- 作者: カルロスフエンテス,Carlos Fuentes,寺尾隆吉
- 出版社/メーカー: 現代企画室
- 発売日: 2012/03
- メディア: 単行本
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まず、『聖域』よりはずっといい小説だった。特に、その後のフエンテスを知らずにこれが出てきたら、逸材だと思っただろう。
ただ、その後を知っていると、『聖域』の書評で書いたような欠点の萌芽もすでにかなりあらわに出ていて、各種の文学的な実験手法(というほどいまは目新しく思えないが)は、何かを際立たせるよりはそれを隠すために存在している。資本主義による経済発展を輸入するのなんてダメ、メキシコ人はメキシコ人らしくしないと、だからメキシコ人の本質を追究してそれを実現すべきではないか、というんだが、その本質って何、というのにこの段階ではまだ消極的にしか答えられておらず、ただいろんな時代のいろんな経緯が重層的になって渾然一体化したような話にとどまっている。でも、そのために小説としては厚みが出ており(物理的にもだが)、おもしろさがある。
そしてその発想が現状の社会否定というところで社会主義的っぽい理念と結びつき、メキシコ革命についてのノスタルジーと挫折感とあいまって、たぶん当時のメキシコインテリ層にはたいへんアピールしただろう。ちなみにメキシコシティに蠢く各種の階層の人間を描こうとしつつ、焦点は没落名家と新興成金の世界になっていて、他はオマケだなあ。これまた手法により見えにくくなっていて、実験的な手法がそれ自体のための自己満にならず、実用的な意味を持った小説になっているという点でも珍しいとはいえるかもしれない。
でもその後のチャックモールとか、アステカで生け贄捧げる血みどろのがメキシコ人の本質じゃあ、みたいな『脱皮』的なトンデモとか、そういうのはまだ明確には出てこない(ちなみにこれって、梅原猛の縄文文化礼賛妄想を日本人がありがたがるのなんかと構造としては一緒ですな)。小説としてもメインの部分では、革命を通じた成り上がりインディオが、大銀行家になりつつも謎の話者狂言まわし*1による攪乱を経て失墜、最後に真の愛を見いだす(というべきか)話を縦横にちぎって投げ、その周辺を描き出すことで時代の猥雑な感じを表現するのには成功している。都市小説というよりは都会小説ではあるんだけど。
要するに、まだ未完成なところが逆に小説としてのよさで、技法も(本人はそのつもりはないだろうが)それをごまかすための目くらましとしてうまく機能していて、ぼくはこの小説の成功は怪我の功名といった面も大きいんじゃないかと思う。でも、その功名は味わうに値する部分もかなりある。
さて、どうしたもんかなあ。と、現在思案中。小説としては、これを誉めるよりはボラーニョとか誉めたほうがいいんじゃないかという気もするし、うーん、ちょっと考えるべ。
山形浩生の「経済のトリセツ」 by 山形浩生 Hiroo Yamagata is licensed under a Creative Commons 表示 - 継承 3.0 非移植 License.