南たかし、いまいずこ(本当なら今は76歳のはずだが……)

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最近、何度かアデランスのCMを見たのでふと思い出した話なんだけど……

その昔、小学校時代に、うちの学級でカツラが大ブームになったことがある。といっても、別に本物のカツラをみんながつけてきたとかいうことじゃなくて、その頃急に目につくようになった、アデランスとアートネイチャー(あともう一つなんかあったような気がする)のCMにみんなが夢中になったってこと。

小学生は、そもそも「ハゲ」というだけで笑い転げるほど可笑しいと思ってた。差別はいけませんとかなんとか、きれい事を言ってくれてもいいけど、でも小学生にとっては、セックスと同じで、なんだかよくわからないけど、大人が何かそれを恥ずかしいか決まり悪いと思ってるか、とにかくあまり公然と語るべきではないと思ってあたふたしてるってこと自体がおもしろい。当時ぼくたちは小学校3年で、なんか近くのへいに「SEX」と落書きがあって、「アレ何のこと?」と尋ねると大人がもじもじする。それがおもしろくて、何のことかわかんなくても、ことあるごとにそれを口走って喜ぶ。ちょうど、ドリフの「8時だヨ!全員集合」で加藤茶がストリップの真似をして「ちょっとだけよ」と言うのが大人気だったけど、ガキはあれが何なのか全然わかってなくて、でも大人が変な反応するのでおもしろかっただけだ。

www.nicovideo.jp

で、ハゲというのもそういうものだった。けど、まあハゲの何たるかはわかる。そこへ、アデランスとアートネイチャーがやたらにCMを打ち始めた。本当にかれらのCM出稿がその頃増えたのか、ぼくたちがそれを意識するようになって、気がつく頻度が増えただけなのかはよくわからん。みんなテレビCMの真似とかで大喜びしてた。そして新聞にもかなり広告が出ていて、あるときだれかが、資料請求ってやつをすると、いろいろ詳しいものが送ってもらえることに気がついた。

そこからなんか、すさまじいことになった。これまで嫌々作らされていた学級壁新聞が、もう完全にカツラ業界発表大会となって、アデランスやアートネイチャーのパンフの切り貼りだらけ。サンクV三段増毛法、というのが当時どっちかの新しい技法で、気づかれず自然に髪の毛を増やす! おおおおおお、すげえええ! これは壁新聞で詳しく説明しなくては! アデランスのCMにはファランが出て、「Be an active man, with Aderance!」というのを最後に言うんだけど、ぼくはアメリカから帰ったばっかりで、ガキどもの中で唯一それが何と言ってるかわかったので、もう壁新聞で英語教室だ。そしてパンフに出ている、カツラで活発な人生が送れるようになりました、という各種体験談は、完全なさらし者。

で、どっちかのCMでは、仮想の利用キャラクターとして大きく出ていたのが、「南たかし、三十四歳!」というオッサンだった。

もう当時、ぼくたちはそれが死ぬほどおかしいと思って、休み時間はそれをみんなで連呼して笑いころげていた。そして授業とかで東西南北がどうしたで、「南のほうには……」なんて出ようものなら、教室中のあちこちから「南!」「南!」「南!」とひそひそ声があがり、みんなゲタゲタ笑い出して、もう怒られても全然止まらない。「高いなんとか……」なんて話でもすぐ「高い→たかし!たかし!」で爆笑で、そのまま反復すると先生が怒るもんで、しばらくすると、「南で……」と言われるとだれかが「三十四」と囁いてみんな必死で笑いをこらえる。

音楽の授業でちょうど教わっていた歌の中に、くり返しで「ランララランランラーンラーン、たーかーく、ランララランランラーンラーン、たーかーく」という部分があったんだけど、ぼくたちはそれを「ランララランランラーンラーン、みーなーみー、ランララランランラーンラーン、たーかーしー」と歌って大喜びだった。何の歌だっけ。「ピクニック」かと思ったけどちがうなあ。


ピクニック (童謡)

これはもちろん男子だけの現象で、女子は学級会で「男子は壁新聞でカツラの話ばっかりしてていけないと思います!」とか不満を述べて、壁新聞での扱いはやがてやめさせられたんだけれど、でもみんなコッソリ学校に資料をもってきては、休み時間にみんなで見せ合って大喜びしてた。

やがて、資料請求をくり返し続けたら、だれかの家にアートネイチャーから営業の電話がかかってきて、それで首謀者たちが大目玉をくらってやめさせられたんだっけ。

いや、それがどうしたわけじゃなくて、ふと思い出したってだけなんだけど。南たかしさん、当時本当に三十四歳だったんなら、今は76歳かあ。楽しませていただきました!

付記:

これを見た人がすぐ検索したんだけど、なんと、桂さんというのが本名なのねー。小学生時代のぼくが知ったら悶絶したことでしょう。

<スタッフ紹介>

ちなみに、その後某アジア国への日系進出企業の話を調べていたらカツラメーカーが出ていて、話をききに行こうとしたら、アレはヤバい業界とつながりがあるからダメーと言われた。ハゲとかカツラ使用はものすごい秘密で、その筋の方たちはそれをネタに強請るんですって。だからそういう情報のコネクションがあるとか。ホントかよ。

メイソン『海賊のジレンマ』:勢いdrivenな本。その分賞味期限が短い印象。

海賊のジレンマ  ──ユースカルチャーがいかにして新しい資本主義をつくったか

海賊のジレンマ ──ユースカルチャーがいかにして新しい資本主義をつくったか

これまでのお行儀のよい各種の活動の代わりに、新しいパンクな既存の活動におさまらない目新しい活動がいろいろ出ている! 海賊放送とか、リナックスとか、ストリートアートとか、既存のルールを無視した活動がユースカルチャーから出ている!

そういう本。で、いろんなユースカルチャーをルポ的に次々に紹介する。で、そうした動きを潰そうとするのはお互い無駄だし、規制に失敗して足下の市場を食われちゃって自滅するCD業界見ても、もっとうまいやりかたはあるから、これをどう活用するかが今後のポイントだ、と指摘する。

原著が出たのは2008年。書かれたのは少し前か。リミックスとかネットのあれこれとかヒップホップとかDJカルチャーとか、著者がすごく興奮しながら書いている熱気は十分に伝わってくる。リアルタイムで読んだら、「うわあ、すごいかも」と思ったかもしれない。が、2016年の今これを読むと「ああ、あったねえ(遠い目)」みたいなのも結構あって、熱っぽい書きぶりがちょっと鬱陶しい感じさえある。最後に、囚人のジレンマならぬ海賊のジレンマというモデルみたいなものも考えて見るんだが、思いつきの域にとどまり目からうろこではない。

あの時期の事例集としては、未だに価値を持つかもしれない。そして、方向性のとらえ方としては悪くない本だと思う。この本の中でも参照されているタプスコット『ウィキノミクス』とかの事例集みたいな扱いとしては、いまでもあり。読んで損する本ではない。

マクファーレン『イギリスと日本』:これまた産業革命の説明で、人口と疫病撃退のせいだというんだが……

イギリスと日本―マルサスの罠から近代への跳躍

イギリスと日本―マルサスの罠から近代への跳躍

産業革命はなぜ起きたか――ひいてはなぜ西洋は世界に勝ち、ぼくたちは豊かになったのか、という本はもういろいろ読んでいて、石炭の分布だというポメランツ、科学と知識の普及だという山本義隆、イギリスが実質所得が高かったからと言ったのはだれだっけ、制度が云々、金融がどうした、勤勉で生産性の高い遺伝子が広まったからというクラークとか、植民地のせいだとか、イギリスの飯がまずいせいだとか、労働者搾取のせいだとか、もうたいがいの話は聞いたような気がする。この本もその一つ。

この本のテーゼは、人口と医療というか疫病の克服なのね。この本の主張は、イギリスと日本が似たような性質を持っていることに着目し、それをもとに話を進める。

まず、イギリスと日本は島国で、だから侵略がなくて戦争が少なかった。国内で小競り合いはあったけど、その規模は小さかった。んでもって、農業を安定して営めたから、みんな飢え死にしなかった。

