自分の翻訳をめぐるちょっとした愚痴。

翻訳についての人の感想は様々だ。そして翻訳がちょっと面倒なのは、それが訳者だけのオリジナルではないからだ。原文があって、それをもとに翻訳は行われる。ある訳文があって、それがある読者にとっては読みにくいと思えた。それはだれのせいかといえば……訳者のせいかもしれない。でももう一つ、原文のせいかもしれない。

その昔、ウィリアム・バロウズを訳しはじめた頃(というのは前世紀末)、ちょうどネットが出てきた頃で、だれかに「翻訳がひどい、日本語になっていない」という感想を書かれたおぼえがある。いやあ、それはですねえ、もとの文がまともな英語じゃないんですよ。カットアップですから。だからその翻訳が日本語になってないのは、むしろ忠実な訳ということなんですよ、と思ったっけ。ぼくはかなり原文に忠実な翻訳者なのだ。だから翻訳文が読みにくいとしても、それは往々にして原文の反映だったりする。

そういうと、意外に思う人もいるだろう。特に『クルーグマン教授の経済入門』の翻訳があったせいで、山形はなんだかものすごく原文を歪めてすべて山形調にしてしまう訳者、という印象も一部ではあるのは知っている。ぼくはこれまた不当だと思っている。ぼくは、あの本の訳文は比較的原文のくだけた調子に近いと思っている。人々が、それをチャラいとか砕けすぎとか思うのは、そうした人々がそれまでの、固くてわかりにくい日本の伝統的な翻訳になれすぎているせいだと思う。

クルーグマン教授の経済入門 (ちくま学芸文庫)

クルーグマン教授の経済入門 (ちくま学芸文庫)

そもそも、もっと言わせてもらうと、山形の翻訳に対する「なじめない」「違和感」「わかりにくい」というのは、ぼくは多くの場合に、実は読んで意味が実際にわかってしまうことについての戸惑いだったりするのではと思っている。多くの人は本を読んで、その中身を自分が理解できるということ自体を、なにか否定的なことと思っているきらいすらある。かつてクルーグマンの訳文について「真綿のようにからみついてのどに押し込み、無理矢理理解を押しつける」ので大嫌いだとかいう評価を見たことがある。でも……それっていいことなんじゃないの?理解できたらすばらしいじゃないか。でも、この人は明らかに自分が理解できてしまったことに不満だったわけだ。

そしてそんな人は多い。みんな、マルクスとかフロイトとかの、何を言ってんのかよくわからない文章を見て、それを自分が理解できないことで「うーん深い」とか悦に入っているように思う。そしてそこから、自分が翻訳(翻訳でなくてもいい)を読んで理解できてしまうと、なんかそれは浅はかにちがいない、と思ってしまうようだ。

同じことだけれど、多くの人は翻訳の中身よりは言葉尻にばかり反応する。ぼくは「しかし」というよりは「でも」という表現を多く使う。すると、それが気になって読めないとかいう人がたくさん出てくる。よって訳が悪い、というわけ。その程度のことで読めないというのは、ぼくにはにわかには信じがたいけれど、でも実際にそう主張する人はいるのだ。世間的にも、何か批判を受けたときにたいがいの人は、その批判の中身について反論するより、「口汚い罵倒」とか「品格がない」とかそんなところにしか反応できない。

さらに、わけのわからん翻訳を高尚だと思ってありがたがる人は、それがわからなくても文句を言わない。なまじぼくの翻訳の意味がわかってしまうからこそ、それが変だとかよくないとか感じてしまうような人も多いんじゃないかとは思う。

