キューバの経済 番外編: ノマドの夢と現実

キューバの話は書きかけがいくつかあるんだけれど、なんとなくまとめるところでモチベーションが落ちて放置してある。一つの理由は、コルナイ・ヤーノシュ『不足の政治経済学』を読んだら、ぼくが考えていたような話がすでにかなりきちんと考察されていて、ちょっと今さらかなあと思ってしまったことがある。コルナイ・ヤーノシュ*1、おもしろいから読んでねー。

「不足」の政治経済学 (1984年) (岩波現代選書〈90〉)

「不足」の政治経済学 (1984年) (岩波現代選書〈90〉)

が、コルナイ・ヤーノシュとこの山形ごときを比べること自体不敬であるし、下々の俗人の考えとして今後少しずつまとめていこうとは思う。が、そういう気が向く前に、また余談となる。

モンゴルで、いろいろ常識が覆された話はすでにやったけれど、もう一つ大きかったのは、ノマド/遊牧民というものに対する理解が完全に変わったことだった。

ノマドとは何か?

ノマド遊牧民。ぼくはそれまで、遊牧民を自由の象徴だと思っていた。どこにも定住せず、常に風任せで気ままに移動し、何にも縛られることなく自由に生きる。階級もなく平等で、所有もきわめて限定的。定住民は、遊牧民が自由に生きる土地を勝手に囲い込み、私有概念を押しつけ、そこをチマチマ耕作しては余剰を貯め込んで蓄財に励み、所有と紛争と管理と規制の陰湿な制度を構築して、現在の資本主義の矛盾に到るすべてのものを構築してきた。そういう鈍重な定住民に対し、遊牧民/ノマドは常に移動と速度を体現する存在なのである! もちろんモンゴルに出かけた2000年頃には、すでにポモ思想なんかありがたがる時期はすぎてはいたけれど、ドゥルーズ/ガタリやその受け売り浅田彰ノマドジーとか、細かいところはそのまま信仰が残っていたりした部分もあった。

たぶん日本でも、世界でも、こういう印象を抱いている人はいまでも多いと思う。一時流行ったノマドワーカーとかいうのは、まさにこうした信仰の反映でもある。そういえば、ノマドワーカーの旗を掲げていたいけな非正規雇用者を搾取していたミッフィー、いまはどこで何をしているんだろうねえ (別に知りたいわけじゃなくて、単なるレトリック上の疑問なのでコメント欄にいちいち報告したりしないように!)

が。実は全然そんなものではないのだった。それを知ったのは、郵便局の調査でモンゴルの地方部に出たときだった。

モンゴルのノマド/遊牧民

モンゴルはご存じの通り、多くの人が遊牧生活をしている。ゲルという巨大なフェルトテントを抱えて、羊の群れと共に移動し、それを設営して羊をその周辺で放牧し、羊が満腹になったら次のところへ移動する。それを繰り返すわけだ。前にも出した写真だけど、こんな具合。ゲルはかなりでっかいです。(あと、これをパオと呼ぶ人はニワカだと見なされます)

Inside a Gel

ちなみにその人数は、固定ではない。遊牧民VS定住民みたいな発想自体がまちがいだ。景気がよくなって、都市部の仕事が多くなれば、人は都市部にやってきて定住する。あるいは、草が生えない冬期には、みんな都市部にやってくる。そして都市部の仕事がなくなれば、失業者の多くは遊牧を始める。だからモンゴルの都市部には、かなりでかいゲル集落がある。

Untitled

ちょっと見にくいけれど、奥の山のふもとに広がっている黒いあたりはすべてゲル集落となる。近づくと、こんな具合。ゲルだけだと寒いし不便なので、こんなふうに家を作っちゃってるところも多い。

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さてもちろん、遊牧をしている人は、遊牧中はどこにいるかわからない。でもそういう人々もお手紙は少しはあるし、公共サービスもあるので、郵便局の私書箱を作るしかない。配達なんか無理だから……ですよね?

ところが、運転手さんが「まあそうだよなあ。急ぎのときでなければ届けたりしないよね」と言った。

え????? 急ぎなら届けられるの?

「うん、やるよ。もちろん郵便局がそんなサービスをするわけではないけれど、知り合いとかだとやることもあるよ」

????? どうやって? どこにいるかわからないじゃん!