さらに、いろんな生活習慣とかのおかげで、伝染病が克服できた。それで、人が死ななくなった。これがまず第一歩。

で、なぜそれが人口増による資源食いつぶしと貧困への逆戻りを引き起こさなかったかというと、みんながバカみたいに子供を作らず、結婚パターンや避妊や間引きで人口成長が抑制された。で、なぜそんなことになったかというと、子供はだいたい3.5人くらいがちょうどいいよ、というコンセンサスが文化的にできていたから。バカみたいに子を増やすと生活苦しくなる、というのがみんなわかってたそうなのね。当時の農家経営とかのやり方から、最適な子供の数というのは決まっていたので、みんなそれにあわせて子供の数を抑えたんだそうな。

それで日本とイギリスはマルサスの罠を逃れました、という。

うーん。

確かにそれはそうなのかもしれないんだけどさ、マルサスの罠脱出で話が終わりじゃないでしょー。だいたいぼくは、まあまあ豊かに暮らした人々が日本とイギリスにしかいなかったとは思えないんだよね。マルサスの罠脱出というのは、しょせん程度問題でしょう。そして産業革命は?それと、人口がどんどん増えたという前半の話と、最後になって人口はそんなに増えませんでしたと言う話とがうまくかみ合ってなくて、まったくピンとこないんだよね。

本の大半は、特に各種の伝染病を日本とイギリスがどう克服したか、という話。それが本文400ページのうち200ページ。それを説明する水とか生活習慣とか排泄物処理とかの話をいろいろな資料からまとめる。それはそれでおもしろい。でも、それで何か産業革命(またはその前段)が説明できました、と言われてもあまり納得ができない。イギリスは13世紀からずっと特異で、その特異性が産業革命につながりました、というのが著者のテーゼだそうで、本書はその特異性を説明するものだというんだけど、その特異性の源が日本と共通なら、日本はなぜ産業革命起こせなかったの?

ぼくが何か読み落としているのかもしれない。読み終わったところで「へ? こんだけ?」と思って関係ありそうなところはたくさん戻ってみたんだけど。イギリスはずっと特異でした、というのは確かかもしれないんだけど、ただどの国でも、見方によってはそれなりに特異な性質を持っているはずだとは思うし、それが何か決定的だったかというのは、少なくとも本書ではよくわからない。

そんなこんなで、ぼくは本書ですごく感銘を受けた感じはしなかった。ポメランツの説明とか、科学技術の話とか、そしてグレゴリー・クラークの遺伝的な説明ですら、ぼくは説得力を感じるんだけど、本書はなんか生煮え。

大分岐―中国、ヨーロッパ、そして近代世界経済の形成―

大分岐―中国、ヨーロッパ、そして近代世界経済の形成―

10万年の世界経済史 上

10万年の世界経済史 上

Schrage, "Innovator's Hypothesis": 小さなプロトタイプで何でも試そうってのはわかるんだけど、それだけだと……

The Innovator's Hypothesis: How Cheap Experiments Are Worth More than Good Ideas

The Innovator's Hypothesis: How Cheap Experiments Are Worth More than Good Ideas

うーん。いやね、ビジネスでもなんでも、なんかあらかじめ最初から最後までがっちりビジネスプランとかを作ってその通りにやるんだと融通効かないしリスクも大きいから、ちょっと簡単な実験やってみて、アイデアがうまくいくか試そうぜ、というのが主張なわけ。それはまあ、その通りだと思うよ。

で、著者はそこで、5x5フレームワークなるものを提唱する。アイデアも一つだと何だから、5つくらいのアイデアをもってきて、それぞれ5人チームで、予算5千ドルで、5週間で簡単に実験してみるようにして、その結果をもとにモノになりそうなやつを決めようぜ、という。なんで5にそんなにこだわるの? 別に理由なし。でもまあ小規模で、しかも思いつきレベルでいいけど、気楽に実地テストする、というのが重要。

本書の主張はそんだけ。あとは、真面目な人はそう言われても「いい加減な実験」てのが苦手で立派なビジネスプランを作ってがっちり身動き取れなくなっちゃうよ、とか、臨機応変がいいんだぜ、とかいう話が延々書かれている。うそではないと思う。でも……そんなに目新しい話だろうか?5という数字で、規模や予算やチーム組成に目安をくれる、というのがいいのかもね。ぼくとしては物足りなかった。もっと話がふくらむと思ってたのに、最初の20ページでだいたい話が尽きてあとはその引き延ばしになってしまったのが残念。

エゴサーチ: 富岡日記とSF業界の後編 redux

二年ほど前に、「エゴサーチ: 富岡日記とSF業界の後編」というエントリーを書いた。

cruel.hatenablog.com

さて、これは実は、もっと長いモノを書いていたんだけれど、それを査読してもらった人に、こんなものを公開してもだれも喜ばないと言われて、ひっこめて短縮版をブログに乗せておいたのだった。それに、どうせこれを読んでもあまりわかる人もいるまいと思ったこともある。

でも最近、藤田直也という評論家が、SF作家クラブの腐敗を告発するとかいうことをツイッターで言い始めつつ、急に腰砕けになる醜態を見せた。

togetter.com

その周辺のいろんな発言とかを見ているうちに、少しはこんな文も意味があるかと思うようになった。

さて、この藤田直也の一連の発言というのは、自分の個人的な恨みやら保身やらを、いかにも公共的な告発であるかのように見せかけて投げ散らすというどうしようもない代物だ。自分の利益にかなうときだけ公共性を持ち出すというのは、ぼくは卑しい行いだと思う。そしてそれについて最後まで面倒を見ることもせず、すべてうやむやで終わらせる。結局、それにより何ら公共的な議論や見識が深まることもない。何やら裏でごちゃごちゃ、気持ちの悪いことが進行しているんだな、というのがわかるだけ。そして、それをめぐってくだらない憶測、情報隠しと歪曲とそれに伴う各種の疑心暗鬼だけが広がる。

ぼくはそういうのは不健全だと思っている。そして、ぼくは各種の(利己的に見える)動きにも、通常はそれなりのもっと大きな背景があると思っている。人々をそうした、利己的に見える行動に駆り立てる力があると思う。それを理解しないと、各種の「告発」と称するものは、それ自体が単なる利己性に基づく場合であればなおさら、単なるレッテル貼りと目先の犯人捜しに堕し、単なるゴシップのネタでしかなくなる。

ぼくは前回の「エゴサーチ: 富岡日記とSF業界の後編」で、そのさわりをちょっと示した。でもそれをもっと詳しく書いたものを、ハードディスクの肥やしにしておくのももったいない。そして、ぼくは当時のSFファンダムの状況というのは、日本の文化史においてもちょっとは重要だったと思っている。その雰囲気を理解してもらう意味でも、多少の意義はあるんじゃないか。

というわけで、こんな文書:

大森望(とそれを敵視する人々)についてぼくが知っていた二、三のこと:1980 年代からの遺恨とは(v.1.3) (pdf, 500kb)

各種記述の根拠については、文中でそれなりに示したつもり。もちろんそのサンプル数が多いわけではないけれど、統計的に処理するような話でもない。でも、これに対する反証が出る余地もあるとは思う。そういうのがあれば是非ご教示いただきたい。

これに限らず、当時のファンダムの状況というのは、もっときちんと整理して記録しておくべきだとぼくは思っている。当時の各種ファンジンには、SFファンダム勢力図分析みたいなのがときどき出ていた。ああいうのを掘り出して提示しておくのも、決して無意味ではないと思う。少なくともいくつかあった大きな論争とかは。SF論争史とかいう本もあるけれど、その多くは当時の論争の当事者がまとめたりしていて、自分に都合の悪いものははずされたりしている。この文で挙げたような話は、たぶん多くの人は存在すら忘れているかもしれない。でも、そういうのがそれなりに意味を持つことも多少はわかってもらえるんじゃないか。

反知性主義3 Part 2: 内田編『日本の反知性主義』:白井聡の文は、無内容な同義反復。他の文は主に形ばかりのおつきあい。

はい、まだ反知性主義の話は続きます。第3部を前編と後編にわけるなんて、最近の無内容を引きのばそうとする『トワイライト』とか『ホビット』『ハリポタ』『ハンガーゲーム』みたいでいやなんだけどさ、お金とるわけじゃないし、どうせ読む側もあんまり長いのは飽きるでしょ?(といいつつ、今回もえらく長いんだけど)