なぜこんなことを書いているかというと、こないだ出たディック『去年を待ちながら』の翻訳について、アマゾンのレビューで文句を言われているから。

Amazon CAPTCHA

うーん。前の寺地他訳がそんなに悪くないというのは、ぼくも訳者あとがきで書いた通り。でもぼくのがそんなに悪いかというと、個人的にはちょっと不当だな、と思う。

(新訳) 「ラッキーストライクの箱です。しかも本当の年代物グリーン。1940年頃の、パッケージ変更の第二次大戦前のものです」

(旧訳) 「ラッキーストライクの箱ですよ。先生。正真正銘、時代もののグリーンのやつです。1940年頃の、つまり第二次世界大戦で包装が変わってしまう前のものです。」

さて、まずぼくはこの両者がそんなにあげつらわれるほどちがうとは思わないのだ。確かに旧訳のほうが普通の文章ではある。そして何を言っているのかよくわかる。でも……この部分は本当に冒頭のところで、そもそもいったいなぜラッキーストライクが出てくるのか、何もまだ説明がなくてちんぷんかんぷんなのだ。第二次大戦前のワシントンを再現しようとしてるんだ、なんて話はまったくわからない。そして、このせりふはロボットがしゃべっているんだけれど、全体に陽気すぎたりすべったユーモアを入れたり、必ずしもスムーズな英語ではない部分もある。だから、多少の不自然さはある程度意図的なものでもある。

でもまあ、不自然だと思えば、それは訳が悪い、というのも反応としては仕方ないんだろう。

それと、前にどこかの座談会で大森望も言っていたけれど、昔とはだんだん翻訳のスタイルが全体として変わりつつある。昔はかなり言葉を補った説明的な翻訳が多かったのが、いまはだんだん、説明のない、原文に近い翻訳になりつつある。おかげで、各種の新訳では昔と比べて、訳稿が1割くらい(あるいはもっと短くなる)。この訳文にも、少しそんなのが反映されている。

ちなみにこのレビューの人は、ぼくの『ヴァリス』訳も気に入らなかったそうだ。ただ、あれに関しては、ぼくの訳のほうが誤訳は圧倒的に少ない。文体はひっかかるけれど誤訳がないのと、文体は趣味にあっているけれどまちがいだらけ、というのでは、ぼくは前者のほうが価値が高いとおもうんだけれど、まあ読む人によっては、中身はどうでもよかったりするのかもしれないので、これまた価値観の問題ではある。

ヴァリス〔新訳版〕

ヴァリス〔新訳版〕

と、ちょっと疲れていることもあって愚痴になったけれど、そもそも翻訳の良し悪しが本当にわかる人は翻訳なんか必要としない人ではあるわけで、ときどき翻訳って報われないよなー、と思うこともある今日この頃。


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ノーベル経済学賞2017年予想

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ノーベル賞メダル
昨年(2016年)、ノーベル経済学賞のときにニコニコ動画に呼ばれ、予想ごっこと、受賞後のコメントを田中秀臣と、反アベノミクスのあまりにお手軽な本を書いている小幡績、そして電話参加の安田洋佑といっしょにやりましたよ。去年は、ハート&ホルストロームで、契約理論というマニアックな分野だったので、正直いってぼくは(そしてその他の来場者)はあまりコメントできず、電話での安田氏の独壇場みたいになったっけ。

さて今年もまたやってきましたノーベル賞シーズン。今年もまた、ニコ動で同じくノーベル経済学賞野次馬大会を開くとのこと、それとあわせて、ここでも山形の予想をアップしておいてくれ、とのこと(それも出演料の一部ということで)。

live.nicovideo.jp

さてことしは契約理論とかはもうキャッシュがクリアされた。ゲーム理論とかもしばらく前にあった。だからもう少しわかりやすい分野にくるんじゃないか……という裏をかいて、まったく知らないスーパー計量経済学とかにいったりする可能性もあるけど。そうした経済学の手法面だと、マンスキーが非常に有望視されているけれど、正直言ってぼくはよくわかっていない。もう少しオーソドックスな経済学分野で考えることにしましょう。

