カブレラ=インファンテ『煙に巻かれて』:葉巻をめぐる、愛情あふれるウンチクと小ネタとダジャレ集。気楽で楽しい。

Executive Summary

 カブレラ=インファンテ『煙に巻かれて』(青土社、2006) は、葉巻をめぐる歴史、文学、映画、政治、その他ありとあらゆるエピソードを集め、さらにダジャレにまぶしてもう一度昇華させた楽しい読み物。著者が逃げ出したキューバへの郷愁もあり、単なる鼻持ちならないウンチク談義に終わらないまとまりを持つ。ギチギチ精読する本ではなく、楽しく拾い読み、流し読み、如何様にも読めるいい本 (つーか、こんなエグゼクティブサマリーつけるべき本ではそもそもない)。若島正の翻訳も、言葉あそびが強引にならずお見事。


 最近、プーチンがらみの話とか、マジな堅い本ばっかり読んでいるし、こちらも真面目に読んで怒ってばかりなので、ときに気軽で楽しい本を読むとホッとする。そんな一冊が、このカブレラ=インファンテ『煙に巻かれて』。

 出てすぐに手には入れたんだけれど (確かそれ以前に、高田馬場の洋書屋に原著ハードカバーがあって、ずーっと持ってたんだよね)、なんだかんだでずっと寝ていた。そしてこれまた断捨離途中で、処分する前に目を通しておこうと手に取った次第。

 そして、予想外におもしろく楽しかった。

 映画『フランケンシュタイン』で、怪物は途中で葉巻をすすめられ、うまいうまいと大喜びする。そんなエピソードから始まり、小説、映画、実際の政治家や作家などの葉巻にまつわるエピソード、さらには紙巻きタバコを含め各種タバコをめぐるエピソードをひたすら書き続ける一冊。脈絡は、あるようでないようである。キューバでの葉巻の位置づけ、その創られ方、コロンブスによる初めてのタバコ発見、それが広まる一方で葉巻へと結実する様子。

 脈絡があるわけでもない。葉巻について、何かを主張しようとするわけでもないし、論説でもない。だから、精読の必要なんかない。ダラダラと、あちこち拾い読みするだけでもぜんぜんかまわない。

 どっかリゾートとかにでも持っていって、バーなどで本当に葉巻を吸いながら気軽に読むべき本。Amazonの唯一のレビューでは、禁煙の時代にアナクロだとか、節穴眼を丸出しにした書かれ方になっているけれど、本書の中でも禁煙ヒステリーの猛威の中でだんだん肩身がせまくなる葉巻やタバコのあり方について触れられていて、カブレラ=インファンテ自身がこの本の (そしてその意味では自分の) アナクロぶりを熟知している。そのうえで、かつては葉巻を吸うこと自体がある種の通過儀礼であり、人間たる証ですらあった時代 (フランケンシュタインの怪物の葉巻は、怪物の人間性を示すエピソードでもあるのだ) をふりかえり、それを人々がどう描き、どのようにつきあってきたかを考察してみせる。

 同時に葉巻は、カブレラ=インファンテの故郷でもあるキューバの特産物でもある。当然ながら、カブレラ=インファンテにとっての葉巻は、郷愁の象徴でもある。陽気でノンポリに見える本書の中で、ときどきちょっとその悲しさも顔を出していて、よい味を出している。

 こういう本は、読書に明解な目的を求める人、起承転結のストーリーがないと我慢できない人、時間がもったいなくて倍速で読みたがる人、他人のつくったまとめやパワポのレジュメばかり読みたがる人にはまったく向かない。そういう人々は、そもそもこんな本自体、読む価値はないし利得もないし、したがって存在意義はないと思うことだろう。確か、ぼくがこれをずっと本棚に寝かせっぱなしだったのも、なんかウンチクをひたすら並べているだけで、主題とか主張とかが見えずピンとこなかったからだったように記憶している。

 でも、もちろん本というのは (そして映画も音楽も) そういうものに限られはしない。葉巻自体が、人の暮らしにおいてはまったくの無駄だ。そうした無駄が人間を人間たらしめている。同じタバコを賞賛するのでも、アイン・ランドはそれが火を己の手の中に収めて自由に操るという、人間の火の支配、ひいては文明活動すべてを象徴するものなのであーる! と大上段にふりかぶってほめていた。本書はそこまでおめでたい大風呂敷を広げたりはしない。そしてその無駄をめぐっての人々や文化芸術上のエピソード、それを愛おしげに集め、さらにそれだけではただのウンチク集になるのを、さらにダジャレまみれのそれ自体のお遊び作品に仕立て上げるこの本そのものが、その無駄なもので構築される人間の豊かさを体現する存在になっているとさえいえる。

 もうちょっと早く読んでおけばよかったな、と思わないでもない一方で、別にいつ読んでもいい本だというのも事実。ぼくは喫煙者ではないし、葉巻やシーシャのおもしろさが少しはわかるのは、キューバや中東圏に少し仕事ででかけたおかげで、その前に読んでいたらピンとこなかったかもしれない。紙巻きタバコのおかげで、喫煙自体がすごく悪者視されてしまっているけれど、なんかこう、ニコチン中毒の部分を抜いた喫煙の楽しみみたいなものはあるはずだ、とは思う。本書を読んで、そんなことを考える必要はまったくないんだけれど。

 あと、若島正の翻訳はお見事で野暮な註釈も最低限。ダジャレの翻訳って、がんばって無理な語呂合わせをしても報われないことが多いんだけれど、本書はその苦労をむき出しにすることもなく、うまく文中にちりばめて原文の雰囲気もうまく出していると思う。解説は、カブレラ=インファンテの他の作品が英訳されるときのエピソードを大量に交えておもしろい。

 そんなこんなで、いい本です。絶対読めとか推薦するような本ではないし、現代文学の一大問題作でもないし、余裕のない読者には向かないけれど、でも明るさと豊かさを持った本。これは処分せずに取っておくことにしようか。