう一つのロマン主義的傾向とはまさに正反対で) 大量の、病的で不毛な内省を文学で生み出しました——個人のエゴの奇矯ぶりの退屈なひけらかしで、そうした奇矯さはしばしば、いまや悪名高いことですが、単に通常の習慣を裏返しにしただけのイタイ代物です。というのも人間は自分でそう思うだけでは、自然が作ってくれたよりも独創的になったり「ユニーク」になったりはできないからです。

そしてまた、それが非常にいやな社会政治的な傾向の温床となっていることも彼は指摘する。

それはあまりに安易に、人のうぬぼれに利用されてしまい、特に——政治と社会の面では——ナショナリズムや人種主義といった種類の集合的な虚栄に使われてしまうのです。自分の異質性の神聖さについての信念——特にそれが集団の異質性であり、したがって相互のお世辞で維持され強化されるものなら——それはすぐに、その優越性の信念に変換されてしまうのです。

ナショナリズムとかレイシズムとかは、しばしば多様性を否定するものだというような言われ方をする。でもそれが、安易な多様性や個別性賛美と同根だ、という指摘には、たぶん重要なものがあるとは思う。それが多様性と創造性を重視し、イノベーション万歳という思想の根底にある、というのもポイント。ここから現在への示唆をいろいろ読み取ることもできるとは思う。そしてそれ以前の、啓蒙主義の硬直化の話における、一般性や普遍性を求める思想が、世界の広がりをもたらすこともできる一方で教条化するとドグマとして抑圧的になり、貧困さをもたらす、というのも戒めとして非常に重要。

そして、ラヴジョイが途中で思わず吐露してしまう結論——こういう学者や詩人たちの、ナントカ主義とか普遍論とか多様性とか、それに依拠しようとすること自体がまちがっていて、人生は基本はごちゃごちゃしていて、その都度バランスをとりつつ中道を行くのが大事なんだ、という話とかは、ちょっと感動的ではある。

人生のデリケートで困難な技芸は、それぞれの新しい体験の曲がり角で、両極端の間でvia media [中間をとる] ことです——普遍的でありつつも没個性にならないこと;基準をもってそれを適用すること;一方ではそれがもたらす鈍感化、麻痺化の影響や、具体的な状況の多様性およびそれまで認識されていない価値に対する盲目化の傾向に対し警戒を続けること;容認すべきとき、受け入れるべきとき、戦うべきときをわきまえることなのです。そしてこの技芸においては、固定した包括的なルールなど定められないので、まちがいなく私たちが完成を見ることなどないのです。

あと、最後のウィリアム・ジェイムズに対する、チクチク嫌味を交えつつつも敬意を払っている部分の、大人な感じはいいなあ。というわけで、全体に非常に示唆的な章だとは思う。

しかしこれですぐに最終講に移るということは、この存在の連鎖とか、異世界性/この世性の対立というのは、なんか次第に崩壊していったわけではなく、ずっと抱えていた同じ矛盾があって、その行ったり来たりを二千年繰り返していただけで、それが19世紀になっていきなり「もうやめー、この矛盾は解消できないから丸ごと捨てるぜ」という話で一気に忘れられた、ということだわな。何か決定的な契機があったわけではない。ここらへん、その捨てられた経緯の話というのはなくて、いわば西洋世界がそれに飽きた、という話になっているわけか。うーん。

ラヴジョイ『存在の大いなる連鎖』第3講:中世の内部紛争

またラヴジョイ『存在の大いなる連鎖』の続きです。第3講。第2講で異世界性とこの世性/存在の連鎖の発端を説明し、4講でそれが天文学でいろいろ応用されたので、その二つの間の中世の話で、何かその天文学の前段にあたるひねりがあるかも、というのが期待だった。

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が、残念ながらそんなおもしろい章ではなかった。第2章で説明された、人間には及びもつかない自足した完全な神様という話(異世界性) が中世神学の基本教義だったんだけれど、じゃあなぜこの世はこんなダメなの、もっといい世界を神様は作れなかったの、神様無能やーいやーい、という批判に対して、「そんなことないやい、この世は最高の完璧なんだい!」という話をこじつけるには、充満の原理を持ち出さざるを得なくなり、トマス・アクィナスなどえらい人も右往左往して屁理屈こねてた、という話。

