バラード『太陽の帝国』新訳は、当然大きく改善されています……と書きたかったんだけど。

先日ふと、バラード『太陽の帝国』の新訳が出たのを知った。しかも山田和子訳。

これについては、国書刊行会の高橋訳がイマイチだという話は結構聞いていたんだけれど、ぼくは英語でしか読んでなかったので、どの程度イマイチかはあまり知らなかった。いつか読むべえと思って、いま見たら家に2冊もある。最初のやつと、映画になったときのカバーのやつと。

太陽の帝国

太陽の帝国

で、いい機会だからちょっと比べて見ようと思った。もちろん、新訳のほうがずっとよいにちがいないとは思っていた。一見してすごい名訳という感じではなかったが、でも山田さんはそういう名文家とかではないし、バラード自体がかなり悪文だ。これが新訳決定版なら、旧訳はよほどひどかったんだろうな、一瞬で審判は下るだろう、というのが当初の期待だった。

でも、そうはならなかったんだよ……

 

まず、冒頭部。英語はこうだ。

Wars came early to Shanghai, overtaking each other like the tides that raced up the Yangtze and returned to this gaudy city all the coffins cast adrift from the funeral piers of the Chinese Bund.

昔の高橋訳は以下の通り:

戦争は、揚子江をさかのぼる潮流のように先を争いながら、次々と上海にやってきた。その潮は南島のバンド (黄浦灘路) の弔い桟橋から漂い出た棺をすべて、けばけばしいこの都市に押し戻すのだ。

山田訳はこう:

戦争の波が早くも上海に押し寄せていた。揚子江を勢いよく遡る上げ潮が、葬送桟橋から投じられた中国人たちの棺をすべて外灘に再び押し戻してくるように、戦争の波は互いに競い合いながら次々とこのけばけばしい都市に到来した。

うーん、この二つだと、ぼくから見れば……高橋訳のほうがいいかなあ。でも、これは趣味の問題ではある。

まず、ちょっとしたまちがいから。山田訳だと、棺が外灘へと押し戻されることになってる。でもこれはちがう。葬送桟橋が外灘にあって、そこから投じられた棺桶が上海(その中のどことは明示されていない)に戻ってくる、という話。「中国人たちの」というのは、たぶんそういう葬送をされたのは中国人だけだったからなんだろうけど、でも原文にはない。

そして山田訳のほうがやたらに長い。これはその翻訳方針のせいだ。高橋訳だと、表面の意味的には問題ない。でも文章を切ったせいで、後半は潮だけの話になってしまう。原文では棺が川を遡って押し寄せるというのが戦争のイメージと重なりあう。一つの文章で、文章全体の主語が「戦争」だからそうなる。でも切ってしまうと、それがなくなってしまうのだ。山田和子はそれを補うために、「戦争の波は互いに競い合いながら次々とこのけばけばしい都市に到来した」という、最初の「戦争の波が〜」という文章のほぼ繰り返しを最後にくっつけている。

ぼくは、原文にないものはなるべく追加したくない。だから、どっちかというと高橋訳なんだけど、山田訳のやりたかったこともわかるし、原文の意味に忠実なのは山田訳かなあ。長い修飾節が後にくっつくのって、ホント処理しにくいんだよね。でもその一方で、その棺桶に「中国人たちの」と原文にないものをつけてしまったせいで、普遍的な死を暗示する「棺」が、なんかずいぶん限定的になって、せっかく温存しようとしたイメージを弱めてしまっているのは大減点だなあ。

ぼくがやるならどうするかなあ。

戦争は早くから上海に次々と押し寄せ、揚子江を激しく遡る潮の波のように折り重なった。それは外灘の葬送桟橋から流された棺桶をすべて、この派手な都市に送り返す。

うーん、うまくない。「それ」が何を指すのか曖昧にすることで、棺桶と戦争の漠然としたつながりを残せないかな、と思ったんだけれど。

次の段落は、だいたい両者同じなんだけれど、ここは山田訳が勇み足で、高橋訳の勝ち。両者がちがっているのは一文だけ。次の一文:

During the winter of 1941 everyone in Shanghai was showing war films.

この両者の訳は次の通り:

1941年の冬のあいだ、上海では至るところで戦争のフィルムが上映されていた。(高橋訳)

1941年の冬、上海では誰もが戦争映画を見ていた。(山田訳)

高橋訳は、だいたい原文のまんま。山田訳は、上映していた (showing) を「見ていた」にしてしまっている。なぜこんな改変をしたかは不明。しかもこれをこう処理してしまうと、次の段落の冒頭がわからなくなる。

To Jim's dismay, even the Dean of Shanghai Cathedral had equipped himself with an antique projector.