まず今年他界した、またはそろそろ時間切れになりそうな残念な人々。

まず受賞者予想を挙げる前に、候補と言われつつ今年惜しくも他界した人々、さらに分野の順番からいってむずかしく、年齢的にも今後チャンスはないんじゃないか、という人々。ピケティの師匠格であるトニー・アトキンソンは、二年前にアンガス・ディートンといっしょにあげておくべきだったと思う。2017年1月1日に他界。またやたらに多才なウィリアム・ボーモルは、もう90代でさっさとあげないと先がないと言われていたけれど、今年の5月に大往生。惜しい。

まだ存命中ながら、ハロルド・デムゼッツはすでに90歳近い。文句なしの重鎮ながら、産業組織論っぽいのが主な業績でティロールなどが取ってしまったからもう見込みはないんじゃないか。

分野としてはそろそろ成長理論か?

分野として、そろそろくると言われる筆頭が成長理論。フィリップ・アギオンとピーター・ホーウィットは、内的成長理論の雄で、イノベーションとかが注目されている現在はいいタイミングかも。この分野だと、ポール・ローマーははずせないところで、実は昨年、かれがノーベル賞を取ったというウェブサイトがNYUで公開されちゃって、あわてて取り消されたほど。

もう一つこの分野での楽しみは、古い成長理論の雄である、とっても口の悪いロバート・ソロー。いや、もちろんソロー自身はとっくにノーベル賞をもらっているんだけど、彼はこの内的成長理論を嫌っているので、むちゃくちゃ悪口言ってくれるのが楽しみな。だからかれが存命中にこの分野が受賞してほしいなあ。

成長理論 第2版

ソローが新成長理論を罵倒している様子はかれの「成長理論」にもあるし、またこんな本も(勝手に訳した)ある。

ロバート・ソロー『「やってみて学習」から学習:経済成長にとっての教訓』

環境経済学はくるだろうか?

もう一つありそうなのが、環境経済学。もしこの分野がきたら、温暖化の経済モデルの定番DICEを開発し、環境経済学の分野の大物であるノードハウスは筆頭。その他いろいろいるけれど、あとはマーティン・ワイツマンとか? ただし山形はかれの著書を訳しているのでこれは希望的観測も大きい。この分野もいつかくるはずと言われつつ、はや何年。一方で、経済学全体に波及する成果を挙げている分野かといわれると、口ごもることもある。ただし今年はトランプのパリ協定離脱へのあてつけの意味もこめて、くるかもしれない。

気候カジノ 経済学から見た地球温暖化問題の最適解気候変動クライシス

リーマンショックのほとぼりが冷めた金融分野?

金融経済学は、リーマンショックでミソをつけて当分ないんじゃないかという説が強かったけれど、そろそろほとぼりもさめたし、FRBも当時買い込んだ資産の処分に向かっているし、その後の様々な知見の高まりから評価してもいいんじゃないかと思う。するとまあ、テイラー・ルールのジョン・テイラーはきてもいいかなー。その次の世代でウッドフォード……うーん、どうかな。かれらがくるなら、そろそろFRB議長を退任して時間がたったベン・バーナンキも、そろそろあり得るかもしれない。バーナンキと、それをクソミソに批判していたテイラーとのあわせ技、なんていうのはノーベル賞委員会としてやりたがるかも。テイラーは次期FRB議長という下馬評も一部にはあり、おもしろい組み合わせになる。逆にあまり政治色がついてしまうと取りにくくなるかもしれないけど……

脱線FRB大恐慌論

フィッシャーのその弟子筋マクロ

マクロっぽい人たちとして、オリヴィエ・ブランシャールとか、サマーズとかがいる。そしてこの人たちや、上のバーナンキの先生がスタンリー・フィッシャー。フィッシャーはイスラエル中銀の親玉もやってFRBの要職もついこないだ引退したし、そろそろリタイアだから金融方面でもらう……のはつらいか。でもフッシャー&ブランシャールとかあってもいいんじゃないかな。ただしブランシャールの主要業績ってなんですか、とかフィッシャーの具体的な研究ってなんですか、と尋ねられると、いま一つよくわかっていないんだけど。あとはここに、ずっと日本人&ノン白人候補として挙がり続けている清滝信宏も入れていいかも。でもサマーズや清滝は、やはり今年でなくても、という感じはある。まだ相対的に若いし。

落ち穂拾いで生産性研究?

