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増田悦差のジェイコブズ歪曲

(2/26付記:ここで問題にしている増田悦差のコラムは、その後本エントリーを見て修正された。したがって、現在では以下のリンク先の内容はここでの記述に対応していない。元の記述については魚拓を参照。)

 

増田悦差という論者が、何やら都市計画について書いているなかで、ぼくのジェイコブズ訳にケチをつけている。

webmag.nttpub.co.jp

(魚拓:http://www.webcitation.org/6fPqVGHsC

具体的には、ジェイン・ジェイコブズ『アメリカ大都市の死と生』(鹿島出版会)のこの部分だ。

このうんざりするような泥沼は、有機体としての都市の要求と、各種の個別利用の供給との矛盾から生じるものではまったくありませんし、これ以外の都市計画上の泥沼も、そうした矛盾などから生じる例はほとんどありません。それがもっぱら生じるのは、都市の秩序と個別用途のニーズの双方と恣意的な矛盾を生じている、計画理論のせいなのです。(新訳版、199頁)

この訳文について、増田悦差はこう述べる。

悪文の度合いは旧訳と似たようなものではないかというのは、ごく個人的な感想だとしても、ジェイコブズが都市計画一般を批判する際に、訳者であるはずの山形は、執拗に「まちがった」都市計画とか、「伝統的な」都市計画とか、計画「理論」とかの修飾を付けて、本来の都市計画は立派なのだが、現在推進されている都市計画がその本来の姿を見失っているだけだという議論にねじ曲げてしまうのだ。

さて、まずこれを見ただけでも、「まちがった」都市計画とか「伝統的な」都市計画なんてのがぼくの訳文にはないことは明らかだ。ぼくがそんな「修飾」をつけたって、何のことでしょうか。本全体の訳文中に「まちがった都市計画」というのは一ヶ所もない。「伝統的な都市計画」は5ヶ所登場するけれど、すべて対応する "conventional"がついている。

また「計画『理論』とかの修飾を付けて」とある。本当だろうか?この段落の原文を見てみよう。

This tiresome muddle arises not in the least from contradictions between demands by the city as an organism and demands by various specific uses, nor do most planning muddles arise from any such contradictions. They arise chiefly from theories which are in arbitrary contradiction with both the order of cities and the needs of individual uses. (Vintage 版pp.172-173、強調引用者)

該当部分は「theories」であり、理論だ。ここで付加的な修飾は「計画」のほうで、「理論」は原文にある用語だ。増田は、原文を見もしないで、ぼくがねじ曲げていると主張する。でもねじ曲げているのはどっちだろうか?

ちなみに、増田が賞賛する黒川紀章の訳はこうだ。

「このタイプの希望のない経済に関する思いがけない事故というのは、都市においてはごく自然にあらわれてくることはほとんどない。しかし、このタイプは計画によって導入される」(1977年訳版、187頁)

さて、これが原文や、ぼくの訳文に比べてえらく短いことは明らかだろう。なぜかというと……それは、これが全然別の部分だから、なのだ。「ところが、新訳版では同じ文章が、こう訳されている」ですって? 該当部分のぼくの訳はこうなっている。

この種の絶望的な経済的事故は、都市で自然に生じることはめったにありませんが、都市計画はそれをしばしば導入します。(新訳p.189)

ここの原文は

This type of hopeless economic contretemps seldom turns up naturally in a city, but it is frequently introduced by plan. (Vintage 版p.164)

ぜんぜんちがうところを対比して、修飾してるだのねじ曲げてるだの言われてもねえ。こっちの分だと、黒川の訳文とあまり変わらないのがわかると思う(というより、ぼくの訳文のほうが意味が通るのがわかると思う)。これでも黒川のほうがいい?

黒川の訳文は、これ以外の部分でも変な歪曲、とりちがえ、金釘訳だらけだ。だからこそ、ぼくはわざわざ訳し直すべきだと感じた(ついでに本の後半をすべて省略って、そもそもありえねーだろ!)。でも、増田はそういういい加減な端折りについて何も問題を感じないらしい。そして、原文を見もせず、全然ちがうところの訳文をもとに、ぼくの訳をくさす。ちょっとなんとかしたほうがいいと思うぜ。

ちなみに、その上に展開される、バーナード ルドフスキーに対する悪質な罵倒も、実にどうしようもない代物だ。

あるいは182頁に掲載された、17世紀初頭のオールド・ロンドン・ブリッジ周辺の風景画の説明には、こういう訳が添えてある。「右端のブリッジゲイトの上に、巨大な棒付きキャンディーのように見えるのは、有名無名の人びとを記念するための人間の頭部の永久展示である。」

 これが「有名無名の犯罪者の記憶を不滅にとどめるために槍の穂先に突きたてた、斬首刑に処された囚人たちの生首である」という意味だと分かる日本人が何人いるだろうか。

何人いるかはわからないけれど、実際にp.182にある図を見ると、ある程度は見当がつくんじゃないだろうか。また、原文は多少、婉曲的な話法を使っている。ルドフスキーはそういう気取りのある人だ。その気取りをそのまま訳したところで、誤訳だの改ざんだのと言われる筋合いはない。

そしてルドフスキーが、その城壁に囲まれた閉鎖的な空間としてのヨーロッパ都市を、いかに口を極めて賛美していたかということを正直に伝えたのでは日本の読者が引くだろうとの配慮から意図的にぼかした表現だったということになると、これはかなり重大な歪曲だ。

だから原文通りなんだって。くだらん下衆の勘ぐりしなさんな。翻訳批判するなら、原文くらいあたろうぜ。ルドフスキーは、増田ごときが揚げ足取れるような安っぽい存在じゃないのだ。

増田は、とにかく自由放任主義がいいと言いたいらしい。でも、そのために無内容な歪曲をしてまわるのはやめるべきじゃないかな。ぼくがこれを知ったのは、以下のツイッターによってだった。

こうして真に受けてだまされてしまう人もいる。自由放任が重要と言いたいなら、それはそれで結構。そういう場面もあるだろう。でも、ここで引用されているものが、それを裏付ける傍証になっているとは思わない。翻訳を批判するなら、まず原文にくらいはあたるべきじゃないだろうか。

ちょっとこれ、後でこの増田コラムを掲載しているNTT出版にも問い合わせてみようっと。

....と思ったが、面白いので黙っていよう。