これまでの話は以下の通り:

反知性主義1:ホフスタッター『アメリカの反知性主義』は、知識人のありかたを深く考えていてとってもいいよ

反知性主義2:森本『反知性主義』は、アメリカに限ったまとめとしてはまあまあ

反知性主義3 Part1; 内田編『日本の反知性主義』の編者による部分は変な思いこみと決めつけだらけ

白井の文は、グローバリズムとかポストフォーディズムとか聞きかじりだけで並べた無内容な文である。

というわけで、お次は白井聡の文に移ろう。白井の文は、このアンソロジーの中で「反知性主義」に関するアカデミックな分析を、一応は期待されているんだろうと思う。そしてその書きぶりは、いかにも学問的な体裁だ。世界の社会経済的な文脈の中に、日本の「反知性主義」なるものを位置づけようというわけだ。そしてずいぶん力も入っている。総ページ数50ページほど。「はじめに」を除けば内田の文とほぼ同じ。

でも、残念ながらぼくはこの文にあらわれた世界の社会経済的な状況認識が、基本的にはなまくらで表層的なものでしかないと思う。そしてそのために、文章そのものがこむずかしいのに結局大したことを言えず、基本的には同義反復に堕している。

まずこの文は冒頭でこう述べる。

「今日の日本で反知性主義が跋扈していることについて、本書の読者はほぼ異論がないであろう。(p.65)

この時点で白井の文は、それが内輪向けのなれ合いの文であることを明言している。読者は「反知性主義」の何たるかについて同じ認識を持ち、その現状についても立場を共有しているというわけ。

そしてこの文はそれに続けて、基本的な主張を述べる。

「そこにはおおよそ二つの文脈がある。ひとつには、ポストフォーディズムあるいはネオリベラリズムと呼ばれる、1980年代あたりから世界的に顕在化した資本主義の新段階において、反知性主義の風潮は民主制の基本的なモードにならざるを得ない、という事情である。これは新しい階級政治の状況である。

 いまひとつには、制度的学問がそれに根ざしているところの「人間の死滅」という状況が挙げられる。(p.65)

ポストフォーディズム

 さて、まずこの前者。「ポストフォーディズムあるいはネオリベラリズムと呼ばれる云々」の部分。この時点で、白井の文は一知半解の印象論でしかないことがだいたい露呈している。だって、ポストフォーディズムネオリベラリズムって、全然ちがう話なんだもの。

ポストフォーディズムというのは、通常はT型フォード量産に代表される、少品種大量生産に基づくフォーディズムの後にくるものだ。フォーディズムは、管理者・計画者(知的労働者)とフロアの労働者(何も考えない肉体労働者)という明確な階級分離を前提とする。それに対して、ポストフォーディズムは、通常は多品種少量生産を胸とする。製造ラインレベルでの柔軟かつ高度な対応を要求されるので、労働者もある程度の知的な対応が求められる。かつてほど明確な階級分離はなくなる。

これに対してネオリベラリズムというのは、1970年代までのケインズ主義的な「大きな政府」による経済体制に対する批判として生まれ、効率の悪い公共をあらゆる場面から追い出し、規制緩和と市場化・自由化を全面的に進めようという考え方。これが結果的にかなりの格差を生み出したのは、ピケティ『21世紀の資本』などが指摘する通り。

だからこの両者は同じ扱いができるものではない。特にポストフォーディズムは、基本はむしろ末端の労働者にまで知性を要求するもので、「みんなバカ」という白井&内田の文が考えているような「反知性主義」とは方向性がかなりちがう。でも白井の文は、それをごっちゃにして平気だ。

その白井の文も、ポストフォーディズムについて調べているうちに、これに気がついて、なんかちがうようだと思ったらしい。でもそれを強弁してなんとか取り繕おうとしているのが、p.78の記述。ポストフォーディズムで労働者の教育が重要視されたけど、それが成功したかどうかはわかんなくてネオリベの大きな波がやってきた、というんだが、じゃあポストフォーディズム関係ないでしょ。白井の文が最初に述べている「反知性主義」の背景にもならない。

グローバリズム

そして、知的な労働者が必要なポストフォーディズムがなぜ「反知性主義」をもたらすのか?それは、えーと、グローバリズムのせいなのだという。グローバリズムのおかげで、賢い労働者は外国から輸入すればよいことになった、とのこと。よって自国では人々の教育にお金をかけないという反知性主義が広まったという。

グローバリズムについての一般的な発想を知っている人は、この議論に首を傾げるだろう。輸入できるような知的高技能労働者がそんなに世界中にたくさんいるの?そんな形の労働移動が起きているなどという話は聞いたことがない。ましていまの日本の低所得層を完全に代替しきるほどの高技能労働者が、日本に流入してるなんてことは……ないでしょー。グローバリズムの影響という話では通常、低技能を使う工場が海外移動して、国内に残った労働者は技能を高めねば、という議論になるんだが、白井の文の主張はこれと正反対だし、それを裏付ける根拠も一切ない。ついでに、日本は移民を(偽装奴隷研修制度とか以外では)全然やってない。なら日本が「反知性主義」に向かう理由はまったくないということになってしまう。

ネオリベラリズム

そして、ネオリベラリズムはどうなるんだろうか。これが実にはっきりしない。ネオリベラリズムは、格差を生み出す、という話を白井の文は (ピケティを引き合いに出しつつ) 述べる。それが知的な上流階級と、バカな下層階級との分離をもたらした、と。だから下流社会とかB層とかヤンキーとかが生まれてきたとのこと。そしてネオリベ政権は、人々が馬鹿なほうが操りやすいから人々を愚かにしようとして、このため「反知性主義」が生まれるとのこと。そして、日本は戦後に階級をなくすのに最も成功したからこそ、いま新しく階級が生まれる際には最も強く「反知性主義」が出ているそうな。

でも、人々がバカのほうが操作しやすいというのは、別にネオリベ政権でなくても言えることだ。そしてB層とかヤンキーのような話は昔から言われている。一億総白痴化、なんてことを言った人もいる。それがいま、どう変わったのか?さらにそれは、ネオリベという思想だか主義だかが意図的に目指すものなのか、それとも副作用として生じたことなのか?白井の文は、あるときはそれが意図的だという主張をし、あるときはそうでないような書き方をする。さらに、日本での格差はピケティが批判した欧米とはちょっとちがうことは多くの人が指摘しているし、その度合いもちがう。日本の反知性主義が最もひどいというのも、本当だろうか?階級についても、反知性主義の度合いについても、何一つ具体的な裏付けがないまま、白井の文はひたすら思いこみだけで展開する。

そもそも、日本の今の政権は本当にネオリベラリズムなのか?これまたまったく検討されない。個別の政策を見ると、規制緩和を目指す部分もあるから、それをネオリベラリズム的だと言うこともできるだろう。でも、全体としてはどうなの?相続税上げたり税金上げたり、ネオリベ的でない部分も多々ある。白井の文は、ネオリベラリズムについてきちんと定義や検証をすることなく、「現政権は教育費を削っているからネオリベネオリベだから教育費を削る反知性主義に走る」という循環論法がひたすら続くばかり。

ポモ的な「人間の終焉」についてもあれこれ書こうかと思ったけれど、全体の中で大した役割を果たしていないので割愛。それで議論が変わるわけではない。

嫌いなものをつなげて見せただけ?

