マクルーハン『グーテンベルクの銀河系』:3ページで書ける仮説を引きのばした鈍重な文芸評論

Executive Summary

マクルーハングーテンベルクの銀河系』は、文字、なかでも表音文字の発明が、意味と表現との分裂を招き、それにより人間の意識をも分裂させた、と唱える。それまでは聴覚=全身性の感覚で環境に没入し、環境と一体化していた部族社会的な人間が、距離を置いて見る、見たものを頭の中で考える、という視覚重視の新しい認知環境に置かれた。

これにより、環境/社会とは切り離された、頭の中だけの個人が誕生した。さらにそれがグーテンベルクの印刷術のおかげで、まったく同じものをみんなが手にしている状況が生まれた。これにより、自由、平等、個人、プライバシーといった、まったく新しい社会と人間像が生じた。

議論はもっともながら、その論証はきちんとした論証になっておらず、文芸作品でのちょっとした描写を挙げるだけなので、理論的な説得力はない。視覚的、構築的な理論化を意図的に避け、聴覚=全身性の談話時代のあり方を採用した結果ではある。それが本当によいかどうかは不明。また話は文字と印刷術のみで、テレビや映画メディアの話は、この本ではまだ前面に出てきていない。

本文

ブローデルゲバラに続いて、棚の積ん読消化プロジェクト。お次はマクルーハンなり。

ということで、棚にもう20年は寝ていたマクルーハンを起こすことにしました。まずは、『グーテンベルクの銀河系』から。

が、ブローデルゲバラもそうなんだが、マクルーハンも読んでみるとかなり評判倒れな感じだった。というより、マクルーハンのこけおどしぶりは突出してひどい感じ。

あらすじ:文字ができて、視覚が突出し、行動と思考が分裂した。印刷でそれが社会に広まった。

マクルーハンというと、すぐにメディア全般の話だとみんな思ってしまい、ホットなメディアだクールなメディアだ、人間の世界的な神経系拡張だ、といった話を持ち出してくる。

でも、本書はもっと限定的だ。「グーテンベルク」、つまり印刷術とその周辺が、メディアとして人々や社会に与えた影響を検討する、というもの。だから本書の話は、文字、書物、印刷術というものだけに集中して、電子メディアとかテレビとかの話は出てこない。

彼の仮説はとても簡単。

  1. 昔の人は、あらゆる感覚に全身が包みこまれる、環境と一体化した聴覚的な世界に住んでいた。人間関係も、身の回りのあらゆる人と血縁的、部族的、宗教的その他あらゆる関係を持つようなボーグ的融合生物都市みたいな存在だった。
  2. でも、字ができて視覚だけが突出した。意味とその表現(お望みならシニフィアンシニフィエ)が完全に分裂した。距離をおいて何かを見る、という行為がすごく優位になった。
  3. それにより、人の意識は分裂した。昔は黙読とかできず、言葉を見る=頭で思う=口に出すことだった。ところがだんだん、黙読するようになる。頭の中で起こること(読んで意味を理解する)と行動(読んだことを口にする)ことが分離した。昔は意識と行動みたいな分裂はなかったけれど、文字によってそれが促進された。
  4. これにより初めて「個人」なんてのも生まれた。昔は考える=行動=社会に波及だから、あらゆることが社会化され、個人というものはなかった。でも文字が、自分だけの頭の中の考え、みたいなものをつくり出し、社会と切り離された「自分」というものを成立させた。
  5. また文字の突出によって、人間は記憶を失った。昔は丸ごと小説一つを暗記できた人間は、その能力を失った。かつては知識=記憶=行動=社会だったのが、そうした総合性を失ってしまった。そして一回限りの体験だった語りが、本として外部化されて何度も繰り返せるようになり、人間は体験のリアルタイム性も失った。
  6. (ついでに、マクルーハンは、これが起きるのは完全表音文字のアルファベットだけで、表意文字ではこれは起きず、したがって中国や日本はこうした分裂がなく、相変わらず部族社会に暮らしていると主張している。へーぇ、そうなんですかあ)

