サンスティーンによると『最後のジェダイ』は

はーい、サンスティーン『スター・ウォーズによると世界は』はお読みいただけましたでしょうか?

スター・ウォーズによると世界は

スター・ウォーズによると世界は

そしてこの本を読んだ人なら当然気になるのは、サンスティーンが『最後のジェダイ』をどう見たか、という点でしょう。その評価が数日前にやってまいりました。

www.bloomberg.com

うーん、そうくるかい、サンスティーン先生。自分の好きなところが強調されてなかったからってそんなに文句を言わんでも、とは思うし、これまでのシリーズでも民主主義も善と悪の葛藤も、そんなに深みある描かれ方をしてたっけなあ、と思ってしまうのは一般視聴者の浅はかさで、サンスティーンほどのマニアともなれば見方はちがうのねー、ということで(実はぼくはまだ『最後のジェダイ』見てません)。それと、あの本でのサンスティーン、ちょっと意識的におちゃらけてみせた部分もあるのかな、と思っていましたが、この『最後のジェダイ』評を見ると、サンスティーン先生ったらあの本、完全にマジで、「自分でもちょっと苦しいのはわかってるけど」というようなものではまったくなく、全部完全に本気で言ってたんですね!

というわけで例によって勝手に翻訳。まあ、お読みあれ。

『最後のジェダイ』は、いいんだけど、すごいってほどじゃない。

キャス・サンスティーン(山形浩生訳)

Executive Summary: 欠けているのは、善と悪との内面的な闘争、自分自身の邪悪との葛藤、人生の大きな問題に対する回答の探究だ。

f:id:wlj-Friday:20171225165843j:plain

スター・ウォーズ』最初の六本の背後にいる天才ジョージ・ルーカスは、自分の映画が「ある種の泡立つようなめまい感」を特徴とすると述べている。その通りだし、それがあの六本のすごさの核心だ*1。

そう考えると、脚本監督ライアン・ジョンソンの新作『スター・ウォーズ/最後のジェダイ』が本当の『スター・ウォーズ』とは言えない理由もわかる。はいはい、いい映画だし、すごくいいとさえ言える――でもめまいの感覚はない。

ルーカスの映画は、自分自身のトンデモぶりに対する大喜びだらけで、それがみんなに感染する。一番最初の『スター・ウォーズ』映画、後に『新たな希望』と改名されたもののオープニングを見てみよう。巨大なスターデストロイヤーが画面に登場するところだ。下から撮影されたその宇宙船はひたすら続き、どんどん続いて、さらにそのまま底面が続く。お笑いだ。1977年の観客たちは笑った。立ち上がって喝采した人さえいた。

スター・ウォーズはちょっとマンガじみたところもあるけれど、感情と深みもあり、人間心理への本当の洞察もある。ジョセフ・キャンベルの「千の顔を持つ英雄」という発想を活用しつつ、ルーカスは普遍的な物語を語る(実はそういう物語を二つ語っている)。それは英雄的な旅と選択の自由に関する物語で、それを良かれ悪しかれ実行するのは、二人の若者、アナキン・スカイウォーカーとその息子ルークだ。二人とも、悪に心深く誘惑される。ルーカスは、フォースの暗黒面(ダークサイド)が持つ蠱惑的でエロチックですらある力について、きわめて率直だし赤裸々だ。

アナキンは誘惑される。そしてダース・ベイダーになる。ルークもギリギリのところでやっと踏みとどまる――そして決定的な一瞬の間、ルークもまた誘惑に屈する。ルーカスの物語は、キリスト教(およびあらゆる人の心にある希望)の影響を反映して、ある教訓を与えてくれる。私たちのだれでも、決定的な瞬間に光の側を選ぶなら救済されるのだ。

ルーカスの主人公たちが悪に転じるとき、その理由はたった一つ。愛する者を失いたくないからだ。ダークサイドへの道は哀しみと喪失で舗装されている。でも、かれの主要テーマに見えるものの驚くべき逆転として、ルーカスはまた喪失の恐れ(あるいは愛とも呼ばれる)もまた救済への道なのだと示す。

その核心において、ルーカスの物語は父親と息子についてのものであり、お互いがいかに相手を必要としているかを物語る。ルークは――客観的な証拠がどうあれ――父親に良心が残っていると信じる(あらゆる息子はそう信じるのではないか?)ベイダーは自分の命を投げ出して息子を救う(どんな父親もそうするのではないか?)

この問題を慎重に検討したルーカスは、民主主義がいかに破綻して専制主義がどんなふうに台頭するかについても、深い洞察を持つ(そしてこれは、何よりもかなりの罵倒を受けてきた前日譚三部作を貫いて重要になっている)。かれは全能の指導者が持つポピュリスト的な魅力を捕らえている。ある登場人物が語ったように「こうして自由派死ぬのね……割れんばかりの喝采の中で」

当のアナキン・スカイウォーカーもこう固執する。「政治家たちが腰を据えて問題を議論し、万人にとって最大の利益となることが何かについて合意して、それを実行するようなシステムが必要なんだ」。そして不吉な調子で、もし政治家たちがそれを拒否したら「無理矢理にでもそうさせるべきだ」と付け加える――そしてそれが専制主義のように聞こえるとしても「ふん、それがうまく行くのであれば……」

『最後のジェダイ』は、光の面(ライトサイド)と暗黒面(ダークサイド)についてはいろいろ語るけれど、哀しみや喪失は何もないし、民主主義についても平板だ。善と悪の扱いは、十分におもしろいものとはまるで言えない。我らがヒロインのレイは、一度たりとも本当に悪に魅了されない。そんなの退屈だ。

暗黒面の代表カイロ・レンは少々は葛藤するし、その意味でジョンソンはルーカスのビジョンとの連続性を維持はしている。でも少なくともこの映画では、その葛藤は実はフェイントでしかない。というのもカイロの転落には、アナキンのような切迫した理由――愛する者の喪失――がないからだし、カイロが人間性のよい面を抑え込もうとするところを見せてもらえないから、この映画はルーカスの映画が持つ深みにはまるで達していない。

脚本は選択の自由という発想をちょっと掲げては見せるけれど、でも心がこもっていない――形式的にこなしただけに近い。その意味で、最悪な点として、ジョンソンはルーカスの黄金の糸を手放してしまっているのだ。

多くの人々は『フォースの覚醒』を批判した。これは2015年に出た新シリーズの皮切りだ。批判点は、それがルーカスの以前のシリーズの焼き直しでしかないということだった。それは確かに言える。でも少なくともあれは、明確だったしカッチリしていて、いろいろな疑問を大量に残し、独自のめまい感を与えてくれた。

『最後のジェダイ』にはそれがない。それは非常に意識的な役者交代の物語で、それがノスタルジーと微かな悲劇を使って語られているだけだ。あまりに多くの部分で、この映画は熱狂を欠いている。

確かに、マーク・ハミル老いルーク・スカイウォーカーとしてすばらしいし、レイ役のデイジー・リドリーもそれに負けない。ジョンソンの作品は、出来がいいというだけではない。シャープだし、新規性もある(そしてあちこちで驚異的ですらある)。でもそれは、悪魔と格闘することもないし、もっと大きな問題と取り組もうともしない。生命感に満ちあふれてもいない。

ジョージ・ルーカスが、当時も今も、唯一無二の存在だということをこの作品は思い出させてくれるのだ。

 

*1 読者への注:この先、多少のネタバレあり。