結局、白井の文を読むと、実はネオリベラリズムグローバリズムもポストフォーディズムも、まるできちんと理解してなくて、聞きかじりで言葉を連ねているだけなのではないか、と思えてくる。でも、白井の文はそれで事足れりとしている。なぜか?これはすでに「反知性主義」的な傾向が存在するということを論証不要の前提としている身内に向けられた文章だからだ。そして、そういう人々は、ネオリベというのを何かよくないものだと思っている。グローバリズムというのも、人々を抑圧するろくでもないものだと思っている。だから、それらを線で結んで「これはみんなつながってるぜ!」と言う文に対しては、そういう読者はそれだけで喝采する。

稲葉振一郎などがときどき指摘するけれどネオリベとか新自由主義とかいうのも、人によって意味がちがって、多くの場合には単に自分が気にくわないことすべてに安易にはりつけるレッテルと化している。グローバリズムというのもそうだ。白井の文も、そこからいささかも出ていない。そして……「反知性主義」というのもそういうレッテルとなっている。つまりはどの用語も、このシリーズの最初に述べた、「バーカ」のご立派な言い換えにすぎない。だから白井の文は、「反知性主義」はネオリベのせいだと主張するけれど、その中身は結局、「気にくわない連中は気にくわないぜ、バーカ」という同義反復の練習問題にしかなっていない。

ホフスタッターはネオリベポモの夢を見るか?

そして、反知性主義ということばの定義についてだけれど、白井の文にはこうある。

リチャード・ホーフスタッターによる古典的名著『アメリカの反知性主義』によれば、反知性主義とは「知的な生き方およびそれを代表するとされる人々にたいする憤りと疑惑」であり、「そのような生き方の価値をつねに極小化しようとする傾向」とされる。私はこの一般的な定義に同意するが、ここでポイントとなっているのは、反知性主義は積極的に攻撃的な原理であるということだ。(p.67)

さて、まずホフスタッターを援用した時点で、なんだか白井の文の主張が本当になりたつのか、というのは当然抱くべき疑問だ。ホフスタッターは、アメリカ建国以来の200年を扱っている。その時代に、ネオリベラリズムだのグローバリズムだのポストモダニズムの「人間の死滅」なんてものはあったんだろうか?たぶんないだろう。だったら、そうした思潮こそが反知性主義の元凶だという主張はそもそも変じゃないか?

さらに、ぼくはここで引用されているホフスタッターの定義を見ても、それが積極的に攻撃的な原理であるなどということがポイントになっているとは読み取れない。「憤り」の一言があるから攻撃的だと言いたいのか?でも何かに不満を抱くのとそれを攻撃するというのは話がちがう。

でも白井の文は、このようにしてそこに必ずしも書いていないことを、自分の思いこみに基づいて強引に引き出している。ちょうど、ネオリベグローバリズムの話でそうしたように。ぼくはこれが、ちょっと悪質な歪曲だと思っている。白井の文の立場に同調する読者は、そういうのをおおめに見るのかもしれない。でも、そうでないぼくのような読者にとって、この白井の文は、勝手な思いこみに基づいて特に裏付けのないことを放言し、嫌いなものをいい加減につないで見せただけのものでしかないだろう。

示唆のない結論は、上から目線のニヒリズムでしかない。

この現状「分析」の後に、白井の文は否定ナントカが現状には蔓延しているのであり、今後それを覆すために頑張らなくてはいかんが、あれもこれも八方ふさがりでお手上げで、それでも諦めてはいけないけどどうすればいいかよくわかんないよ、という結論をくっつけている。現状についての分析と認識が上に述べた通りかなりトホホであり、妥当性を欠くものである以上、この結論を真面目に考える必要はないだろうし、考えたところで、グチ以上のものはないから、読者としては徒労でしかない。

それ以上に、「反知性主義」を少しでも改善するにはどうすべきか?そういう提言がまったくないのは残念至極。「反知性主義」の意味合いはさておき、諸般の事情で世の中がバカだらけになって、しかもその状況を悪化させようという政府の方針(主義)さえある——そういう考え方はあるだろう。でも多少なりともそれを変えるための具体的な提言はおろか、多少の示唆にすらつながらなければ、それは結局現状の追認と諦めを表明するニヒリズムと、「でもワシはそれを憂慮できる賢い知識人なのよオホホホ」という優越感をまぜこぜにしただけの、非生産的な代物にしかならない。ぼくは白井の文(そして内田の文も)がまさにそういう代物に成りはてていると思う。

その他の文について

ここまでで、だいたい本全体の半分くらいが費やされている。他の文はほとんどがおつきあい。本書の他の人たちは、ホフスタッターをおそらくは読んでいない。かれらは「反知性主義」というものについて、内田に与えられたお題をそのまま鵜呑みにしている。そういう立場であれば、反知性主義の理解がどうの、と目くじらをたてる筋合いのものでもない。これまでが長すぎたこともあるし、あとはざっと流す感じで……

高橋源一郎の長い題名の文

高橋によるこの文は、あまりきちんとした主張をしている文ではない。題名からもわかる通り、そもそも反知性主義なんていう話はしたくなかったけれど、おつきあいでとりあえずページを埋めました、という文でしかない。細雪が発禁になった話をして、それは知性が女性的だから云々と述べるけれど、ほのめかしの書きっぱなしできちんとした考察はない。ぼくは、単なる思わせぶりで無内容な文だと思う。でも、それを何か余韻のある深い文章だと思う人もいるだろう。

赤坂真理「どんな兵器よりも破壊的なもの」

赤坂のこの文も、お題である「反知性主義」「反知性」に対する戸惑いから入って、それをあっさり無視して天皇制の話であちこちふらふらして……それで終わる。内田の「反知性主義」に居心地の悪さを感じていることはよくわかるけれど、高橋源一郎の文章のようにそれを平然と蹴っぽるほどの図々しさはなく、なんとかそのお題に応えようと右往左往するのが読んでいてちょっと痛々しい。その居心地の悪さはおそらくは鋭いのだけれど、それがまったく追求されないのはちょっと残念。そして、右往左往はするがまとまらず、きちんとした主張や論旨がないまま投げ出され、たいへん煮え切らない。

平川克己「戦後70年の自虐と自慢

平川の文は、安部首相を「反知性主義」つまり頭が悪いとけなすことに違和感を感じている。そして……なんとその後に出てくるのは、内田樹の文での主張に対する(意図せざる)全否定だ。

反知性主義とは知性の不足に対して形容される言葉ではない。現場での体験の蓄積や、生活の知恵がもたらす判断力を、知的な営為や、創造力がくみ上げた合理性よりも信頼するに足るという保守的イデオロギーのことである。(p.157)

!!!!これはまさに、内田の文章で述べていた主張をひっくり返しているのだけれど、編者はこれをちゃんと読んだのだろうか。

その後、平川の文は、日本に比べてドイツの戦後処理は立派だと、各種ドイツ首脳の演説を引用して安部首相の演説の揚げ足取りをしつつドイツ絶賛を繰り広げる。でも、ドイツが軍隊を持っていて武器輸出もしていて集団自衛権も否定していないことについてはまったく無視。重要なのは、実際の軍事的な行動のほうじゃないかとぼくは思うんだが。

小田嶋隆「いま日本で進行している階級的分断について」

小田嶋の文は、変な自意識にからめとられているときには無惨な代物となる。でも、そうでないときにはよいセンスがあることは否定できない。本書の文では、ある種の分断——頭のいいやつ、優等生とそれ以外——を指摘する。そして、実は分断が先にあって、知性がどうのというのはそれに対する後付の理屈でしかないということを指摘しおおせている。これはある意味で、内田樹のまえがきで述べられた枠組みを否定するものだ。本書の中ではましなほうの文章だと思う。

ちなみに、小田嶋の文は、「ヤンキー」をふりまわす議論についても論難している。つまりは、白井の文章に対する批判にもなっている。

名越x内田「身体を通じた直観知」

本当に無内容でひどい対談。昔はよかった、みんな節目があった、知性が身体化されてた、最近の連中はダメだ、というだけ。

想田「体験的反知性主義論」

人はいろいろな社会経済的しがらみにとらわれて、反知性的な行動に出るのだ、そしてそれは他の人だけがやることではなく、ぼくたちみんなやってることだ、という文。これ自体はおっしゃる通り。この文で挙げられる「反知性」は、原発推進だけれど、量的にはあまり多くない。そして、我が身をふり返れという主張はまとも。本書の中でいちばんまともなものの一つ。