すると、その運転手さんは、ちょっと驚いた顔をしてから、仕方ないなあ、という感じで説明してくれたのだった。無知な日本人は、先方にとっての常識を全然知らないので、それを途中でいろいろ補って、いったり来たりした話をまとめると、だいたい次のような具合。

ノマドは、自由に好きなところになんかいけない。

まずノマドとか言って浮かれている人は、遊牧民の「遊」の部分だけ見ていて「牧」の部分を見ていない。これは、もちろん、羊のことだ。それも一頭、二頭ではない。十頭、百頭単位でいる。そうなると、そうそう好き勝手にはできないのだ。

というのも、考えて見れば当然の話なんだけれど、放牧をするためには、それだけ大量にいる羊たちのための草場、水場が必要だからだ。勝手放題に好きなところに出向いて、エサや水がなければ羊が死んでしまう。遊牧は、そういうポイントを巡る形でルートを組むしかない。そしてまたもや当然ながら、草場、水場は限られている。モンゴルなんて、ゴビ砂漠。砂漠といっても、モンゴルは大半が岩砂漠と呼ばれるものだから、みんながイメージする砂丘ではないけれど、どこでもいくらでも草場や水場がある状況ではないのだ。

ノマドは、あらかじめ決まったルートをたどる。

すると、ある拠点を中心に動けるルートは、かなり限られたものになってしまう。ルートごとに、一週間コース、二週間コース、一ヶ月コース、なんてのがある。ご覧の通り、さっきのゲルはかなりでかい。地元の人はパタパタと器用に設営するけれど、それでも半日がかりだし、引っ越しは面倒だ。一回張ったら、三日くらいはそこにいる。すると一週間コースというのは、行って、どこか一ヶ所で羊にエサ喰わせて、また戻ってきます、というコース。二週間だと三ヶ所くらい。一ヶ月だともっと増える。

そして一週間だとピンポイントかなり小さい草場や水場を含む形でも組める。一ヶ月コースとなると、不確実性が増えてくるので、かなりでかい草場や水場をつなぐ形にしないと、リスクが大きすぎる。

これはもう、水場や草場の位置と羊の移動速度、さらに草の育成速度を前提とすれば、完全に決まってしまう。季節的な変動はあるし、その年ごとの状況を見極める経験や知恵はある。それでも、このコースが決定的に変わったりはしない。限られた周遊コースをきっちり回る以外に、遊牧民が選べる選択肢はない。

勝手気ままにはできず、ノマドのネットワークと相互調整が当然行われる。

そしてまた、そのルートですら好き勝手には行けない。気分次第でみんな行きたいところにホイホイ行けるわけではない。というのも……草地があるはずのところに行ってみたら、昨日まで別の連中がそこで放牧してて、草が全然ありませんでした、なんてことになったら羊は壊滅だ。だからだれがどのくらいの間隔でそれぞれのコースに行けるか、というのは、暗黙のお約束がある。というか、自分の羊のことを考えたら、無茶はできないから自分でその間隔を補正する。ここでももちろん、一ヶ月コースは比較的余裕があるルートだから、多少の無理はきく。でも当然ながら、それには限界がある。

だから、ある集落/都市を拠点とする遊牧民は決まっていて、その人は出発前に、自分が何日コースにでかけるのか、というのを集落/都市の知り合いにだいたい伝えてある。その知り合いつながりの中で、そのルートを動いている他の遊牧民がだれかも、だいたいわかっている。そしてもちろん、あらゆるところが完全に予定通りではない。草場がイマイチで早めに移動ということもあるし、思ったよりよければ長居することもある。すると、それはだいたい後続の人にはわかる。「あれ、思ったより草が生え戻ってないぞ、前の連中が長居したな」という具合。そして前の人々と後ろの人々も、馬で往き来したりして、多少の連絡はある。

もちろん、途中で何かトラブルがあったら、後続の人には当然わかる(1-2日遅れかもしれないけど)。戻ってこなければ、集落/都市で待っている人にもわかる。そしたらみんな、探しにくる。勝手に風任せに好きなところには行けない/行かないのだ。

でも、途中で草の状態がよいなあ、もう少し遠回りしようか、なんてこともあるのでは? もちろんそれはある。その場合はもちろん、たとえば一ヶ月ルートの途中から、さらに二週間のオプションコースみたいなのが出たりするわけだ。そしてそれは当然、後続の人たちには伝言しておく。

イメージとしては、次の図みたいな感じになる。

モンゴル遊牧民の遊牧コース イメージ図。集落を中心に、決まったコースがいくつかある。
モンゴル遊牧民の遊牧コース イメージ図

だれがどこを「遊牧」しているかはだいたいわかっている。

このイメージ図からもわかる通り、コースは都市/集落の周辺にいくつかある。そしてどのコースに行ったかは、彼らが向かった方角でわかる。「ガンゾリグはどうした?」「ああ、二日前に北西に行ったよ」そういえば、現地の人は、そいつが一ヶ月コースに向かったんだな、というのがわかる。そして二日前に出かけたということは、今頃はたぶん最初の水場/草場にいるだろうな、ということも見当がつく。そしてさっきも述べた通り、定住民も景気が悪くなれば、すぐ遊牧民になる。だからみんな、だいたい水場/草場は知っている。