訳文は以下にあります。

ラヴジョイ『存在の大いなる連鎖』第3講:中世における充満の原理と内部紛争

例によって、パワポも作っておきました。中身は薄いんだけれど、これはこの章がつまらないせい。えらい神学者たちの屁理屈と言い逃れを見たりするのは、楽しいとはいえ、毎回話は同じなんで飽きる。ラヴジョイもネタがなくなったようで、途中からはずっと後世の詩人や神学者の発言の話ばかりしている。

そこにも書いたけれど、最後にさりげなく出てくる、なぜ中世キリスト教神学はこんな露骨な矛盾を放置したのか、というのはおもしろい問題ではある。ある意味でそれこそが、科学の発展などの後押しにもなったわけで、それを怪我の功名とすることもできるし、もっと強い主張をすればヴェーバー『プロ倫』みたいな話もできるんじゃないか。「現代科学と充満の原理」みたいな。

ただ、最終講の話でも書いたけれど、ラヴジョイはそこらへん、非常に禁欲的。充満の原理自体は破綻したもので、それが科学の後押しになったのは、あくまで副作用にすぎない、というのを強く述べている。

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そこらへんは、なんでもうわっつらの類似やつながりを見て喜んでる人たち (ぼくもそうだが、でももっと慎重であるべき学者どもの中にもこの手の連中はいろいろいる) が反省すべきところではある。

ラヴジョイ『存在の大いなる連鎖』第8講:18世紀生物学

はい、ひまつぶしにラヴジョイの続きですよ。前は天文学だったけれど、今回は生物学です。個人的にはオリバー君の話につながるのが楽しかったが、もうオリバー君なんて知らないよな、みんな。

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今回の話はとても簡単。18世紀になって、博物学ができていろんな人間や動物が観察されるようになると、生物種とかいうかっちりした分類ってウソじゃね? 細かく探せば間のもの、つまりミッシングリンクがたくさんが出てくるだろ、という話が有力に思えてきた。さらに顕微鏡ができると、これまで何もないと思っていたところにも微生物がウヨウヨしてるよねー、あらゆるところに生命が充満してるじゃないの、ほら充満の原理は正しいんじゃない? という話が出てきた、ということです。

翻訳は以下にあります。

ラブジョイ『存在の大いなる連鎖』第8講:18世紀生物学

そしてものぐさな読者のみなさんのために、パワポも作っておきました。

バーナムの話とかのネタっぽいところとか (「アリストテレスが現代にやってきたら、いそいそと駆けつけちゃうよねー」)、あと顕微鏡で微生物がウヨウヨしているのを知って、充満の原理バンザーイ、と言いつつも (でもなんかキモチワルイ) と正直に言ってしまう詩人の話とかは、とっても楽しい。(たぶん以前の翻訳ではそういう楽しさは完全に死んでると思う)

たぶん、ここいらは三中信宏の本とか読むと、その後の前後の展開とかについてもいろいろわかるはず。なぜか読もうと思って、読んでないんだよね。

あとこの章でもう一つ、個人的におもしろかったのが、顕微鏡のところ。やっぱ顕微鏡が出てくると、大流行した模様。そして「Microscopes Made Easy」なんて本が書かれている。いまなら「だれでもわかる顕微鏡入門」ですな。そういう本に対する需要があったということは、たぶん顕微鏡ホビイストコミュニティみたいなのができていたんだろうね。もちろん当時の学者なんて手すさびのアマチュアと大差ないとはいえ、この頃のこういうコミュニティの話となると知識人の知の共有が〜、というような高尚な話になっちゃうけど、実際はそれよりも軽い、ホビイスト集団の楽しいやりとりがあったんだと思う。