ここまでが、文字の出現に伴う文化・社会変化の話。で、ここからが「グーテンベルク」の話になる。

  1. 文字ができただけでは、以上の変化はなかなか起きなかった。写本という形でしかそれが出回らず、数も限られ、それを見られる人も限定されていた。司祭階級と下民ども、みたいな階級分離もこれがあればこその話。
  2. 写本の持つ、個体差みたいなものは、意味と表現の完全な分離を多少は抑えた面もある。
  3. でもグーテンベルクの活字でまったく個体差のない文字と書籍が大量に出回るようになり、上にあがったような話が社会全体に広まるようになった。
  4. そしてかつて写本は、持っている人だけが特権的な存在だった。そしてそれぞれがちがった。でもグーテンベルクの活字印刷で、すべての人が同じ本を持つようになった。それに相対する脳内の「自己」も横並びの存在となった。それがあるからこそ、平等だの民主主義だのがもっともらしさを持つようになった。

おしまい。

さて、ここに書いた話自体は、どれも仮説としてはアリだし、またそんなにむちゃくちゃな話ではないだろう。仮説としては十分あり得る。理屈もそれなりに通っている。

でも、実際にこの本を読む人のほとんどは挫折するし、上に書いたようなあらすじすら把握できない。なぜだろうか? それは一読すればわかるけれど、その書き方にある。何かの裏付けになるとはとても思えない論者や出典からの、何を論証したいのかさっぱりわからない、長ったらしい引用まみれ。読んでいるほうは煙に巻かれて、わけがわからなくなって放り出す。

なぜそんな書き方になっているのだろうか? それはマクルーハンが、まともに一般性のある論証ができない/しない人間だからだ。これについて、マクルーハンは意図的にやっていたらしい。きちんとした説明や理論構築をはっきり拒絶したそうだ。特に本書は構築性を完全に廃し、様々なお話をちぎっては投げるような形にしている。これは視覚文化の構築的なあり方を拒否し、かつての聴覚文化の形を体現しようとしているようだ。

マクルーハンの「論証」:文学サンプリング

では、構築を拒否したマクルーハンのやる「説明」とは何か? マクルーハンは文学屋さんだ。だから、彼の「説明」の大半は、「どこそこの当時の小説に、こういう表現が出てくる」というものになっている。それだけ。言わば文学サンプリングだ。

そんなの、あんまり証拠にならないなんていうのは、言うまでもなくわかりそうなもんだ。まったくならないとは言わない。確かにそれは、一つのサンプルにはなる。他の資料がないときに、それを傍証として使うのはありだろう。でも、決定的な証拠とは……とても言えない。

たとえば、本書ではチョーサー『カンタベリー物語』の話が出てくる。マクルーハンは、それが当時、確立した一貫制ある「個人」というものがなかった証拠だ、という。話している間に、自由自在にいろんな人になりかわり、決まった語り手の視点はなく、そこで話している人になりきってしまう書き方なのは、『カンタベリー物語』が文字以前の口承文学だからで、よって当時は文字による分裂が、少なくとも下民どもの間では起こっておらず、したがって下賤な連中は自意識も個人という認識もなかった、というわけ。

こう言われて、疑問はいろいろあるだろう。いやいまだって、一人何役の語りくらいはやるんじゃないの? チョーサーがやっているだけで、それを文字とかお話とか下民どもとかすべてに一般化できるの?

そして、それに対してきちんと対応する方法はあるだろう。これは当時のベストセラーだったので、こうした書き方が当時は一般に受け入れられていたということが言えるんだよ、とか。あるいはチョーサーだけでなく、同時代の他の小説でも同じような手法がたくさん見られていますよ、とか。でも、マクルーハンはそれをあまりやってくれない。

そして、これはまだマシなほうだ。彼は、ちょっとした文芸作品の中の表現をもって、何かそうした「グーテンベルクの銀河系」(つまりグーテンベルクの印刷術で引き起こされた各種の変化)の証拠だとする。

たとえばシェイクスピアかなんかで「どんな噂が聞こえてきても、あたしゃ自分の目を信じるよ」みたいな台詞がある。するとマクルーハンは「見よ、耳で聞くよりも目が優位だと言ってるぞ! 他の感覚に対して視覚が圧倒的な優位にたってきたことをはっきり示している!」とか言う。

でも、そうかぁ? たまたまそういう表現が、ある一つの文芸作品に出てきただけでしょ? 文芸作品なんて、いろいろ変わった言い回しを工夫するのが身上でしょうに。そこでの表現を、生物的、社会的な変化すべての証拠だとなぜ言えるの? 『テンペスト』の魔法使いお父さんは、本ばかりの世界にはまってしまい、世界の全体性とのつながりを失っている——はい、確かに、でもそれが人類の世界認識や社会関係全体の変化なのだ、と主張するまでには、距離が遠すぎ。

