キューバの経済 Part2: 経済の「効率性」とは?――物流と『ザ・ゴール』

はじめに:社会主義の「いいところ?」

前回の、憲法改正の話を書いたら、はてなブックマークに「社会主義のよいところも書くべき」というコメントがついて、ぼくは少し驚いた。えーと、どんなところが「いい」と思ってるんだろうか?

強いて言うなら、格差が公式にはあまりないのはいいことかもしれない。が、あらゆる社会主義経済の常として、その低い格差は、全体を抑え込むことで実現されているものだ。配給制により、衣食住は一応だれにでも確保されることにはなっている。でも、特に住では、物件ごとにロケーションも質もちがう。いいところに住めるかどうか? それは平等ではありえない。結果として、土地利用とか変な無駄だらけ。都心国会議事堂の真向かいに、おんぼろの、ぼくたちから見ればスラムみたいな住宅があり、そしてキューバ最大の商業目抜き通りである、オビスボ通りのど真ん中に、こんな服飾の縫製工場が平気である。日本で言えば、銀座の松屋のあるところに、スマホの組み立て工場があるくらいの感覚かな。

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オビスボ通りど真ん中の、グアヤベーラ縫製工場。一着40-60ドルくらいで、安いし正装にもなるので便利。

社会主義では、乞食も浮浪者もいないはずだけれど、実際にはそれに相当する人は見かける。そして一方で、格差はやっぱり存在している。外貨を稼げる立場の人は豊かだ。持てる人、持てない人の差ははっきりある。

これは局所的な現象だとは思わない。こういう話は、旧東欧、ソ連のあらゆるところで見られたものだ。ぼくはこれが社会主義の避けられない帰結だと思う――ボリシェヴィキたちが考えていたように、本気で人間が進化して「新しい人間」にでもならない限りは。

ボリシェヴィズムと“新しい人間”―20世紀ロシアの宇宙進化論

ボリシェヴィズムと“新しい人間”―20世紀ロシアの宇宙進化論

ぼくはSFマニアでもあるので、こうした「新しい人間」とかいう発想それ自体は好きだし、チャールズ・ストロスとかが言うような、計算能力の向上に伴う社会主義計算論争の逆転といった発想も、そろそろ真面目に考えはじめていいとは思っている。とはいえ、現状の各種インフラでそれを主張するのは、無謀じゃないだろうか。

が、ちょっと先走りすぎた。それと、社会主義のいいところはさておき、キューバはいいところではあるんだ。あちこちでこんな光景があるのはホントに楽しい。若者もジジイもおっさんもおばさんも、みんな踊れる。かっこいい。


Salsa in Havana

もっとも、最近の若者は、ラップとかに走ってサルサなんかやらないので、だんだん踊れなくなってきてるんだって。「若者のサルサ離れ、深刻に」というわけね。

あと、フスターランド、楽しいでー。都心から遠くて車片道20ドルほどかかるから、群れてでかけるのが正解。

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フスターランド

芸術家のフスターさんが、自宅をタイルモザイクの作品化したら、隣近所の人も「うちもやってー」と依頼して、やがて町全体がアート作品になったところ。

フスターランドの屋上

が、閑話休題

1. キューバの暮らしの片鱗

社会主義経済の話をするため、まずここらの生活の片鱗からご紹介しよう。前回述べた通り、外国人は基本的にはキューバ人の個人宅には行けないから、実態といっても、町歩きでかいま見る程度にはなってしまうけれど、何週間もいれば少しずつ見えてはくるものがある。

まず、食べ物。前回も述べた通り、は配給だ。町のあちこちには、こんな配給パン屋さんがある。

町のパン配給所。同じ丸パンが果てしなく並ぶ。
町のパン配給所。同じ丸パンが果てしなく並ぶ。

人々はここに配給手帳を持って、もらいに出かける。パン以外にも、多くのものが配給で提供されているはずなんだが、それもやはりこういう配給所がある。

キューバの物資配給所
キューバの物資配給所

するとどうなるだろうか。配給手帳で対応できる品には当然ながら、限りがある。無数に配給手帳を揃えるわけには、いまはいかないものね。そのうち配給アプリとかができれば、そんなことも可能になるのかもしれないけれど…… ということはつまり、配給される商品も限られるということだ。そしてそれはつまり、食べ物、ひいては料理も大きく制約されるということだ。毎日、毎食、ほぼ似たような食べ物となる。