この本文で引用されているやつでも「顕微鏡すごいぜ。なんか原子論とかいって細かい物に限界あるとか言ってる連中がいるけど見下げ果てたバカね」 [ホントにそう言ってます] とか、書きぶりがほとんどファンジンの派閥抗争の罵倒合戦なみ。

最近、パソコン史で、ホームブリューコンピュータクラブとかを採りあげつつけなすような本をいくつか訳したんだけど、その著者たちはこうしたクラブのそもそもの原動力がわかってなくて、女性差別だとか白人だけのレイシストだとか富裕層の階級ナントカとか、それがハイテク資本主義の搾取論理に奉仕するものでしかなく云々とケチつけるばかりでちょっとうんざりしたのね。結果的に見ると、なんかそういう切り取り方はできるんだけど、でもそれが本質ではないのだ。こうした動きの根底にある好奇心やわくわく感みたいなものこそが本質なのだ。それが形を取りやすい社会経済的な環境や文脈はあるけど、それは結果論でしかない。ついでになんかそうした活動をベンチャー資本による経済的インセンティブで釣れるような見方というのは、かなり歪曲しているとは思う。

が、それはさておき、この18世紀の顕微鏡でも、そのようなホビイスト的なコミュニティの片鱗が登場していることが、ぼくはこの章で実はいちばんおもしろかった、というお話でした。

次は……ライプニッツの話にいこうか、これの続きの章にいこうか、ロマン主義の話を見てみようか。ま、まだ読んでいる人がいれば気長にお待ちを。

ちXま学X文庫;山形浩生ダメだし改訳シリーズ

しかし、考えて見りゃラブジョイは40%くらいやったんだよな。そろそろ「ちXま学X文庫;山形浩生ダメだし改訳シリーズ」とかできそうだわな。

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改訳じゃないけどソローのやつとかクルーグマンとか新規で入れてもいいかも。

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為替のヤツもあるのよね。

クルーグマン「為替レートはなぜこんなに変わりやすいのか」

もちろんケインズもいろいろあるし、なんかうまく使えばできそうに思うんだが。いまどき読む人がいるかどうかもわからないサマセット・モームなんてのもねー。これは著作権が2015年で切れたから、その後の延長は適用されてないはず。(追記:待てよ、1930年だから戦時加算があるのか。すると切れてないのか? まあどでもいいが)

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まあそんな、前の訳者への義理もあるだろうし、そういうことはできないだろうけどね。

ラヴジョイ『存在の大いなる連鎖』第4講:充満の原理と新しい宇宙観

はいはい、やめようかなと思っていたラヴジョイですが、第2講で舞台設定ができて、第11講でいきなり結論になってしまうのは、ちょっとつまらない。その途中でどんな具合で論が進むかをみるために、多少は土地勘のある (他の部分よりは:スピノザやライプニッツは、そんなに読んでないよー) 宇宙論のところをやってみました……がその前に少しおさらいから。

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前置き:「異世界性」と「この世性」のおさらい

第2講では、本書で扱う主な観念の源である、「異世界性」と「この世性」というのが示された。これはどっちも、神さまの位置づけの話。

異世界性ってのは、神さまの世界はぼくたちなんかの及びもつかないまったくの別世界だ、という話だった。神さまはスーパーえらいし、人間なんかの想像力なんかとても及ばないパワーもあるし能力もあるし神さまですから、もちろん善の親玉。その世界は隔絶し、完璧で完全無欠。ぼくたちなんか、それに触れるはおろか、見るだけでも目がとけ頭が破裂する。

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人間なんてのは、まあ洞窟でせいぜいその影を見るくらいで満足してなさいってことで。

でも、じゃあなんでそんな完全無欠な神さまが作った世界に悪があり、死があるの? つーか完全無欠なら、わざわざぼくたちみたいな卑しいダメな人間/世界作らなくていいじゃん。神さま何考えてんの?

そこで出てきたのが、この世性。神さまは、この世のいろんなもののトップなんだよ。神さまからパワーや光や叡智や善がジュワーッと湧いてきて、それがすべてを作ったんだよ。神さまは無限大すぎて、必然的にそうなってしまうんだよ。ぼくたち必然なんだよ!

