反知性主義3 Part 2: 内田編『日本の反知性主義』:白井聡の文は、無内容な同義反復。他の文は主に形ばかりのおつきあい。

はい、まだ反知性主義の話は続きます。第3部を前編と後編にわけるなんて、最近の無内容を引きのばそうとする『トワイライト』とか『ホビット』『ハリポタ』『ハンガーゲーム』みたいでいやなんだけどさ、お金とるわけじゃないし、どうせ読む側もあんまり長いのは飽きるでしょ?(といいつつ、今回もえらく長いんだけど)

これまでの話は以下の通り:

反知性主義1:ホフスタッター『アメリカの反知性主義』は、知識人のありかたを深く考えていてとってもいいよ

反知性主義2:森本『反知性主義』は、アメリカに限ったまとめとしてはまあまあ

反知性主義3 Part1; 内田編『日本の反知性主義』の編者による部分は変な思いこみと決めつけだらけ

白井の文は、グローバリズムとかポストフォーディズムとか聞きかじりだけで並べた無内容な文である。

というわけで、お次は白井聡の文に移ろう。白井の文は、このアンソロジーの中で「反知性主義」に関するアカデミックな分析を、一応は期待されているんだろうと思う。そしてその書きぶりは、いかにも学問的な体裁だ。世界の社会経済的な文脈の中に、日本の「反知性主義」なるものを位置づけようというわけだ。そしてずいぶん力も入っている。総ページ数50ページほど。「はじめに」を除けば内田の文とほぼ同じ。

でも、残念ながらぼくはこの文にあらわれた世界の社会経済的な状況認識が、基本的にはなまくらで表層的なものでしかないと思う。そしてそのために、文章そのものがこむずかしいのに結局大したことを言えず、基本的には同義反復に堕している。

まずこの文は冒頭でこう述べる。

「今日の日本で反知性主義が跋扈していることについて、本書の読者はほぼ異論がないであろう。(p.65)

この時点で白井の文は、それが内輪向けのなれ合いの文であることを明言している。読者は「反知性主義」の何たるかについて同じ認識を持ち、その現状についても立場を共有しているというわけ。

そしてこの文はそれに続けて、基本的な主張を述べる。

「そこにはおおよそ二つの文脈がある。ひとつには、ポストフォーディズムあるいはネオリベラリズムと呼ばれる、1980年代あたりから世界的に顕在化した資本主義の新段階において、反知性主義の風潮は民主制の基本的なモードにならざるを得ない、という事情である。これは新しい階級政治の状況である。

 いまひとつには、制度的学問がそれに根ざしているところの「人間の死滅」という状況が挙げられる。(p.65)

ポストフォーディズム

 さて、まずこの前者。「ポストフォーディズムあるいはネオリベラリズムと呼ばれる云々」の部分。この時点で、白井の文は一知半解の印象論でしかないことがだいたい露呈している。だって、ポストフォーディズムネオリベラリズムって、全然ちがう話なんだもの。

ポストフォーディズムというのは、通常はT型フォード量産に代表される、少品種大量生産に基づくフォーディズムの後にくるものだ。フォーディズムは、管理者・計画者(知的労働者)とフロアの労働者(何も考えない肉体労働者)という明確な階級分離を前提とする。それに対して、ポストフォーディズムは、通常は多品種少量生産を胸とする。製造ラインレベルでの柔軟かつ高度な対応を要求されるので、労働者もある程度の知的な対応が求められる。かつてほど明確な階級分離はなくなる。

これに対してネオリベラリズムというのは、1970年代までのケインズ主義的な「大きな政府」による経済体制に対する批判として生まれ、効率の悪い公共をあらゆる場面から追い出し、規制緩和と市場化・自由化を全面的に進めようという考え方。これが結果的にかなりの格差を生み出したのは、ピケティ『21世紀の資本』などが指摘する通り。

だからこの両者は同じ扱いができるものではない。特にポストフォーディズムは、基本はむしろ末端の労働者にまで知性を要求するもので、「みんなバカ」という白井&内田の文が考えているような「反知性主義」とは方向性がかなりちがう。でも白井の文は、それをごっちゃにして平気だ。

その白井の文も、ポストフォーディズムについて調べているうちに、これに気がついて、なんかちがうようだと思ったらしい。でもそれを強弁してなんとか取り繕おうとしているのが、p.78の記述。ポストフォーディズムで労働者の教育が重要視されたけど、それが成功したかどうかはわかんなくてネオリベの大きな波がやってきた、というんだが、じゃあポストフォーディズム関係ないでしょ。白井の文が最初に述べている「反知性主義」の背景にもならない。

グローバリズム

そして、知的な労働者が必要なポストフォーディズムがなぜ「反知性主義」をもたらすのか?それは、えーと、グローバリズムのせいなのだという。グローバリズムのおかげで、賢い労働者は外国から輸入すればよいことになった、とのこと。よって自国では人々の教育にお金をかけないという反知性主義が広まったという。

グローバリズムについての一般的な発想を知っている人は、この議論に首を傾げるだろう。輸入できるような知的高技能労働者がそんなに世界中にたくさんいるの?そんな形の労働移動が起きているなどという話は聞いたことがない。ましていまの日本の低所得層を完全に代替しきるほどの高技能労働者が、日本に流入してるなんてことは……ないでしょー。グローバリズムの影響という話では通常、低技能を使う工場が海外移動して、国内に残った労働者は技能を高めねば、という議論になるんだが、白井の文の主張はこれと正反対だし、それを裏付ける根拠も一切ない。ついでに、日本は移民を(偽装奴隷研修制度とか以外では)全然やってない。なら日本が「反知性主義」に向かう理由はまったくないということになってしまう。

ネオリベラリズム

そして、ネオリベラリズムはどうなるんだろうか。これが実にはっきりしない。ネオリベラリズムは、格差を生み出す、という話を白井の文は (ピケティを引き合いに出しつつ) 述べる。それが知的な上流階級と、バカな下層階級との分離をもたらした、と。だから下流社会とかB層とかヤンキーとかが生まれてきたとのこと。そしてネオリベ政権は、人々が馬鹿なほうが操りやすいから人々を愚かにしようとして、このため「反知性主義」が生まれるとのこと。そして、日本は戦後に階級をなくすのに最も成功したからこそ、いま新しく階級が生まれる際には最も強く「反知性主義」が出ているそうな。

でも、人々がバカのほうが操作しやすいというのは、別にネオリベ政権でなくても言えることだ。そしてB層とかヤンキーのような話は昔から言われている。一億総白痴化、なんてことを言った人もいる。それがいま、どう変わったのか?さらにそれは、ネオリベという思想だか主義だかが意図的に目指すものなのか、それとも副作用として生じたことなのか?白井の文は、あるときはそれが意図的だという主張をし、あるときはそうでないような書き方をする。さらに、日本での格差はピケティが批判した欧米とはちょっとちがうことは多くの人が指摘しているし、その度合いもちがう。日本の反知性主義が最もひどいというのも、本当だろうか?階級についても、反知性主義の度合いについても、何一つ具体的な裏付けがないまま、白井の文はひたすら思いこみだけで展開する。

そもそも、日本の今の政権は本当にネオリベラリズムなのか?これまたまったく検討されない。個別の政策を見ると、規制緩和を目指す部分もあるから、それをネオリベラリズム的だと言うこともできるだろう。でも、全体としてはどうなの?相続税上げたり税金上げたり、ネオリベ的でない部分も多々ある。白井の文は、ネオリベラリズムについてきちんと定義や検証をすることなく、「現政権は教育費を削っているからネオリベネオリベだから教育費を削る反知性主義に走る」という循環論法がひたすら続くばかり。

ポモ的な「人間の終焉」についてもあれこれ書こうかと思ったけれど、全体の中で大した役割を果たしていないので割愛。それで議論が変わるわけではない。

嫌いなものをつなげて見せただけ?

結局、白井の文を読むと、実はネオリベラリズムグローバリズムもポストフォーディズムも、まるできちんと理解してなくて、聞きかじりで言葉を連ねているだけなのではないか、と思えてくる。でも、白井の文はそれで事足れりとしている。なぜか?これはすでに「反知性主義」的な傾向が存在するということを論証不要の前提としている身内に向けられた文章だからだ。そして、そういう人々は、ネオリベというのを何かよくないものだと思っている。グローバリズムというのも、人々を抑圧するろくでもないものだと思っている。だから、それらを線で結んで「これはみんなつながってるぜ!」と言う文に対しては、そういう読者はそれだけで喝采する。

稲葉振一郎などがときどき指摘するけれどネオリベとか新自由主義とかいうのも、人によって意味がちがって、多くの場合には単に自分が気にくわないことすべてに安易にはりつけるレッテルと化している。グローバリズムというのもそうだ。白井の文も、そこからいささかも出ていない。そして……「反知性主義」というのもそういうレッテルとなっている。つまりはどの用語も、このシリーズの最初に述べた、「バーカ」のご立派な言い換えにすぎない。だから白井の文は、「反知性主義」はネオリベのせいだと主張するけれど、その中身は結局、「気にくわない連中は気にくわないぜ、バーカ」という同義反復の練習問題にしかなっていない。

ホフスタッターはネオリベポモの夢を見るか?

そして、反知性主義ということばの定義についてだけれど、白井の文にはこうある。

リチャード・ホーフスタッターによる古典的名著『アメリカの反知性主義』によれば、反知性主義とは「知的な生き方およびそれを代表するとされる人々にたいする憤りと疑惑」であり、「そのような生き方の価値をつねに極小化しようとする傾向」とされる。私はこの一般的な定義に同意するが、ここでポイントとなっているのは、反知性主義は積極的に攻撃的な原理であるということだ。(p.67)

さて、まずホフスタッターを援用した時点で、なんだか白井の文の主張が本当になりたつのか、というのは当然抱くべき疑問だ。ホフスタッターは、アメリカ建国以来の200年を扱っている。その時代に、ネオリベラリズムだのグローバリズムだのポストモダニズムの「人間の死滅」なんてものはあったんだろうか?たぶんないだろう。だったら、そうした思潮こそが反知性主義の元凶だという主張はそもそも変じゃないか?

