ノーベル平和賞をグラミン銀行とその親玉が受賞したとのこと。大変結構。おかげでぼくが昔書いたグラミン銀行に関する解説も、再び読まれているみたい。マイクロファイナンスやグラミン銀行に関する文書はそれなりにあるけれど、勝手な思いこみに基づいているだけのものも多いし、ましてぼくみたいに実際に訪問してインタビューした人間というのはそうそういないから、まあ精々勉強してくれたまえ。5年前の文章だけれど、まったく訂正の必要なく現在でも立派に通用するのはわれながら大したもんだ。
さてあの文章のポイントは、マイクロファイナンスといえども人の善意なんかに頼るのではなく、ちゃんと人が借金を返さざるを得ないような仕組みを作っているんだよ、ということだった。グラミン銀行の場合には、それは村落共同体における五人組の連帯保証システムだった。が、他にもやり方はあるのだ。要は、その人が失うと困るものをちゃんと押さえておけばいい。一部の人は、マイクロファイナンス的なものとして日本には頼母子講があるぞ、という話を書いていた。はいその通り。そして頼母子講も、コミュニティの力――そして村八分の恐怖――を返済の保証として使っている。
そしてマイクロファイナンスは昔の農村共同体の中でしか成立しないのだ、という説も一部で見られたのだけれど、そうとばかりはいえない。たとえば、ニューヨークで韓国人の八百屋が急成長した時期がある。それは1980年代。当時のジュリアーニ市長以前の危険なニューヨークで、深夜まできちんと営業して、強盗にあっても身体を張って店を守るから、襲われても韓国人の八百屋に逃げ込めば助かる、と言われていたほどだ。この話は四方田犬彦『ストレンジャー・イン・ニューヨーク』にも出てくる。またスパイク・リーの名作『ドゥ・ザ・ライト・シング [DVD]』には、そういう韓国人の雑貨屋を見て、なぜおれたち黒人は鳴かず飛ばずなのに、あいつらがこんな短期間であんなに繁盛するのかわからん、これは何か裏があるにちがいないとかいう黒人失業者たちが登場し、それに対して中の一人が「あいつらは一生懸命働くからだよ、おれたちとちがって」と揶揄する場面がある。
でも、実はかれらが繁盛するきっかけとなった仕組みが本当にあった。それはまさに頼母子講的なコミュニティによる相互貸付ファンドだった。そういう頼母子講からの資金があったからこそ韓国人たちは次々に店を出す資金を捻出できたし、またそれを返済しなきゃいけなかったからこそ、必死でがんばって働き、成功した。ニューヨークみたいな大都会においても、マイクロファイナンス的な仕組みは成立しうるわけだ。
もちろん、ここでも返済のためにはコミュニティの力が働いている。在米コリアンコミュニティから村八分にされたら、かれらは行き場がなかった。だからこそ、その頼母子講を裏切ることはできなかったし、是が非でも返済するしかなかった。その意味で、ここでは都会の中に農村的な仕組みが残っていただけだ、とは言える。でも、さがせばそういう小さなコミュニティは結構ありそうだ。だから万能ではないにしても、都会でだってそういうコミュニティを相手にすれば、頼母子講やマイクロファイナンスができないってものでもないのだ。ひょっとしたら、ミクシィマイクロファイナンスとかはてなマイクロファイナンスとかできるかもしれないよ。「おまえが借金返さないと、おれはミクシィを退会させられちゃうんだよ!」とかいうような仕組みを作るとか。あてになるのは農村コミュニティばかりじゃないはずなのだ。
マイクロファイナンスで使われる返済担保の仕組みは他にもある。五人組の連帯保証以外では、そのコミュニティの親分――村長さんや酋長さん――をその仕組みの責任者に据える方法がある。これは既存のコミュニティを使うやり方で、そこそこ実績がある。そしてもう一つ、コミュニティ以外でよく使われる仕組みがある。
それは宗教だ。
マイクロファイナンスを仕切って返済をうながす役目を、教会とか地元の教団に与えるのだ。
これはおっかないでございますよ、あなた。教会組織の集金システムとしての優秀さは、今更言うべきにもあらず。そしてこれまでは優しく慰めてくれた神様が、こんどは目尻をつり上げて借金の取り立てにまわってくるんだもん。そして返せなかったら、何を言われると思う? 細木和子みたいなことを言われるわけだ。最近、サラ金が借り手に生命保険をかけているというのが糾弾の対象になり、サラ金はもう生命保険をやらない、ということになった。ということは、本人が死んだら家族が取り立てにあうことになるのかな。それはそれで怖いと思うけれど。でも、生命保険なら担保にとられるのはせいぜいがこの世の命だ。でも宗教を使ったマイクロファイナンスでは、来世まで担保にとられちゃうことになる。エグい。信仰の篤い人ほど文字通り必死に返そうとするだろう。なんか……宗教ってそんなことでいいのか、という気にはなるけれど、それが結構うまくいっているし、うーん、どうなんだろうねえ。でもそれがノーベル平和賞をもらえるんだよ。
人によっては、こういう取り立ての仕組みを強調するのが揚げ足取りだ、美しくすばらしいマイクロファイナンスの理想を汚そうとするこざかしい試みだと思うかも知れない。特に、このノーベル賞で初めてマイクロファイナンスのことを知ったような勉強不足の人はそう思うようだ。でも実際には、マイクロファイナンスはぼくが五年前に書いた時点ですらもうずいぶんあちこちで実験されていて、失敗例だっていくらでもあるのだ。返済を担保する仕組みが作れないところは、どこでもほぼ例外無しに失敗する。何を利用してこの返済をきちんと担保するか――それはマイクロファイナンスの本質でもある。それをちゃんと作れないと、お友だちレベルでの金の貸し借りを越える、ノーベル平和賞に価するだけの仕組みにはとうていなれないのだ。
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