日本科学哲学会『ダーウィンと進化論の哲学』:こんな連中に科研費やるのは無駄だと思う。

ダーウィンと進化論の哲学 (科学哲学の展開)

ダーウィンと進化論の哲学 (科学哲学の展開)


昔、『心の科学と哲学:コネクショニズムの可能性』のボツ書評のときに、科学哲学の連中の不勉強ぶり(そしてそれが本質的な問題だとも捕らえず、おちゃらけですむ程度の凡ミスだと思っている考えの甘さ)については触れたけれど、本書でも科学哲学連中のぬるま湯的な不勉強ぶりは健在。ホンッと失望した。

「本書は初歩的入門書・解説書ではなく専門学術書であり」(p.ii ) と編者代表の横山は書く。へーえ。だったらまずこの第A部は何? 内井惣七ダーウィン進化論の歴史の実に浅いおさらい (この業界に詳しくはないけど、内井惣七ダーウィンについてそんな研究実績ある人だっけ?) だの青木や矢島の歴史的背景おさらいだの、そこらのダーウィン入門書に書いてある内容をぬるく、しかもこむずかしくしただけ。目新しい内容はわずか。城島の「現代進化論と現代無神論」は、ダニエル・デネットの実にダサい紹介。ぼくに書かせたらこの半分で3倍の中身を入れてあげるのに。

で、B部。西脇「生命を自然的にとらえる」は、生命に勝手な理解を付与して、それにまつわる言説をあれこれ持ち出して恥ずかしいほど初歩の論理学による無意味な議論をしたあげく、結局結論らしい結論にたどりつけない「思いついてやってみました」以上のものがない代物。森元「進化論の還元不可能性」は、進化論はニュートン力学量子力学に還元できない、というのが結論なんだが、言ってることがアホすぎるし説得力なし。フィンチのくちばしとチータの走行能力が同じ適応度0.75だとしても、0.75となる解はいろいろあるから還元できないんだって。頭痛が痛い……。そういう形で適応を議論したいなら、どんな環境に対する何の適応かをちゃんと定義しなければ、そりゃ何も言えませんわな*1。環境と注目する条件を明確に定義すれば、適応を物理的なバランスやエネルギー収支の議論に還元できる場合もきわめて多いと思うよ。最後の統計力学の話も、ピンとはずれだと思うなあ。これ、熱力学と統計力学の関係の話がしたいの? 田崎さんの本を読むといいと思うぜ。

戸田山の「『エボデボ革命』はどの程度革命的なのか」は、多少おもしろいが部外者としては、そんなの内輪でなんとかしなさい、という程度の話。次の松本「進化生物学と適応」は、グールドやドーキンスデネットを読んだことある人ならとっくに知ってる初歩的な内容の蒸し返し。次の中尾「文化の進化可能性」もまったく同様。ミーム論のできの悪い(ミームということばをなぜか使わないようにしようとした)解説。田中「生物経済学」は……まさかと思った通りの代物。このクルーグマンの二本の雑文「経済学と進化論」「お笑いバイオノミクス」読んだほうが、ずっと理解が深まる。
網谷「頻度仮説と進化からの論拠」は、人間がベイズ推論が苦手でも頻度表示をすると成績があがる、というのが進化的な適応で説明できるか、という話で、結論はちょっと苦しいのでは、ということ。へえ。でもそれは哲学なの? 哲学とは何かという話はしないにしても、これが本当にダーウィンの科学哲学議論において重要性を持つテーマだと考えるわけ? 依頼を受けたから、かすってりゃ何てもいいやと手持ちのネタからいい加減なものをちぎって投げた印象ぬぐえず。それにしても網谷はブログでの「理性のモデル化」紹介とか非常におもしろい話もかけるのに、この本だとおもしろいネタは扱ってはいけないという縛りでもかかってたの?


とにかくどの論文も、新規性皆無の総論か、普遍性些少の個別分析に安住(もできずずり落ち)している代物がほとんど*2。ブログであれば、こんな内容でも興味あるエントリとしてそこそこ相手にしてもらえるかもしれないが、これはまともな論文集のつもりなんでしょ? 数日前から引き合いに出してアレだが、shorebird ブログの過去ログをチッチッと並べるだけで、文献引用も含め本書の内容すべて以上の有益な論集ができるはず。前半は進化論入門レベル、後半はほとんどが哲学者様たちにご登場いただいたことがまったくプラスになっていない分野についてのぬるい紹介と、この分野においては周縁的な小ネタとしか思えないものを扱う論文ばかり。これを見ると、日本の科学哲学業界というのは、進化論の持つ哲学的な問題についてまともにやっている人は全然いなくて、このテーマに関する限り不勉強な大御所と、些末な小ネタをつついてるだけの人しかいないってことですか。もうちょっと何か有益な部分もあったように記憶してるんだが?

これが日本科学哲学会の名前をかけて、ダーウィン進化論についての日本における科学哲学の到達点ですと本気で胸を張れる代物のつもり? もしそうだとしたら世の中なめすぎでは? 自分たちの学会論集としてWIPみたいな形で内輪で出すならまだしも……

ということで、以上のような理由からもちろん書評なんかしません。もちろん、ぼくがこの本で展開されている議論の細密な意義を読み取れるほど高度な読者でない、というせいもあるんだろうね。が、このぼくですらダメならなおさら朝日での紹介対象にはなりません。

あと、通常論文というと、

  • この論文は何をテーマにするか。
  • そのテーマはその分野の中でどういう意義を持つのか。なぜ重要なのか。
  • どんな先行研究があり、何が言われているのか。そして何がわかっていないのか。
  • それに対して自分は何をしようとするのか。
  • そのための方法論
  • 結果と分析
  • 得られた知見と得られなかった知見
  • 問題点と今後の課題

みたいな構成になると思うんだけど、本書の「論文」の一部は

本稿ではXXについて考えてみたい(But, why? What for?)。これについてだれそれはナントカと言っている。これについてはこんな反論がある。ここの部分をちょっとモデル化してみたり細かくしてみたりした。なるほどだれそれの言うことはもっともだが少し問題もあって反論にも一理あるかも。というわけで考えてみたがおもしろいテーマかもしれない。今後さらに検討してみよう。おしまい。

こんな感じで、何よりもその研究をするための目的意識というか市場性というかニーズというものがまったくわからないのだ。「あ、ぼくはぼくのシマがありまして適当にやってますんでよろしく」という感じ。これで論文として通るの? 不思議。



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山形浩生の「経済のトリセツ」 by 山形浩生 Hiroo Yamagata is licensed under a Creative Commons 表示 - 継承 3.0 非移植 License.

*1:あと、こういう形で適応度(つまり、その動物の特定能力がその環境に適応してるかという話を直接指標化して示すこと) の議論をするのって、普通だっけ……と思っていま見てみると、やっぱ普通はないよな。進化論の本を読み始めると、当初はそういうことをみんな考えるけど、それは社会ダーウィニズムの温床で有害無益だし、条件がちがいすぎて話が進まないから子供をどのくらい残すかで個体適応や包括適応度の議論をするんですよ、という話をかなりはやい時期に入門書で教わったように記憶している。でもそれをやってしまうあたり、著者のお里が知れるとは思う。

*2:それだけに、なんで三中氏がほめてるのかよくわからん。読みたい論文がまとまってました、ということらしいが、それだけでいいのか?