藤原『ナチスのキッチン』:せっかくの調査が強引なイデオロギーはめこみで台無し。

ナチスというのは、とってもおもしろい存在だ。ビジュアルなこだわり、異様な合理性の追及の一方で、変なオカルトへの耽溺、あれやこれや。いろんな細かい部分をこだわって考えたりしているので、建築でも経済でも産業でもメディア利用でも、あらゆる面でナチスの活動は非常に興味深いものとなる。だから「ナチスのなんとか」というのはそれだけで大きな売りだし、ぼくのような読者に対しても、「おお、ナチスはあんな方面でもいろいろやっておったのか!」と思って各種著作やDVDを手に採らせる大きなセールスポイントになる。

その一方で、ナチスはとても便利な存在だ。あの異様な絶滅収容所の迫力はだれも文句が言えないし、何か文句なしの悪者が欲しければ、ナチスヒトラーを持ち出せばいい。そしてナチスは、公共事業もやったし軍の装備近代化もしたしメディアも利用したし健康配慮もしたし禁煙もしたしエコロジーもしたしオカルトもやったし制服にも凝ったしロケットもジェット機もやったしアウトバーンも作ったしVWビートルも作ったし産業政策もしたし、まあいろんなことをやっている。だから、どんなことでもやろうと思えばたいがいナチスにつなげて罵倒できてしまう。

特に、最も安易で、でもそれ故にきわめてありがちなのは、近代化とか現代文明とか科学やエンジニアリングの批判にナチスが持ち出されるケース。

だれそれはAを進めている。ナチスもAをやった。ナチスは虐殺したからAをやるのは虐殺への道である。よってだれそれはナチス予備軍でありおそろしいおそろしい云々


というやつ。Aは、禁煙や健康志向だったり、上であげた一連のものが何でも入り得る。ナチスは近代化、工業化、健康配慮をしたから、近代化、工業化、健康配慮はナチスと共通であり、したがって虐殺への道で絶対悪だ、というわけ。

でもまちがえてはいけないこと。ナチスは別に、合理的で近代化をしたから虐殺や民族浄化をしたわけではない。虐殺や民族浄化は、いろんなところにいろんな形で存在する。虐殺するのに合理的な手法を使ったというのと、合理的だから虐殺をしたというのはまったく話が別だ。強制収容所を仕切っていたアイヒマンは、凡庸な官僚だった、とハンナ・アーレントは指摘する。凡庸な官僚だからといって、虐殺に加担しないことにはならないというのは重要な知見だ*1。でもそこから、凡庸な官僚はすべてナチズムの萌芽であり、すべて虐殺につながる、と論じたらそれは倒錯だ。

それなのに、この手の倒錯はしばしば見かける。おかげで往々にして、ナチスを持ち出してあれやこれや言う議論は、無内容でくだらない連想ゲームと悪質な印象操作に堕す。ナチス関連のいろんな話に、野次馬的にでも興味を持っているぼくのような人物は、これでさんざん痛い目にあっている。

というわけで本書『ナチスのキッチン』を手に取ったのは、そうした期待と警戒心の入り交じった気分でのことだった。そして……どっちかというと、期待は裏切られたと言わざるを得ない。

いや、本書が労作であることは否定できない。ナチス時代の各種レシピ本を引っ張り出してきて、その中身を分析し、あれやこれや。だが、そのせっかくの手間が、すべて実に単純きわまりないつまらない議論に奉仕させられている。基本的な議論は、近代化=ナチス=非人間的で非人道的 よって近代化許せん、という実にくだらないありきたりなもの。

しかもその議論がとにかくワンパターンで強引。ありとあらゆるものを何とかこじつけて「管理」というところに持っていけば、それで議論はいっちょあがりだ。

  • テイラー方式を活用した合理的な台所 → 工場のような管理を台所に導入した!
  • 家電製品の導入 → 企業主導による台所空間とその活動の管理だ!
  • 栄養学・家政学の発達 → 人間を分析して管理しようという思想だ!
  • レシピ本における栄養重視と健康志向 → 健康を通じた人間管理だ!
  • ベストセラーのレシピ本とかが出る → 限られた画一的な料理に人々を押し込める管理だ!
  • 無駄の少ない調理法がほめられる → 食事を管理しようとする試みだ!
  • 残飯の飼料化システム → 食卓を生産システムに組み込もうという陰謀!