仲野「科学の進歩に伴う「反知性主義」」

科学が細分化して業績重視になってくるので、研究者もいろいろ端折って反知性っぽいことをするようになります、とのことだが、その論旨はあまり明解ではない。科学が発達しても知性が伴わないという議論は、そこでの「知性」というのが不明確なのであまり意味を持たない文となっている。

鷲田「『摩擦』の意味」

反知性主義」ということばを一切使わず、あまり決めつけを急がず摩擦に耐えて他人の言うことにも耳を傾け、謙虚になって寛容の精神を持ちましょう、というたいへん立派な文章で、唯一の疑問は、鷲田はこれをだれに向かって書いているのかということ。日本の政治的な現状に対してはもの申したいらしいが、それを具体的に言うことなく、一番最後にT・S・エリオットの引用でほのめかすだけ。あらかじめ先入観を持った人は、そこに自分の読み取りたいものを勝手に読み取るだろう。

それを明記しない鷲田のこの文を、上品で高尚だと思う人もいるだろう。ぼくはそれを、明言しない責任逃れの知的堕落だと思う。だがその一方で、この最後のエリオットの引用が現代政治状況へのコメントだとしたら、それまでの部分は逆に内田の序文などに見られる決めつけと不寛容に対するたしなめのようにも読める。もしそうなら、なかなかの策士。

まとめ

以上をまとめよう。本書はそもそも、理解力の低さ(ホフスタッターのいう「反知性主義」をまったく理解できない)か、非常な不誠実さ(ホフスタッターの議論を理解したうえでそれを意図的に歪曲)を発端としている。そして、内田と白井の文章は、ホフスタッターについての理解を離れた部分でも、まったく妥当性や論理性を持たない、無内容な代物と成りはてている。その呼びかけに応えて寄稿した論者たちは、いずれもその不誠実さと無内容さを引き受けさせられてしまったという意味で、不当な立場に置かれて利用されてしまった。これは本当にお気の毒でかわいそうだ。

でも、多くの人は編者が期待したとおぼしき、安倍政権バッシングをほとんど行っていない。「反知性主義」なるものについての明解な分析もなく、概念規定もないどころか、むしろ戸惑いを明確に述べている。そしておつきあいで、何やら現在の政治状況が自分のお気に召す方向には動いていないことについて、漠然と触れつつも、反知性主義がそれに関係しているかどうかもあいまいに濁している。たぶん、みんな困って、さりとて無碍に断るのもアレだから、あたりさわりのないことを書いてお茶を濁したんだろう。そしてみんながそれをやったために、本全体としても濁ったきれの悪いものになってしまっている。

もちろん、編者内田と白井の文が見せている混乱ぶりを見れば、それは仕方がないことだったのかもしれない。そしてそれは、そもそも最近の「反知性主義」という議論が、ホフスタッターの主張をふまえているかどうかとは別の意味でも、あまり中身がないものでしかなかった、という事実の反映でもあるのだろう、とぼくは思っている。

そしてその一方で、多くの論者は編者たちの尻馬にのって、うぉー反知性主義けしからんアベ許さないわよ人民の革命を−、といった軽薄なアジを繰り広げることもできたのに、それをしなかった。これはかれらの最低限の知的誠実さのあらわれとして、ぼくとしては評価すべきだと思っている。個々の論者のほとんどは、空気を読みすぎて浮かれるお調子者ではなかったことだけはわかる。えらい。それによって本としての評価が高まるわけではないけれど。

以上、反知性主義のお話はこれでとりあえず一段落。疲れました。本はニューヨークに捨ててきます。

反知性主義3 Part 1: 内田編『日本の反知性主義』は編者のオレ様節が痛々しく浮いた、よじれた本。

しばらく間が空いた。で、反知性主義についての簡単なお勉強を経て、ぼくが手に取ったのは『日本の反知性主義』だった。

この本の題名は、明らかに『アメリカの反知性主義』を意識しているようだ。その一方で、この面子を見ると、ぼくが冒頭に挙げた『現代思想』の執筆者と重なるようであり、「反知性主義」を「バーカ」の意味で使う連中の集団のようにも思える。で、どうなのよ? それがぼくの興味だった。が、その前に……

反知性主義」をちがう意味で使ってはいけないの?

まず、そもそも「反知性主義」を「バーカ」の意味で使ってはいかんのか? ぼくはそうは思っていない。ぜんぜん構わないと思う。ただ、その場合にはホフスタッターとかを引き合いに出してはいけない。まるで意味がちがうからだ。

なぜか? ホフスタッターの本は、名著とはいえ決してだれでも知っているメジャーな本ではない。ぼくはたまたま、漠然とホフスタッター的な意味合いでの用法を知っていたけれど、それを知らないからといってこうした分野に関係していない人が責められるべきだとは思わない。

さらに言葉は変わるし、だれかが単語の用法に独占権を持っているわけではない。ホフスタッターがそういう用法をしたから、他の人は一切その用語を別の意味で使ってはいけない、なんてことはない。反知性という言葉を見て、「知性に反対するんだから、これって『バカ』ってことだね」と思ってその意味で使うのは、ぼくは全然オッケーだと思う。

そういう人は「反知性主義はホフスタッターが~~」と言われても、単に「あ、反知性主義ってそういう意味もあるんだね、でも自分はそういう意味では使ってない」と胸を張って返せばいい話だと思う。人はあらゆることを知るわけにはいかないんだから。ついでに「ホフスタッターなんてまじめに受け取る価値はないよ、そんなのに準拠するつもりも用語をしばられるつもりもないね」とはねつけるのもあり。これまた小気味よい。池内恵によれば、佐藤優は日本ではすでに「反知性主義」が「バカ」の同義語として使われるようになっているから、ホフスタッターや森本を持ち出すのはダメ、と言っているそうな。なんでダメなのかはわからない。きちんとちがいや自分の用法における意味を明記すればすむだけの話だ。広い世界で、ちがう意味が併存していて悪いことは何もない。

でも、『アメリカの反知性主義』を読んで、それを援用しつつ「反知性主義」をバカの意味で使うのは、これはダメでしょう。読解力がないか、歪曲か、その両方がないと、そういう用法は出てこない。ホフスタッターをまったく無視するか、あるいは引き合いに出しても「これとは意味がちがうからね」と説明する必要がある。さて、その点でこの本はどうだったろうか?

内田編『日本の反知性主義』:総論として、かなり変な本。

ということで手に取ったのが内田編『日本の反知性主義』だった。そして……なんだか珍妙な本だと言わざるを得ない。編者のまとめ文が異様なほどの悪質さを露呈している一方で、そこにあらわれた意図と、実際の寄稿者たちの文が完全に乖離しているからだ。寄稿者たちの文の多くは、きわめて落ち着かない様子を見せたり、人によっては編集意図を、おそらくは故意に黙殺・迂回している。それはこの寄稿者たちが決して単細胞なお調子者たちではなく、本当に与えられたテーマをきちんと考えている誠実さを持っていることを示している。そしてその結果として出てきた文が、図らずも編集意図のおかしな部分や妥当でない部分を浮き彫りにしてしまったという面すら見える。その意味でのおもしろさはある。だが、そのために本全体としては、編者が意図したであろう統一的な、反安倍政権的なメッセージの本にはまったくならず、非常にインパクトの薄い本に成りはてている。

さて「反知性主義」に関する前節最後の疑問に対する答えとしては、本書の首謀者と思われる二人――内田樹と白井総――の文は、この読解力のなさand/or歪曲を見事に露呈している。

内田の文は冒頭からホフスタッターを引用しておきながら、その主張を完全に読み違え/歪曲し、自分にとって都合のいい下りだけをつまみ食いして並べ立て、ホフスタッターに依拠したふりをしつつ、ホフスタッターの用法と正反対の意味で知性/反知性主義を定義して平気だ。それ以外の点でも、全般に非常に不誠実で悪質な文章だと思う。

続く白井の文は、ホフスタッターを採りあげつつ、まるでトンチンカンで一般的な妥当性がまったくあるとは思えない思想史っぽい話を並べ立て、ホフスタッターとは全然関係ないところに話を持っていく。同じく非常に不誠実で悪質な文章になっている。