地味になるけれど、生産性研究の分野では、デール・ジョルゲンソンやロバート・ゴードンがすでにかなり高齢だし重要な貢献をしてきたし、もらっていいんじゃないか。ただ今年くるべき積極的な理由もない感じ。

ジョルゲンソンと言えば山形的にはお約束:


Ministry - "Just One Fix" (Official Music Video)

というわけでまとめてみましょう:

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山形の2017年ノーベル経済学賞採点表

で、結論としては……

もちろん、あれもある、これもあるというのはいくらでもできる。でもトトカルチョとしてやるなら……

  • 本命:成長理論でローマー、アギオン、ホーウィット

  • 次点:金融経済学でテイラー、ウッドフォード、バーナンキ

  • 穴馬:スタンリー・フィッシャー

こんなあたりでいかが? 穴馬があんまり穴になってないけど。当たるも八卦、当たらぬも八卦

しかしこうして考えると、清滝以外の非「ファラン男性」がまったくいない。うーん、偏りが過ぎるなあ。でも実際、あまり見当たらないのだ。意表をついてクリスティーナ・ローマー……ってこともないだろうし(デヴィッド・ローマーと夫婦受賞! とかいうのはウケるだろうが、だからこそないだろう)。アセモグルあたりがくるまで待つしかないのか……

というわけで、10月9日の放送を刮目して待て!

live.nicovideo.jp

追記:

田中秀臣下馬評が出た! 山形のいい加減な印象論に比べてずっとシステマチック。ディキシットは確かに見落としてたなあ。

d.hatena.ne.jp

というわけで、いまの段階では両者の共通集合になっているジョルゲンソンが最有力ってことですか。

また、タイラー・コーエンの下馬評も出た。ぼくのと結構重なっている。三人すべてで共通するジョルゲンソンあたりが最有力、二人で共通しているのが結構有望、というところでしょうかねー。

タイラー・コーエン「今年のノーベル経済学賞の受賞者は誰?」 — 経済学101

さらに、キャス・サンスティーンが「現実世界へのインパクトでノーベル経済学賞が決まるなら」という記事を書いている。ヴィスクーシの名前が出てくるのは、うなずける面もあり、またサンスティーンらしくもある。

www.bloomberg.com

追記:そして受賞者はリチャード・セイラー

なんか行動経済学はカーネマンが取ってしまったので、ないんじゃないかという気がしていたのでノーマークでしたが、カーネマンが取ったのは2002年か。ずいぶん昔なんだねー。かれの『逆襲の行動経済学』は、虐げられていた時代の恨み節全開で楽しゅうございますよ。

行動経済学の逆襲 (早川書房)

行動経済学の逆襲 (早川書房)


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『人民元の興亡』:人民元をネタにした単なるゴシップ本。

うーん、せっかくもらった本なのであまり悪く言いたくはないんだが、もう少し何とかならなかったんだろうか。いや、おもしろいところはあるんだが、それがゴシップでしかない。本来、つかみでしかない部分だ。でも本書はそれで終わり。本当に重要な話に踏み込まない。

まず、「興亡」というので、ちょっとびっくりするよね。ぼくは人民元が滅びたとか、そんな兆候があるという話は聞いたことがなかったもので。では人民元が滅びる話がどこから出てくるんだろうか? それがねえ……

ないんだよ、これが。何も、まったく。何一つ。

強いて言うなら、最後ビットコインの話がちょっと出てくるくらい? あとはスマホ決済で紙幣が使われないとかだけど、それは人民元がなくなる話じゃないよね。

まあ「亡」がないのは勇み足だし、タイトルはマーケティング上の配慮で針小棒大になることもあるだろう。ではそれ以外の部分は? 「興」の部分は?