さらに、ぼくはここで引用されているホフスタッターの定義を見ても、それが積極的に攻撃的な原理であるなどということがポイントになっているとは読み取れない。「憤り」の一言があるから攻撃的だと言いたいのか?でも何かに不満を抱くのとそれを攻撃するというのは話がちがう。

でも白井の文は、このようにしてそこに必ずしも書いていないことを、自分の思いこみに基づいて強引に引き出している。ちょうど、ネオリベグローバリズムの話でそうしたように。ぼくはこれが、ちょっと悪質な歪曲だと思っている。白井の文の立場に同調する読者は、そういうのをおおめに見るのかもしれない。でも、そうでないぼくのような読者にとって、この白井の文は、勝手な思いこみに基づいて特に裏付けのないことを放言し、嫌いなものをいい加減につないで見せただけのものでしかないだろう。

示唆のない結論は、上から目線のニヒリズムでしかない。

この現状「分析」の後に、白井の文は否定ナントカが現状には蔓延しているのであり、今後それを覆すために頑張らなくてはいかんが、あれもこれも八方ふさがりでお手上げで、それでも諦めてはいけないけどどうすればいいかよくわかんないよ、という結論をくっつけている。現状についての分析と認識が上に述べた通りかなりトホホであり、妥当性を欠くものである以上、この結論を真面目に考える必要はないだろうし、考えたところで、グチ以上のものはないから、読者としては徒労でしかない。

それ以上に、「反知性主義」を少しでも改善するにはどうすべきか?そういう提言がまったくないのは残念至極。「反知性主義」の意味合いはさておき、諸般の事情で世の中がバカだらけになって、しかもその状況を悪化させようという政府の方針(主義)さえある——そういう考え方はあるだろう。でも多少なりともそれを変えるための具体的な提言はおろか、多少の示唆にすらつながらなければ、それは結局現状の追認と諦めを表明するニヒリズムと、「でもワシはそれを憂慮できる賢い知識人なのよオホホホ」という優越感をまぜこぜにしただけの、非生産的な代物にしかならない。ぼくは白井の文(そして内田の文も)がまさにそういう代物に成りはてていると思う。

その他の文について

ここまでで、だいたい本全体の半分くらいが費やされている。他の文はほとんどがおつきあい。本書の他の人たちは、ホフスタッターをおそらくは読んでいない。かれらは「反知性主義」というものについて、内田に与えられたお題をそのまま鵜呑みにしている。そういう立場であれば、反知性主義の理解がどうの、と目くじらをたてる筋合いのものでもない。これまでが長すぎたこともあるし、あとはざっと流す感じで……

高橋源一郎の長い題名の文

高橋によるこの文は、あまりきちんとした主張をしている文ではない。題名からもわかる通り、そもそも反知性主義なんていう話はしたくなかったけれど、おつきあいでとりあえずページを埋めました、という文でしかない。細雪が発禁になった話をして、それは知性が女性的だから云々と述べるけれど、ほのめかしの書きっぱなしできちんとした考察はない。ぼくは、単なる思わせぶりで無内容な文だと思う。でも、それを何か余韻のある深い文章だと思う人もいるだろう。

赤坂真理「どんな兵器よりも破壊的なもの」

赤坂のこの文も、お題である「反知性主義」「反知性」に対する戸惑いから入って、それをあっさり無視して天皇制の話であちこちふらふらして……それで終わる。内田の「反知性主義」に居心地の悪さを感じていることはよくわかるけれど、高橋源一郎の文章のようにそれを平然と蹴っぽるほどの図々しさはなく、なんとかそのお題に応えようと右往左往するのが読んでいてちょっと痛々しい。その居心地の悪さはおそらくは鋭いのだけれど、それがまったく追求されないのはちょっと残念。そして、右往左往はするがまとまらず、きちんとした主張や論旨がないまま投げ出され、たいへん煮え切らない。

平川克己「戦後70年の自虐と自慢

平川の文は、安部首相を「反知性主義」つまり頭が悪いとけなすことに違和感を感じている。そして……なんとその後に出てくるのは、内田樹の文での主張に対する(意図せざる)全否定だ。

反知性主義とは知性の不足に対して形容される言葉ではない。現場での体験の蓄積や、生活の知恵がもたらす判断力を、知的な営為や、創造力がくみ上げた合理性よりも信頼するに足るという保守的イデオロギーのことである。(p.157)

!!!!これはまさに、内田の文章で述べていた主張をひっくり返しているのだけれど、編者はこれをちゃんと読んだのだろうか。

その後、平川の文は、日本に比べてドイツの戦後処理は立派だと、各種ドイツ首脳の演説を引用して安部首相の演説の揚げ足取りをしつつドイツ絶賛を繰り広げる。でも、ドイツが軍隊を持っていて武器輸出もしていて集団自衛権も否定していないことについてはまったく無視。重要なのは、実際の軍事的な行動のほうじゃないかとぼくは思うんだが。

小田嶋隆「いま日本で進行している階級的分断について」

小田嶋の文は、変な自意識にからめとられているときには無惨な代物となる。でも、そうでないときにはよいセンスがあることは否定できない。本書の文では、ある種の分断——頭のいいやつ、優等生とそれ以外——を指摘する。そして、実は分断が先にあって、知性がどうのというのはそれに対する後付の理屈でしかないということを指摘しおおせている。これはある意味で、内田樹のまえがきで述べられた枠組みを否定するものだ。本書の中ではましなほうの文章だと思う。

ちなみに、小田嶋の文は、「ヤンキー」をふりまわす議論についても論難している。つまりは、白井の文章に対する批判にもなっている。

名越x内田「身体を通じた直観知」

本当に無内容でひどい対談。昔はよかった、みんな節目があった、知性が身体化されてた、最近の連中はダメだ、というだけ。

想田「体験的反知性主義論」

人はいろいろな社会経済的しがらみにとらわれて、反知性的な行動に出るのだ、そしてそれは他の人だけがやることではなく、ぼくたちみんなやってることだ、という文。これ自体はおっしゃる通り。この文で挙げられる「反知性」は、原発推進だけれど、量的にはあまり多くない。そして、我が身をふり返れという主張はまとも。本書の中でいちばんまともなものの一つ。

仲野「科学の進歩に伴う「反知性主義」」

科学が細分化して業績重視になってくるので、研究者もいろいろ端折って反知性っぽいことをするようになります、とのことだが、その論旨はあまり明解ではない。科学が発達しても知性が伴わないという議論は、そこでの「知性」というのが不明確なのであまり意味を持たない文となっている。

鷲田「『摩擦』の意味」

反知性主義」ということばを一切使わず、あまり決めつけを急がず摩擦に耐えて他人の言うことにも耳を傾け、謙虚になって寛容の精神を持ちましょう、というたいへん立派な文章で、唯一の疑問は、鷲田はこれをだれに向かって書いているのかということ。日本の政治的な現状に対してはもの申したいらしいが、それを具体的に言うことなく、一番最後にT・S・エリオットの引用でほのめかすだけ。あらかじめ先入観を持った人は、そこに自分の読み取りたいものを勝手に読み取るだろう。

それを明記しない鷲田のこの文を、上品で高尚だと思う人もいるだろう。ぼくはそれを、明言しない責任逃れの知的堕落だと思う。だがその一方で、この最後のエリオットの引用が現代政治状況へのコメントだとしたら、それまでの部分は逆に内田の序文などに見られる決めつけと不寛容に対するたしなめのようにも読める。もしそうなら、なかなかの策士。

まとめ

以上をまとめよう。本書はそもそも、理解力の低さ(ホフスタッターのいう「反知性主義」をまったく理解できない)か、非常な不誠実さ(ホフスタッターの議論を理解したうえでそれを意図的に歪曲)を発端としている。そして、内田と白井の文章は、ホフスタッターについての理解を離れた部分でも、まったく妥当性や論理性を持たない、無内容な代物と成りはてている。その呼びかけに応えて寄稿した論者たちは、いずれもその不誠実さと無内容さを引き受けさせられてしまったという意味で、不当な立場に置かれて利用されてしまった。これは本当にお気の毒でかわいそうだ。

でも、多くの人は編者が期待したとおぼしき、安倍政権バッシングをほとんど行っていない。「反知性主義」なるものについての明解な分析もなく、概念規定もないどころか、むしろ戸惑いを明確に述べている。そしておつきあいで、何やら現在の政治状況が自分のお気に召す方向には動いていないことについて、漠然と触れつつも、反知性主義がそれに関係しているかどうかもあいまいに濁している。たぶん、みんな困って、さりとて無碍に断るのもアレだから、あたりさわりのないことを書いてお茶を濁したんだろう。そしてみんながそれをやったために、本全体としても濁ったきれの悪いものになってしまっている。

もちろん、編者内田と白井の文が見せている混乱ぶりを見れば、それは仕方がないことだったのかもしれない。そしてそれは、そもそも最近の「反知性主義」という議論が、ホフスタッターの主張をふまえているかどうかとは別の意味でも、あまり中身がないものでしかなかった、という事実の反映でもあるのだろう、とぼくは思っている。

そしてその一方で、多くの論者は編者たちの尻馬にのって、うぉー反知性主義けしからんアベ許さないわよ人民の革命を−、といった軽薄なアジを繰り広げることもできたのに、それをしなかった。これはかれらの最低限の知的誠実さのあらわれとして、ぼくとしては評価すべきだと思っている。個々の論者のほとんどは、空気を読みすぎて浮かれるお調子者ではなかったことだけはわかる。えらい。それによって本としての評価が高まるわけではないけれど。

以上、反知性主義のお話はこれでとりあえず一段落。疲れました。本はニューヨークに捨ててきます。

反知性主義3 Part 1: 内田編『日本の反知性主義』は編者のオレ様節が痛々しく浮いた、よじれた本。

しばらく間が空いた。で、反知性主義についての簡単なお勉強を経て、ぼくが手に取ったのは『日本の反知性主義』だった。

この本の題名は、明らかに『アメリカの反知性主義』を意識しているようだ。その一方で、この面子を見ると、ぼくが冒頭に挙げた『現代思想』の執筆者と重なるようであり、「反知性主義」を「バーカ」の意味で使う連中の集団のようにも思える。で、どうなのよ? それがぼくの興味だった。が、その前に……

反知性主義」をちがう意味で使ってはいけないの?

