ラジオトークの存在意義などについて

なんかこんど、ラジオのレギュラーコメンテーターやることになったのよ。

www.joqr.co.jp

サイトには出ていないけれど、ツイッターに出たからすでに解禁なんだと思う。番組全体が少し時間が遅れて長くなるとのこと。そしてその情報によると、山形は火曜の7:45あたりから、とのこと。ちなみにぼくの前が田中秀臣で、続いて山形になるらしい。

コメンテーターといってもニュースにいろいろつっこみ入れるだけなんだけど、2月末にゲストに呼ばれたとき、ミャンマーへのODA停止とテキサスの電力問題が主なニュースで、なんだかぼくの守備範囲ピンポイントであれこれしゃべれたので、使ってみようということになったんだと思う。だってミャンマーODA再開したときの一号案件の一つだった、ヤンゴン配電網整備やってたし、その関係で電力の話はネタがいろいろあるのだ。その意味で、あれはたまたまあの日のネタがラッキーだった、というのが大きいんだよねー。これからそんなにうまいこといくかどうか……

 

さらに田中秀臣-山形浩生って、火曜日はうっとうしい朝になりそうだなあ。大丈夫かなあ。

 

というのも、昔ラジオのおしゃべりについては少し想い出があって……

 

その昔、まだ前世紀で山形がほっぺの赤い新人だった頃、上司と客先に向かうときに駅からタクシーのったら、そいつが道をまちがえて、戻ろうとしたら渋滞にはまったのだった。で、約束時間に遅れそうだし渋滞はジリジリ (それが定義だから) だしで、タクシーの中では何かラジオがかかっていて何やら脳天気なことを駄弁っていて、そしたら突然、その上司が怒り出した。

なんでこのラジオは、こんなどうでもいいくだらないことばっかりずっと話してるんだ!

するとタクシーの運転手がこう言ったのだった。

お客さん、それはわざとそういうふうにやってるんですよ。ラジオって工場や飲食店で流したりするじゃないですか。そこで本当におもしろいことを言ってみんなが聞き入ったら、手がとまっちゃうでしょう? だから、まったく頭にひっかからずに素通りする、どうでもいいことしか話しちゃいけないんですよ。

上司はそれを聞いて「ほほーぉ、なるほどねえ、確かに」とうなずいてニコニコしていたんだが、ぼくは「てめー、何をえらそうに解説してやがる! あんたが道をまちがえたりしなきゃ、そもそもこんな渋滞にははまらなかっただろうが! 上司も何を丸め込まれてニコニコしてるんだ!」とさらに苛立ちをつのらせていたのだった。

で、客先についたら(当然遅刻) その上司がろくに謝りもしないうちに「吉田さん、ご存じでしたか、ラジオというのはですねえ〜」とさっきタクシーの運転手さんに聞いた話をそのまま受け売りはじめて、ワタクシはかなりいたたまれない気分になったんだが、まあ担当者レベルのうちあわせだったから、向こうも別に怒っているわけでもなく、ほほう、そうですかあ、という前振りになって無事うちあわせもすんだ。

 

ちなみにこの上司は、いい人だったんだけれど、その日の朝の日経で読んだことを、さも百年前から知っていたように客先で得意げに語る癖があって、向こうだって日経くらい読んでるからやめなさいよー、とぼくは毎回穴があったら入りたい感じだったが、お客さんは人によっては「ああ、今朝の日経にありましたねえ」とはっきり言うし (ニヤニヤ、という感じで言う人もいれば、おまえなあ、と呆れた感じで言う人もいた)、人によっては一応調子をあわせて「おおそうですかあ」と感心してくれる人もいて、うーん、ああいうのもグルーミングとしては少しは効いていたのかねえ。ちなみに、いまの新入社員とかは、日経を必ず読めとか言われるのかな?