いやはや。果ては、ガラス容器がだんだん入ってきたのも、各種中身を見えやすくして、したがって管理しようとする試みだし(いやそれどころか、五感の中で視覚ばかりを重視して他の感覚を弾圧する活動なんだって!)、ガス火力や電化が進んだのも、かつては家族団らんの場だった竈や火を台所の片隅に押し込めようとする管理の試みだし……
確かに、そういう部分はあるんだろう。でも、そうでない部分もたくさんある。そして「管理」と一言で言っても、だれが何を管理するのか、様々な水準がある。でも、本書はそういうのを一切すっとばしてしまうのだ。

あとはもう、「管理→ナチス→いろいろ非人道的なこと→いくない」でおしまい。

それでも冒頭部分では、ナチスというのが近代化や合理化を進めた一方で、バウハウスに邪険だったりしたことを指摘する。ナチスは民族性とかも強調したんで、あんまり合理化一辺倒は嫌ったらしく、フランクフルトキッチンというシステムキッチンの前身みたいなのを(団地計画とあわせて)作った人はあまりハッピーではなかった……と書いた直後に、でもその後はずっと近代化一辺倒でいきました、という話に落とし、その後はもう近代化=ナチスでつっぱしる。

そしてその批判も、かなり強引で妥当性のないものばかり。第四章は、当時のベストセラーレシピ本の中身を分析した部分なんだけれど、基本的な主張は、栄養とか健康がやたらに注目されているということ。ふーん、それっていいことなんじゃないですか? ところが著者にかかると、それこそ恐るべきナチスの管理なのね。

ダヴィディスやハーンによるロングセラーのレシピから看取できるのは、この [肉や砂糖の増加という] 傾向ではない。むしろ、その傾向に対置される理念である。その理念とは、助言に見られる家族愛や夫婦愛への賛歌ではなく、むしろ『家族の健康』である。1845年に出版されたダヴィディス本の初版には、主婦が調理に際して注意すべき四原則に「清潔」という文字が目立っても「健康」という文字は一語もなかった。ちょうど世紀転換期からナチ時代にかけての30年間、健康への欲求が料理本の構成を変え、食生活の現実からの乖離をもたらすのである」(p.262)

さて、家族の健康を気遣うのは、家族愛や夫婦愛と相容れないことなんでしょうか? 特に著者は、具体的なレシピの分析をしている。そこにいちいち愛が出てこないからといって、家族愛が無視されているということになるんですか?

また「1845年に(中略)「清潔」という文字が目立っても「健康」という文字は一語もなかった」というのは別に健康を考えていなかったことにはならないでしょう。健康面での理由もあって清潔さを維持したいんじゃないんですか? 当時の環境や問題意識を考えずに字面をあげつらっても意味あるんですか?

さらに著者がもう一つ持ち出す議論がある。健康ばかりに配慮していて「おいしさ」というのが出てこない、したがってナチのレシピは本来の食べる喜びを否定して健康により人々を管理しようとしていて云々かんぬん。

これまた、ひどい揚げ足取りだろう。栄養素だけに気を遣えば味なんてどうでもいいんです! と書いてあるんなら話は別だ。でも、わざわざまずい料理を作ろうとしてレシピ本を参照する人はいない。レシピ本って普通は、おいしい料理であるのはデフォルトで、それに加えてエコだとか体にいいとかやせるとか、そういう能書きが加わるんですが。

でも著者はそんなの無視。書いてないんだからそれは軽視されていたにちがいないと決めつけて、それですべての議論を組み立てる。

さらに、管理だの合理化だの近代化だのを批判するのは結構。でも、それがなければ人々のキッチンや食生活はどんなものだったんでしょうか? この引用部分では「食生活の現実からの乖離をもたらすのである」とおっしゃる。では、その食生活の現実ってどんなものだったんでしょうか?

実は本書はその点についてまったく分析をしていない。

ぼくも明確には知らないが、そんなにすばらしい多様なおいしい食生活だったとは考えにくいんじゃないか。上の引用で、ダヴィディス本(ベストセラーのクックブックです)の初版は 1845 年だったという。奇しくもぼくはいま、エンゲルス『イギリス労働階級の状況』という1845年に出た本を訳しているけれど、当時のイギリスでは、労働者の食生活ってかなりひどかったようだね。3章を見て欲しい。生活全体はひたすらウンコまみれ、食事も単調きわまりない代物よ。ドイツもそんなにましではなかったと思う。イギリスみたいにみんなウンコまみれの悪臭で生活していたかどうかは知らないけれど、かなり汚かったはずで病気も多かった。そういう状況でのレシピって、まずは清潔さに注意するだろう。そしてだんだんそうした段階を抜けてそれが常識になったらこんどは健康に気をつかうようになる――それは普通の市民が気にすることの変遷をたどっているだけで、それを健康と栄養学による管理だ非人間化だと騒ぐべきなんだろうか? むろんそれを実際のデータを元に確認するのは重要だ。でもそのデータをこういうふうに我田引水しては意味がないでしょう。

そもそも、本書ではこうしたレシピとか、あるいは出来合いのブイヨンとかは、食事の規格化を招き、商品化と管理を招き、食生活を単調化するものだってことになっている。でも、自炊経験のある人は胸に手を当てて考えて欲しいんだけれど、こういうレシピ本をみんなが必要とするのはどんな場合だろうか。ぼく(と身の回り数人の卑近な事例)で言うなら、ものすごい多様な食生活を送っている人が、「あらこのレシピ通り造らないといけないのか」と食事を単純化する、というものではない。むしろ、日頃造る食事がだんだん単調になってきて決まった料理の繰り返しになってきて「ちょっと目先を変えたいぜ、なんかお手軽でいつものメニューとはちがって、うまいものがほしいな」と思うからわざわざそんな本を買う。レシピが食生活を単純化する、というのはそもそもがウソでしょう。むしろ単純な食生活を少しでもバラエティに富んだものにしたいからこそ、そうした本に需要があるんじゃないの? でも本書は、そんなことは一切考えない。レシピがある、だからみんなその通りに造ってるはず、だから多様性がなくなった、管理だナチスだ云々。でもその基本的な認識からしておかしくありませんか?