まず、そもそも「反知性主義」を「バーカ」の意味で使ってはいかんのか? ぼくはそうは思っていない。ぜんぜん構わないと思う。ただ、その場合にはホフスタッターとかを引き合いに出してはいけない。まるで意味がちがうからだ。

なぜか? ホフスタッターの本は、名著とはいえ決してだれでも知っているメジャーな本ではない。ぼくはたまたま、漠然とホフスタッター的な意味合いでの用法を知っていたけれど、それを知らないからといってこうした分野に関係していない人が責められるべきだとは思わない。

さらに言葉は変わるし、だれかが単語の用法に独占権を持っているわけではない。ホフスタッターがそういう用法をしたから、他の人は一切その用語を別の意味で使ってはいけない、なんてことはない。反知性という言葉を見て、「知性に反対するんだから、これって『バカ』ってことだね」と思ってその意味で使うのは、ぼくは全然オッケーだと思う。

そういう人は「反知性主義はホフスタッターが~~」と言われても、単に「あ、反知性主義ってそういう意味もあるんだね、でも自分はそういう意味では使ってない」と胸を張って返せばいい話だと思う。人はあらゆることを知るわけにはいかないんだから。ついでに「ホフスタッターなんてまじめに受け取る価値はないよ、そんなのに準拠するつもりも用語をしばられるつもりもないね」とはねつけるのもあり。これまた小気味よい。池内恵によれば、佐藤優は日本ではすでに「反知性主義」が「バカ」の同義語として使われるようになっているから、ホフスタッターや森本を持ち出すのはダメ、と言っているそうな。なんでダメなのかはわからない。きちんとちがいや自分の用法における意味を明記すればすむだけの話だ。広い世界で、ちがう意味が併存していて悪いことは何もない。

でも、『アメリカの反知性主義』を読んで、それを援用しつつ「反知性主義」をバカの意味で使うのは、これはダメでしょう。読解力がないか、歪曲か、その両方がないと、そういう用法は出てこない。ホフスタッターをまったく無視するか、あるいは引き合いに出しても「これとは意味がちがうからね」と説明する必要がある。さて、その点でこの本はどうだったろうか?

内田編『日本の反知性主義』:総論として、かなり変な本。

ということで手に取ったのが内田編『日本の反知性主義』だった。そして……なんだか珍妙な本だと言わざるを得ない。編者のまとめ文が異様なほどの悪質さを露呈している一方で、そこにあらわれた意図と、実際の寄稿者たちの文が完全に乖離しているからだ。寄稿者たちの文の多くは、きわめて落ち着かない様子を見せたり、人によっては編集意図を、おそらくは故意に黙殺・迂回している。それはこの寄稿者たちが決して単細胞なお調子者たちではなく、本当に与えられたテーマをきちんと考えている誠実さを持っていることを示している。そしてその結果として出てきた文が、図らずも編集意図のおかしな部分や妥当でない部分を浮き彫りにしてしまったという面すら見える。その意味でのおもしろさはある。だが、そのために本全体としては、編者が意図したであろう統一的な、反安倍政権的なメッセージの本にはまったくならず、非常にインパクトの薄い本に成りはてている。

さて「反知性主義」に関する前節最後の疑問に対する答えとしては、本書の首謀者と思われる二人――内田樹と白井総――の文は、この読解力のなさand/or歪曲を見事に露呈している。

内田の文は冒頭からホフスタッターを引用しておきながら、その主張を完全に読み違え/歪曲し、自分にとって都合のいい下りだけをつまみ食いして並べ立て、ホフスタッターに依拠したふりをしつつ、ホフスタッターの用法と正反対の意味で知性/反知性主義を定義して平気だ。それ以外の点でも、全般に非常に不誠実で悪質な文章だと思う。

続く白井の文は、ホフスタッターを採りあげつつ、まるでトンチンカンで一般的な妥当性がまったくあるとは思えない思想史っぽい話を並べ立て、ホフスタッターとは全然関係ないところに話を持っていく。同じく非常に不誠実で悪質な文章になっている。

そしてこの二つの文は、明らかに煽ろうとしている。いま日本には反知性主義がはびこっている、特に安倍政権のやってるいろんなことは反知性主義のあらわれだ、やばい、このままじゃ日本はアレだ、という一種の檄文だ。その内容はかなりトンチンカンだ(これについては後述)。そして編者の文は、声をかけた人々がその煽りに共感してくれることを期待している。

ところが……声をかけられた内田樹のお仲間たちは、そういうふうには動かなかった。むしろ戸惑いを見せている。ちなみに、いま「お仲間」と書いたのは、ここで声がかかっているのが本当にある種のイデオロギー的な偏りを見せている人だけだからだ。つまり、安倍政権大嫌い、という人々。公平なポーズをするために、多少はちがう立場の人々を入れる、というバランスも考慮されていない。ほんとなら、アンチ安倍政権大合唱になりかねなかった本だ。

でも、そういったストレートなアンチ安倍政権を書いた論者は、2人ほどに限られる。その他の人の文章はむしろこのテーマに困惑し、「反知性主義」という言葉そのものに違和感を表明して、ある意味であたりさわりのない記述に終始した文章となっている。それは別に、この人たちがホフスタッターを読んでいるとか、あるいはホフスタッター的な意味での反知性主義を理解しているから、ではない。かれらは、安倍政権やそれを支持する人々が決してバカではないし、それなりの考えや計算をもって「知的に」行動していることは理解できているので、安倍政権批判を展開した文ですら、安倍政権やその支持者を単純にバカ=反知性と決めつけるようなことはしていない。

その意味で、本書は「笛吹けど踊らず」。編者の文で意図されているらしき、力強い政治的なメッセージを持った本にはならず、内田と白井の文だけが騒ぎ立てて、他の人の文はそれを遠巻きにして戸惑い、あたりさわりのないおつきあいでお茶を濁そうとしている。そしてみんながそれをやったがために、冒頭の内田と白井の文だけが全体の中で孤立し浮いた、すごくすわりの悪い変な本になってしまっている。ただしたぶん、本書に寄稿した多くの論者にとっては、これはよいことだろう。また、日本の思想状況の縮図として見ると、非常に興味深いとはいえる。

では、収録された文を個別に見ていこう。

内田樹「まえがき」「反知性主義者たちの肖像」:歪曲と浅はかさに満ちたきわめて悪質な文。

概要

冒頭には内田樹のまえがきがあり、この雑文集の成り立ちと意図を解説している。そこには寄稿者への依頼文も収録されていて……そこにホフスタッターもしっかり引用されている。続いて、内田樹による反知性主義に関する考察が展開される。この文章は本アンソロジーの中で最も長い。この二編で、全300ページ強の本のうち60ページを占める。10人が寄稿している本なので、シェア的にはみんなの倍くらいをがめていることになる。

そして、これはとにかくひどい文章となっている。そのひどさのポイントは以下の通り:

  • ホフスタッターを援用しつつ、ホフスタッターがまさに「反知性主義」と指摘したものを「知性」だと強弁しておきながら、それについて何ら説明がない
  • 自分の立場の絶対的な正しさについて一切の疑問がない。自分は知性の側であり、自分と意見がちがえばそれは反知性でありデマゴーグであり陰謀論という決めつけばかり。
  • 科学における「仮説」の役割をまったく誤解した上で変なロマン主義に陥っている。
  • 自分の見解を批判し否定すること自体が、それがまちがっている証拠であるという実に便利な屁理屈。
ホフスタッターを引きつつ「知性」「反知性主義」を正反対に歪曲

まずは「まえがき」から。その文章自体は、秘密法案とか集団自衛権とか安倍政権がろくでもないことをしてるのに、支持率が高いままで、これは「為政者からメディアまで、ビジネスから大学まで、社会の根幹部分に反知性主義・反教養主義が深く食い入っていることは間違いありません」(p.7)なのだという。「それはどのような歴史的要因によってもたらされたものなのか? 人々が知性の活動を停止させる疾病利得があるとすればそれは何なのか? これについてのラディカルな分析には残念ながらまだほとんど手がつけられておりません」(ibid.)

つまり、自分の気に入らない安倍政権が支持されているのは、反知性主義・反教養主義がはびこっているからであり、したがってその現状なり原因なりを考える文を書いて下さい、というわけ。

そして「反知性主義者の肖像」へと進むと、冒頭からホフスタッターが引用され、その主張に対する大賛成が表明されている。ふーん。ホフスタッターなんか絶対読んでないだろうと思ったら、ちゃんと読んでいるのか。すると、反知性主義の意味や、それをめぐるホフスタッターのアンビバレントな立場、そして現代における知識人の役割に関する悩みも、基本的には理解されているのかな?

ところが……読み進むとまったくそんな様子はない。反知性主義者とは、とにかく知性をひたすら否定する連中、というきわめて単細胞な理解に基づく文が展開される。そして挙げ句の果てに、こんなくだりに出くわす。

他人の言うことをとりあえず黙って聴く。聴いて「得心がいったか」「腑に落ちたか」「気持ちが片付いたか」どうかを自分の内側をみつめて判断する。そのような身体反応を以てさしあたり理非の判断に代えることができる人を私は「知性的な人」だとみなすことにしている。(p.20)

あの~~。

それってまさに、ホフスタッターの指摘する反知性主義の立場ですから!