黒い豆入り炊き込みごはん白米に豆の煮込み黄色いごはん
キューバの昼ご飯のバリエーション

キューバの主食は基本は米で、キューバ人に言わせると「米のない食事は食事ではない、それはスナックにすぎない」という。米、豆、根菜、豚肉か、鶏肉――おおむねこれがキューバの一般的な食事のすべてだ。つまりはこれが三食すべて。ご飯が黒いか、黄色いか、白いかとか程度の差はあるけれど、その程度の差だ。

そして、この写真を見てもわかる通り、緑の野菜はあまりない。キュウリとキャベッツくらいだ。おそらくは、後で述べるように物流的な制約があるからだ。キューバから日本に帰ってくると、毎日店頭にほうれん草やキャベツやレタスが普通に並ぶのがいかにすごいことか、改めて感じられる。低温輸送のインフラ、確立した定期的な大量輸送手段、そしてそれに伴う保存手段――それがあって、始めて緑の野菜が店頭に並ぶのだ。

キューバの農産物は、農薬も殺虫剤も使っていない。その意味では、有機栽培ではある。でもそれは別に、何やら信念があってのことじゃない。肥料や殺虫剤を買うお金(外貨)がないからだ。そもそも有機栽培も無農薬栽培も、栄養的に何ら意味がなく、むしろ環境破壊の元凶でしかない。そして肥料も殺虫剤もないから、キューバの市場に並ぶ作物は、どれも小さくて貧相だ。食用バナナも、黒くなっていないものは一つもない。日本ではたぶん店頭にだせないような代物や、あっても売り切り特価セールの棚に三袋100円で叩き売られているような代物ばかりだ。有機栽培の食べ物が美味しいとか思ってる人がいるけど、そんなことはまったくない。海原雄山がどんなご託をこねようとも、動物も植物も栄養状態がいいやつのほうがうまいんだよ。

キューバは他に野菜がないから、そんなものでも喜んで食べる。でも一週間もいると、「ああもっと野菜が食いてえ」と思って、チャイナタウンと称するところにでかけて、すさまじく後悔するのがアジア人種の常だ。

ちなみに、配給品は全国だいたい同じらしいので、ご飯も全国どこでもこんなものだ。地方色なんてものはない。あるとすれば、野菜とかは地方部のほうが地産地消なので豊富だったりするくらい。

食べ物以外の日用品はどんな感じだろうか? あらゆるものが配給というわけじゃない。でも、一般的な店舗はこんな感じだ。

ハバナ:町の雑貨屋さん

なんか……非常に寂しい感じでしょう。実はこれですら、かなり品が豊富なほうだ。今回、地方部をまわったのだけれど、いっしょにいったキューバ人たちがあちこちでどうでもいい(とぼくたちが思うもの)を買いこむので、かなり驚かされた。「調理酒があったから買った」「洗剤があったから買った」「卵があったから買った」という。なんか特殊な洗剤や卵か? いいや。でも、ハバナには出回らないことも多い。あるときに、ある場所で買っておかねばならないんだって。

町の卵売り
町の卵売り。同行したキューバ人は、全部まとめて買っていた。

これは庶民で、少しお金持ちだと外貨が使える高級スーパーがある。その中はこんな感じだ。

ハバナの「高級」スーパーの棚

多くの人はこれを見て、なんか異様な印象を受けるはずだ。ぼくも、店に入った瞬間に「とんでもないところに来た」的な感覚の出所がわからずしばらく腕を振り回したりしてた。

その違和感は、棚がほぼすべて同じ商品しか並んでいないことからきている。ついでに、棚に妙に空きがあるのも違和感のもとだ。

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高級スーパー

日本のコンビニは、千種類くらいの商品をおいていると言われる。この結構大きなスーパーは、他の棚もすべてこの調子。全部で100種も商品があるかどうか。

さて、これで何が主張したいかといえばもちろん、こうした商品選択の幅の少なさは、食事を始め生活の幅を狭めちゃってるよね、ということだ。そしてそうした選択の少なさは、つまりは生活が貧しいということでもある。一人あたりのGDPや所得が低いというだけじゃない。生活の質も制約されるということだ。

2.選択肢と豊かさ

さてそれを聞いて、もちろん左翼がかった人々や、卑しいエコ思想に汚染された人は言うだろう。「いや、こんなのは貧しいとはいえない。店の商品が多いから生活が豊かということにはならないぞ」と。いやそれどころか「強欲な大企業による、くだらない押しつけられた選択肢に惑わされず、冒頭で紹介したようにみんな踊ったり、卵売りの写真の背景にいる人みたいに自分で楽器を楽しんだりできることこそが、真の豊かさではないのか!」