だから、どうしても届け物がしたいとかいうことになれば、それだけの情報を周辺の人から集めれば、どこへ向かえばいいかはだいたいわかる。

実際に届け物をしてみると……

こんな説明をしてくれた後で、「じゃあこれから妻のところに出かけてみるか」とその運転手が言って、連れて行ってくれることになった。一ヶ月コースをまわっていて、すでに一週間くらいになるそうなので、ソ連製の四輪駆動箱バンで草原を走って行くと……おお、ゲルが見えてくる。

が、そこにいたのは、お目当ての人ではなかった。が、そんな場合でも、当然ゲルに招かれるのだ。そして、馬乳酒をふるまわれる。

Mongolian Hospitality

三杯飲まないと男じゃねえと言われて、どんぶりに三杯のんで、世間話をして、おみやげ(塩やお菓子)をあげて、さてガンゾリグを知ってるか、ということになる。すると、「ああ、おれたちより少し先にいるぜ」と答が返ってくる。そこでさらに世間話をして、場合によっては彼らの作っている固いヤクのチーズを買ったりして、そして次のところに行く。

次がちがえば、また同じことがくりかえされる。馬乳酒は、ビールより少し強いくらいかな。

途中、らくだの群れに出くわしたりする。先日訳した本では、「温暖化が進むとカナダにラクダがうろつくようになるぞ!」というのを何か効果的な脅しだと思ってしきりに使っていたのだけれど、冬には氷点下50度になるモンゴルにも、こうしてラクダはいまでも平気でウロウロしてますんで、単にその著者が思いこみだけでしゃべっているのが、わかる人にはわかってしまう。

Camel hearding

(モンゴルの地方部——に限らず当時は、野菜があんまりなく、羊肉ばっかなので、若き山形も、とっても腹が出ています)

そしてやっと、その目的の相手のところに到達するわけだ。それまでに寄り道した他の人のゲルで三杯ずつ馬乳酒を飲まされ、もちろん目的地でも歓待のために三杯飲まされて、その日昼過ぎまでにどんぶりに十杯以上も酒を飲まされた山形はかなり酔っ払ってはしまって……

My driver with his wife

このおじさんが、運転手さんで、その隣が奥さん。奥さんが羊を飼って遊牧している間、旦那は町で運転手として出稼ぎをしているわけ。

まとめ:ノマドジー(うっぷっぷ)

いまの話、どれも考えて見ればあたりまえのことだ。遊牧民/ノマドは別に、ファッションでうろうろしているわけじゃない。羊その他の家畜を喰わせ、肥やすという目的があって遊牧している。そしてかれらにとっても、資源は無限にあるわけじゃない。希少性の中で活動しているわけだ。相互扶助の仕組みも一応あるし、なるべくリスクを減らそうとする。だってへたすると家畜全滅か、最悪の場合は自分も死んじまうもんね。

  • 好き勝手なところは行けません。コース決まってます。それを外れたら死にます。
  • どこに行くかも、コミュニティの中でかなり管理されています。それに従わないと死にます。
  • だからみんなが思ってるほど自由じゃないっす。制約だらけの中、細々とした選択肢の中で生きるのです。

これは動物だって同じだ。アフリカのサバンナで、動物はだいたい決まったところを往き来する。また縄文時代の狩猟採集民も、決まったところを動きつつ生活していたらしいよ。同じ希少性の中で、抵抗最小の合理的な行動を進化や試行錯誤の中で選べば、似たような結果になる。

そして、定住民は所有するけどノマドは〜とかいうのがアホダラ経なのもすぐわかるだろう。確かに遊牧民の所有物は少ないけれど、それは移動するからある程度は所有物を制限するというだけだ。そしてもちろん、彼らは自分の羊については、ものすごい所有権を発達させていて敏感で、それに伴うもめ事もたくさんある。そして羊をたくさん持ってるやつと、ちょっとしかいないやつとでは、当然ながらいろんな力関係はちがってくるよね。それは階級というものと、そんなにちがうわけじゃないだろう。

で、こういうのを見て、ほんの一日ほどいっしょに動いたくらいだけど、それでもなんか、ノマドとかいうものに変な幻想を抱くのがいかにアホらしいか、というのはわかってくる。速度? いや羊の群れといっしょで、そんな速度出ませんよ。何か、ノマドは軍事的な存在であり、常に定住民を襲撃することで生活を〜 とかいう勝手な話も読んだけれど、定住/ノマドという区分自体が、そんなきっちりしたものではないのはすでに述べた通り。他のところはちがうのかもしれないね。アフリカのトゥアレグ族は全然ちがうのかもしれない、が……彼らがそんなにちがう条件に支配されているようには見えないし、定住民を絶えず襲撃ばかりしていたというのも、ちょっと考えにくい。

