アマゾン救済 2006年分: 特性のない男など

1巻: 何事にも中途半端で無気力な主人公の導入。理屈っぽさが小説の展開を支援。, 2006/6/5

ムージル著作集 第1巻 特性のない男 1

ムージル著作集 第1巻 特性のない男 1

20 世紀を代表する大作小説の一つ。世紀の変わり目にあたるウィーンを舞台に、これといって特性も信念もない、結婚するわけでもない、生活に困っているわけでもない、才能がないわけでもない、頭が悪いわけでもない、でもじゃあ何かと言われると何があるわけでもなウルリッヒを中心に、これといって大したことは何もおきないという小説。この第一巻では主人公ウルリヒが、ウィーンの文化サロンを席巻する平行運動(なんだかわからないが何かしらオーストリア的なものを称揚すべきであるという運動)に巻き込まれるまで、というべきか。筆致は嫌みったらしく、せりふのひと言でほのめかせばすむ各種の感情の綾をいちいち細かく説明する、ある意味で感傷のないものではある。主人公はほとんどニート状態で、また4巻以降は妹萌え小説になってしまう変な小説で、その意味で現代的だったりもするが、この巻では理屈っぽい書き方が小説の展開を助けていて飽きずに楽しめる。

2巻: 各種の設定の展開部分で、この巻までは理屈っぽいのに楽しく読める。, 2006/6/5

ムージル著作集 第2巻 特性のない男 2

ムージル著作集 第2巻 特性のない男 2

20 世紀を代表する大作小説の第2巻。新世紀に向けて、オーストリア発の新しい文化を! と平行運動は気勢をあげては見るものの、独自性ある文化の中身がまったく見つからずにジリ貧、その主導者である遠縁の従妹とそのプラトニックな愛人をウルリヒは冷笑的に見守るが、当のウルリヒの元愛人が何やらこの運動に入れ込み出したりして、話は若干ややこしくなる。また連続娼婦殺しの死刑囚救済運動が何やら思わせぶりにしばしば登場するが、本筋とどうからめるべきなのか逡巡している印象。しかしこの巻まではまだ小説としてもおもしろく、理屈っぽくてくどいのに軽やかな筆致と小説性とがうまくマッチしていて、普通に楽しく読める。

3巻: 唐突に、双子の生き別れの妹 (!!) の存在が明らかになります。, 2006/6/5

ムージル著作集 第3巻 特性のない男 3

ムージル著作集 第3巻 特性のない男 3

20 世紀を代表する大作小説の第 3 巻。主人公ウルリヒがお義理で参加した平行運動は、オーストリア精神の中身を見つけようと奮闘するが一向に見つからず、ひたすらジリ貧。この巻で、この運動およびウルリヒを巡る各種人物の思惑や内心のとまどいをあれこれと著者はつまみ食いするが、話が進みようがなくなったところで、急にウルリヒに実は生き別れの双子の妹がいたことが判明。ウルリヒはあれこれ妄想をたくましくし、著者も脱線して何やら兄妹の関係論などにページをさいてこれまでの話はどうなったんだ、というところでこの巻はおしまい。

4巻: 突然この巻から妹萌えの近親相姦じみた小説になる。, 2006/6/5

ムージル著作集 第4巻 特性のない男 4

ムージル著作集 第4巻 特性のない男 4

20 世紀を代表する大作小説の第4巻。前巻で何の予告もなしにいきなり存在が明らかになった、主人公ウルリヒの生き別れの双子の妹であるアガーテが、さんざんじらしたあげくに実際に登場し、すると本書は何やらがらっと話が変わってしまい、妹萌え小説となる。ウルリヒは妹と家に引きこもり、思わせぶりな性的暗喩があれこれ出されて近親相姦じみた雰囲気がかもしだされ、それまでの平行運動の話等は完全に背景におしやられてしまう。ウルリヒは妹にちょっかいを出すようになる。

5巻: 未完の大作のここから先は未定稿。でも話は一向に収束しない。, 2006/6/5

ムージル著作集 第5巻 特性のない男 5

ムージル著作集 第5巻 特性のない男 5

20 世紀を代表する大作小説の第 5 巻だが、この小説は未完なので、この巻以降は完成版ではない。とはいえ 5 巻はとりあえずゲラになった部分で、一応普通に読める。主人公ウルリヒが単にお義理でつきあっていた、オーストリア精神を鼓舞しようという平行運動は、世界平和会議とかおためごかしをしているが事態は何も進まない。ウルリヒはもうそんなもののことはまったく眼中になくなってしまい、4巻でやっと姿を見せた妹アガーテとの近親相姦世界(愛の王国)を妄想してばかりだが、妹は妹であれこれ思うところもあり、他の男のもとへと走ったりする。話はひたすら発散するばかり。

6巻: 大作の未完の断片集で、本当のマニア以外は読む必要なし。, 2006/6/4

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ムージル著作集 第6巻 特性のない男 6

ムージル著作集 第6巻 特性のない男 6

20 世紀を代表する大作小説の第 6 巻、最終巻だが未定稿のゲラに続けようとしたホントに習作くらいのレベルのもので、ウルリヒと妹とがひたすら愛とは何か等について議論しているだけ。これまでも理屈っぽい小説だったがその度合いは急増する。話の収拾はまったくつかないし、つけるつもりだったかどうかもわからない。