そういうことを人ごとで言うのは簡単だ。そしてぼくも『選択の科学』とか読んでいるし、なまじ選択肢が多いのが幸福なんだろうか、としたり顔で言うのがかっこいいと思う気分もわかる。そんな洗剤百種類もいらないだろう。ポテチも三種類でいいはずじゃないか。目先の選択肢にまどわされ、ぼくたちは本当に大切なものを見失っているのではないでしょうか、もう一度真の豊かさとは何なのかを、ぼくたちは考え直す時期にきているのではないでしょうか、というわけだ。

選択の科学 コロンビア大学ビジネススクール特別講義 (文春文庫)

選択の科学 コロンビア大学ビジネススクール特別講義 (文春文庫)

でもそういうことを言う人の多くは、その揃っている少数の品揃え中に、ご自分のお気に召すものが入っているというのを当然のように前提としている。そういう人に限って、二枚重ねのトイレットペーパーがないとか、ポテチのBBQ味がないとか、そういうことでグチを言い出すのだ。あくまで一般論ね。もちろん、これをお読みのあなたはちがうかもしれないね。でも豊かさを問い直そうとか言う人が、豊かさを前提としてしかあり得ないようなアイテムや活動にやたらにこだわる、というのはよく見かける現象なのだ。ちなみに、「豊かさを問い直すべきではないか」という人はほぼすべて、他人に上から目線で「べきではないか」と言う自分に酔っているだけで、本当にそれで豊かさをまともに問い直し、そして自分自身が貧乏生活に甘んじようと決意した人なんか誤差範囲でしか存在しない。あるいは、もともと貧乏な人がやっかみで口走ってるだけだ。

そして多すぎる選択肢が問題だ、という人は当然ながら、それに対する対案として、適正な数の選択肢、というようなことを漠然と思っている。でも、その「適正な数の選択肢」の中に自分の好きな選択肢がある保証はあまりない。多すぎる選択肢は実害があるかもしれない。それを実証する実験は確かにある。でもその実害は、自分のほしい選択肢がない実害と比べてどのくらい大きいのか? ぼくはそれをきちんと見たことがないように思う。

実は、多すぎる選択肢の反対は、適正な選択肢ではない。それは、選択肢の欠如であり、品不足だったりするのだ。つまり選択肢が限られるということには、もう一つ大きな弊害がある。その限られた選択肢がなくなったら? そのカテゴリーの商品はまったく存在しなくなるのだ。そしてこれは、キューバではよく起こることだ。ぼくがいたとき、なぜか便座のふたがどこにもなかった。キューバの人は、アフリカ黒人の血も入っているので、尻がでかい。だからみんなすわって割れちゃったのかな、と仲間内では冗談を言っていたけれど、便器に直接すわるのはイマイチ気持いいものではない。

便座くらいなら、まあお笑いかもしれない。でもぼくがいたとき、国産ビールがしばしばなくなった(国産ビールは二種類しかない)。塩がなくなったり、卵が手に入らなくなったり、洗剤が消えたり、いろんなことが起こる(だからキューバ人の同僚たちは地方で、「そんなのここで買わなくてもいいじゃん」というようなものを、しこたま買いこんだ)。

そして、これはある種、予言の自己成就みたいな現象を引き起こす。いろんなものが、いつ売り切れるかわからないとなったら、みんなどうする? もちろん買いだめするだろう。キューバ人だって同じだ。水も、ビールも箱買い。卵も百個単位で買う。そんな具合に、品不足だと思っているので、人々があるものをまとめ買いしてしまい、すると店の商品はすぐなくなって、本当に品不足になるわけだ。

おもしろいことに、そうした商品は必ずしもまったくないわけではないようだ。実は同じ市内のどこかの店には、山ほどあったりする。すると、どういう具合か知らないけれど「今日はあそこにビールがあるらしい」という噂が流れて、人々が殺到したりする。そしてみんな箱買いしてそれがすぐに消え去る。

そういう状態なので、あらゆる状況では供給側のほうが強い。ほとんどあらゆる店には、門番がいて、入る人を制限する。すると当然、あらゆる店に行列ができる。行列ができるというのは、何かがあるということなので、もちろん行列も自己増殖する。キューバはアイスクリーム屋が人気だけれど(アイスはなかなかうまいっす)、そのアイス屋でもみんなこうして行列している。

ハバナのアイス屋も行列
アイス屋も行列

品不足、行列…… たぶんソ連の末期や東欧の話を聞いた人は、これと似たような話をいくらでも聞いたことがあるんじゃないかな。

でも、なぜそうなるんだろうか?

