フランクリン『最終兵器の夢』:最終兵器的なネタがSFにたくさん出てきましたというだけ。

最終兵器の夢――「平和のための戦争」とアメリカSFの想像力

最終兵器の夢――「平和のための戦争」とアメリカSFの想像力

蒸気船の開発者として有名なフルトンが、もっと破壊力の大きい兵器を開発することでだれも戦争をしようとしなくなり、結果として平和がもたらされる、というビジョンを提唱し、そういう発想がいろんなSFに取りざたされるようになって普及し、それが原爆の開発や使用にも影響しているというのが本書の基本的な主張。

でもその中身は、ほとんどが最終兵器ネタのSFの羅列に終始。そしてそれが陳腐な反戦軍拡阻止イデオロギーの開陳とだらしなくむすびつけられる。

兵器開発史と文化の共犯関係を描く、と本書は述べる。確かにそういうSFがたくさんあるのは事実。ガンダムの最近のやつとか、ナルトも最近ではそんな話になってるんだって? いくらでもあるよ。そしてそれは、現実の兵器開発とパラレルに進んできた。

でも、それが共犯か? 単なる並列の動きではないの? 共犯や文化の役割を言うには、小説等の側がどこまで現実に影響を与えたかを明示しなくてはならないが、本書はそれができていない。トルーマンが、その手の最終兵器ネタのSFを読んだことはあっただろう。でも、そのためにトルーマンが原爆開発や投下を命じた、ということはできないよね。本書はそこに因果関係があるかのようなレトリックを弄する(さすがに因果を断言するほど厚顔ではないが、それっぽいイメージをねつ造するくらいにはこずるい)。ウェルズの『解放された世界』(原爆開発による世界平和を描く小説)がレオ・シラードなどに大きく影響しているのは事実だし、それは本書にも指摘されている。でもそれを額面通り鵜呑みにするかは別の話だ。

さらに、事実認識としてもどうだろう。まず冒頭で、アメリカの予算のほとんどは軍事費に行って、福祉や教育にいくのはそのおこぼれ (p.3)、というありがちなプロパガンダから著者ははじめるんだけれど、かなりちがう。アメリカの連邦予算のうち、軍事費は2割、社会保障と保険とセーフティーネット関連で6割。軍事がかなりでかいのは事実だけれど、著者の書き方は誇張がすぎる。

また著者は、アメリカが未だにこの最終兵器幻想で軍拡をひたすら進めているかのように言いたがる。アフガンをごらん、対テロ戦争をごらん、というわけだ。そしてそれがクランシーの小説やら「24」なんかと共犯している、とかなんとか。

でも著者はいっしょうけんめいごまかそうとするけれど、いまのアメリカの軍事的な動きは、もはやそうした最終兵器(あるいは原題にいう Superweapon) による平和というイメージでは動いていない。軍事的な優位性の確保、というのは確かにあちこちに出てくる。でも相互確証破壊的な核ミサイルによる抑止はもはやだんだん軍縮に向かい、あちこちで基地も閉鎖されている。冷戦が終わったときのいわゆる peace dividend 的な動きもまったく無視。

そうした現実の軍事的な動きの変化を理解できていないために、本書は単に、古い(すでにだれも読んでいない)SFを掘り出してきて羅列した以上の意味を持てずにいる。そもそも、技術進歩と軍事の関連を考案したのがフルトンだ、という本書の主張自体ぼくはナンセンスだと思う。そんなのは昔からあった発想で、本書があくまでアメリカを扱った本だからこそなんとなくもっともらしいけれど、一歩ひいて考えればむしろ本書自体の持つアメリカ中心主義の露呈でしかない。

そして最後は、軍拡を批判する一方で、文化が最終兵器や武器のない平和な未来像を描けていないといって批判する。そうかね。いくらでもあるんじゃないの? JetsonsBack to the Future part2 をはじめ兵器の出てこない平和で凡庸な未来を描く小説やSFなんていくらでもあるのでは? こういう発想に対しては1世紀以上も前に、サキが「平和的おもちゃ」という短編で徹底してバカにしている。

ということで、紹介するには値しない本。ビエンチャンに捨ててきます。



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