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水野『イメージの地層』:美術史と信仰形態の関係を見た本なんだが……

イメージの地層 -ルネサンスの図像文化における奇跡・分身・予言-

イメージの地層 -ルネサンスの図像文化における奇跡・分身・予言-

うっひー、先日採りあげた『叡智の建築家』と同じくまた分厚い本だが、やはり大変おもしろい。分厚い本は、それだけいっぱい書かせるだけのおもしろさがその主題にある場合がそこそこ多いと思う。もちろん、そうでない場合もたくさんあって、書く方にやたらに体力があるか、あるいはまったく整理能力がなくてとにかくバカみたいになんでも突っ込んでしまった場合、同じ事だが基本的に文章を書く能力がなくて、ダラダラあーだこーだ関係ないことを言ってるだけの場合もままあるので、絶対とはとても言えないんだけど、でもこの本はよい原因で分厚さが出ている(あと参考文献とかたくさん。後ろ三分の一は注と参考文献。)

ただ……その一方で、本書の中心的な主張が本当にそんなにすごいことなのか、いままでまったく注目されていなかった視点だというのが本当なのか、こういう美術史的な分野にはまったく疎いぼくにとってはちょっと首を傾げてしまう面があったこと、さらにはもう少しうまいまとめ方があるのではないかと思ったという部分もある。その意味で、本書に対する印象は、ちょっとアンビバレントな部分がある。


本書は、ルネサンス期のイエス像やマリア像をはじめとする図像(イメージ)の成立と変化に、その当時のキリスト教信仰のあり方が反映している、と主張する本だ。

さてこう読んで、たぶん多くの人は「あたりまえじゃないの?」と思うはず。ぼくもそう思った。本書は、それが目新しい画期的な視点なのだ、と主張する。門外漢のぼくは、そんなはずはない、と思ってしまう。著者によれば、これまでの美術的な見方は、スタイルとか画風とか作者の交流とかだけを問題にしてきたんだそうな。でも、こうしたルネサンス期の図像は、それではとらえきれず、そのベースにある宗教や民衆心理なんかも考慮する必要があるとのこと。これまではそういう視点がなかった、と。うーん、専門家のいうことだから本当なんだろうけれど、でも……それって本当に本当なの? ホントにだれもこれまでそういう分析しなかったの?

この本書の最大の論点に納得できないので、なんか読んでいて居心地悪い思いをさせられたんだけれど、でもそこに書かれた内容自体は、非常におもしろいのはまちがいない。

本書は、たとえば民間信仰で、各種の奇跡などの噂がある教会のキリスト像や聖母像とその修復や加筆の過程にどう影響したか、というようなことを描く。いつの間にかキリストが両性具有になったり、とか。そうした中で、巡礼の人たちが畑に聖母マリアが現れたという「田園の聖母」目撃談が出て、図像にそれが影響したりする一方で、公的な教会はそれを弾圧しようとする。それがいろんな画像にも表現されている。「新しい敬虔」(形式的な信仰より内面的な啓示みたいなのを重視する運動みたいなものね)が一部の絵にどう影響しているか、とかね。で、その民間信仰とか各種信仰形態のありかたについての話はとってもおもしろい。そして、各種図像の話は、その信仰のあり方を示す傍証として、興味深い。偶像崇拝に陥らず、それでもある信仰対象や信念の「真正性」を示すために各種図像が利用され、ときに加工捏造までされる過程が細かく描かれている。エルサレムへの巡礼を、実際に行けない人が追体験できるように作った巡礼テーマパークとも言うべきサクロモンテの話とか、うわーという感じ。ここらへんの話は、本当に抜群におもしろい。

そして、それがイエス像やマリア像にどう影響しているか、という分析もおもしろい。図像は、ヘタをすると偶像崇拝になってしまう。それを避けるために、それは偶像じゃなくて本物なんだ、本物の痕跡があるから偶像じゃないんだ、みたいな理屈が展開される。あるいは、「新しい敬虔」が台頭すると、イエス像そのものより、イエス像を見て啓示に打たれて感動し恍惚としている自分、みたいな図像がたくさん出るとか。サクロモンテも、巡礼をしたつもりになって得られるはずの感動をいかに追体験するか、という代物。その分析はなかなかスリリングではある。

が……この本はそこで終わる。そして美術史や美学的な分析はこういう見方を採り入れるともっと豊かになるよー、と繰り返して終わる。そしてそこで、この門外漢の読者は「いやホントにいままでだれもそんな程度のことを考えなかったんですか?」と最初の疑問に戻ってしまうわけだ。

そして本書は、その民間の信仰との関係を考えるにあたっても、すっごくむずかしい。「痕跡」が持つなんたらかんたら。でも、ぼくは本書で述べられている話って、もっとずっと簡単な話だと思う。

要するに、こういうイエス像とか各種聖像とかって、そもそもが現代的な意味での美術品ではない、ということ。あれは実用品だ。人々にとって、信仰というのは御利益を得るための実用であり、各教会は様々な信仰や御利益を売る事業所であり、そしてこうした図像というのはそのためのマーケティングツールなのね。

パレスチナからはるか離れたヨーロッパで、どうやって各地の教会は自分をマーケティングし、人々が巡礼として訪れるようにするか、という課題があった。各種イメージはそのマーケティングのアイテムであり、そしてそれを売り込む手段として、各種の奇跡が捏造されてアイテムの御利益期待を向上させ、そしてご本尊は見せずにその複製だけ見せるといった形でそのご威光=期待御利益の温存が図られた、というのが基本的な図式となっている。一方で、本家教会のほうは、そういう変な分家や湧いて出で来る奇跡が多くなると、自分のご本尊としてのご威光が薄れるので、それを弾圧しようとしている。ここで起こっているのはそういうことだ。

そういうとらえ方をすると、見通しがずっとすっきりするんじゃないか。いや、これは意匠と機能や実用性が常に並置されている建築系の出身だからそう思ってしまうのかもしれないんだけれど。*1


(そしてその意味で、デスマスク等とその毀損や画像による陵辱とか、システィナ聖堂のモザイク職人の異端信仰とかの話は全体にすごくおさまりが悪い。ちょっと別の系統の話だと思う)。

繰り返すけど、本としては、本当におもしろい。そして今のべた相当部分は、もちろんぼくが美術史の素養がないための混乱なんだとは思う。たぶんぼくのような素人が読むことを想定した本ではないために、こういうずれが起きているとは思う。もっと適切な読者にめぐりあえたら、きちんとした評価が得られるんだろう。その意味で、本にとってはかわいそうな読まれ方ではある。が、一方で純粋に美術的な関心だけでなく、当時の宗教や信仰のあり方に興味がある人も是非どうぞ。

*1:こんなのを読んでたから、昨日の宗教経済学の話を思いついたわけ。