繰り返すけれど、それがまったくダメとは言わない。でもそれだけではあまりに弱いでしょう。そして20世紀初頭の文字/メディア認識の証拠として、彼がしきりに引用するのは、ジョイス『フィネガンズウェイク』。そこには、いろいろ擬音語が出てくるんだ。Bababadalgharaghtakamminarronnkonnbronntonnerronntuonnthunntrovarrhounawnskawntoohoohoordenenthurnuk とか。マクルーハンとしては、これが視覚文化の尖兵たる文字が、聴覚文化の要素 (そして表音文字に対して見た目を重視する表意文字的な要素) を採り入れようとした革新的な取り組みなわけ。

いやあ、そんな大したものかなあ。しょせん擬音表現、擬態語じゃないですか。ジョイスは、聴覚文化だの表意文字表現だのを考えたのかもしれない。でもそれを(それもよりによって『フィネガンズウェイク』を)全人類についての議論の裏付けとして使えるとは、とても思えない。英文科の先生なのでジョイスを持ち出したいのはわかる。が、フィネガンズウェイクに何か出てくるから、というのを現代のメディア環境について何かを語るものだと言われてもなあ。

ラブレー『ガルガンチュア/パンタグリュエル』も、視覚文化の蔓延に対する全身聴覚文化の逆襲だ、と彼は言う。うん、仮説としてはあり得るし、説得力があるかもしれない。そして、それがあの本のおもしろさにつながっている、とは言えるだろう……もしその視覚文化VS全身聴覚文化という最初の仮説に蓋然性があるなら。でもこの本は、そもそもその蓋然性があるのか、というのを論証するはずの本ではなかったの? それがないなら、ラブレーを持ち出しても裏付けにはならない。こういう考え方をすればラブレーのおもしろさも説明できる、と言いたいかもしれないけれど、そういう考え方をしなくても説明できるよね。

その意味で、本書は往々にして、何で何を説明しようとしているのかがひっくり返る。そして結局、ある種の文芸評論をしたいがために人間の認知・社会的な変化についての仮説を述べました、という話になってしまっているところが多々ある。つまり、文芸評論こそがこの本のメインだということだ。

中身に貢献しない引用

そしてマクルーハンはしばしば、すぐに脇道に話がそれて、しかもその脇道で長ったらしい引用をするんだが、脇道なんで議論の本筋には何も貢献しない。

たとえばチョーサーの話でもシェイクスピアの話でも、途中で「このように文字や本が人の認識を変えるという、メディアの人間変容についてこれまでの研究はまったく注目してこなかった。が、『機械化の文化史』のギーディオンはこれを鋭くとらえて……」と書いてそこからすごく長い引用をしてみせる。でも、そのギーディオンやバークレーの主張というのは、なんか自分の言っていることに近いというだけで、それまで語っていたチョーサーやシェイクスピアについての議論にはまったく貢献してませんよね? つまりはっきり言って、無駄ですよね?

でもマクルーハンはそればっかりなのだ。だからこそ、上でほんの10行ほどでまとめたような話が、この500ページもある本にふくれあがっている。

冒頭のメディア談義:実は本書の中身とはあまり関係ない

この本を読んだ多くの人は、冒頭のあたりで挫折することが多い。だから、知ったかぶりでこの本について言及している人は、冒頭の当たりの話しかしない。そしてそこでは、文字や本を離れたメディア全般の話をしている。そしてそこで、どこかの土人に映画を見せる有名な話が出てくる。なかなか印象的だし、みんな冒頭しか読んでないから、この本について語る人の多くは、このエピソードを嬉しそうに紹介する。

議論としては、いろんな感覚の中で、特に文字のせいで視覚が突出してきました、というのが出発点。で、その視覚優位をさらに進めるのは映画。映画は完全に視覚的なメディアだ。でも視覚文化に移行しておらず、いまだに全身性の聴覚文化の中にいる人々——つまり部族社会に生きる未開のドジンども——は映画を見せてもぜんぜんわからないのだ、という。で、マクルーハンはそのエピソードをどこかから引っ張ってくる。進歩的な西洋人たちがドジンに何か教育映画を見せたら、彼らは何が起きているか全然理解できず、教育映画の中身も教えもまったくわかってくれず、「鳥がいた」とか「犬がいた」とか言うだけ。彼らは視覚文化のお作法がまったくわかっていなかったので、映画にも反応できませんでした、というのがその話となる。