そしてこの二つの文は、明らかに煽ろうとしている。いま日本には反知性主義がはびこっている、特に安倍政権のやってるいろんなことは反知性主義のあらわれだ、やばい、このままじゃ日本はアレだ、という一種の檄文だ。その内容はかなりトンチンカンだ(これについては後述)。そして編者の文は、声をかけた人々がその煽りに共感してくれることを期待している。

ところが……声をかけられた内田樹のお仲間たちは、そういうふうには動かなかった。むしろ戸惑いを見せている。ちなみに、いま「お仲間」と書いたのは、ここで声がかかっているのが本当にある種のイデオロギー的な偏りを見せている人だけだからだ。つまり、安倍政権大嫌い、という人々。公平なポーズをするために、多少はちがう立場の人々を入れる、というバランスも考慮されていない。ほんとなら、アンチ安倍政権大合唱になりかねなかった本だ。

でも、そういったストレートなアンチ安倍政権を書いた論者は、2人ほどに限られる。その他の人の文章はむしろこのテーマに困惑し、「反知性主義」という言葉そのものに違和感を表明して、ある意味であたりさわりのない記述に終始した文章となっている。それは別に、この人たちがホフスタッターを読んでいるとか、あるいはホフスタッター的な意味での反知性主義を理解しているから、ではない。かれらは、安倍政権やそれを支持する人々が決してバカではないし、それなりの考えや計算をもって「知的に」行動していることは理解できているので、安倍政権批判を展開した文ですら、安倍政権やその支持者を単純にバカ=反知性と決めつけるようなことはしていない。

その意味で、本書は「笛吹けど踊らず」。編者の文で意図されているらしき、力強い政治的なメッセージを持った本にはならず、内田と白井の文だけが騒ぎ立てて、他の人の文はそれを遠巻きにして戸惑い、あたりさわりのないおつきあいでお茶を濁そうとしている。そしてみんながそれをやったがために、冒頭の内田と白井の文だけが全体の中で孤立し浮いた、すごくすわりの悪い変な本になってしまっている。ただしたぶん、本書に寄稿した多くの論者にとっては、これはよいことだろう。また、日本の思想状況の縮図として見ると、非常に興味深いとはいえる。

では、収録された文を個別に見ていこう。

内田樹「まえがき」「反知性主義者たちの肖像」:歪曲と浅はかさに満ちたきわめて悪質な文。

概要

冒頭には内田樹のまえがきがあり、この雑文集の成り立ちと意図を解説している。そこには寄稿者への依頼文も収録されていて……そこにホフスタッターもしっかり引用されている。続いて、内田樹による反知性主義に関する考察が展開される。この文章は本アンソロジーの中で最も長い。この二編で、全300ページ強の本のうち60ページを占める。10人が寄稿している本なので、シェア的にはみんなの倍くらいをがめていることになる。

そして、これはとにかくひどい文章となっている。そのひどさのポイントは以下の通り:

  • ホフスタッターを援用しつつ、ホフスタッターがまさに「反知性主義」と指摘したものを「知性」だと強弁しておきながら、それについて何ら説明がない
  • 自分の立場の絶対的な正しさについて一切の疑問がない。自分は知性の側であり、自分と意見がちがえばそれは反知性でありデマゴーグであり陰謀論という決めつけばかり。
  • 科学における「仮説」の役割をまったく誤解した上で変なロマン主義に陥っている。
  • 自分の見解を批判し否定すること自体が、それがまちがっている証拠であるという実に便利な屁理屈。
ホフスタッターを引きつつ「知性」「反知性主義」を正反対に歪曲

まずは「まえがき」から。その文章自体は、秘密法案とか集団自衛権とか安倍政権がろくでもないことをしてるのに、支持率が高いままで、これは「為政者からメディアまで、ビジネスから大学まで、社会の根幹部分に反知性主義・反教養主義が深く食い入っていることは間違いありません」(p.7)なのだという。「それはどのような歴史的要因によってもたらされたものなのか? 人々が知性の活動を停止させる疾病利得があるとすればそれは何なのか? これについてのラディカルな分析には残念ながらまだほとんど手がつけられておりません」(ibid.)

つまり、自分の気に入らない安倍政権が支持されているのは、反知性主義・反教養主義がはびこっているからであり、したがってその現状なり原因なりを考える文を書いて下さい、というわけ。

そして「反知性主義者の肖像」へと進むと、冒頭からホフスタッターが引用され、その主張に対する大賛成が表明されている。ふーん。ホフスタッターなんか絶対読んでないだろうと思ったら、ちゃんと読んでいるのか。すると、反知性主義の意味や、それをめぐるホフスタッターのアンビバレントな立場、そして現代における知識人の役割に関する悩みも、基本的には理解されているのかな?

ところが……読み進むとまったくそんな様子はない。反知性主義者とは、とにかく知性をひたすら否定する連中、というきわめて単細胞な理解に基づく文が展開される。そして挙げ句の果てに、こんなくだりに出くわす。

他人の言うことをとりあえず黙って聴く。聴いて「得心がいったか」「腑に落ちたか」「気持ちが片付いたか」どうかを自分の内側をみつめて判断する。そのような身体反応を以てさしあたり理非の判断に代えることができる人を私は「知性的な人」だとみなすことにしている。(p.20)

あの~~。

それってまさに、ホフスタッターの指摘する反知性主義の立場ですから!

いや、それ以下といっていい。2015年4月時点の森本あんりのインタビューを見たら、こんなやりとりがあった。

http://business.nikkeibp.co.jp/article/interview/20150422/280276/

――このところよく目にする「反知性主義」という言葉があります。字面からは「科学や論理的思考に背を向けて、肉体感覚やプリミティブな感情に依る」ような印象を受けるのですが。

森本:もともとの「anti-intellectualism」のニュアンスは、ちょっと違います。ネガティブな意味もありますけと、それだけじゃない。すごく誤解を招きやすい文字の並びですけれどね。

森本は、反知性主義の何たるかを理解しているので、そういう単なる怠惰な「科学や論理的思考に背を向けて、肉体感覚やプリミティブな感情に依る」というだけでは不十分だというのを理解している。でも、少なくともそれが反知性主義の一部であることは指摘している。

でも内田のこの文が述べているのは、自分は肉体感覚に頼るぞ、ということだ。腑に落ちるとか気持ちがどうとか、プリミティブな感情に頼るぞ、ということだ。つまり自分たちこそが反知性の悪い部分そのものでしかないということを自ら告白しているのだ。そうでありながら、内田のこの文は、それが知性だ、したがって「肉体感覚やプリミティブな感情に依る」のが知性/知性主義とでも言うべきものだ、と述べている。

まるっきり正反対だ。

反知性主義に関する基本的な文献を読んでいながら、そこに書かれていることがまったく理解できていない。あるいは理解できているのに、それを正反対に歪曲して平気。どうよ、これって? ぼくはこの段階で、この文にまったく誠意を認められない。この文の後のほうでは、自分が学生に対して参考文献をきちんとあげろ、それをしないのは犯罪的とすら言える、という指導を実にしっかり行っているのだ、という記述が(あまり脈絡ないと思うんだけど)延々と出てくる。でも、こうした歪曲は、それ以上に犯罪的なものだとぼくは思う。

ちなみに「そのような身体反応を以てさしあたり理非の判断に代えることができる」(強調引用者)と書いているのであって、最終的にそれだけで判断すると言っているんじゃないぞ、だからこれは内田の文の意図を歪曲しているんだ、という主張はできるかもしれない。でも、その後の文章を読んでも、この「さしあたり」の身体反応がいつの時点でどうやって本当の理非の判断に置き換わるのかについての説明は一切ない。続く記述を見ても、この肉体感覚やプリミティブな感情が最優先のままだ。こんな具合。

反知性主義者たちはしばしば恐ろしいほどに物知りである。一つのトピックについて、手持ちの合切袋から、自説を基礎づけるデータやエビデンスや統計数値をいくらでも取り出すことができる。けれども、それをいくら聴かされても、私たちの気持ちはあまり晴れることがないし、解放感を覚えることもない。(中略)彼らはことの理非の判断を私に委ねる気がない。(中略)「あなたの同意が得られないようであれば、もう一度勉強して出直してきます」というようなことは残念ながら反知性主義者は決して言ってくれない。(p.21)