これまた、実にしょぼい。基本、かつて軍閥とかいろんな地方ごとに発行していたお金が人民元として統一されたという通り一遍の歴史のおさらいを経て、冒頭部分で毛沢東人民元紙幣に自分の顔を使わせなかったというエピソードを並べる。で、その理由は? 多少の時系列めいた話に、いろんな人の雑談めいた憶測が並ぶ。でも結局なにか分析があるわけではなく、いろんな人に話をききました、いろんなところに行ってみました、というだけで、その旅行記を並べておしまい。

毛沢東とお金の話なら、もっと重要でおもしろネタはあるはずなんだけどなー。毛はお金そのものに不信感を持っていて、その廃止を真面目に考えていたこともあったはずなんだ。ポルポトたちが政権をとってカンボジアを地獄に陥れていたとき、連中は毛沢東に会いにいくんだけれど、そのときに毛沢東が「おれたちですらできなかったお金の廃止をやるとは!」と驚愕したという話がある。紙幣から、毛沢東のお金に対する見方を掘り下げ、それが中共の金融政策をどう左右したかを見ることもできるはずなんだけれど、そういった本質的な話は一切なし。

そしてそのしょぼい「興」と、中身のない「亡」の間はなにがあるかというと、目立つエピソードをもとにしたゴシップだけ。戦前の日本が中国で円を普及させようとしたが苦労したし、日本負けちゃってご破算となりました、という話とか、最終的に日本が敗戦した以上、どうでもいいエピソードでしかないと思うんだがそれを延々とのべたてる。そして、そこから日本の円と人民元とのつながりを述べようとして、三重野以来のバブル戦犯日銀総裁たちが中国の中央銀行とそれなりにつきあいが深かったことを述べる。でも、それがすべて個人レベルのつきあいがありました、という話の域をでない。日銀マンのだれかがウォンというイヌを飼ってました? それがなんだっての? まして著者がその犬に会ったことがある? そんなことに何の意味があるの? 著者はちなみに、それをその日銀マンが中国にいかに親しみを抱いていたかという徴であるかのように述べているけど、これって採り方によってはかなり見下した相手を卑しめる話にも十分読めるよね。「ウォン、お手!」とか言うわけ? 著者は、そんなことはまったく気がついていないみたいだけど。

たとえばそこで、かれらの影響で中国がやたらに緊縮的な金融政策を採るようになりました、というような話であれば、そういう交際について紹介する意味を持つだろう。でも、そういうのはまったくない。単に、つきあいがありました、というだけ。ちなみに白川について、インタゲ話に翻弄されたというんだけど、どこがぁ? かれがもっと翻弄されてくれたら日本経済もずいぶん変わっていたと思うが、かたくなに緊縮を保っただけ。

あとは、世銀と中国のつきあいが~というんだが、中国でかいし融資先としてでかくなるのは当然でしょう。でも世銀の中国融資はチベット問題をめぐって波乱もあるし、世銀の融資方針が変わるにつれて中国への融資内容も変わったはずだけど……そんな話もなし。青木昌彦スティグリッツが中国にいっぱい来ていたというんだけど、かれらは中国に何を指導したの? それで中国はどう変わった? 何もなし。

あとはチェンマイイニシアティブの話とか、アジア通貨危機人民元切り下げ圧力の話、そのときのAMF構想の話とか。そしてAIIBの話とそれに伴うADBの話。いずれも何も本質的な話がない。そもそも、人民元の運用ってどういう考え方でこれまで行われているのか、管理通貨としてどんな考え方で実施されてるの? そういうきちんとした記述を行った部分なし。