これはとても印象的ではある。でも、話の本筋とはあまり関係ないのだ。本書は基本、文字と本についての話だから。ちなみにこの後で、ちょろっとテレビの話が出てきて、テレビは実は全身聴覚性のメディアなんだ、映画とはちがうんだ、と言われる。どうも、映画は何か決まったものをじーっと見るだけだけれど、テレビは自分でチャンネルも変えるし、世界のいろんな話が遠近感覚なしにそのまま感覚器に飛び込んでくるから、映画のような距離をおいて見る感覚ではない、かつての部族社会のように、すべてがリアルタイムで身近で起こる感覚だ、だから映画とはちがうんだ、という。テレビは全感覚的な聴覚メディア、なんですと。

そしてそのテレビなど電子メディアのおかげで、いろんな世界の話がいきなり距離感なしに身近にやってくるようになったのは部族社会の感覚だから、世界は今や村で、よってグローバルビレッジです、ということ。が、この話は次の『メディア論』に譲ると言う。

メディア論―人間の拡張の諸相

メディア論―人間の拡張の諸相

まとめ:結局、そんなにすごいことは言っていない。

ということです。結局、言っている内容は冒頭でまとめた程度のこと。きちんと論証にもなっておらず、仮説の言いっぱなしに終わっているし、むしろやりたかったのは、この仮説を使った各種の文芸作品に対する批評なのではないか、と思えてならない。

言っていることは、ジュリアン・ジェインズ『神々の沈黙』なんかとも通じている部分はある。

また、ぼくの好きなニコラス・ハンフリー『喪失と獲得』とも共通する部分もある。たぶん直感としては結構ポイントはついているんだろう。

cruel.org

でもそれをいまありがたがるべきだろうか、というと、そうは思わない。本や字が人間の認知に与える影響にしても、たとえば『プルーストイカ』がある程度それを実証的に示してしまったのを見ると、もはや迫力が全然ないと言わざるを得ない。

ということで、歴史的な価値はあるのかもしれないけれど、いまやマクルーハンのこの本を読む意義は、ぼくはあまりないと思う。彼をありがたがっている人の多くは、単にこのこけおどしにダマされ、意味がわからないのが深遠なのだという変な妄想にとらわれているんじゃないか、とぼくは思う。

さっきも述べた通り、こうしたきちんと説明しない、理論を明確に構築しないやり方は、マクルーハンが意図的にやっていたことらしい。全身性の聴覚文化のあり方を体現した、つまりは理解しようとせず、このいろんな断片的エピソードの山に身を沈めて感じろ、ということだ。Don't think, feeeeel!! そして、それをおもしろく思えないのは山形が頭でっかちに理解しようとしているからであって、こんな箇条書きでまとめること自体が、山形がいかに視覚文化の奴隷になっているかを物語るものでしかない、とは言える。が、ぼくはそれなら奴隷で結構と思っている。相互監視の噂と思いこみと吊し上げの好きな村社会で暮らしたいとはみじんも思わないのだもの。

自分はマクルーハンの文章からあふれでるデムパをビシビシ感じとり、そのメッセージを感得できるのだ、と言いたがる人もいるだろう。でも、ぼくはそれが衒学趣味の、わからなさをありがたがる歪んだ心の働きである可能性のほうが強いとは思う。別に聴覚文化の奴隷になったからって、何か偉いわけではないのだもの。逆に、あなた本当にプライバシーも自由もない何も変化のない退屈な社会に戻りたいの?

そうそう、マクルーハンのもう一つの詐術は、はっきりとは言わないくせになんとなく、視覚文化<<<全身聴覚文化、みたいな雰囲気を漂わせることだ。メディアに冒され、視覚ばかりを優先し、合理性と効率ばかりに走り、全身の感覚や世界との結びつきを失った哀れな現代人よ、みたいなニュアンスが到るところに顔を出す。そうした反文明的な物言いが、おそらくはかつての (そして今の) マクルーハン人気にも影響しているんだろうね。

が、まあ結論を出すのは、次の『メディア論』を見てからにしましょうか。