いや、それ以下といっていい。2015年4月時点の森本あんりのインタビューを見たら、こんなやりとりがあった。

http://business.nikkeibp.co.jp/article/interview/20150422/280276/

――このところよく目にする「反知性主義」という言葉があります。字面からは「科学や論理的思考に背を向けて、肉体感覚やプリミティブな感情に依る」ような印象を受けるのですが。

森本:もともとの「anti-intellectualism」のニュアンスは、ちょっと違います。ネガティブな意味もありますけと、それだけじゃない。すごく誤解を招きやすい文字の並びですけれどね。

森本は、反知性主義の何たるかを理解しているので、そういう単なる怠惰な「科学や論理的思考に背を向けて、肉体感覚やプリミティブな感情に依る」というだけでは不十分だというのを理解している。でも、少なくともそれが反知性主義の一部であることは指摘している。

でも内田のこの文が述べているのは、自分は肉体感覚に頼るぞ、ということだ。腑に落ちるとか気持ちがどうとか、プリミティブな感情に頼るぞ、ということだ。つまり自分たちこそが反知性の悪い部分そのものでしかないということを自ら告白しているのだ。そうでありながら、内田のこの文は、それが知性だ、したがって「肉体感覚やプリミティブな感情に依る」のが知性/知性主義とでも言うべきものだ、と述べている。

まるっきり正反対だ。

反知性主義に関する基本的な文献を読んでいながら、そこに書かれていることがまったく理解できていない。あるいは理解できているのに、それを正反対に歪曲して平気。どうよ、これって? ぼくはこの段階で、この文にまったく誠意を認められない。この文の後のほうでは、自分が学生に対して参考文献をきちんとあげろ、それをしないのは犯罪的とすら言える、という指導を実にしっかり行っているのだ、という記述が(あまり脈絡ないと思うんだけど)延々と出てくる。でも、こうした歪曲は、それ以上に犯罪的なものだとぼくは思う。

ちなみに「そのような身体反応を以てさしあたり理非の判断に代えることができる」(強調引用者)と書いているのであって、最終的にそれだけで判断すると言っているんじゃないぞ、だからこれは内田の文の意図を歪曲しているんだ、という主張はできるかもしれない。でも、その後の文章を読んでも、この「さしあたり」の身体反応がいつの時点でどうやって本当の理非の判断に置き換わるのかについての説明は一切ない。続く記述を見ても、この肉体感覚やプリミティブな感情が最優先のままだ。こんな具合。

反知性主義者たちはしばしば恐ろしいほどに物知りである。一つのトピックについて、手持ちの合切袋から、自説を基礎づけるデータやエビデンスや統計数値をいくらでも取り出すことができる。けれども、それをいくら聴かされても、私たちの気持ちはあまり晴れることがないし、解放感を覚えることもない。(中略)彼らはことの理非の判断を私に委ねる気がない。(中略)「あなたの同意が得られないようであれば、もう一度勉強して出直してきます」というようなことは残念ながら反知性主義者は決して言ってくれない。(p.21)

さて……通常の知性的なやりとりというのは、それぞれがデータやエビデンスや統計数値を出して自分の主張の裏付けを行い、その主張の正しさを相互に確認し合うことだ、とぼくは思っている。データの見方や解釈はいろいろある。その分析の限界もある。それを踏まえることで、何が妥当と言えるのかを考えるのが知性の働きだとぼくは思う。

だが、内田のこの文は、自分はデータやエビデンスでは納得しない、と明確に述べている。何やら自分たち(知性の側に立つ人々)の気持ちが晴れないとか、解放感を覚えることがない、というのがその根拠だ。ところがこれはむしろ、ホフスタッターが述べた反知性主義者の基本的なスタンスだ。むずかしいことを言われてもよくわからん、煙に巻かれたような気がする、いや自分がバカにされたような気がする、よってオレは納得せん、というわけ。

そしてそのデータやエビデンスに納得できないのであれば、それを持ち帰って検討する、ということもできる。そこで何が言われているのかを勉強することもできるはずだ。ぼくはそれが知性的な態度だと思う。ところが内田のこの文は、とんでもないことを言っている。聞き手がそうしたデータやエビデンスを見ない、理解しないというのは、聞き手の問題でもある。少なくとも、対等に知的な議論をするのであれば。ところが内田のこの文では、聞き手は一切何の努力もしない。オレが納得しなければ、なんとデータやエビデンスを挙げたほうが「もう一度勉強して出直してきます」と努力を強要される……ぼくは、そうやって一方的にふんぞりかえって相手にあれこれ要求するだけの態度を知性的とは思わない。

早い話が、ガリレオカトリック教会を説得できなかったときに「それでも地球はまわる」と言ったという伝説があるけど、これは理非の判断を相手に委ねていないから、反知性的な態度だったのだろうか?ぼくはそうは思わないんだけどね。自分の分析とエビデンスに基づいて、自分の結論を明確に主張するのは、ぼくは非難されるべきことだとは思わない。が、内田の文によればそうではないらしい。

己の身体や感情のふんぞりかえりに甘んじている内田のこの文の主張は、それこそ本来のホフスタッター的な意味での反知性主義(それもその最悪の意味)だし、そしてまさにその文自身が主張したがる意味での反知性主義を自ら体現していると思う。

知的営為のプロセスに対する根本的な誤解

では、「反知性主義」という用語の不誠実な使い方を離れて、この文全体で主張されていることはどうだろうか。ぼくはそれもまったく評価できない。というのも、内田の文自身は、自分が反知性主義者たちに対して要求していることを一切できていないからだ。

内田の「まえがき」は、いまの日本のマスコミ、政治、大学、ビジネスといったすべてが反知性主義におかされている、という。だから集団自衛権とか秘密保護法とかが出てくるんだ、というわけ。そして、その反知性主義者どもは、いろいろデータやエビデンスを出して自分の主張を裏付けてくる。そしてそいつらは、それ故に自分が正しいと確信しきっている。だからよろしくない――

でも、これを読むとすぐに疑問が湧いてくるはずだ。

  • その相手は、データやエビデンス出してきて自分たちの主張を裏付けてるんでしょ? 内田の側はデータやエビデンスを出したんだろうか?
  • 相手が自分は正しいと確信しきっているからダメだ、という。でもその相手がそんなに確信しきっているとなぜわかるの?
  • 相手は相手なりに腑に落ち、納得してその立場を採っているのではないの?もしそうなら、相手だってそれなりに知的にふるまっていることになる。その可能性はどうして一切考慮されていないの?

さて内田の文を読むと、自分の側は自分なりのデータやエビデンスを出す、というプロセスはないようだ。相手がそういうものを出しても、自分が納得しなければ相手は反知性主義。こちらは自分なりのデータやエビデンスは出さない(らしい)。相手が確信しきっているというのも、こちらが勝手にそう思っているだけ。それって、データやエビデンスを揃える努力をしたからそれなりに主張に自信があるというだけじゃないの?それも検討なし。

気持ちはどうあれ、まずはデータやエビデンスは理解しようぜ。少なくともそのための努力はしようぜ。相手の言うことを聞くべきだ、というのはその通り。そして、たぶん自分の意見と正反対の主張が出てきて、しかもそれがきっちりデータやエビデンスで裏付けられていて、反論の余地がなければ、自分が否定されたような気になってとりあえずはむかつくのはわかる。人間というのはそういうものだ。そして相手に負けたような気がして、反発が起こるのもわかる。

でも、そこで自分の感情だの「腑に落ちる」だので判断をつけてはいけないのは当然じゃないか。別にその場で判断を下す必要はない。腑に落ちないまま、保留して持って帰っておけばいい。気になるなら、もっと相手の言ったことをチェックすればいい。だれかが、相手のデータやエビデンスに対する反論を出していたら「おおやっぱりあいつの言ってたことはウソだったか!」と小躍りし、それが否定されればまたがっかりし……その繰り返しが知性の働きでしょう。

そうした知的プロセスを、内田の文は一切否定する。ある主張の妥当性は、データやエビデンスとは関係なしに、その人の「腑に落ちる」とかなんとかで決まる。自分が納得しなければ、それは相手の勉強不足。自分は何らデータも証拠も提示せず、何も理解の努力せず、自分の存在を否定されたとかなんとかいじけるだけ。

そして、身体性がどうしたという話。ひょっとして、内田の文で「反知性主義」と断じられている人々だって、自分なりに身体的に腑に落ちたり、得心したりしてその主張を唱えているかもしれない、という可能性はないんだろうか? 逆に、内田の文で言う身体的なナントカというのが、実は全然身体的でない可能性というのはないんだろうか?あらゆる人の身体的な知性というのは、まったく同じでなければならないのか?

ぼくは、そんなはずはないと思っている。すばらしい成果はしばしば、実験したりモデルを組んだり作ったりしたら、思っていたのと正反対の結果が出てしまうことから生じる(クルーグマンIts Baaackリフレ論文とか、卑近ながらぼくのたかがバロウズ本とか)。そのとき最初の直感や身体反応は「そんなバカな」というものだ。そういう脊髄反射的な肉体反応に委ねず、本当に何かおかしいところがないのかあれこれ考え、逃げ道を全部閉ざされて途方にくれ――そしてやっとそれまでの自分の考えの不十分さがジワジワわかってくる。それがある意味で自分の身体に取り込まれ、かつての安定状態から新しい安定状態へと遷移する。ぼくはそれが最も知的な態度であり、本当の学習だと思ってる。それをすべて否定するのは、ぼくは知的営為そのものを否定しているに等しいと思っている。そしてそういう主張をしている文が己を「知性」の側に立つと思い込んでいるのは、ぼくはこっけいだと思う。

科学や数学の「予想」は別に永遠の真理などではない。

さてこの内田の文には、実に面妖な部分がある。

数学にはさまざまな「予想」が存在する。フェルマー予想フェルマーは「証明した」と書き残したが、久しく誰も証明も反証もできなかった。予想が証明されたのは360年後のことである。リーマン予想は予想が示されてから150年たった現在でも証明されていないが、多くの数学者はいずれ証明されると信じている。数学における「予想」の存在が示すのは、平たくいえば、人間には「まだわからないはずのことが先駆的にわかる」能力が備わっているということである。(p.31)

えーと。

内田のこの文は、数学(でも物理でも社会科学でも)、いやそれこをその他あらゆる日常生活でも人が行っている予想、つまり仮説をたててそれを証明/棄却する、という知的営為の基礎となる活動に関する、徹底的な無理解を露呈している。