だれもかれも戦争フィルムを上映していて、司祭さんまで映写機を手に入れて戦争フィルムを上映するようになっていた、というのがポイント。だから前の部分でも、人々は見ていただけじゃない。自分で上映していた、と言う話なのだ。

でもって、このいま引用した部分、二人とももう少していねいにやってほしい。

上海大聖堂の主任司祭まで旧式の映写機を手に入れていたのを知って、ジムは仰天した。(高橋訳)

驚いたのは、上海大聖堂の主席司祭までもが古い映写機を持っていたことだった。(山田訳)

この文脈でdismay というのは、単に驚いたってことじゃなくて、がっかりした (または、せめて「呆れた」) ということ。ジムくんは、あちこちで戦争フィルムばっかり流れるのがちょっといやだったのだ。夢にも戦争が出てきて、目が覚めてもそれが続いているみたいで、うんざりしていたのだ。そこへ神父さんまで映写機を手に入れてきて (持っていた、ではなく、どっかから手に入れていたのだ。この点も高橋訳のほうが正確) 戦争フィルムの上映を始めるというので、えー、となったわけ。驚いただけだと、ジムくんが感じていた、戦争を見せられるのがいやだという気分がまったく表現されない。やるなら:

上海大聖堂の主任司祭さえも旧式の映写機を手に入れていたので、ジムはがっかりしてしまった。

このくらい。

うーん。ぼくは自分ではNW-SFの残党のつもりなので、山田和子訳を絶賛したい気持はすごくある。が、その他頭の部分を見ていると、それがなかなかできない。17歳の子守りヴェラについて「This bored young woman」となっているところ、高橋訳は「すでに人生に倦んだこの若い女性(p.15)」だが山田訳は「このうんざりする若い女性(p.25)」だ。「退屈している若い女性」でいいと思うんだけど、山田訳は明らかにまちがっている。これに対して高橋訳は、ここだけを見るならちょっと違和感あるという程度で、まちがいではない。

が、もちろん話はここだけではない。この文は「usually followed Jim everywhere like a guard dog」と続く。当然ながらジムは、ついてこられるのがいやだったわけだ。だから山田訳はそれをソンタクして、つい「うんざりする」にしてしまったわけだ。一方高橋訳は、文脈とかまったく無視して勝手に「人生に倦んだ」なんてしてる。

そんな悩む話ではぜんっぜんないと思うんだけどなあ。このヴェラちゃんは東欧の戦争難民で、他にすることがなくて、ホントに暇で退屈してたのだ。だからジムくんのあとに律儀にくっついてくるのだ、というのがこの文意。この文章全体のジムの気分は理解しつつ、でも文を歪めた山田訳と、雰囲気をあんまり理解せずに字面だけで勝手な訳をした高橋訳。山形的には、どっちも却下だけれど、どうしてもどっちか選ばないと殴ると言われたら……ごめんなさいと言いつつ、高橋訳を採るだろう。

30分程度の対比だから、あまり断言するわけにはいかないんだけど、ここまで見たところでは……うーん。高橋訳にみんなが不満を述べたのはわからないでもない。固い字面だけの直訳だものね。でもそーんなにひどいとは思えない。一方で山田訳が決定版と言えるほどの改訳になっているかは、口ごもるところ。意図は山田訳のほうが汲めているけれど、そのために原文を歪めるのは、ぼくはあまり感心しないのだ。

ホント、これまでの部分はすごくもどかしい。こう、スケートとか各種の競技を見ていて、こっちのほうがいい感じなんだけど、でも審査基準に従うとあっちのほうが得点が高くなってしまい、外野がブーブー言うことがあるでしょう。これはそれよりむずかしくて、採点基準からすると高橋訳にもかなりよい点をあげざるを得ない一方、山田訳は意を汲むのはいいんだけどそのために特に必然性もなく採点基準でマイナス点をつけなくてはならないようなことをしている。うーん。そしてそれで芸術点をドーンとつけられるかというと、そこまでは行っていない。

そしていずれの場合も、特にいま挙げた中では冒頭の一文と「bored」が顕著なんだけれど、なんか変な凝り方していじくらないで,普通にストレートに訳せばいいじゃないか。余計な付け足しするから、二人ともかえっていろいろ穴が出てきているように思う。

 

ここまでのところだけだと、なんか山田訳の旗色がずいぶん悪そうに見えるけれど、そういうわけではない。ぼくが見た中で唯一、絶対に山田訳が正しい部分。

I hear you've resigned from the cubs.

オオカミの子供の世話を止めたと聞いたが。 (高橋訳 p.29)

カブスカウトをやめたそうだね (山田訳 p.40)

これはまあ、文句のないところ。高橋訳の、字面しかみないところが最悪の形で出てしまっている。そんなふうに、改良されたところは確実にある。でもなあ、もう一段改良の余地はあると思うんだ。ごめんなさい。

 

でもこれも含め、いろんな「新訳」とかいうのがどのくらい直っているのか、どこがちがうのか、みんなもっと情報を求めていないのかなあ。旧訳はゴミ箱にたたき込んで買い直すべきなのか、そこまでする必要はないのか、それとも稀なケースとして、かえってひどくなってるから旧訳は大事にしましょうね、となるのか? それについて、いいとか悪いとかいう印象論だけじゃなくて、具体的にこういう改善が行われている、というのを示してくれると、みんな嬉しいと思うんだけど。

以前、『ソラリス』についてはそんなことをやってみた。検閲で削除されていたのを復活、というから、どんなヤバいことが書いてあったか気になるもの。

cruel.hatenablog.com

みんなそこまで考えないということなのかな。