さて、なんかわかったような気になるが、よく考えるとこれは、なんで悪があるのか、なぜ世の人はワタクシのような聖人君子ばかりではないのか、といった質問にまったく答えてくれない。そんなこんなもあって、「この世性」は中世にはイマイチポピュラーではなく、弾圧されていた。

第4講:充満の原理と新しい宇宙観——地動説の受容と「この世性」の復活

で、第4講。これは、コペルニクスの地動説により宇宙観が変わり、そしてそれをきっかけとして「この世性」が復活をとげる、というお話になる。

翻訳はこれだ。

ラヴジョイ『存在の大いなる連鎖』第4講:充満の原理と新しい宇宙観——地動説の受容と「この世性」の復活

そして例によって、読まない人のためのパワポまとめも作りました。

さて、ぼくはこの章を読んで、なるほどと思った部分と、納得しない部分がある。

ラヴジョイ的には、この講義の論調だと、おめーら科学とかいい気になるな、という雰囲気がプンプン漂っている。まず、コペルニクスもケプラーも、科学の元祖みたいに言われるが、すげー変な宇宙論信じてたじゃないの。それに昔の人だって、運動の相対性くらいわかってたし。そしてその後の連中も、別に実証で納得したわけじゃないぜ。えらい哲学者だって、地動説を受容してったのは、それにくっついてきた充満の原理との整合性で、世界は無限だぜ、ウチュージンがいるはずだぜ、というような話を通じて地動説を受け入れていったんだぜ、というのが主旨となる。

それはおもしろい。でも……実際に各人の文章を見ると、その「充満の原理」使い方だって人によってちがうし、なんか充満の原理や世界の複数性やウチュージンがすべてでした、みたいな感じではないんだよね。地動説が広まる中で、「充満の原理」に基づいた各種議論が使われたのは本当。それはおもしろい。でも、じゃあ科学的な論証とかは何の意味もなかったのかというと、そうでもない。わかんないところは、まあそういう考え方しても文句はいいませんよ、というきわめて理性的な考え方も多く、さらにこの話がただの方便になってる人もいる。

だから充満の原理が重要だった、充満の原理こそすべてを律していたすごい思考の枠組みなんだ、と言う気はせず、そしてそれがないとなると、この章はある種のトリビアにとどまる。はっはっは、宇宙人の有無が重要だっとはおもしろいですなー、きみたちもSF読みましょう、というくらい。そして観念史というのも、ある程度まで進むと、おもしろいけれど一歩ひいてみれば、なんか決定的なものではないよな、という感じになってしまうのだ。その変遷をたどるのが観念史の醍醐味、なのかもしれないけど、少なくともこの第4講ではそういう意識は薄い。

本書は最後に、この存在の大いなる連鎖という発想が破綻したのは、異世界性とこの世性の矛盾が維持できなくなったからだ、という結論にもっていく。

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でも、この第4講見ると、その観念自体の重要性も変わりつつあり、この時代にすでに、一部の人はそんなものはお愛想のネタ程度に考えるようになっていたような感じ。すると、表の世界の裏で戦われていた壮絶な観念の戦いガー、みたいな理解はどうよ、というのはどうしても思ってしまう。そこらへん、この観念史という枠組み自体の限界というのは、考える必要もあるように思うんだけどね。

ラヴジョイ『存在の大いなる連鎖』第2講:ギリシャ哲学と三つの原理

お待ちかね (だれも待ってないか) 『存在の大いなる連鎖』第2講の翻訳。

まずは、暇な人は訳をごらんあれ。

ラヴジョイ『存在の大いなる連鎖』第2講:ギリシャ哲学における観念の創成:三つの原理

みんな読まないだろうからあらすじを。

 

前回の第1講は、そもそも観念史って何をする学問なの? という疑問に答えたものだった。

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今回は、このシリーズで実際に扱う「観念」を紹介する。具体的には次の3つの原理となる。