3. 「合理性」と「効率性」:『ザ・ゴール』の教え

なぜそんなことになるのか? ぼくたちはこれを見てすぐに「社会主義は不合理だから」「非効率だから」と答えて事足れりとしたがる。

でもそれを認めるにしても、それだけでは不十分なのは明らかだ。この現象がソ連でも東欧でもモンゴルでも見られ、そしてキューバでも見られたということは、その「不合理性」や「非効率性」がランダムではない、ということだ。同じ現象――行列や品不足――をもたらす、規則性のある不合理性や非効率性があったということだ。何がそういう規則性を生み出すのか?

答えはCMの後で、とか変な引き延ばしをせずに最も簡単かつ大くくりに言ってしまうと、それはつまり需要が供給に反映されないということで、つまり市場システムがないという話ではある。市場システムでは、何かが足りなければそれは発注増や、価格の上昇を通じて供給側にシグナルを送り、その結果として供給が増え、需給が均衡する。経済学101というやつだ。それができてないから、行列なんかが起こる。

でもさっき述べたように、どうも商品が単純に不足しているという話だけではなさそうだ。町のどこかの店には、ビールが大量にあったりする。少し田舎に出れば、卵や野菜もある。それが適切に分配されていないという問題も大きいようだ。生産の増強はそんなにすぐできるわけではないなら、短期で考えたとき、何がこの問題を引き起こしているのか?

どうも、輸送手段、つまりはトラックをはじめ車両が不十分なせいらしいのね。

これはキューバにくれば、だれでもすぐに気がつくことだ。ハバナは、クラシックなアメ車がいっぱい走っている絵はがきで有名だ。こんな具合。

classic cars in Havana
classic cars in Havana

でもこれは、別にキューバの人々が趣味でやっていることではない。この写真に映っているのは、観光用のきれいにしたクラシックカーだ。でもそれ以外にも、ハバナはほんとに汚い、おんぼろな、黒煙を上げて走り回るぼこぼこのアメ車だらけだ。そもそも車がないので、そんなスクラップ寸前の代物でも使わざるを得ないということなのだ。そして壊れてもそのままおとなしく死なせてはくれなくて、こんなすさまじいつぎはぎハイブリッド車にされてしまう。

つぎはぎの変な車
前はアメ車、エンジンはどうもヒュンダイ、後ろは何か得体のしれないピックアップ

新しい車が入ってこないので、とにかくこんなのでも使い続けるしかない。だから車の絶対数がそもそも足りない。おかげで道もガラガラだ。どのくらいガラガラかと言うと……そうだな、『ワイルドスピードスカイミッション』(かな? シャーリーズ・セロン様がドローン使ったテロリスト役するやつ)の冒頭を見てほしい。ここで、ヴィン・ディーゼルは何が悲しくてか、ハバナなんぞに引きこもって、公道レースをしたりしてる。次の後半あたりね。


The Fate Of The Furious (2017) The First Ten Minutes

もちろんこれを見ながらぼくたちは「ホントはこんな公道レースなんて無理に決まってるよねー、へへーん」と思う。ついでに、こんな半ケツのねーちゃんがうろうろしてるわけないだろう、と。ところが実際のマレコン通りにきてみたら、平日の朝でもこんなもん。公道レースくらい余裕でできそうだ。

Malecon at 9AM
マレコン通り、朝九時

公道レースは見かけたことはないけど(あと半ケツの女の子もいないけど)、都心の目抜き通りがこの様子だ。

あるいはこの橋を見て。

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キューバのトップ幹線道。車いません。

橋はかっこいいけど、これはキューバを東西に横断する最大の幹線道路の土曜昼間だ。でも、車が一台もいない。

何も狙って撮ったものじゃない。むしろ、車が通るのを待ったんだけど、いつまで経ってもこないので、仕方なく空っぽの橋を撮ったんだ。場所もハバナからほんの三十分かな。でも全然車が通らない。それは、車がないからだ。自家用車だけじゃない。トラックも、バスも。

そして車が足りない場合、物流はどうあるべきだろうか? その車が律速段階だから、それを最大限に稼働させるしかない。そのためにはいろんな種類のものを、様々な店にちまちま細かく配送するなんてことはできない。最も重要な部分に車を集中させ、最も重要な商品だけを運ぶしかない。そしてそれでも、車両は足りない。