たとえばIMFのSDRに導入されたとき、透明性の低い管理通貨を大量に混ぜていいんですかという批判がずっとあった。まずそこで言われている批判とは何なのか? 人民元ってどういう管理がされているの? そういう具体的な話はほとんどなし。さらに、SDRへの組み込みでラガルドがIMFの親玉になったのが大きな契機だったという話をする。ほほう、するとラガルドがなにやら中国の懐柔を受けていたのか? 何か特別なつながりがあったの? あるいは前任のストロース=カーンと大きな考え方のちがいがあったとか? ところがそんな話は一切なし。出てくるのはラガルドがスマートでタカラジェンヌみたいでとかいう話だけ。それならラガルド出てきても意味ないじゃん。契機になってないじゃん。

すべてそんな具合。何か大きなトピックが出てくる。そしてその周辺にいる人々のゴシップが並べられるんだけれど、そのゴシップが大きなエピソードの展開にどう関わったかはまったく書かれず、著者個人がその人に会ってインタビューしたときに、着こなしがーとか宴会の食事がー、入り口の置物がー、とかホントどうでもいい話になって、その人のインタビューも通り一遍の公式声明以上のことは何も聞き出せず、最後に「通貨はその国の基本である」とかなんとか、何のまとめにもなっていない漠然とした話がでておしまい。

結局、著者がいろんな人に会ったのはわかった。でも会ったことで何が明らかになったのかといえば……何も。アマゾンのレビューを見るとずいぶんほめられている。多くの読者はバカで、こういうゴシップをありがたく拝聴してなんかわかったつもりになるので、それはそれで仕方ないんだが、正直いってこれだけの人にインタビューしたんなら、もう少し何か本質的なことが一つでも解明できるはずだと思うんだが。ぼくは読んで、かなりの徒労感しかおぼえなかった。すみません、せっかくもらったのに。

付記:

上のはちょっと厳しすぎるかな、という気もしないでもない。多くの人は、AIIBって聞いたことがあっても、なんだか知らないし、また詳しく知りたいとも思っていない。AMFについてだって、きちんと理解したいわけではない。だからそういう読者向けに、通りいっぺんの解説をして、それにちょっとアメリカや日本や中国の政治的陰謀めいた話を、ちょっとえらそうな人のインタビューをもとに憶測っぽくからめておけば、なんか多くの人はわかったような気分になったうえ、「実はあれはアメリカの陰謀で〜」みたいな知ったかぶりもできるようになる。アマゾンのレビューやツイッターで誉めている人たちは、そういうのが嬉しくてたまらないみたいだし、その意味で商品としてはなりたっているとはいえるかもしれない。新聞の連載囲みコラムなんてほとんどがそんなもんだし、それに忠実といえばそれまで。いろいろ聞いた結果として何がわかったか明確にしないのも、新聞らしい日和見&責任逃れではある。

が、それにしてもだ。たとえばADBの本部が東京にならなかったのだって、政治的な策謀をあれこれ勘ぐってみせるのも結構だけど、東京ではADBの業務に必要な英語のしゃべれる一般スタッフがまったく調達できないというものすごい現実的な理由が大きかった、という話もよく聞くよ?  他の話だって、どういう現実的な要請から中国は各種の手だてを実施してるのか、という視点がないと、ほんと憶測と公式発表だけで何も深みがない。この手の話で、一つのバロメーターになる言葉が「基軸通貨」ってやつで、これを意味ありげに使ってる人はたいがい何もわかってないんだけど、この本はまさにその典型でもある。基軸通貨ってなに?食えるの?これでも読んでね。クルーグマンは「基軸通貨」なんていうまぬけな言葉は使わないけどさ。

Who's Afraid of the Euro?: Japanese

それに人民元の話をするんなら、国際的な要因の話だけでなく、国内要因の話がいるでしょ。通貨価値を維持するのは、為替レートの話とインフレの話と両方あるし。国内のバブルとかインフラ整備とか国営企業問題とかさ、そういうのと為替レートや国際化の話とはどう関連してるのかとか、まったくそういう視点もない。注目する現象は本当に通りいっぺん。そしてそれを何らかの枠組みでとらえなおす試みも皆無。一部の話は、いまの中国が最適通貨圏になってるか、という話に還元できると思うんだけど、それについての評価もなくもぞもぞしたインタビューのキャッチフレーズ出しておしまい。山形は、この分野で必要以上に耳年増だから、というのもあるだろう。でも、別にぼくにとって新しい知見がなくても、それを体系だってきちんと述べるのだって、こういう本の役目だと思うんだけどね。


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こんなろくでもない守護霊に憑依されても、あんな立派な学者になれるんですね!