そもそも内田はフェルマー予想リーマン予想って何なのか知っているのか、というのは追求しないでおこう(このぼくも、リーマンゼータ仮説よくわからん)。でも、別にこうした予想からわかるのは、「わからないはずのことが先駆的にわかる」なんてことではない。わからないことはわからない。それだけのことでしかない。だからそれは予想のままなのだ。ただ、そのわからない状態が長く続いているというだけだ。

人はみんな、常に予想/仮説をたて、それを証明/棄却しつつ人生を送っている。太陽が地球のまわりを回っているんだろうと思ったり、今日の宴会ではたぶん肉料理が出るだろうと思ったり、あるいはこのプロジェクトは少し工法を工夫すればコストが下がって採算ラインに乗るだろうと思ったり、気になっている女の子を映画に誘えばデートしてくれるかも、とか。そしてそれに基づき各種の行動を行う。さて、そうした予想の存在は、「わからないはずのことが先駆的にわかる」ことを示すのか? そんなバカな。というのも、その多くはまちがっているからだ。わからないことはわからない。それをわかろうとして、人は実際にそれが起こるまで待ってみたり、シミュレーションをしてみたり、モデルを組んだりする。 予想とか仮説はそのためのものだ。そして、それが大半は失敗する。なんか地球のほうが動いていると思ったほうがよさそうだったり、宴会は刺身だったり、頑張ってもプロジェクトは採算性がないままだったり、デートは断られたり。でも、それにより人はその分、賢くなる。それが人間の知的な営みのほぼすべてと言っていい。

内田のこの文はどうも、どこかに不思議な、肉体感覚でアクセスできる叡智の総体があるという変な信念に基づいている。だから人は、まだ証明されていなくても正しいことを直感的に知っている、と思っているらしい。そして、その叡智の総体は一つだから、自分が自分の身体感覚を持ってそれを理解しているなら、それと一致しないものはすべてまちがいでデマだ、と断言できる、というのが内田の発想だ。

でもそんなことがあるわけがない。短命な予想、長命な予想、いろいろある。その確認作業が知的な営為だ。肉体感覚で実はわかんないこともあらかじめわかってる、なんていう堕落した怠惰な発想は、知性と本質的に逆行するものだ。だからそれに時間がかかったことも、意味のある話じゃない。明日、ひょっとしたらリーマン予想が否定的に解決されるかもしれない。結局リーマン予想はまちがっていることが示されるかもしれない。そうしたら内田のこの文の議論はどうなるだろう。やっぱり先駆的にわかったりはしない、人間の能力ダメー、ということになるのか?そんなことはない。その予想の棄却もまた、偉大な知的成果とされる。

ぼくはこうした根本的な誤解が、この文を読むに耐えないものにしていると思う。

議論や主張について

なぜ内田の文は、こんなフェルマー予想だのリーマン予想だのの話を持ち出しているのか?その解決に長い時間がかかった/かかりつつあるからだ。そしてそこから内田の文は、知性というのは長い時間をかけた活動の一部だという自覚を持っているのだ、と主張する。ところが、反知性主義の連中は、目先の相手をその場で有無をいわせずその場で即座に論破しようとしている。それは知性的ではない。よって反知性主義の連中は反知性主義である、というわけ。

さて、すでに述べた通り、仮説や予想はいくらでもできては消えるものだし、解決に時間がかかったからその仮説や予想がえらいというものではない。が、内田の文はこの変な前提をもとに、こう述べる。

反知性主義者たちが例外なく過剰に論争的であるのは「いま、ここ、目の前にいる相手」を知識や情報や推論の鮮やかさによって「威圧すること」に彼らが熱中しているからである。彼らはそれにしか興味がない。

だから、彼らは少し時間をかけて調べれば簡単にばれる嘘をつき、根拠に乏しいデータや一義的な解釈になじまない事例を自説のために駆使することを厭わない。これは自分の仕事を他者との「協働」の一部であると考える人は決してすることのないふるまいである。(p.41)

これまた変な主張だ。彼らが本当にそれにしか興味がないか、どうしてわかるんだろう。そして彼らの主張が嘘や根拠レスなデータや不適切な事例に基づくなら、それを指摘すればすむのではないか? 協働というのは、ニコニコ仲良くやる必要はない。ケンカし、争いながらでもそれぞれの立場や立論を検証すれば、それは立派な協働だ。相手がいやがっていても、その発言をもとに協働はできる。相手の批判をうけてそれを批判する――それはケンカであっても協働なのだ

それに、ここで言ってることはさっきと全然ちがう。さっきは、データやエビデンスを出しても「オレが正しい」という態度だから反知性主義者はダメなんだ、と主張していた。でもデータやエビデンスが不適切だというなら、態度がどうしたとか言わずにふつうに反論すればいいんじゃないか?

が、内田の文はそういう整合性にはあまりとらわれない。ここでは「いま、ここ、目の前にいる相手」を「威圧すること」がよくないのだ、という主張をしたいだけで、それをさっきの、数百年かけたフェルマーやらリーマン予想やらに代表される(と内田の文が主張する)知性に対比させようというわけだ。

でも……フェルマーやらリーマン予想やらが、結果的に長年かかったとしても、それぞれの数学者はいま、ここ、目の前にいる他の学者に対してまずは自分の説を納得してもらおうとする。長時間かかるプロセスというのは、いま、ここ、目の前の積み重ねだ。

そして政治的な問題に就いての考え方はなおさらそうだ。いま目の前にいる相手を無視して、300年先にいるかもしれない人間を想定して、いつかだれかがわかってくれる、では意味は無い。いま目の前にいるこの相手を説得し、納得させて政治プロセスを動かさないと話にならない。そのために嘘をつくのはよくない、というのは規範として存在する。が、いま、ここ、目の前にいる相手を説得する、というのは別に特におかしなことではない。

内田の文の理屈が奇妙なのは、すごい長期の百年単位の学問的営為に対立させるのに、単になりふりかまわず相手を「威圧する」という道筋しか提示しないことだ。いま、目の前にいる人間を理詰めで説得する、という選択肢がなぜないの? 内田のこの文では、その選択肢がすっぽり抜け落ちている。そしてこれが内田の文に満ちあふれる、自分こそ知性の旗手でありその無謬性は疑う余地はないという話と結びつくと、出てくる議論は目を覆いたいほどのものになる。自分と意見がちがうやつは、反知性主義だ。データやエビデンスを提示されたりしても、自分が感情的に納得しなければ、それは相手の(相手の!!)勉強不足である。そしてまちがいを指摘されると、それは自分を高圧的に黙らせようとする威圧的な物言いだ、ということになってしまう。

つまり内田のこの文は、多少なりとも知的な議論をすべて拒絶し、自分の感情的反応だけを絶対として、自分の批判が自分自身にもあてはまるのではという疑念を一切持たない。それは、ぼくから見れば極度に反知性主義的な態度、それも最悪の意味での反知性主義でしかない。

これまでの内田樹の著作こそ反知性主義を体現している。

これは内田樹のこれまでの著作にも見られる態度ではある。内田樹のこれまでの一般向け著作は、街場のナントカ、おじさんのなんとか、という具合に、扱いのむずかしそうな問題に対し、常識的な素人の印象論に基づく議論を提出して見せた。これらはまさに、きわめて反知性的な身ぶりだ。そしてそれが必ずしも悪い結果を出すわけではない。たとえば初期の『ためらいの倫理学』などでは、一部のドグマ化しタコツボ化した思想に対して、非常にすっきりした見通しを出せていた。それが内田樹の著作のおもしろさだった。

だが、世の中には素人の印象批評では扱いきれない問題もたくさんある。そういうものに対して、内田樹の著作は完全に無力だった。たとえばかれの『街場の中国論』は、無知な素人の戯れ言に堕していた。

http://d.hatena.ne.jp/kaikaji/20070609/p1 (2019年に消えた。webciteの記録がこちら)

それでも、当初は内田樹の一般向け文章は、それなりのユーモアを維持することには成功していた。さらに、初期の『ためらいの倫理学』は、まさにその題名にある「ためらい」が、ときには浅はかな論調を救っていた。でも本書の文章では、そのユーモアやためらいさえない。己を相対化する視点も失い、ピントはずれの主張を生真面目に、何のためらいもなく断言するばかり。そして自分が知性であり、それに逆らう連中は反知性主義者であり、自分を威圧しようとしているのであり、デマゴーグであり陰謀論者であり、かれらの言うことなど自分の賦に落ちなければ一切耳を貸す必要すらないと言わんばかりの主張をはじめるに至っては、もはや何というべきか。

さて、次が白井聡の文だ。

(つづく)

え? じゃあエンブレムの「コンセプト」は原案にはなかったってこと?

東京オリンピックのエンブレムの問題はもう、実におもしろくてもともとオリンピックなんかやるなと思っていた身からすれば、これだけ楽しませてくれるんなら少しは大目にみようかと思ってしまうほど。

で、ぼくはどうでもいいオリンピックのエンブレムなんかどうでもいいんだけれど、そのぐだぐだぶりは大変おもしろく見ている。で、今日になってエンブレムの「原案」と称するものが出てきた。この左端。

f:id:wlj-Friday:20150828195503j:plain

?????

なにこれ??

というのも、最初にあのベルギーの劇場ロゴとそっくりだという指摘があったときに「いや全然ちがいます、コンセプトがちがいます」という主張が行われ、その際に出てきたときの「コンセプト」というのはこんな説明になっていた。

www.advertimes.com

そのコンセプトというのは、正方形9分割に日の丸の丸を重ねて作ったものだ、ということだった。こんな図が出てきている。

f:id:wlj-Friday:20150805111518j:plain

分割した正方形と円を重ねて、1964年のエンブレムへのオマージュもこめつつデザインしました、というのが説明だった。すると、この金銀の三角形の斜辺は、円弧になってないとこのコンセプト説明と一貫性がない。

でもこれって、ただの三角形だ。斜辺は直線だ。

すると、この原案のコンセプトって、最初の説明のコンセプトとはまったくちがう。すると、修正指示があってからコンセプトを変えてデザインしなおしたってこと? それっていいの?