さらに言うならレシピ本というのは、別にみんながその通りに作るような代物ではない。だれもその通りにつくれとは強制しない。さらにもう一つ、そのレシピ本自体、別に政府の肝いりで書かれたものではない。そのレシピ本の著者が、何かナチスにある特定のレシピを強要されたという証拠は一切ない(少なくとも本書には出てこない)。

するとレシピがあったから、といってそれが管理強化であるとは言えないんじゃないか。著者たちはある程度の自由度を持って、そのときの読者の要望やニーズを考えつつレシピを考案したんじゃないの? 作る側も、別にその通りにしたわけじゃないんですよね?

著者は、実際のドイツにおける食料消費のデータからこれを調べようとする。たとえば、レシピ本で肉料理の比率が減り野菜料理が増えた。では実際の食料消費はどうだろうか?

全然そんなことになっていない。肉がどんどん増えているとのこと。

ふーん、すると主張はデータでは裏付けられなかったんですね? では主張か、分析データに問題があったということですね? じゃあこれまでの議論というのは非常に弱くなってしまったわけですね? だったらこの本、非常にまずいことになってませんか? ところが著者は、「思い通りの結果にならなかった」と言ってそれっきり。でもそれでおしまいだったら、データで分析した意味がないではありませんか。

ナマのいろんなデータやエピソードはおもしろいんだが、本としてはこのように、きわめて単調で一面的で説得力がない。管理がなければ人々は自由に豊かに栄養など気にせず美味しい多様な料理を食べていた(はずだ)というまったく根拠のない妄想とあいまって(上でのエンゲルス文献から見て明らかにそんなことはなかったようだし、ぼくはまだ近代化が十分進んでいない地域もたくさんまわっているけれど、料理はきわめて単調、味付けもないも同然、栄養の偏りで病気も多く、みんな砂糖と油が大好きというのがパターンですよ)、各章の最後のまとめ部分は本当に読むのが苦痛なほど。惜しいなあ。もっとフラットに見ていけば『ミシンと日本の近代』みたいにいろいろ意外な発展史をたどれたはずなのに。近代化も一筋縄ではなかったことが示せたかもしれないのに。でも本書は、一筋縄しかなかったと決めつけて、すべてをそこにあてはめてしまう。それでは何も新しい発見は出てこないのだ。そして、実際ない。著者は、自分が近代的な発展が気にくわないと冒頭で述べて、結局最後の結論も、ナチスは近代化、よって近代化は悪、それをさらに発展させているいまのぼくたちも悪い、というありきたりな最初の近代批判に戻るだけ。冷蔵庫のフロンガスオゾン層を破壊してるから、なにやら冷蔵庫は近代の恐るべきしっぺ返しであり恐怖であり云々。つまんなーい。そして最後は当然、すべてを管理するというナチスのキッチンの究極は絶滅収容所である!!


ちなみに、これまでもいろんな本について述べた苦言だけれど、この著者もどうも、自分がこのテーマを研究することの意義というのがあまり意識されていないのね。いろいろ調べました――それはすばらしい。でもそこから何が言えるか、というとあまりない。そしてどうしても何か言おうとすると、なんかできあいの、きわめて単純きわまるお話にあてはめるしかない。本書からもそういうにおいを感じる。でもそれだけでは、学会誌には載っても、一般向けの本としてはどうよ。そこらへん、日本の学者さんはもう少しやりようがあると思うんだが。

ちなみに「ナチスのキッチンの究極は絶滅収容所」というのは編集者からのアイデアだそうで、それが本書の方向性を決めてしまったとしたら、ずいぶん罪な編集者だと思う。ぼくは水声社の本は好きなので、悪いことはいいたくないんだけれど……

追記。

アマゾンの「ねっとてんぐ」氏も、よく調べてある点は評価しつつも論難。ちなみに同じねっとてんぐ氏が、藤原の前著について書いたレビューでも、結論ありきではないかという指摘がされている

ちなみにねっとてんぐ氏は非常に優れたレビューアーで、前はどこで見かけたんだっけな? いずれにしても、レビューは全部読む価値あり。……と思ったら、そうか、サスキア・サッセンでぼくに変な辛み方をしていた人か。まあだれしも完璧ではないってことで。「最近のは全部」ということにしておきましょう。



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山形浩生の「経済のトリセツ」 by 山形浩生 Hiroo Yamagata is licensed under a Creative Commons 表示 - 継承 3.0 非移植 License.

*1:ただし、アイヒマンが実はそんなに凡庸ではなく、アーレントがあっさりだまされていただけらしいというのが最近の見方ではある。が、これでぼくのここでの論旨が変わるわけではない。