 

が、閑話休題。この一件で、このラジオの意義みたいなものはずっと頭にひっかかっているのだった。だから、なるべく鬱陶しくない、みんなの手を止めないどうでもいい話に終始しないと〜。ちょうど出る時間が始業準備たけなわの頃だし……あと、多少は昔の上司みたいな人が受け売れるネタを入れる感じですかね。

クルーグマン「ミレニアムを解き放つ」:この道はいつか来た道

先日、「資本主義の行き詰まりがあちこちで見られる中で新たな経済思想は〜」みたいな話をきかれて、ぼくはちょっと言葉に詰まった。というのも、資本主義がそんなに行き詰まっているとはぼくは思っていないから、なのだ。

それで、ちょっと以前読んで気になっていたクルーグマンの2000年の文章を掘り出して訳してみました。

cruel.org

たぶんいまのクルーグマンは、掘り出されたくない文章じゃないかな。一読すればわかるけれど、資本主義と市場原理の勝利を明確にうたい、それ以外の経済体制はほぼ否定されたと断言する文章だ。もちろんぼくたちはこの後で、2007-9年のリーマンショック/世界金融危機に直面している。この文章にあるほどの楽観論をいま抱くのはむずかしい。たぶんクルーグマン自身もそう思うはず。

たぶん現在なら、やっぱこれを書いた時期でも歪みはたまりつつあって、格差は急激に拡大していて、環境が云々で、こんな話は甘すぎて話にならん、と言われるんだろうね。

でも……前半部分で言われている話。アジアの、日本とかいう国でやっていた政府主導型の経済の優位の話とか、最近中国について言われているような話とかなり似ている。それ以外の部分でも、いま「資本主義の行き詰まり」として言われていることの多くは、かつても似たようなことが言われていたんだというのがよくわかると思う。

そしてぼくは、ここで言われているような話がまた起こるとは思っている。いまの「行き詰まり」とか「オルタナティブ」とか言われている話がことごとく自滅的につぶれ、完全な自由放任ではないにしても、市場っぽい話がいまよりずっと説得力を持つ時期はくると思っている——少なくともそう見える時期はくる。

もちろんそのときには、もう少し警戒心は出回っているはず。この文章でも、別に何でも自由放任がいいとは言っていない。また、リーマンショックの原因となった金融分野の課題について、すでに目をつけていたのは慧眼ではある。ここでマイクロソフト独禁法裁判について論じられているような話が、GAFA対応で出てくるかどうかは見物だ。

でも、もしこういうのにある程度の周期性があるなら——変なナントカ波動とかは信じていないけれど——あと10年くらいで、こういう楽観論がまた復活する余地はあるとは思う。コロナからのリバウンド景気みたいなのを期待する雰囲気がそろそろ出てきていて、そんなのがきっかけに……はならないかな。でもいまくらいから、そうした次の市場拡大の元になる何かがでまわり始めるはず。次のタネに目を光らせておいても罰はあたらないんじゃないかな。

しかし久々にcruel.orgのほうで、html のモヒカン打ちしたけれど、昔のクルーグマン訳のページとかを見ると iso-2022-jp/JIS なんだねー。当時はユニコードutf-8が、日本文化破壊の米帝の陰謀とか石を投げられたからなあ。あと、この頃は日本のガラケーがすごくイケてると思われていたんだね。いろいろ変わったもんだ。それもいいほうに。

あと、pdf版はこちらにおいておきます。つーか、例によって同じディレクトリの拡張子だけ変えてくださいな。

コンドルセ『人間精神進歩史』なかなかおもろい。

ピケティの新著、翻訳鋭意進めております。その中で古い本がたくさん引用されてて、中にあったのが、コンドルセ

人間精神進歩史 第1部 (岩波文庫 青 702-2)

人間精神進歩史 第1部 (岩波文庫 青 702-2)

引用ヶ所の邦訳ページを調べなくてはならないので、古い本だけど入手して (古本で買って)、あまり期待せずにざっと読んだけど、おもしろいなあ。人間の精神がだんだん発展してきて開明的になってくるよー、という話で、とても明解。人が進歩すれば環境が変わり、その価値観もかわって、戦争とか迷信的な宗教とかに囚われることもなくなり、理性的な取引に基づいて公正な取引が主流になる、という話。

で、ピケティの本では、コンドルセはちょっとボケ役になっている。コンドルセの議論は、人間の理性が進歩すれば、バカみたいな財産への固執もなくなるから、格差は自然に解消されるよ、というもの。それについて、ピケティは次のように語る。