これが本当に原案ならコンセプト説明は信じ難いものだし、これが本当の原案でないなら論外だし、いずれにしても話はますますグダグダになるんじゃないかなあ。コンセプトを掲げて押し切るなら、それはそれで一つの見識(たぶん世間的な支持は得られないけど、デザイナーさんならわかるんでしょ?)

でもこの原案が出てきたことで、そのコンセプトまで怪しげになった。コンセプト故にこれを支持していたはずの他のデザイナーさんたちは、はしごを外されて見識まで疑われることになって、どうするんだろう。

五輪エンブレムを盗作って言うのはアニメキャラの顔が見分けられないオカンと同じ - Togetterまとめ

この人は、「日の丸を継承している!」と断言しちゃったけど、あんまり継承していなかったみたいで、かわいそうに……

We'll Make Great Pets: 機械支配待望論

反知性主義はちょっと疲れたのでお休みして、思いつきの書き殴り。

ザ・セカンド・マシン・エイジ

ザ・セカンド・マシン・エイジ

現在、半ば義務的にぶにょぶにょそんたちの『第二機械時代』を読んでいる。書評はまたきちんと書くけれど、ぼくはこれを手に取ったとき、おそらく多くの人と同じように、これが『機械との競争』の続編だと思ってたのね。

機械との競争

機械との競争

ぼくの『機械との競争』感想文はこちらだけれど、ここで書いたような不満とかその他について(別にかれらがぼくのを読んだってことじゃなくて、ぼく程度が考えることは他の人も考えるから)きちんと反論なり考察なりをしたものだと思ってたわけ。

ところがそうじゃない。実は『機械との競争』は自主出版みたいな電子ブックで、今回の『第二機械時代』はその増補版というか、ホントに紙の出版用にいろいろ調べて分厚くした、というものらしい。だから、議論は変わっていない。いろんな事例や見学した結果やあれこれは追加されているし、いろいろ議論に周到さは出ている(i.e. 逃げ口上が増えて回りくどくなっている)面はあるけれど、まさにそのために、『機械との競争』よりは議論の見通しがわるくなってしまった面はある。

が、この本をはじめ機械が人間の仕事を奪うといった本が人気を博し、あとはAIだのシンギュラリティだのが出てきて、いずれ機械が人類を滅ぼすんじゃないか、という『ターミネーター』脳があちこちで湧いて出てきている。

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いやあ、たぶんそんなことはないんじゃないかな、とぼくは思っている。それが証拠に、ぼくはたいがいの人間よりも賢いけれど、他の人間を滅ぼそうなんて思ったことがないもの*1

そしてもっと別の方面から考えるにしても、機械が本当に賢くなるなら、その「賢い」の定義にもよるけれど、人間をうまく利用して奉仕させるなんて、お茶の子さいさいのはずだとぼくは思っている。いや、それはすでに起きていると思う。人間なんてバカで、画面上でピクセル動かしてピコピコ音をあわせたりするだけで、何時間も飯も食わずにコントローラ握りしめて各種作業するし、それを目当てに各種のコンピュータやグラボは買い換えるわ、回線強化してインフラ整えるわ、機械にさんざん奉仕するじゃない。ぼくは、あれは機械進化の結果だと思ってるんだよね……という話を昔、『コンピュータのきもち』で書いた

さらに人間と機械は、出自がちがうので、同じリソースをめぐって争う必要がない。これが動物だと、居住空間とか食べ物とか毛皮や肉とか、競合する資源がある。だけど機械とは競合しない……完全にしないとは言わないけれど、他の動物と比べれば大幅にちがう。人間はお金や女や権力を巡って争ってきたけど、機械はお金とか関係ないし、セックスもしないし(人間のほうはしたがる人もいるけど)、権力も関係ない。だから機械やAIが賢くなっても、別に人間なんか滅ぼす必要なんかまったくない。人間にそういうものをエサとして差し出せば(あるいは実物なくても画面にその絵を描いてやるだけで)人間はホイホイ動くし掃除もするしメンテもするし。機械にとってこんな便利なものはないよ。

そしてこれはまさに、職を作る、雇用を作る、ということだ。機械は人間にとってのエサなんか苦もなく作り出して、人間が何やら生物学的、経済学的(人間の経済ね)報酬を得られるようにできるはずじゃないの、とぼくは思っている。それはつまり、人間が機械のペットになる、ということでもある。昔、Porno for Pyros が歌った通り。

www.youtube.com

Will there be another race

To come along and take over for us?

Maybe Martians could do

Better than we've done

We'll make great pets, we'll make great pets

(権利関係とやらで、オリジナルのプロモビデオが表示されない。残念!)まあ、ペリー・ファレルみたいなキXXイをペットにしたい機械がいるかどうかはわからんけど。そして、人が己をペット化するにつれて何が起こるか、というのを昔考えたことがあるんだけど……また引っ張りだして仕上げようかな。

同時に、こういうのをあわせてそろそろ『第二機械時代の理論とデザイン』を真面目に考えだしてもいいかな、という気もする一方で、サイバーパンクがかなりの仕事をやってしまったかな、とも思うんですが、どうなんでしょうね、バンハム先生?

第一機械時代の理論とデザイン

第一機械時代の理論とデザイン

*1:ただし個体レベルではある。あいつとあいつと、今日昼のカレーやで隣にすわった仏頂面のあいつは滅ぼした方がいいと思う。

反知性主義2:森本『反知性主義』:ホフスタッターの当事者意識や切実さはないが概説書としてはOK

おちゃらけ

(承前)

まずは少しおちゃらけから。

前回の反知性主義話を書いた直後に、斉藤環が次のようなツイートをした。

さて、8月21日にこのツイートが出てきて、しかもその中で「僕が「反知性主義」と呼んでいるのは「バカ」の上品な言い換えとかじゃなく」と述べているのは、おそらくぼくの前回 (8月20日)の記述を意識したものだと思う。そうであるにせよないにせよ、ぼくはこういう参照先を明記しないでほのめかしで済ませるやり方は、とても低級な知的堕落だと思っている。

斉藤のこのツイートはつまり、「自分は『反知性主義』というのを誤用なんかしてないぞ」と言いたいわけだ。

が、「地アタマだけは良い連中の実学志向&人文知軽視」は、まず前回のぼくの記述で述べている本来の「反知性主義」、つまり知性(または知識人)を積極的に否定し、むしろ知識がないことこそ正しいのだ、という思想に合致しているだろうか? ぼくは合致していないと思う。つまり、このツイートは「自分は『反知性主義』を正しい本来の意味で使っています」という主張にはまったくなっていない。

そしてもちろん、ことばの用法は変わるので、反知性主義という言葉をそういう意味で使わなくてもいいだろう、という主張はあり得る。では少なくとも「反知性主義をバカという意味では使ってない」という主張くらいは、少なくともこのツイートの中ではきちんと整合性を持って言えているだろうか? ぼくはそれすら無惨に失敗していると思う。

というのも、「バカ」というのはとても広い概念だからだ。単なる無知とか論理能力や概念操作力の低さを指すものではない。そして「地アタマだけは良い連中の実学志向&人文知軽視」というのは、「バカ」の一サブカテゴリーでしかない。「実学ばっかで、人文知の重要性を理解できないバカ」と言い換えても同じことだもの。

つまり、この斉藤のツイートは、やっぱり自分は反知性主義をバカという意味で使ってます、と認めてしまっているわけで、しかも慌てて否定して見せたために、自分がそれを恥ずかしい誤用だと思っていることもあらわにしてしまっている。

森本『反知性主義』:ホフスタッターの当事者意識や切実さはないが概説書としてはOK

さて、前回「そこで最初に手に取ったのが、まずは基本文献。ホフスタッター『アメリカの反知性主義』だ。」と述べたけれど、これは厳密には事実ではない、というかウソだ。最初に手に取ったのは、実は今回上げる森本あんり『反知性主義』だ。いきなりあの分厚い、五千円超の本に手を出すのはビビったせいもある。で、森本本を途中まで読んで、これはまずホフスタッター本を読んだほうがいいなと思って乗り換えた。というわけで、今回はこの森本本をめぐって。

さて、この本は基本的にはホフスタッター本のあんちょこ的なもの、プラスアルファではある。そして、少なくとも「反知性主義」を理解するにあたり悪い本ではないと思う。簡単に整理すると

  • アンチョコとしてはまあまあ。おもしろいエピソードを採りあげて読者の興味を維持する工夫も吉。ホフスタッターの分厚い本を読まずに簡便な理解が手に入るという点でそれなりに有用。
  • プラスアルファ分は、例えば最近のテレビエバンジェリストとかの運動や自己啓発ビジネスっぽい動きにもこの反知性主義のあらわれを見ているところ。ホフスタッター本からのアップデートという意味でも評価できる。
  • 題名を見ると、反知性主義バッシングみたいに思われかねないが、そこまで不用意ではない。反知性主義にはよいところもある、というのは明記し、むしろそれを積極的に評価するべきというのは一貫して述べている。
  • 強いて欠点を挙げるなら、知識人のあり方というホフスタッターの大きなテーマは触れていない。まして、かれの持っていた切実さはない。自分の問題としては理解しておらず、他人事。ただし「反知性主義」の解説書としては、別に知識人のあり方に深入りする必要もないのは確か。

さて最後の部分。この本がなぜ反知性主義を他人事として見ているかというと、ここでは反知性主義というのが、アメリカで生まれ、アメリカ固有のものだという立場に立っているから。ついでに、耶蘇なのでキリスト教的な枠組みでしか考えない。そして日本では知性が生半可だから、反知性主義もなまくらだよ、という竹内洋が述べていたという立場。よって、世間的に広がる反知性主義という概念の誤用を論難しつつ、あまり切実な問題としては理解していない。

森本のこの本の最終章では、反知性主義というものを積極的に評価しようとして、それが知性の濫用や行きすぎに対するチェック機能だとさえ述べる。ホフスタッターの本は、そんなに甘い立場は採らない。そういう側面はないわけではないが、実際の反知性主義の動きを見ると、反知性主義は別に知性主義が過剰になることで出てくるようなものではない。本当に誠実なインテリが善政を敷いていようがおかまいなしに、反知性主義は噴出してくる。

ただ、ここらへんはかなり細かい重箱の隅つつきではある。理念の説明としてはよいんじゃないか。

反知性主義は、アメリカ固有なのか?

