竹信『ピケティ入門』:素養のない人が書いたアベノミクス重箱のすみつつき本。ピケティ解説はまちがってはいない。

ピケティ入門 (『21世紀の資本』の読み方)

ピケティ入門 (『21世紀の資本』の読み方)

ピケティ便乗解説本がいくつか出てきた。市が栄えるのは結構なことです。でも訳者としては、できればきちんとした解説になっていてほしいな、と思うのは人情でしょう。そんなわけで、一応見てみました。その筆頭が、この赤い本。そしてその評決は……

あまりおすすめできないと言わざるを得ない。

1. 解説部分は、まちがってはいない……が、素養がないのはモロバレ

まず、第1章と第2章では、ピケティ『21世紀の資本』の概略説明。ここのところは、まちがってはいない。まちがってはいないんだが、見た瞬間にこれを書いたのがこの分野の素養のまったくない人間だということがすぐわかる。

ピケティ本の基本的な式は、r > g というやつだ。で、この左辺は r 、ローマ字のアールですね。資本収益率で、リターン (return) の頭文字の r だ。経済学でもファイナンスでもこの分野をちょっとでも勉強した人ならみんな知ってる。

ところが、竹信は、これが γ 、ガンマだと思ってるのね。読み仮名つきでそう書いている (p.21 なお、この指摘をうけて慌てて直したようで、2015年1月末に店頭に並んでいる第六版では、これは r に直っている。)。

収益率をガンマであらわすというのは、ぼくは見たことがないし、またピケティ本にもそんなノーテーションは出てこない。この人、こういう分野の勉強は101入門教科書すら読んだことないな、というのがよくわかる。なになに、この人は和光大学の教授なの??!! へえええええええ。

このまちがいが起きた理由は、まあわかる。数式とかはイタリクスにするので、r が r になったんだろうし、また他にαやβは出てくるから、rのイタリクスがガンマに見えたんでしょう。

そしてもちろん、r をすべて γにしたいというなら、それはそれでかまわないし、またそれで計算がおかしくなるわけではない。でもピケティのアンチョコ本でしょ。ガンマ > g と言ってもだれもわからないから、知ったかぶりできないじゃないか。本書を受け売りするときには十分注意してほしい。山形ごときが他人の素養をあれこれ言えるかよ、という人もいるだろうけど、でも本書はそんな山形にすらあれこれ言われる程度のレベルなのだ。

2. アベノミクス批判は……重箱の隅ばかり。

で、後半は、とにかくアベノミクス批判。なんだけれど……

アベノミクスというと、通常は三本の矢の話だと思う。金融緩和に財政出動に成長戦略か。ところが、本書はいきなり、なんか細かいところに入る。地方創成と、女性の輝く社会ね。大枠の話はまったくなし。いやあるのかな? 地方創成と女性の輝く社会ってのが、アベノミクスの経済政策のキーワードだと言ってるから (p.80)。

でもそんなのがキーワード、でしたっけ? 確かに聞いたことはあるけど、他にもいろいろあったような。

そして、そのダメさ加減の象徴は、震災被災地での女性をめぐる復興過程なんだって (p.83)。被災地で女性向けの職業訓練がない、つまり男女が平等に働ける施策がアベノミクスにないとか。えーと、まっさきに出てくるのがそんな代物なんですか? それってピケティになんか関係ありますか?

細かい個別政策についてあれこれ言いたいことがあるなら、それはそれで結構。でも、一応本書って「ピケティ入門」ですよね。でもピケティって、EUの話を除くと細かい個別政策の話って一切してないんだよね。どうやって話をピケティにつなげるんですか?? これがねえ……つなげてないんだよ。

要するに、格差を縮めるような政策になってない、という批判をひたすら並べているだけ。でも、取り上げられている個別の政策が本当にアベノミクスの代表例や全貌というべきものなのかもわからない。それに経済政策っていろんな側面があり、また格差の解消方法もいろいろある。金融緩和の効果とあわせてみる必要のある政策も多そうだ。政策論として、なかにはいい指摘や提案もある。そして確かに安倍政権の経済政策は再分配策が弱いのは確か。でも、批判の多くは印象論にとどまるものでしかない。おそれがあるとか、危険をはらんでいるとか。

どんな政権でも、どんな政策でも、あらゆる人に完全に平等に作用する政策なんかない。だからあらゆる政策は、探せば多少なりとも格差を増やすといえる。でも政策はセットになっていることも多い。Aという政策で出た格差を、Bという政策で緩和するかもしれない。だからアベノミクスというパッケージを批判したいんなら、個別に見るんじゃなくて、もっと全体に見る必要があるんじゃないかな。でもそういう配慮はまったくなし。自分の目についたミクロな政策を単独で取りざたするだけ。

そして最後にちょろっと黒田日銀の金融緩和について出てくるんだけど、一応ピケティが指摘するインフレの重要性を挙げて、それなりに評価しつつも、その後はまあおざなりでありがちな「批判」でお茶を濁す。円安で生活が圧迫されとか。でも自信なさげだし、あんまり理解できてないように見える。

で、ピケティは? 格差を縮める政策が重要だと言ってます、という役回りで出てくるだけ。でもピケティの処方箋や診断に照らしてそれぞれの政策はどう評価できるか、というような考察は皆無。まあ無理だよね。『21世紀の資本』での議論は粒度がまったくちがうんだもの。でもそれなら、政策批判は政策批判として別口でやるべきだと思う。

3. まとめ

アマゾンでは、本書についてピケティをだしにアベノミクス批判してるだけの本、という酷評があがっている。ある意味ではその通り。ピケティの議論とはまったく関係ない政策批判を長々と展開しているだけ。そしてそれも、アベノミクス批判と呼べるものですらない。その中の一部の個別政策批判にとどまる。そしてアンチョコ本としても、説明の大筋は特に肝心なところでまちがえている。

そうなると、あまりおすすめできない。本書の受け売りでピケティ読んだふりをしたい人は、十分気をつけてほしい。r はガンマじゃなくて、アールですからね。




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