一応さあ、ピケティの関連本は一通りレビューしたいなとは思っててさあ、まあこの本もあることは知っていたんだけど、わざわざ定価で買って印税を一銭でも上納するなんて、霊的風紀維持法に違反するような気がするじゃない? だから古本で安く出回るまで我慢して、やっとまあオレ的に許容範囲の価格で買いましたよ。

でさあ、読みましたよ。トホホホ。

で……これどうしろと言うんじゃい! もう、特に霊言がはじまると頭痛がズキズキで、雰囲気としていちばん近いグラフィック表現を探すとすればこんなところか:

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Go go go go gogogo, run away from the Sharknado!

とにかくこの守護霊さん、まあ卑しいというか何と言うか、出てきて真っ先に言うのは、「(ピケティ本が売れて) 儲かって嬉しい」。

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んでもって、付加価値って何だかご存じない(というかその言葉自体を知らない)し、経済学では人間は努力とか能力とかまったく関係ないとされているんだって。天国のベッカー先生、ちょっとピケティの守護霊しばいてやってくれませんかー?

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しかし、ちょっと感動するのは、この守護霊の本当にどうしようもないバカな議論に対して、取り巻き信者どもが一応まともに反論してそれをいさめているというあたり。

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里村氏、ラリってるとしか思えない守護霊に、明らかに苛立ってます。そしてあげくの果てに、「あんた、企業家とか事業家とかの意味わかってねーだろ!」と守護霊様を一蹴。綾織さん、エルカンターレ様相手にすごい!

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そしてもう、守護霊は自分とピケティ本人の区別が往々にしてついてないし、「私の本が現代の聖書だ」とか言ってるんだが、あんた本書いてませんから!

正直、この綾織&里村ペア、冒頭や最後のまとめも結構しょぼいけど、それでもよく耐えてます。しかも途中でいたるところ「(苦笑)」だらけで、守護霊ほんと、まったくいいとこなし。小池百合子みたいにもごもご無内容名一般論を言ってるだけで、ピケティ本見てないのが見え見えで、多少何かもっともらしいこと言ったら里村&綾織に怒られて無内容なのがすぐわかってしまうし。

結論:こんなバカで怠惰な守護霊しかついていなくても、ちゃんと研究者として活躍できることがよくわかりました。つまりは守護霊なんか何の関係もないということが明確に出ているという意味では、有用といえなくもない本だと思います。

追記:

とはいえ、まあ動きははやいし目先が利くのはみとめるわー。これ読んで見たーい(すごく安くなったら)。


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旅に出る時ほほえみを

旅に出る時ほほえみを (1978年) (サンリオSF文庫)

旅に出る時ほほえみを (1978年) (サンリオSF文庫)

もう30年近く前に買ってずーっと本棚に寝ていたのを、引っ越しを機に始めて全部読んだ。昔、冒頭だけ読んでもっと無害なおとぎ話と思っていたけれど、どうしてどうして。よくソ連時代にこんなものを書いて発表できたものだ。ナボコフ『ベンドシニスター』と同じ話だけれど、こちらのほうができがいいかもしれない。


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『去年を待ちながら』

たぶん無駄とは知りつつ、インターネットの無限の叡智におすがりしてみるテスト:

P・K・ディック『去年を待ちながら』という佳品がある。

去年を待ちながら (創元推理文庫)

去年を待ちながら (創元推理文庫)

さて、この邦訳の献辞はナンシー・ハケット宛てになっている。ぼくが持っている英語版もそうなっている。

ところが、このキンドル版と別のペーパーバックだと、献辞がドナルド・ウォルハイム宛てになっている。

Now Wait for Last Year

Now Wait for Last Year

さて、これはディックがどこかで変えたのか?たとえばイギリス版と米国版でちがうということなのか?それともだれかがどっかでまちがえたのか?

