「社会に埋め込まれた経済」で格差を克服?

ポラニー『ダホメ王国と奴隷貿易』、Kindle版にして少しお金稼ごうぜと思って、ちょっと見直しておりました。

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ポラニーがこの本で言っている「社会に埋め込まれた経済」というのは、ピケティが『資本とイデオロギー』(もうすぐ出ます!) でも引き合いに出していて、資本主義と市場経済の暴走を許してはいけない、それは格差増大をひたすら肯定して不平等な社会の到来を招いてしまう、経済活動はもっと社会に奉仕するものとして、社会に埋め込まれるべきだ、という主張がポラニーの、特に『大転換』を軸に述べている。

でも今回思ったんだけれど、この議論というのは成り立つんだろうか。ポラニーに準拠する限り、非常に歪んだ議論なのでは?

 

まず一つ。経済が社会に埋め込まれた状況としてこのダホメ本で挙がっているダホメ社会。これはそんな、格差のない平等社会だったっけ? もちろんちがう。王様が全権もってでかいツラしてて、生産も工夫も取引もすべて王様配下でギルドが決めてそこから一切逸脱できず、社会的な互助、というと美しいけれど強制コミュニティ奉仕労働をさせられる。移動の自由はない。

するとそもそも、社会に埋め込まれた経済というものにそんな期待をしていいのか、という話は当然出てくる。

そしてこれは、このダホメ王国だけの現象ではない。

社会に埋め込まれた経済というのはつまり、社会関係があって、その表現として経済 (つまり物の流通) があるということだ。王様から/への贈与、さらにお歳暮やお中元のような贈答システムがメインということだ。そうした贈答関係は、権力関係に基づくものであり、それを固めるためのものだ。どんな贈り物を相手にあげるか/もらうかで社会関係が決まる。金持ちは、あんまりセコいものをあげると面子にかかわる。お心付けも何かとあげないといけない。

つまり社会関係=地位の差=格差があって、はじめてこのシステムは成立する。物の流通は格差=地位の勾配に応じて発生する。お隣同士のおみやげ交換といったものはあるだろう。がそれは限定的だ。対等な中では、別に高島屋のお歳暮を贈る必要はないのだ。

つまりダホメに限らず「社会に埋め込まれた経済」のこのバリエーションは、格差と不平等を前提にして初めて成立するものだ。すると、格差をなくすために市場の暴走をやめさせよう、社会に埋め込まれた経済を実現しようという主張は、意味があるんだろうか。

 

そしてそれ以上にもう一つ。この本の冒頭で、ポラニーは非常に重要な指摘をしている。平等とか自由とかいう発想自体がそもそも、大量生産市場経済の産物だということだ。

卑しい身分だろうと、お金さえ持っていれば何でも買える。貴族専用とかいうのはない。自由に何でも買える。大量生産により、同じモノが大量に出回り、みんなが同じモノを手に入れられるというのが、平等の基礎だ。むしろ大量生産と市場経済が、そうした平等や自由を要請した、というのがポラニーの主張だ。

つまり、そもそも格差がいけないという発想そのものが、大量生産に基づく市場の暴走によって生まれてきた発想だ。大量生産と市場の暴走を止め、社会に埋め込まれた経済なるものを求めたがること自体、そもそも格差がいけないとか平等を目指そうという発想を裏切ることになるんじゃないのか? むしろ市場をもっと暴走させ、資本主義をもっともっと突き進めるほうが、平等や格差の低減になるのでは?

科学的社会主義、マルクスレーニン主義って、もともとそういう発想じゃなかったっけ。「なんでお母さんは、ヤマメを3匹食ったくらいで龍にならなきゃいけないんだ! 湖を干拓して農地を作り、生産力を高めれば多少のモノの格差なんて無意味になる!」と太郎君も言っている。

生産手段を手に入れて、科学と量産により生産能力を高めることで、希少性がなくなり平等が実現する。もはや格差なんて意味がなくなる——そういう話を非現実的として一蹴することはできる。が、そういうのも考える必要はあるとぼくは思っている。

その意味で、このポラニーの本は、資本主義や大量生産消費社会を否定しているようで、実はそうではない部分もある。それを安易にもってきて、資本主義を超克すると言いつつ、そこで依拠している基本概念自体が資本主義の産物、という自縄自縛の議論は、やっぱつらい部分もあるんじゃないか。もちろん「社会に埋め込まれた経済」というののあり方が、捕虜虐殺した完全不自由高圧管理社会だけ、というわけではないのかもしれない。が、その一方で「社会の自由と独創性を守るためには私有財産をある程度は認めべきだろう。だがそのために必要な私有財産と権力の集中は、厳密に必要なものを超えてはならない!」といった主張を見ると、やっぱこれはかなりおっかなそうだし、実は本当に、社会に埋め込まれた経済というのは結局その完全不自由高圧管理社会に向かうしかないのかも、という気もするわけだ。