ちなみに、ハラリ『サピエンス全史』は通説に異論を唱えて現代文明批判をして見せたので人気が出て、確かにおもしろかったんだけれど(だから帯の推薦文も書きました)、その説にどこまで説得力があるかというのは疑問符もある。農業そんなよくない、定住ダメ、なんかインチキの結果なんです、というのは本当か? 他にも定住よくない、実は遊牧生活すばらしい、みたいなことを言いたがる学者とか結構いるけれど、狩猟採集がそんなにいいか? 遊牧がそんなに楽しくてよいことなのか? 自分のわずかな体験を敷衍しすぎるのはよくないけれど、でもそういう議論を見てぼくがあまり説得力を感じないのは、こんな体験のせいもある。もちろんいまの遊牧民は、すでに定住社会を前提としてそれに適応した形態であり、かつての純粋遊牧生活とか純粋狩猟採集生活はまったくちがうものだったのだ、というなら話は別だけれど。

サピエンス全史(下)文明の構造と人類の幸福

サピエンス全史(下)文明の構造と人類の幸福

たぶんここから、いまの(もはやあまり話題にならない)ノマドワーカーを見て、なんだか結構同じじゃん、と思う人も多いだろう。水場/草場がスタバに変わり、自由なはずなのになんだかんだで動くルートは毎日似たり寄ったり、そしてその動きは都市部の非ノマドたちにかなり監視され……

おわりに

そんなわけで、ぼくはもうノマドとか遊牧民についての変な夢物語や妄想にはあまり説得力を感じなくなっている。定住民と遊牧民が、まったくちがう原理で生きているとも思わない。希少性に直面したときの合理的な行動、最も無駄のない行動を考えることで、かなりの部分は説明がつくと思う。

そこから、ホモ・エコノミカス批判とか、お話としては楽しいけれど、でもそれはあくまでマイナーな話だとも思う。もちろんマイナーな話が大きな影響を保つことを、シェリングアカロフは論証してみせて、それはすごい話だ。でも合理性の限界を考えたがる人は、同時に不合理性の限界もよく考えた方がいいとは思うのだ。が、これは余談。

そしてまた、ノマドだってつらいのよ。大変なのよ。定住民の妄想オナペットにできるほど甘いものじゃありませんぜ*2。それは理解してあげるほうが、お互いにとって有益だと思うなあ。もちろんぼくたちは、ときどき「ああこんなしがらみを逃れて自由に生きたいなあ」なんてことを思う。そしてそれを投影するが故に、ふーてんの寅さんをなにやらありがたがってみたり、遊牧民やジプシーにロマンチックな思い入れを抱いたりする。でも彼らには、彼らなりのしがらみがあり、苦労があり、制約があるのです。

余談

flickr の写真を張り込めるのは便利ではあるんだけれど、サイズって変えられないのかなあ。それと写真選ぶインターフェースはもう少し考えてほしい……

付記

こんなコメントあり。

キューバの経済 番外編: ノマドの夢と現実 - 山形浩生の「経済のトリセツ」

えっ?遊牧民の夏営地と冬営地が決まっているのは常識だと思ってましたが。(清代以降に牧地の細分化が進んで、争いが少なくなった代わりに、発展も制約されたものかと。チンギス再来は恐ろしいですから)

2019/07/15 01:25
b.hatena.ne.jp

そうなんだよね、おっしゃる通りで、言われて見ると、ああそういえばそういう話は聞いたことあったかもなあ、という部分はある。でも人はなかなか、それを自分の頭の中のイメージと結びつけられないのです。それと、そういうのはもう少し漠然としたでかい話だという印象もあった。「冬は寒いからオーストラリアにいくよー」という感じ。こんな細かい数日単位でのルート設定があって、個人レベルで位置をほぼピンポイントできるというのは新鮮だったのだ。でも単純に、山形個人の無知という部分は当然ながら大量にあるので、ご指摘いただければ幸い。

*1:ヤノーシュじゃなくてヤーノシュなのか!!いま気がついて訂正したです。

*2:こう書くと、「いや、ドゥルーズガタリノマドとは必ずしも現実の遊牧民などではなく、ある種のメタファーであり云々」とか言うヤツが必ず出てくる。が、基本的に、そういう現実とのちゃんとした対応関係すらない、いい加減な例え話をすること自体がそもそも有害なのだ、というのが『知の欺瞞』の教訓でもある。具体的に何でも考えよう。例え話をするなとは言わないけれど、それはあくまで補助的なものだと認識して、それに頼らないきちんとした説明をまずしましょう。