たとえば、「急進派」コンドルセ『人間精神進歩史』の、次の楽観的な一節を見よう。「もしも民法が財産を固定化し、それを併合するような不自然な手段を定めないならば、もしもあらゆる禁令や租税権が既得財産に対して興えていた利益が商業や工業の自由のために、消滅するならば (中略)、財産は自然に平等へと向かい、その過度な不均衡はあるいは存在することができなくなり、あるいは急速になくならなければならぬということを、證明することは容易である」 。言い換えると、特権や科料を廃止して、各種職業や財産権へのアクセス平等を確立するだけで、既存の格差はすぐに消えるというわけだ。「特権」廃止から1世紀以上もたった第一次世界大戦前夜に、フランスの富の集中は革命期よりも激しかったという事実は、この楽観的な見方が残念ながらまちがっていたことを証明している。(強調引用者)

うん、この引用部分だけを見ると、確かにそんな感じはする。民法の変な規制や財産保護廃止とアクセス平等、つまりは規制緩和ってことね。それですべてが解決ってわけはないよね。昔の人はおめでたいなあ。が……

ピケティがここで「確立するだけで」と言うのは、かなりずるい。というのも、この引用の中に「(中略)」という部分があるのに注目。実は、ここのところに他にもものすごくたくさんの条件が書かれているのだ。それを挙げると:

 

  • 契約の自由が制限されないこと
  • 契約に伴う形式やその遵守その他のための費用が貧乏人にとって過大でないこと
  • 国家の政治が、資源を一部の人だけに独占させないこと
  • 歳寄りの偏見と貧困な精神が結婚を支配しないこと
  • 人の意識が高まって、富が虚栄や野心の手段でなくなること
  • 蓄財がそれ自体楽しみでなくなり、貯め込みをよしとする風潮がなくなること

 

これだけそろって、やっと富の格差は均等化するのだ、とコンドルセは言っている (コンドルセ『人間精神進歩史』第一部 岩波文庫 pp.256-7)。全然「だけ」じゃないじゃん! これを抜かして、コンドルセ規制緩和だけで格差解消すると言ったのだ、と論じたら、コンドルセの立場がないわな。彼もそこまで単純ではなかった。ある意味で、ここに書かれている国の政治による一部の独占とか、富が虚栄や野心の手段とか、ピケティ自身が展開する議論のかなりの部分をコンドルセは先取りしているとさえいえる。

もちろんピケティは、コンドルセ累進課税的な再分配のアイデアを出していることも含め、先駆的な論者としてコンドルセを充分評価しているけど、もうちょっとフェアな紹介の仕方をしてもいいんじゃないかなー。フランス語ではもちろん、文の構造から「財産は自然に平等へと〜」という後半の部分が先頭にくるので、この中略の部分が省略されていることすらわからない。せめて引用部分の最後に(後略)とつけるのが礼儀じゃないかなー。

そしてそれも含めて、コンドルセって結構おもしろいわ。確かに、人間の精神的な進歩で世界が改善するという希望を、非常にストレートに述べた本で、お目々キラキラな感じはしなくもない。この本を見ると、格差もなく偏見もなく平等と理性の理想郷があと10年もしたら実現するような雰囲気ではある。が、別に10年で実現するとは書いていない。上に述べたところでも分かるとおり、かなりきちんと考えてはいる。彼が予想したほどいろんな条件がすばやくはそろわなかったのは事実だけれど、それで責めてはかわいそうだ。

そしてその後、さんざんニヒリズム流行りの中、変な悲観論と絶望と革命待望論みたいなのが蔓延する中で、この楽観論は一周回って新鮮ですらある。そしてこれはもちろん、ピンカーやロンボルグ等の進歩と啓蒙主義重視と重なるものでもある。

トランプごときがしゃしゃり出てきた程度で、ポピュリズムだ民主主義の敗北だ反知性主義(まちがった意味の)だとか騒いで絶望するなんて、オメーらおめでたすぎるし腰がすわらなすぎだよ。揺り戻しはあっても、長い超長期のトレンドを信用しようぜ、という話。コンドルセのこの本は、文明草創期からずっとふりかえって、その精神がだんだん進歩してきた話を描いている。そんな単純なものじゃないぜ、とケチをつけるのは簡単ではあるけれど、でも大枠はまちがってはいない。その発展が必然だったかはわからないけれど、でも偶然だったにせよ、こういう発展を遂げたことには感謝するべきだし、それを今後発展させるにはどうすればいいかについて、可能性は把握すべき。