さて、ここからは余談めいてくる。本書では、反知性主義というのはアメリカで生まれ、アメリカ固有なものだという立場がとられている。ぼくが最初にこの本を読んでめんくらったのもその点だ。いつまでたってもアメリカの話しか出てこないので、なんだかずいぶん偏ってるように思えたのだ。

ぼくは反知性主義というのは世界において普遍的なものだと思っている。そうした動きは、どんな宗教にも、いやどんな文化文明にも存在する。たとえば浄土宗や浄土真宗は、真言密教を筆頭に「中国でお勉強してきました」エリート仏教に対する一つの反動だ。これはまさに、反知性主義的な動きではある。

大室幹雄は、それがたとえば中国文明の歴史を貫く対立だと指摘している。小邑複合と大同複合。複合とは、英語でいえばコンプレックス。小邑は、秩序と体系に基づく統治の原理だ。その筆頭が孔子だ。孔子は礼節とか言うけれど、それは新聞に投書したがる説教じじいが思ってるような、みんなが礼儀正しくしましょう、マナーを守りましょう、というようなあまっちょろい話ではない。儀式の体系を通じて人間の身体をおさえこみ、為政者が人民を支配するための原理だ。そして西洋でいえば、それはユートピア原理だ。一般に、ユートピアはほんわかした理想の世界と思われているけれど、実際にトマス・モア『ユートピア』を読んだ人なら、それがまったくちがうものだというのを知っているはず。法律、規制、規律、階級、費用便益に基づく、ガチガチの軍事管理社会が「ユートピア」だ。

劇場都市―古代中国の世界像

劇場都市―古代中国の世界像

  • 作者:大室幹雄
  • 発売日: 1981/06/01
  • メディア: 単行本

そしてそれに対するのは、大同複合。老子に代表される、何の決まりもなくほわーんと人が自然の懐に抱かれて暮らしていることで、何も知らないでも大いなる道の叡智が導いてくれる。小賢しい人為的な礼節とか決まりとか知識とかいらないよ、という立場。

ちなみに加地伸行こと二畳庵主人は、こういうほわーんとした道教理解をけなして、老子荘子の「道」も、「そういう原理があるんだからおめーらその通りに動け!」という高圧的な統治原理なのである、と述べていた。確かZ会の漢文教科書でのことだった。ポルノ漢文が〜、という話はここでは割愛。たぶん、そういう面はあるんだろう。ただここは厳密な老子解釈よりは、思想的な類型の話なのでとりあえずおいといてや。

母性原理的な これは西洋では、アルカディア原理となる。これはまさに、反知性主義の依って立つ考え方となる。ぼくは世界のどの文明にも、多かれ少なかれこうした知性と秩序の立場と、それに反発する反知性主義の動きはあると思っている。アメリカは、それが非常におもしろい形で噴出した事例ではある。でもそこだけに話を限るのは、とらえ方として狭いとは思う。

閑話休題、まとめ

が、ちょっと話が脱線した。それに、なんでも話をでかくすればいいってもんじゃない(限られた話をするにしても、一応はもう少し大きな枠組みを見せるくらいはしてもいいとは思うが、必修科目ではない)。

ちょっと触れた欠点めいた部分をちょっとふりかえっておくと、ホフスタッターは、「アメリカでは、反知性主義ってのはこういうあらわれかたをした、そしてそれが今の知識人のあり方にも大きく影響していて、ひいてはオレ自身にも大きな課題になってる」と述べる。それがあの本の感動的な部分だ。

森本本はそれに対して「反知性主義とはかくかくしかじか、アメリカさんはたいへんだねえ、でもそういうのが出てこない日本も情けないねえ」で終わってしまう。

ぼくとしてはホフスタッターの切実さに触れずに、うわべをかすめて終わるのは惜しいな、とは思う。そして、日本には本当の知性主義がない、ダメだねえ、と他人事のように言ってるのは(森本のこの本も竹内洋のものとされる発言も)、何を他人事めいた口をきいてやがる、とは思う。あんたら知識人だろうが! 知性主義が根付かないのは、あんたらが十分に仕事をしてこなかったからだろうが! そういうだらしない自覚のなさは、本書の腹立たしい部分ではある。

その一方で、いまさら日本の知識人なんかにだれも期待してないだろうし、うわべ上等、反知性主義とやらをさくっと知りたいだけ、という層はいるだろう。そういうニーズには十分応えられるし、悪くない本だと思う。


さて、反知性主義を「バカ」の意味で使ってる連中は、どう見てもこの本も読んでないだろうと思った。まあそれは仕方ない。本書が出たのは2015年2月だもの。前回挙げた現代思想とかが出たのは、2014年末あたりか。ただ、そうした誤用は、単に知らなかっただけで、決して意図的に歪曲したわけではないと思っていた。その後はこうした本を読んで(だって、知性に依拠しているつもりの人たちなんでしょ)多少は反省もしてるんだろうと思った。

でもぼくはまちがっているのかもしれない。

(つづく)

反知性主義1: ホフスタッター『アメリカの反知性主義』 知識人とは何かを切実に考えた名著

はじめに

 反知性主義をめぐる本を3冊読んだので、その話をちょっと書こう。なぜそんなものを読もうと思ったかというと、『現代思想』の「反知性主義特集」に対するアマゾンのレビューがぼくのツイッターでちょっと話題になっていたからだ。

「彼らは反知性主義だ」と規定する知性は知性主義的なのか?

ぼくはこの特集を読んでいないし、読むつもりもない。が、このレビューの主張はよくわかると同時に、この特集のスタンスについて疑問が湧いてきた。

というのも、このレビューを信じるなら、この特集での「反知性主義」というのは、「自分とちがう考え」のことらしく(たとえば原発推進とか安部政権評価とか)、そしてそれを「反知性主義」と呼ぶのは、要するに「バーカ」というのをご立派に言い換えているだけらしいからだ。

さて、まずぼくはこの手の言い換えが嫌いだ。ぼくはしばしば、バカをバカとはっきり言うので、性格が悪いとか下品とか言われる。でもぼくは、変な言い換えやほのめかしで上品ぶっている連中のほうが、よっぽど性根が下品だし性格も陰湿だと思う。

が、それ以上にこれを見て、なんだかここで言われている「反知性主義」というのが、ぼくの(その時点で)知っていたものとはちがうので、違和感をおぼえた。

というのも、ぼくの知っている「反知性主義」というのは、決して悪いものではないからだ。「バカ」の言い換えなどではない。もっと積極的な価値観だ。それはむしろ「反インテリ主義」とも言うべきものだったはずだ。大学いって勉強した博士様や学士様がえらいわけじゃない、いやむしろ、そういう人たちは象牙の塔に閉じこもり、現実との接点を失った空理空論にはしり、それなのに下々の連中を見下す。でもそんなのには価値はない。一般の人々にだって、いやかれらのほうがずっと知恵を持っている、という考え方だ。

これはもちろん、フリーソフトの発想であり、インターネットの発想でもある。

そしてそれは、ベトナム戦争の頃に体制擁護に堕した「知識人」に対する草の根的な反発の根拠でもあったはずだ。スーザン・ソンタグが『反解釈』なんてのを出したのもその文脈だったはず。

そしてそれはもっともっと広い、反エリート思想の流れでもある。ぼくは、エリート主義者ではある。そしてちゃんとした知性に深い敬意を抱いている。その一方で、ぼくはこういう反知性主義的な嗜好も持っている。知識も技能もエリートが独占する必要はないし、また独占させればエリートは堕落するし、そこらの素人がそれを蹴倒す可能性だってある。矛盾するようだけれど、ぼくはそれを信じている。『アメリカ大都市の死と生』解説でジェイコブズについて述べた、素人の強みは、ぼくは重要だと思っている。またインターネットの各種動きは、集合知的なものを通じてそれを実現した面もあると思っている。知性主義というべきものと、反知性主義とのバランスはどうあるべきか、というのが、ぼくにとっては重要な課題だ。

それが「バカ」の言い換えに使われているというのは、ぼくには変に感じられた。だいたい、バカは主義じゃないもの。多くのバカはのほほーんとバカに甘んじているだけで、それを主義として持っているわけじゃない。

でも、このときには漠然とそういう違和感を感じただけで、それをどうしようとは思わなかった。でもその後、フリン『なぜ人類のIQは上がり続けているのか? --人種、性別、老化と知能指数』を読んだとき、その解説で斉藤環が「知能と知性とはちがって日本では反知性主義がはびこり云々」という話を書いていて、そのときの違和感がよみがえってきた。

で、ちょっときちんと見ておこうと思ったわけだ。

そこで最初に手に取ったのが、まずは基本文献。ホフスタッター『アメリカの反知性主義』だ。そしてこれは、すばらしい本だった。

ホフスタッター『アメリカの反知性主義』 知識人とは何かを切実に考えた名著

アメリカの反知性主義

アメリカの反知性主義

さて、この本は何についての本でしょうか、と尋ねたら、多くの人は「反知性主義についての本じゃないの?」と思うだろう。竹内洋による本書の帯の惹き句もそういう認識で書かれている。

でも、実はそうであって、そうではない。反知性主義は、実は本書では二次的なテーマだ。本書の本当のテーマは、知識人だ。知識人はどうあるべきか、というのが本書のテーマなのだ。

ホフスタッターはもちろん知識人だ。アメリカの知識人。そしてもちろん、反知性主義の影響でちょっと自分たちの立場が軽視されているという危機感はある。マッカーシズムはその最たるものだけれど、それ以外にも文教予算が軽視されたりとかね。あるいは進化論がまともに教えられなかったりとか。

でもだからといって本書は「いやあ、無学な反知性主義なんてのがアメリカにははびこってて、やだよねー、わしら知識人えらい迷惑なんよねー、みんなもっと知性を尊敬してわしらに地位と予算と名声と敬意をたっぷり貢ぎなさいよ、下郎の愚民どもめが」というようなくだらない話にはなっていない。