そして、もう一つ要因がある。輸送の費用だ。つまりは、ガソリンとオイルとタイヤ。これはなるべく減らしたい。なぜかといえば、これらはすべて輸入品で、外貨を使うものだからだ。関係輸送機関は、輸送量はノルマで決まっている(計画経済だもの)。車両は手持ちのものしかない。彼らの腕の見せ所は、そのノルマの輸送量を最小限の費用で達成するということだ。このためにはつまり:

  • でかい車で
  • 同じものをまとめて
  • 限られた箇所だけに

運ぶしかないのだ。

これは車だけじゃない。工場でも同じだ。作る側は、とにかく設備を最大稼働させて、手持ち材料で作れるものを作る。いろんな品種を作ったりする余裕はない。できるだけ少ない品種を大量に作るのが正義だ。それが最も「効率的」だから。輸送は、それをとにかくどこか一箇所にどかっと運ぶ。市内のあちこちにチマチマ配送するだけの輸送力はない。そっから先は買う側がなんとかしろ。それが輸送会社(国営/公営です)にとって最も「効率的」だから。規模の経済や燃料効率だけを考えたら、まさにそうなりますわな。

結果として、さっきみたいに店舗は基本、棚はスカスカだ。そして、同じ商品がだーっと棚一面に並ぶ。さっきの写真ですら、かなり品数が豊富なほうだ。ないものは、とにかく手に入らない。そして、ときどき変な商品が山ほど並ぶ。ぼくの宿の近くのスーパーは、赤ちゃん用のプラスチックのお風呂が山ほどおかれていた。なんで? わからん。たまたま工場からその店に配達された、ということらしい。

律速段階となるものを最適化し、最大稼働させる必要がある。そしてここでの律速段階は、輸送手段だ。ひいては資本だ。資本を最大稼働させることが、この経済においては最も重要な命題となる……

これに気がついて、ぼくは戦慄した。これはあの『ザ・ゴール』の教えだ。

ザ・ゴール ― 企業の究極の目的とは何か

ザ・ゴール ― 企業の究極の目的とは何か

市場経済になれたぼくたちから見ると、不合理だね、効率が悪いね、柔軟性も何もない計画経済の弊害が露骨に出ているね、ということになってしまう。でも……

それは必ずしいも正しいとはいえない。社会主義も、決してバカではないし、完全に不合理でもない。ただ、制約条件がちがうのだ。ある観点からは不合理でも、別の観点からは合理性がある。ただし、その合理性というのが、末端の人々にとっての厚生につながっているか、というのはまた別の問題ではある。

まとめよう。

社会主義経済の状態というのは、最も希少な財である輸送手段=車両を中心とした資本の稼働最大化と、そのための費用最小化を目指す仕組みであることで生じているものである。それを指標として考えた場合、一見不合理に見える社会主義経済も、十分な合理性と効率性を持つのである!

5. でも…なぜそうなってるの?

さてこれを読んで「おお、すげえ、社会主義も合理的なのか!」と思った人、バーカ。それはちょっと、おめでたすぎるんじゃない? むしろここではキョトンとしてほしいところ。

確かに、もし車が律速段階だというのを受け入れれば、ぼくの言ったようなこともあるかもしれない。でも車なんて安いもんじゃん。XXとかYYとか、クソみたいな貧乏途上国が狂ったみたいに中古車たくさん輸入して渋滞しまくってる。キューバだってそうすればいいじゃん! なんでそんなところが律速段階なんかになるのよ! だいたい、車が不足してるっていうだけなら、別に社会主義は関係ないんじゃね? 別にマルクス様は車や資本を作っちゃいけませんなんて言ってないよね?

はいはい、よい質問です。そしてそこから、なぜ資本が不足し、その稼働や費用の最小化が至上の目標になるんだろうか、という話が当然出てくるはず。

実はそれこそが、実は計画経済のあり方と関わってくる部分だ。だれが「資本」を持つのか、そしてだれがその資本を得るための「投資」を行うのか? それがまさに「計画」の本質であり、それはどうも、会計の仕組みを通じて経済のあり方に波及しているようだ。次回はなんかそんな話を……

cruel.hatenablog.com


クリエイティブ・コモンズ・ライセンス 山形浩生の「経済のトリセツ」 by 山形浩生 Hiroo YamagataCreative Commons 表示 - 継承 4.0 国際 ライセンスの下に提供されています。