進歩

進歩

ちなみにこの『進歩』を見ると、1950年代や60年代に蔓延していた、人権や平等や民主主義への絶望と懐疑論みたいなのが書かれていておもしろい。バカな独裁国ばっかり増えて民主主義もうダメだー、みたいな話がずーっとあったんだって。でもそれがあるとき突然、一気に情勢が変わった。なんかこう、断続的平衡というか、レーザーのコヒーレント光みたいなというか、いろんなところの条件が揃ってきたところで、せーのでみんな一気に変わることが、昔もあったしこれからもあるのでは? 今後も、お手軽な絶望よりは、その可能性を考えた方がいいんじゃないかな。

と、そんなことを考えさせてくれる本ではある。まあ、無理して読むべき本かといえば、そんなことはない。でも、ついでがあったら、読んで損する本では決してないよ。第二部では、教育の役割とかについてもいろいろ語られていて、いい感じ。

内容のまとめは、ここがとてもよい。背景説明もとても詳しくてありがたい。

www.eonet.ne.jp

トマス・ペイン『土地をめぐる公正』Agrarian Justice 元祖ベーシックインカム!

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トマス・ペインのAgrarian Justice、よく題名の直訳で、「農民の正義」とか紹介されているので、農地改革のすすめかなんかだろうと思って読みはじめたら、ぜんぜんちがいました。

なんと1795年の段階で、ベーシックインカムの必要性を実に明解に訴えた先駆的なパンフレット。そして、その論理はきわめて明解。創ったり相続したり買ったりしたものが私有財産というのは認めよう。でも、土地ってだれも作ったものじゃないよね。だから土地私有っておかしいよね。土地に対して、耕作して付加価値つけたら、その分は当然ながら、あんたの働きによるものだから私有できる。でも、いまの土地私有って、その改良を土地そのものと分離できないからって、本来あんたのものじゃない土地自体まで私有してるよね?

だったらその部分、相続税の形で社会に還元して、それを土地という共有財産を奪われた人たちに、ベーシックインカムとしてあげようぜ、というもの。

ベーシックインカムについて、しょっちゅう出てくる反論が「そんなの、何もしてないヤツにお金あげる根拠がないよね」というもの。それに対して、ペインは220年前にすでに、きちんと根拠を出してきた。すげー。

そして実は、土地の話から最後になって「これは土地以外の相続資産にもかけているけれど、それは人の財産は必ず社会のおかげだからだ」という議論にまで話を拡張している。でも土地の部分がかなりもっともらしいので、そこのところも結構納得できるものになっているのはすごい。

というわけで、なんか翻訳があるんだかないんだかわからないし、探すのも面倒だったから、短いし訳してしまいました。

『土地をめぐる公正』 https://genpaku.org/paine/agrarianjustice/PaineAgrarianJustice_jp.pdf (pdf、175kb)

 

『土地をめぐる公正』 https://genpaku.org/paine/agrarianjustice/PaineAgrarianJustice_jp.epub (epub、88kb)

 

『土地をめぐる公正』 https://genpaku.org/paine/agrarianjustice/ (html、55kb)

すごい短いので数時間。

それと、古い人の文って本当に面倒でややこしくて一つの文が長ったらしくて辟易することが多いけれど (ケインズも相当だけれど、その中に出てきたヒュームの引用とか、ちょっと倒れそうだった)、このペインの文章の簡潔さ、明解さ、気取りのなさはほとんど異常。それでいて、立派な理念をこめた格調高い文章でもある。アメリカで『コモンセンス』とかベストセラーになったのも、当然だわ。

 

井上智洋に送りつけて、「いま頃ベーシックインカムとか、200年古いぜ、やーい」と嘲ってあげようと思ったら、当然ながらとっくに知ってるみたいで著書でちゃんと言及してました。アッハッハ。さすがです。

この冒頭あたりでペイン「土地分配の正義」という名前で紹介されている。でも、読めばわかる通り、土地分配の話じゃないんだよね。

ちなみにこの本、本当の題名は

土地配分法および土地独占に反対するものとしての

土地をめぐる公正

人間の条件を改善するため、あらゆる国に国民基金を構築し、あらゆる人物が21歳の年齢になったときに15ポンドを支払い、彼または彼女が世界を始められるようにして、さらに50歳のあらゆる人に、その後生涯にわたり年10ポンドを支払い、今後その年齢に到達した人にも同様にして、高齢でも貧窮することなく、尊厳を持ってこの世から去れるようにする計画