さて……通常の知性的なやりとりというのは、それぞれがデータやエビデンスや統計数値を出して自分の主張の裏付けを行い、その主張の正しさを相互に確認し合うことだ、とぼくは思っている。データの見方や解釈はいろいろある。その分析の限界もある。それを踏まえることで、何が妥当と言えるのかを考えるのが知性の働きだとぼくは思う。

だが、内田のこの文は、自分はデータやエビデンスでは納得しない、と明確に述べている。何やら自分たち(知性の側に立つ人々)の気持ちが晴れないとか、解放感を覚えることがない、というのがその根拠だ。ところがこれはむしろ、ホフスタッターが述べた反知性主義者の基本的なスタンスだ。むずかしいことを言われてもよくわからん、煙に巻かれたような気がする、いや自分がバカにされたような気がする、よってオレは納得せん、というわけ。

そしてそのデータやエビデンスに納得できないのであれば、それを持ち帰って検討する、ということもできる。そこで何が言われているのかを勉強することもできるはずだ。ぼくはそれが知性的な態度だと思う。ところが内田のこの文は、とんでもないことを言っている。聞き手がそうしたデータやエビデンスを見ない、理解しないというのは、聞き手の問題でもある。少なくとも、対等に知的な議論をするのであれば。ところが内田のこの文では、聞き手は一切何の努力もしない。オレが納得しなければ、なんとデータやエビデンスを挙げたほうが「もう一度勉強して出直してきます」と努力を強要される……ぼくは、そうやって一方的にふんぞりかえって相手にあれこれ要求するだけの態度を知性的とは思わない。

早い話が、ガリレオカトリック教会を説得できなかったときに「それでも地球はまわる」と言ったという伝説があるけど、これは理非の判断を相手に委ねていないから、反知性的な態度だったのだろうか?ぼくはそうは思わないんだけどね。自分の分析とエビデンスに基づいて、自分の結論を明確に主張するのは、ぼくは非難されるべきことだとは思わない。が、内田の文によればそうではないらしい。

己の身体や感情のふんぞりかえりに甘んじている内田のこの文の主張は、それこそ本来のホフスタッター的な意味での反知性主義(それもその最悪の意味)だし、そしてまさにその文自身が主張したがる意味での反知性主義を自ら体現していると思う。

知的営為のプロセスに対する根本的な誤解

では、「反知性主義」という用語の不誠実な使い方を離れて、この文全体で主張されていることはどうだろうか。ぼくはそれもまったく評価できない。というのも、内田の文自身は、自分が反知性主義者たちに対して要求していることを一切できていないからだ。

内田の「まえがき」は、いまの日本のマスコミ、政治、大学、ビジネスといったすべてが反知性主義におかされている、という。だから集団自衛権とか秘密保護法とかが出てくるんだ、というわけ。そして、その反知性主義者どもは、いろいろデータやエビデンスを出して自分の主張を裏付けてくる。そしてそいつらは、それ故に自分が正しいと確信しきっている。だからよろしくない――

でも、これを読むとすぐに疑問が湧いてくるはずだ。

  • その相手は、データやエビデンス出してきて自分たちの主張を裏付けてるんでしょ? 内田の側はデータやエビデンスを出したんだろうか?
  • 相手が自分は正しいと確信しきっているからダメだ、という。でもその相手がそんなに確信しきっているとなぜわかるの?
  • 相手は相手なりに腑に落ち、納得してその立場を採っているのではないの?もしそうなら、相手だってそれなりに知的にふるまっていることになる。その可能性はどうして一切考慮されていないの?

さて内田の文を読むと、自分の側は自分なりのデータやエビデンスを出す、というプロセスはないようだ。相手がそういうものを出しても、自分が納得しなければ相手は反知性主義。こちらは自分なりのデータやエビデンスは出さない(らしい)。相手が確信しきっているというのも、こちらが勝手にそう思っているだけ。それって、データやエビデンスを揃える努力をしたからそれなりに主張に自信があるというだけじゃないの?それも検討なし。

気持ちはどうあれ、まずはデータやエビデンスは理解しようぜ。少なくともそのための努力はしようぜ。相手の言うことを聞くべきだ、というのはその通り。そして、たぶん自分の意見と正反対の主張が出てきて、しかもそれがきっちりデータやエビデンスで裏付けられていて、反論の余地がなければ、自分が否定されたような気になってとりあえずはむかつくのはわかる。人間というのはそういうものだ。そして相手に負けたような気がして、反発が起こるのもわかる。

でも、そこで自分の感情だの「腑に落ちる」だので判断をつけてはいけないのは当然じゃないか。別にその場で判断を下す必要はない。腑に落ちないまま、保留して持って帰っておけばいい。気になるなら、もっと相手の言ったことをチェックすればいい。だれかが、相手のデータやエビデンスに対する反論を出していたら「おおやっぱりあいつの言ってたことはウソだったか!」と小躍りし、それが否定されればまたがっかりし……その繰り返しが知性の働きでしょう。

そうした知的プロセスを、内田の文は一切否定する。ある主張の妥当性は、データやエビデンスとは関係なしに、その人の「腑に落ちる」とかなんとかで決まる。自分が納得しなければ、それは相手の勉強不足。自分は何らデータも証拠も提示せず、何も理解の努力せず、自分の存在を否定されたとかなんとかいじけるだけ。

そして、身体性がどうしたという話。ひょっとして、内田の文で「反知性主義」と断じられている人々だって、自分なりに身体的に腑に落ちたり、得心したりしてその主張を唱えているかもしれない、という可能性はないんだろうか? 逆に、内田の文で言う身体的なナントカというのが、実は全然身体的でない可能性というのはないんだろうか?あらゆる人の身体的な知性というのは、まったく同じでなければならないのか?

ぼくは、そんなはずはないと思っている。すばらしい成果はしばしば、実験したりモデルを組んだり作ったりしたら、思っていたのと正反対の結果が出てしまうことから生じる(クルーグマンIts Baaackリフレ論文とか、卑近ながらぼくのたかがバロウズ本とか)。そのとき最初の直感や身体反応は「そんなバカな」というものだ。そういう脊髄反射的な肉体反応に委ねず、本当に何かおかしいところがないのかあれこれ考え、逃げ道を全部閉ざされて途方にくれ――そしてやっとそれまでの自分の考えの不十分さがジワジワわかってくる。それがある意味で自分の身体に取り込まれ、かつての安定状態から新しい安定状態へと遷移する。ぼくはそれが最も知的な態度であり、本当の学習だと思ってる。それをすべて否定するのは、ぼくは知的営為そのものを否定しているに等しいと思っている。そしてそういう主張をしている文が己を「知性」の側に立つと思い込んでいるのは、ぼくはこっけいだと思う。

科学や数学の「予想」は別に永遠の真理などではない。

さてこの内田の文には、実に面妖な部分がある。

数学にはさまざまな「予想」が存在する。フェルマー予想フェルマーは「証明した」と書き残したが、久しく誰も証明も反証もできなかった。予想が証明されたのは360年後のことである。リーマン予想は予想が示されてから150年たった現在でも証明されていないが、多くの数学者はいずれ証明されると信じている。数学における「予想」の存在が示すのは、平たくいえば、人間には「まだわからないはずのことが先駆的にわかる」能力が備わっているということである。(p.31)

えーと。

内田のこの文は、数学(でも物理でも社会科学でも)、いやそれこをその他あらゆる日常生活でも人が行っている予想、つまり仮説をたててそれを証明/棄却する、という知的営為の基礎となる活動に関する、徹底的な無理解を露呈している。

そもそも内田はフェルマー予想リーマン予想って何なのか知っているのか、というのは追求しないでおこう(このぼくも、リーマンゼータ仮説よくわからん)。でも、別にこうした予想からわかるのは、「わからないはずのことが先駆的にわかる」なんてことではない。わからないことはわからない。それだけのことでしかない。だからそれは予想のままなのだ。ただ、そのわからない状態が長く続いているというだけだ。