なぜか? アメリカにおいては、教会の権威や貴族文化により知性というかインテリの地位が確立していたわけではない。ヨーロッパでは伝統的に、知性や知識・教養は行政的、宗教的な権威と不可分だった。でもアメリカはまさに、そうしたヨーロッパ的な権威への反抗から生まれた、それが嫌な人たちが逃れてきた国だ。むずかしいお勉強しなくても、ご立派な学校にいかなくても、高尚な文化がわからなくても、人生や世界の真理は十分にわかるはずだ、いやむしろそういう余計な知恵を身につけないほうが、本質的な知恵を獲得できるはずだ、という発想がそこには根強くある。役にたたない空理空論より、実践を通じた実学、ビジネス、技術が重要なんだという発想がある。それが反知性主義の基盤だ。

つまり、浮き世離れしたなまっちろいエリートの机上の空論より、現実に根ざした一般庶民の身体感覚に根ざす直観こそが貴いという考え、それこそが反知性主義の基盤だ。しかもそれはアメリカにおいては、建国の理念の一部ですらあり、その後のアメリカの世界支配の足がかりでさえある。

そして、ホフスタッターもアメリカ人として、この発想自体はかなり認めている。それは民主主義の思想だし、トックヴィルを驚愕させた陪審員制の思想だ。かれはそれを、よい衝動と呼ぶ。

それなのに、そのよい衝動から始まった反知性主義は、アメリカの歴史上で常に粗野で偏狭で下品で抑圧的な動きにつながる。マッカーシズムがその典型だ。かれは、清教徒の到来からその歴史をずっと描き出す。エリートが強くなると、反知性の動きが盛り上がり、それが知識人排斥の嵐となって、最低の衆愚がやってくる。

ホフスタッターは、知識人である一方で、この反知性主義の基盤となる発想については大いに認める。しかしそのなれの果ては否定せざるを得ない。本書は、このホフスタッター自身の逡巡であり、アンビバレントな感情のあらわれだ。そしてかれは知識人として、この問題をどう解決すべきかを真摯に考えようとする。この根本的には正当性をもつ基盤に対して、なぜ当時の知識人たちが有効に対決できず、その一方でその正当なはずの立場がなぜ堕落していくのかを、かれは知識人の立場から描き出す。その一連の流れは、ホフスタッター自身の立場を造り上げてきたものでもある。かれ自身も、内面的にも外面的にもその流れの末裔なのだ。

だからかれは、反知性主義を単に「バカ」と呼んで事足れりなどとはしない。それはホッフスタッター自身の問題を解決……まではいかなくても、整理して自分なりの結論を出すためのプロセスだからだ。

だから本書には切実さがある。他人事として反知性主義をけなしたりするのではなく、それを自分としてどう受け止めるか、そして知識人の役割の中でそれをどう止揚すべきかという当事者としての厳しさがある。

それが、本書を感動的なものにしている。

安易な逃げ道はある。愚民どもにもちゃんと大衆教育をして、ある程度の知識基盤をつけさせましょうよ、という道だ。でも著者はそういう安易な道を採らない。本書の最後近くに、ジョン・デューイについての章がある。ぼくは、本書の中でこの章が最も胸をうつ素晴らしいものだと思う。この章は、ある意味で場違いだ。デューイはもちろん、反知性主義の実践者なんかでは絶対にない。かれは、愚民の教育とそれによる民主主義参加という方法に、ある意味で反知性主義的な暴走への防止策を見出そうとした人物だ。民主主義(これはある意味で反知性的な基盤を持つ発想だ)の実現のために、教育によって知性を獲得させよう、というわけ。そして、決まった権威に基づく教育ではない、自発的な学習をかれは重要視しようとする。が、その目論見は挫折する。完全な挫折とはいえなくても、デューイの理想とはほど遠い代物にしかならない。では、どんな道があるんだろうか?

そしてそれを受けて最後の章がやってくる。普通の本であれば、この結論の最終章は「反知性主義と戦うには」みたいな内容になるだろう。だが驚くべきことに、この結論には「反知性主義」ということばはほとんど出てこない。むしろそこでの主眼(そして章題)は知識人だ。いまや、かつてのように知識人完全役立たず、と言われる時代ではない。でもその中で知識人とはどうあるべきか? 第二次大戦後になって、知識人はかつてほど軽視されなくなったかもしれない。その知識は役にたつことも示された。しかしそれでは、単純に体制順応の知識人になればいいのか?

また、反知性主義的な動きも残る。ヒッピーとか、ビート族とかだ。また左翼的な知識人は、とにかくなんでも体制批判してればいいと思ってる。でもそれもちがうだろう。あーもある。こうもある。本書は簡単に処方箋を書いて終わったりはしない。著者は最後に、多様な知識人のありかたの共存と、それを許す寛容性をもちだす。そこに人類社会の希望があると言って。それはいささか唐突ではあるのだけれど、ある意味で本書の最初の問題意識――知識人と、反知性主義のよい部分とを共存させるにはどうしたらいいか、というのに対する答えでもある。そして、自由な文化はおしまいだとか、高級文化は終わりだとか安易にいいたがる終末論者(というよりその安易さから週末論者くらいでしかないんだけど)は、自己憐憫と絶望感を広める、つまりは非生産的なグチを言ってるだけだとかれはくさす。創造力を最大限に発揮させようという自信がないだけだろう、と。

本書はマッカーシズムを受けて出てきた。そして本書が出るのと前後して、ベトナム反戦運動が高まりを見せ、まさに本書の最終章で言われているような体制順応知識人の役割が批判されるようになって、反知性運動は別の形で高まりをみせる。本書では、左翼知識人はもはやソ連社会主義リベラリズムを似た者として扱ったりできず無力になったと書かれているが、これがまた復活を見せる。本書は、まさにそういう時代に出てきたからこそ、高い評価を得たというのもあるんだろう。でも、いま読んでもその価値は下がっていない。知識人は(そして非知識人も)同じ問題に直面している。そして、それに対して多様性礼賛だけでよいのかどうか、ぼくたちには自信がなくなっている。本書の掲げた問題は、むしろいまのほうが、なおさら切実なのかもしれない。だからこそ、40年たっても本書はまったく古びていない。


さて、本書をまともに読んで、知識人なら(そして知識人でなければこんな本を読もうとは思わないだろう)この切実さに涙せずにはいられないだろう、とぼくは思った。そして、反知性主義を「バカ」の意味で使ってる連中は、どう見てもこの本を読んでないだろうと思った。が……

ぼくはまちがっていた。

(つづく)

中国メディアの歪曲

昼休みに2ちゃんまとめサイト見てたら、こんな記事を見かけた。

web.archive.org

なんかBBCってえらくきついこと言うんだねー、と思って、実際なんと言っているのか見てみようと思って、検索かけました。ここで言及されているのは、明らかに次の記事。

www.bbc.com

一瞬ぼくはこれを見て「あ、日本は『ごめんなさい』がどうしても言えない国だと非難してる記事なんだね」と思ったんだけど、よく見るとちがう。

「Japan's 'sorry' seems to be the hardest word to remember」、つまり、日本は「ごめんなさい」って言ってるのに、それがまるで記憶されない、という題名だ。

え? なんか最初の記事のニュアンスとちがわない? じゃあその題名になっている部分は?日本は羊の皮を被った狼、つまり平和主義のふりした侵略軍事国家っていう糾弾はどこに出てくるの?

実は、出てきません。これに似た話が出てくるのは、BBC記事の最後の部分。

In the end, Japan is the world's largest sheep in wolf's clothing. Its message mismanagement has convinced many that it is an aggressive polity even though, of the world's 200 countries, it is one of the most peace-loving and non-militaristic nations.

「結局のところ、日本は世界最大の、オオカミの皮をかぶったなのである。」

「世界200国のうち、最も平和を愛し、非軍事的な国の一つなのである」

羊の皮をかぶったオオカミ ←→ オオカミの皮をかぶった羊

つまり冒頭で紹介されている中国の記事は、BBCの記事を完全に正反対に歪曲しているのだ。

この記事の中では、「日本は国際基準で見ればさんざん謝ってる」というのが主眼だ。そして、中国がアメリカつぶしの一環として、日本を叩く口実にこれを使って、いくら謝ってもそれを都合よく忘れてるんだ、というのも指摘。冒頭の記事は、そういうのもまったく触れない。

ドイツの比較だって「そういう言い分が定番になってる(けど、それってかなり不当)」という文にすぎない。その後で、謝り方はドイツと比べれば劣るという一方で「西欧と比べても日本はいっぱい謝ってる」とも認めている。これも完全に無視。

だからこれ、一部異論のあるところもいくつかあるけど、基本はとっても日本に同情的な記事だ。いっぱい謝ってるのに可哀想だ、でももっとメッセージの出し方とかうまくやれよ、と言ってる。それをまったく無視して、オオカミと羊を正反対にするってのはさすがにひどい、が、中国のメディアに何を期待してもねえ。

結局……中国メディアは信用できないし、それをそのまま垂れ流すサーチナだのBiglobeニュースは見るだけ無駄だし、そしてそれを真に受ける人はいつまでも懲りないねえ、メディアリテラシーしろ! ということですね。そしていちばんの被害者は、まるっきりデタラメ書かれたうえ、それを真に受けた無学なネトウヨたちにブサヨ認定されかねないBBCだよねー。かわいそうに。

(しかし、だれかその「中国メディア」というのを見て、ホントにこんな捏造内容になってるのか見て欲しい気もする。サーチナが捏造している可能性もあるので。その後各種コメントなどを見ると、なんでも、中国メディアの中でも、この出所である環球時報はそもそも最低のタブロイドとのこと。だったらなおさら、サーチナだのBiglobeニュースがダメってことか)

こちらもご参照を。

BBCも安倍談話を批判している!→中国メディアの誤訳でした……環球時報の「断章取義」的世界(高口) : 中国・新興国・海外ニュース&コラム | KINBRICKS NOW(キンブリックス・ナウ)