  • 充満の原理
  • 連続性の原理
  • 段階性の原理

プラトンが『国家』『ティマイオス』で、神さまというのはすんげえ隔絶したえらい絶対永遠真実完全な存在なんだぜ、この世なんか相手にしないほどすごいぜ (異世界性)、と言っておきつつ、じゃあなんでその神さまはこんな世界作ったりしたんだよ、なぜそんなえらい神さまがつくった世界に悪があり、苦しみがあるんだよ、というのに答えねばならなくなって、いや完全だからこう、気前いいしいろいろその完璧さがあふれちゃってるから、それでこの世ができたんだよ、それに不完全性あっての完全性だよね、神さまもこの世が必要だからこの世も必然なんだよ! (この世性) という苦し紛れの話をする。(その過程で、イドラの洞窟の話とか自分で潰してしまっている。やれやれ)

この2つをなんとか相容れるよう——神さまはえらくて完全で何も必要としないのに、この不完全な被創造物が必要というのはどういうこと?——屁理屈をこねて出てきたのが、この3つの原理。

この第2講は、これだけのことしか言っていない。

じゃあ、なんでこんなに長いのか? それは、そのそれぞれの考えをこちゃこちゃ説明して、その後の影響のさわりまで述べて、みんなこれを比喩とかおとぎ話として理解していたのではなく、文字通りに受け取っていたんだ、というのをはっきり示すため。

ラブジョイ自身は、これが理屈としては屁理屈以下のバカげた考えだというのを知っている。各種論者の議論もまぬけで、かれはわざわざそのまぬけな部分を持ってきて喜んでいるようなふしさえある。(最後に出てくるプロティノスの、「神は有限数だけれど、それ以上の数を考えることはできない有限数なの!!」というのは好きだなあ)

だから、こういう考えに何か現代に生きるヒントがあるとか、乱世を生き抜く知恵があるとか、ましてそれが正しいとか思ってはいけない。

でも、それがなぜか、二千年以上も正当とされて各種の思想を支配してきた……それは重要。いま、スコラ哲学とか新プラトン主義とかを見てバカにするのは簡単なんだけれど、でもなぜかれらがあんな変なことを考えたのか、という根源がこうした基本的な発想にあるんだよ、というのがポイント。

 

結局のところ、この思想のベースはすべて、「神よ、なぜこの世はこんなに不条理なのですか!」「悪を作る神など、オレの神ではない!」とか、中二病全開のお話でしかない。そういうネタにマジレスせずに流すのが大人なんだけど、なぜか西洋思想はそれを流さなかった。だれそれの哲学における至高の叡智の役割は〜みたいな研究をいくらしてもいいんだが、それだけだと、なんか変なことを考えた人もいましたねー、で終わってしまう。でも、こういう原理にまでさかのぼることで、なぜその変な哲学者が、そんな変なことを考えようと思ったのか、というところまで行けるかもよ、というのが重要なところ。

もちろん「じゃあなんでこんな中二病の理屈なんかを後生大事に抱え続けたんですか」という当然出てくる疑問には、ラヴジョイも答えられない。ただ、この世を理性的なものとして自分の知能で理解したい、という気持はあっただろうねー、というだけ。そしてもちろん、それは現代科学の原動力になるわけなんだけど……

 

さてここから先の第3講以下は、それが中世、近世、近代、現代にかけてどう発展し、こねくりまわされていったかという話ではある。そしてそれが、様々な思潮にも大きく影響を与えている様子が説明される。

そしてぼくたちはすでに、その結論は見た。最終的にそれは破綻して、すでにその存在すら忘れられている。

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でも破綻までにそれが与えた影響——副作用としての科学であれ、賢かったであろう人々の脳力の無駄遣いであれ——は、少なくともそういうものがあったということくらいは知っておいていいのでは、というのが、この本のテーマではある。

 

ここから先は細かい話になるし、最後は結局どれもモノになりませんでした、という話だから、よっぽど無人島にでも閉じ込められて何もすることがなくなりでもしない限り、訳はしないとは思う (お金くれるなら別だが)。