人はみんな、常に予想/仮説をたて、それを証明/棄却しつつ人生を送っている。太陽が地球のまわりを回っているんだろうと思ったり、今日の宴会ではたぶん肉料理が出るだろうと思ったり、あるいはこのプロジェクトは少し工法を工夫すればコストが下がって採算ラインに乗るだろうと思ったり、気になっている女の子を映画に誘えばデートしてくれるかも、とか。そしてそれに基づき各種の行動を行う。さて、そうした予想の存在は、「わからないはずのことが先駆的にわかる」ことを示すのか? そんなバカな。というのも、その多くはまちがっているからだ。わからないことはわからない。それをわかろうとして、人は実際にそれが起こるまで待ってみたり、シミュレーションをしてみたり、モデルを組んだりする。 予想とか仮説はそのためのものだ。そして、それが大半は失敗する。なんか地球のほうが動いていると思ったほうがよさそうだったり、宴会は刺身だったり、頑張ってもプロジェクトは採算性がないままだったり、デートは断られたり。でも、それにより人はその分、賢くなる。それが人間の知的な営みのほぼすべてと言っていい。

内田のこの文はどうも、どこかに不思議な、肉体感覚でアクセスできる叡智の総体があるという変な信念に基づいている。だから人は、まだ証明されていなくても正しいことを直感的に知っている、と思っているらしい。そして、その叡智の総体は一つだから、自分が自分の身体感覚を持ってそれを理解しているなら、それと一致しないものはすべてまちがいでデマだ、と断言できる、というのが内田の発想だ。

でもそんなことがあるわけがない。短命な予想、長命な予想、いろいろある。その確認作業が知的な営為だ。肉体感覚で実はわかんないこともあらかじめわかってる、なんていう堕落した怠惰な発想は、知性と本質的に逆行するものだ。だからそれに時間がかかったことも、意味のある話じゃない。明日、ひょっとしたらリーマン予想が否定的に解決されるかもしれない。結局リーマン予想はまちがっていることが示されるかもしれない。そうしたら内田のこの文の議論はどうなるだろう。やっぱり先駆的にわかったりはしない、人間の能力ダメー、ということになるのか?そんなことはない。その予想の棄却もまた、偉大な知的成果とされる。

ぼくはこうした根本的な誤解が、この文を読むに耐えないものにしていると思う。

議論や主張について

なぜ内田の文は、こんなフェルマー予想だのリーマン予想だのの話を持ち出しているのか?その解決に長い時間がかかった/かかりつつあるからだ。そしてそこから内田の文は、知性というのは長い時間をかけた活動の一部だという自覚を持っているのだ、と主張する。ところが、反知性主義の連中は、目先の相手をその場で有無をいわせずその場で即座に論破しようとしている。それは知性的ではない。よって反知性主義の連中は反知性主義である、というわけ。

さて、すでに述べた通り、仮説や予想はいくらでもできては消えるものだし、解決に時間がかかったからその仮説や予想がえらいというものではない。が、内田の文はこの変な前提をもとに、こう述べる。

反知性主義者たちが例外なく過剰に論争的であるのは「いま、ここ、目の前にいる相手」を知識や情報や推論の鮮やかさによって「威圧すること」に彼らが熱中しているからである。彼らはそれにしか興味がない。

だから、彼らは少し時間をかけて調べれば簡単にばれる嘘をつき、根拠に乏しいデータや一義的な解釈になじまない事例を自説のために駆使することを厭わない。これは自分の仕事を他者との「協働」の一部であると考える人は決してすることのないふるまいである。(p.41)

これまた変な主張だ。彼らが本当にそれにしか興味がないか、どうしてわかるんだろう。そして彼らの主張が嘘や根拠レスなデータや不適切な事例に基づくなら、それを指摘すればすむのではないか? 協働というのは、ニコニコ仲良くやる必要はない。ケンカし、争いながらでもそれぞれの立場や立論を検証すれば、それは立派な協働だ。相手がいやがっていても、その発言をもとに協働はできる。相手の批判をうけてそれを批判する――それはケンカであっても協働なのだ

それに、ここで言ってることはさっきと全然ちがう。さっきは、データやエビデンスを出しても「オレが正しい」という態度だから反知性主義者はダメなんだ、と主張していた。でもデータやエビデンスが不適切だというなら、態度がどうしたとか言わずにふつうに反論すればいいんじゃないか?

が、内田の文はそういう整合性にはあまりとらわれない。ここでは「いま、ここ、目の前にいる相手」を「威圧すること」がよくないのだ、という主張をしたいだけで、それをさっきの、数百年かけたフェルマーやらリーマン予想やらに代表される(と内田の文が主張する)知性に対比させようというわけだ。

でも……フェルマーやらリーマン予想やらが、結果的に長年かかったとしても、それぞれの数学者はいま、ここ、目の前にいる他の学者に対してまずは自分の説を納得してもらおうとする。長時間かかるプロセスというのは、いま、ここ、目の前の積み重ねだ。

そして政治的な問題に就いての考え方はなおさらそうだ。いま目の前にいる相手を無視して、300年先にいるかもしれない人間を想定して、いつかだれかがわかってくれる、では意味は無い。いま目の前にいるこの相手を説得し、納得させて政治プロセスを動かさないと話にならない。そのために嘘をつくのはよくない、というのは規範として存在する。が、いま、ここ、目の前にいる相手を説得する、というのは別に特におかしなことではない。

内田の文の理屈が奇妙なのは、すごい長期の百年単位の学問的営為に対立させるのに、単になりふりかまわず相手を「威圧する」という道筋しか提示しないことだ。いま、目の前にいる人間を理詰めで説得する、という選択肢がなぜないの? 内田のこの文では、その選択肢がすっぽり抜け落ちている。そしてこれが内田の文に満ちあふれる、自分こそ知性の旗手でありその無謬性は疑う余地はないという話と結びつくと、出てくる議論は目を覆いたいほどのものになる。自分と意見がちがうやつは、反知性主義だ。データやエビデンスを提示されたりしても、自分が感情的に納得しなければ、それは相手の(相手の!!)勉強不足である。そしてまちがいを指摘されると、それは自分を高圧的に黙らせようとする威圧的な物言いだ、ということになってしまう。

つまり内田のこの文は、多少なりとも知的な議論をすべて拒絶し、自分の感情的反応だけを絶対として、自分の批判が自分自身にもあてはまるのではという疑念を一切持たない。それは、ぼくから見れば極度に反知性主義的な態度、それも最悪の意味での反知性主義でしかない。

これまでの内田樹の著作こそ反知性主義を体現している。

これは内田樹のこれまでの著作にも見られる態度ではある。内田樹のこれまでの一般向け著作は、街場のナントカ、おじさんのなんとか、という具合に、扱いのむずかしそうな問題に対し、常識的な素人の印象論に基づく議論を提出して見せた。これらはまさに、きわめて反知性的な身ぶりだ。そしてそれが必ずしも悪い結果を出すわけではない。たとえば初期の『ためらいの倫理学』などでは、一部のドグマ化しタコツボ化した思想に対して、非常にすっきりした見通しを出せていた。それが内田樹の著作のおもしろさだった。

だが、世の中には素人の印象批評では扱いきれない問題もたくさんある。そういうものに対して、内田樹の著作は完全に無力だった。たとえばかれの『街場の中国論』は、無知な素人の戯れ言に堕していた。

http://d.hatena.ne.jp/kaikaji/20070609/p1 (2019年に消えた。webciteの記録がこちら)

それでも、当初は内田樹の一般向け文章は、それなりのユーモアを維持することには成功していた。さらに、初期の『ためらいの倫理学』は、まさにその題名にある「ためらい」が、ときには浅はかな論調を救っていた。でも本書の文章では、そのユーモアやためらいさえない。己を相対化する視点も失い、ピントはずれの主張を生真面目に、何のためらいもなく断言するばかり。そして自分が知性であり、それに逆らう連中は反知性主義者であり、自分を威圧しようとしているのであり、デマゴーグであり陰謀論者であり、かれらの言うことなど自分の賦に落ちなければ一切耳を貸す必要すらないと言わんばかりの主張をはじめるに至っては、もはや何というべきか。

さて、次が白井聡の文だ。

(つづく)