というもの。ぼくは、こういう、読むだけで中身の要約になっている長い題名が好きなんだよね。題名って本来、そうやってきちんと中身がわかるべきだと思わない? 中世の「神の存在を天空の星の運動から疑問の余地なく証明し、天が動くという迷妄を完膚なきまでに論破したすばらしい論考」とかいった題名とか、中身の見事な要約になっている古い小説の章題とかって実に有益だし、復活してほしいと思うなあ。 これを読もうと思ったのは、格差イデオロギーへの初期の挑戦としてピケティの新著で言及されていたから。で、こちらも鋭意進めております!

ケインズ『説得論集』全訳終わった。(そういえば昨日はバレンタインデー)

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いろいろ忙しくなってきたので、例によってケインズ『説得論集』の全訳をあげてしまいました。1931年の原著すべてプラスアルファになっております。

J.M.ケインズ『説得論集』pdf 1.3MB https://genpaku.org/keynes/essaysinpersuasion/JMKessaysinPersuasionj.pdf

 

J.M.ケインズ『説得論集』epub 0.3MB https://genpaku.org/keynes/essaysinpersuasion/JMKessaysinPersuasionj.epub

そこそこ有名な文も結構入っているし、当然ながら既存のどの翻訳よりもいいとは思う。まあお楽しみあれ……って、いろいろ訳してるけど読んでいる人が何人いるのやら。

 

追記:そういえば昨日はバレンタインデーだったのね。チョコをもらえなかった人、あげられなかった人たち、どうぞー。

 

追記その2:結局、割愛していたものも全部やってしまいました。いまは全訳版が上がっております。

シュレーダー/石岡瑛子『MISHIMA』に見る、石岡瑛子の弱点:すべてを見せないと気が済まない!

こないだ石岡瑛子展にいってきて、大正解だったというのは前に書いたとおり。何やら終わり近くは連日満員だそうで、ご愁傷様です。

cruel.hatenablog.com

さて、そこでも書いたことだけれど、その中であのMISHIMAの金閣寺が、ちょっと浮いていて空回りしている感じがした。でも実はぼくはMISHIMAは観ていなかった。公開当時、右翼に脅されて上映中止になり、なかなか観る機会がなかったこともある。そして……あんまりおもしろそうでなかったから。そもそも三島由紀夫があんまり好きではないのと、映画自体についてもそれほどのもんじゃない、という評判を聞いていたこともある。

その一方で「それほどのもんじゃない」評の半分くらいは、右翼が目の色変えて止めなきゃいけないほどのものじゃない、という主旨だった。でも「それほどのもんじゃない」のが、ある政治的な見解の描写なのか、映画そのものなのかはわかっていなかった。が、それをわざわざ確認するためだけに観るのもねえ。「こいつは是非とも観ておきなさい」という声が全然聞こえてこなかったので、家にクライテリオン版のDVDはずーっとあって、いつか観ようかなー、と思いつつ観ていなかった。

でも石岡瑛子展を観てから、これは観なくては、という義務感にかられて、先日観てみましたよ。

www.amazon.co.jp

そして、予想通りというべきか、あんまりおもしろくなかったし、映画としてもそんなにいいとは思えなかった。そしてそれは、ある意味で石岡瑛子のせいだ。

それは一言で、石岡瑛子という人は広告出身なので、一枚の絵/グラフィック/一瞬のCMの中で、すべてを見せ切ろうとするころからきている。

その彼女の見せ方はすごい。ほとんど鬼のような見せ方。でも、表現というのは、必ずしもすべてを見せる必要はない。というより、見せてはいけない場合も多い。映画は特にそうだ。むしろずーっと何かを見せないこと、時間の中で少しずついろんな側面が見えてくること、それにより世界が生まれ、人間が描き出される場合も多い。

でも、石岡瑛子にはそれはできない。すべて、一瞬で、一枚で、全部出さないといけない。それがこの映画を、ほとんど映画とは呼べないものにしているように思う。

そこらへん、このDVDに入っているメイキング(七割は石岡瑛子が喋ってます)を観ると事情がよくわかる。

この映画は、三島由紀夫自衛隊に乗り込む日を追いつつ、彼の生涯を、その作品と重ねつつ描き出そうとする。最初は『金閣寺』、次に『鏡子の家』、さらに『奔馬』だ。そして、その映画内小説の部分を舞台として描き出している(それを提案したのは石岡だそうだ)。