またこの巻の後半は、ムージルの書き残した断片をまとめてあるが、本当に断片でマニアでもなければ読むには及ばない。

雑誌『NIKITA』: コピーは笑えて楽しいが中身負け。 2006/6/2

コピーのつけかたはふざけていておもしろいんだが、それ以上のものではないのが難。必要なのは若さではなくテクニック、というのだけれど、モデルはやっぱり(多少は年配ながら)若い女の子。たまに本物の艶女 (注:2017年の読者はお忘れでしょうが、これは「アデージョ」と読むことになっていました) が出てくると(この号では pp.42-5 とか pp.174-5 とか) 勘弁してくれ感が一気に充満。冗談でたまに買う分にはいいんだが、たまに本気感が漂ってくるとヒジョーにつらい。さらに、必要なはずのテクニックというのは、本来は単なるブランドアイテムではないはずなんだが、雑誌読んだだけでがさつさがなおるわけはないので、それはないものねだりか。

黒沢『翳りゆく近代建築』: 浅はかな時代認識に現代思想の意匠を添えた悲喜劇的な建築論集, 2006/5/2

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翳りゆく近代建築―近代建築論ノート

翳りゆく近代建築―近代建築論ノート

1970年代に書かれた本書を2006年の現在に読むのは、ある意味で興味深い体験ではある。「今日、これほどに、建築をつくることの困難をかんずる季節をわたしは知らない」という、重いつもりでいながら「季節」ということばにうっかりそれが一過性にすぎないという認識があらわれている冒頭の笑える一文、「これほどに難問の集積した時代」はなかったとかいう世迷いごと。そしてかれが技術の暴走例としてあげているSST/コンコルドももはや引退。結局、黒沢の問題意識はちゃんとコスト意識と合理性によって短期間で解消されてしまうものでしかなかったわけだ。黒沢が1970年代に嘆いたイデオロギーの終焉も、成長の限界も、進歩の終焉も(p.137)、実は存在しなかった。もちろん、浅田/中沢のニューアカブーム以前に各種フランス現代思想をきちんと勉強していた勤勉さは立派なものだとは思う。が、岡目八目は承知の上ながら、的はずれな問題意識と賢しらな現代思想、およびいまやすっかり色あせた社会主義への憧憬とをからめた本書収録の各種建築論は、いま読むと根底にある浅はかさ故に失笑せずに読むのはむずかしい。

クロスニー『ユダの福音書を追え』: 大した事件のない発見過程を大仰にふくらませただけ。 2006/5/1

ユダの福音書を追え

ユダの福音書を追え

世紀の大発見であるはずの、ユダの福音書……の発見解読までのドキュメンタリー。とにかく原文がまだ日本語ではあまり出回ってもいないのに、それをすごいの世紀の大発見のといって騒ぎ立てられてもぜんぜんピンとこない。結局、ユダの裏切りは実はイエスによるやらせだった、という話なんだが、実際の中身は本当に断片的にしか触れられていなくて、欲求不満がたまるだけ。

実際問題として、最初に発見されてからあちこちを転々とはしたけれど、そんなにすごいエピソードがあったわけじゃない。それをなるべく仰々しく書こうとしていて、まわりくどくつくりものめいていてげんなり。読む価値なし。

タカーチ『生物多様性』: インタビューと称する聞きかじりに社会構築論を混ぜた駄本, 2006/4/28

生物多様性という名の革命

生物多様性という名の革命

著名生物学者23人へのインタビューとあって、帯にもそれらの名前が仰々しく並んでいるが、インタビュー自体はぜーんぜん出てこず、切れっ端があちこちで援用されているだけ。その23人の多くがロンボルグ『環境危機をあおってはいけない』で無根拠さを批判されていた論者だが、そうした批判に対するコメントも一切ない。

だが本書をさらに嫌な駄本にしているのは、これが生物多様性というのを社会構築論的にとらえようとしている点。社会構築論というのは、事実は物理的・科学的なものですら客観的に存在するのではなく社会的なお約束ごとでしかないというくだらない説。著者にとっては、生物多様性というのも社会的に構築された作り事のお話でしかないのだが、救われないことに著者はそれが何やらいいことだと思っている! そしてそれを弁解しようとするいたずらに饒舌で空疎な記述がひたすら続き、学者のインタビューはその援用のためにつまみ食いされるだけだ。さらに p. 291-292 あたりでは生物多様性のスピリチュアル性とのつながりが云々といって、科学が宗教とからんで生物多様性を保護するとかなんとか。もう頭痛もの。

生物多様性を保護しろという議論は、まったくのナンセンスではないし、検討すべきこともある。でもそのためには科学的、経済的、文化的な検証を通じ、その意味をきちんと示すことでコンセンサスを作るしかない。ところが本書はぜんぜんそれができていない。本書はむしろ、生物多様性というお題目を使って、サイエンススタディーズとか社会構築論とかを擁護するところに実際の重点がおかれていて、このために大変読みにくくいやな本となっている。生物多様性に本当に関心ある人は手に取らないこと。