ジェイコブズの教訓:強いアマチュアと専門家の共闘とは

ちょうど一年ほど前に、別冊『環』がジェイン・ジェイコブズの特集本を作るというので、寄稿した。

ジェイン・ジェイコブズの世界 1916-2006 〔別冊『環』22〕

ジェイン・ジェイコブズの世界 1916-2006 〔別冊『環』22〕

この本の企画をきかされたとき、どんな本になるかはだいたい想像がついて、まあほぼその予想通りだった。いろんな分野の専門家が、自分なりの専門分野からジェイコブズについてあれこれ語る――それは決して悪いことではないし、その意味でこの本も、悪いものではない。

が、すっごくよいものでもない。『アメリカ大都市の死と生』解説でも書いた通り、ジェイコブズの価値は、そういう専門分野を無視したところにあるからだ。各種専門家の意見の寄せ集めでは、たぶん不十分だ。さらに、ジェイコブズを評価する人の多くは、「よいまちづくり」といった話が好きな人々で、人に優しい多様で魅力あるまちづくり、みたいな話をありがたがる。でも、ジェイコブズは実は、必ずしもそういう見解に好意的ではない。が、たぶんそれをまともに指摘する人は、おそらく他の執筆者にはいないだろう。ジェイコブズに対するまともな批判を紹介する人すらそんなにいないんじゃないか。

すると、ぼくが憎まれ役を引き受けて、そういう話を全部やるしかないよなあ。そのためには、基本的にこの本の他の著者全員に、バーカと言うに等しいことをしなければいけないなあ。

というわけで、書いたのが次の文章だった。

ジェイコブズの教訓:強いアマチュアと専門家の共闘とは (pdf, 400kb)

たぶん他の執筆者は、あまりうれしくなかっただろうね。心優しいまちづくりの人たちは、市民運動とかエコとかいった話が好きで、この中で批判されているインチキな反原発(こう書くとすぐにキイキイ言う連中が出てくるんだけれど、インチキでない反原発だって当然あるのだ)活動とつるんでいたり、ある程度ほめられている小林よしのりにえらく反発したりしている人々も多いので、ジェイコブズがそんなのと関連づけられているなんて気に入らないだろう。

でも、ここに書いたような話はどこかで言っておくべきだと思う。そして、アマチュアにこんなことを言われるのは、そもそもが「専門家」たちが十分に専門してないからだ、というのもこの論説の主張ではある。

別の話で、専門家とアマチュア、みたいなことを少し考えていたので、こんな原稿を掘り出してくるのも無意味ではないだろうと思うに至ったので。ご笑覧いただければ幸い。

 

ところでいまジェイコブズ関連のブログをいくつか読んでいたら、この別冊『環』の編者の一人でもある塩沢由典がそのほとんどに2015年あたりにやってきて、コメント欄にいろいろ書いている。ジェイコブズに対して少しでも批判的なことが書いてあると許せないようなんだけれど、そのブログで紹介されていた批判に対しては直接反論できず、「すごいんだぞ」と言うにとどまっているのは残念。そしてこの『環』が出るという話と同時に、「知られざるジェイン・ジェイコブズ」なる本の翻訳が進んでいるという話を書いているんだけれど、どうもまだ出ていないらしい。どの本の翻訳かは知らないけれど(上の論説の最後で写真を載せた Ideas That Matter かな?) 遅いなあ。ぼくにやらせればすぐ(そして上手に)できるのに。

Ideas That Matter: The Worlds of Jane Jacobs

Ideas That Matter: The Worlds of Jane Jacobs


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