そのそれぞれについて、石岡はあるテーマカラーを決めて、それにあわせて実に見事なセットを作る。それをスチルで観ると、すばらしい。

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Mishima: 金閣寺

明解なテーマ、思想、表現したいこと、その見事なエグゼキューション。本当に文句のつけようがないところだ。

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http://www.thegorgeousdaily.com/wp-content/uploads/2018/07/Set-design-by-Eiko-Ishioka-for-Mishima-8.jpg

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どのスチルをみても、彼女の表現したいことが充満していて、すごい。

でも……

ある意味で、その充満ぶりがまさに、このダメなところだし、石岡のよくないところが露骨に出てしまっている。彼女は広告系グラフィックを経てきていて、その感覚が染みついている。だからあらゆるところで、広告系グラフィック的に一画面に全部詰めこんでしまう。でもそれは、絵であって映画じゃない。時間がたつ中で何かが浮かびあがってくる感じがない。どの場面もオープニングだけは印象的だ。でもその中で俳優たちが何かやっても、それが全然浮かび上がってこない。ほとんどの場面で、役者たちはセットの引き立て役で終わっている。

動きがないわけじゃない。たとえば次のところ。

http://www.thegorgeousdaily.com/wp-content/uploads/2018/07/Set-design-by-Eiko-Ishioka-for-Mishima-2.jpg

この場面の直後は、本当に息をのむ。だけれど……これもやはり、CM的な見せ場なのだ。その一瞬の驚きだけで終わってしまう。

おかげでこの映画は——いや石岡の関わったあらゆる映画や舞台はそうだ——まるで奥行きがなくて、あらゆる瞬間に表現されるすべてがずーっと表示され続ける。それがこれを、とっても押しつけがましいうるさい映画にしていると思う。

そしてメイキングによれば、彼女は最初、三島は嫌いだから断ろうとしたそうな。でもポール・シュレーダーが、あんたの三島を描くんじゃなくて私の三島を描くんだから、それでいいんだと言って引き込んだ、とのこと。でもいつのまにか、これは完全に石岡の三島になってしまい、正直。ポール・シュレーダーがこの映画で何をしてたのか、ぼくにはわからん。

https://p1.storage.canalblog.com/10/99/110219/27629626_p.jpg

奔馬のこの画面、鳥居が傾いている。これは石岡が、三島と神道の関係は歪んだものだったと思っていたので、それを表現したかったんだそうだ。それはいいんだが……これってあなたは表現しないはずの映画だったんじゃなかったっけ。

そしてそしてこのスチル、どれを観ても表現したいことはとても明解。だけれど、表現したいことの中で、その場面に明示的にあらわれていないものはまったくない。だからそれぞれの場面が終わって、その最後の日の三島の映像にもどったとき、まったく石岡のつくった映像とそれ以外のものをつなぐものがない。広告屋として、彼女は自分の作品の中でメッセージを完結させて、後に何も遺さない。だから、最後の場面で、各作品の自害場面をそこだけ切り取ってここでいちいち全部流さないと、つながらない。

広告やCMならそれでいい。でもそれは長編映画じゃないよなー。そして戻ってくると、緒形拳演じる現実世界の三島を描く、ドキュメンタリー仕立ての部分がきわめて平板で工夫がなく、まったく印象に残らない。覚えているのは、冒頭の場面で緒方の着ていたローブが妙に浮いた変な空色っぽい青だったことくらい。

それでよかったのかもね。三島にとって、現実世界の希薄さと小説世界の濃密さの対比みたいなものを出したかったのなら、まあ成功といえるかもしれない。最後に、切腹でそれがある意味で一体化しました、彼の描いてきた小説の中の各種自殺がすべてそこに集約されましたというのを言いたかった……のかもしれない。が、それがいささか何の工夫もなくそのまま出されるのは、ずいぶん鼻白む思いだし、その解釈自体がかなり陳腐、だわな。

そうしたテーマ性にも深みがなく、石岡瑛子の部分もショックはあるけれどやはりきわめて単発的なメッセージと表現での表面のギトギトした色でタコ殴りだらけで、それをずーっとフィリップ・グラスのジャカジャカした音楽がうるさく覆っていて、これまた全体の浅はかさをさらに強調している。

いや、まさにそういう深みのなさ、表層性こそがこの映画の表現したいことだったのだ、という考え方はあるだろう。が、ぼくはむしろ、ポール・シュレーダーとか、これを何やら深みのある表現だとかんちがいしてるんじゃないかと思うし、だからあまり成功している映画ではないと思う。

そして、彼女のかかわった映画や舞台ってみんな、そういう深みとかのまったくない、うわっつらの作品だわな。シルク・ド・ソレイユは、それでまったく問題なかった。ビヨークのPVも、CM的な技法がとてもよく活かされてよかった。でも他は、石岡の衣装やセットだけあれば、あとは映画自体はいらないものばかり。その意味で、成功しているとはいえないが、彼女にとっては映画は自分の表現の乗物でしかなく、それ自体として成功しようと失敗しようと、それは自分の知ったことではなかったんだろうし、確かにその通り。

その意味で、異常なバランスの変な作品としての面白さはあるんだが、やっぱそれはどれも失敗作と言わざるを得ないと思うんだ。石岡瑛子が本当にすごいからこそ失敗してしまっているという……

 

あとメイキングで一番面白かったのは、石岡が自分は日本映画の因襲と戦った、みたいなことを主張すること。パルコを経てきてるから、東映だか東宝だかのセットに出向いたときは、上から下まで髪もメイクもファッションもビシッとキメていったら、映画の裏方たちはみんなむさ苦しい薄汚いオッサン集団で、「なんだこいつ」と思われてなかなか受け容れられなかったそうな。で、彼女はノーメークでいちばん地味な服を着るようにして〜だそうな。彼女はそれを、日本の古い映画業界体質と自分が戦った、みたいに言うんだが、いやあ、単に裏方のはずの人が出しゃばってるのでドン引きされただけだと思うなあ。

というわけで、このクライテリオンのMISHIMAのDVDを見るときは、メイキングは必ず見るように!

あと、関係ないけどもう一つ。三島由紀夫は特に好きではないが、みんな『金閣寺』の前半くらい読んで、弱者アピールで同情から後ろめたさを引き出して相手を支配する手口については理解しておくべきだと思う。

スターリン=ウェルズ対談:当時の論争

以前、H・G・ウェルズによるスターリンのインタビューの翻訳を載せたら、それなりに好評を博した。

cruel.hatenablog.com

その後、ちょっとまた別の興味でケインズ全集を見ていたら、なんとこのインタビューへの言及があって、ケインズがこれにコメントをよせているという。なんか、あのインタビューをめぐって当時(というのは1934年)論争があったとのことで、それへの寄稿。全集の収録の文章だけでは文脈がよくわからなかったので、そのパンフを探して、忙しかったので全訳してしまいました。

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『スターリン=ウェルズ対談をめぐって』(pdf,1.6MB)

 

『スターリン=ウェルズ対談をめぐって』(epub,0.5MB)

バーナード・ショーがコメントをつけて、それについてウェルズとケインズ(とエルンスト・トラー)がさらにコメントする、という形式だけれど、何かまったく得られなかったすごい知見が得られるわけではない。議論の常として、特に話が深まるわけでもない。

ただ、バーナード・ショーというのが、どうしようもないバカだというのは実に如実にわかるのはすごい。最初、賢そうに聞こえるんだけれど、だんだん議論が進むうちに、彼が単なる教条主義者で、自分がマルクスを超えたすごい社会主義理論家だと確信しているうえ、ムッソリーニスターリンどっちも大支持という、まあ単なるアレですなー。ついでに、彼が反ワクチン主義者だというのもいろいろ見ているうちに知りました。現代なら、陰謀論にはまってツイッターでトランプ支持でコロナマスク反対してたことでしょう。

それとウェルズはもうちょっとがんばろうぜー。論破されたネラーみたいなみっともない真似してないでー。ぼくはSFファンだし、HGウェルズは本当に偉大だと思っているので、もっとキメてほしいぜ。

あと、ケインズがいまいちキレが悪いんだけれど、その中でさりげなく、すごいことを言っているのは注目ポイント。当時はただのはったりと思われただろうけれど、この二年後に出るのが……