
ウンベルト・エーコ『薔薇の名前』に対するスタニスワフ・レムの見事な書評、およびその『覚書』をもとにした「なぜあれがベストセラーになったか」についてのトホホな考察を訳してしまったので、委員会関係者には読ませてあげよう。
レム『偶然の哲学』(1968)の1984年改訂版(おそらく第3版?)に収録された模様。独語からの重訳。
おおまかな中身としては、エーコ『薔薇の名前』は、史実を創造的に活用して中世僧院を舞台に、見事に現代的な課題に取り組んでいるという大絶賛。だがレムは同書を、理性を重視する啓蒙主義的な立場を代表するバスカヴィルのウィリアムの勝利の物語とは読まず、神や神聖なものや権威を否定する悪の僧院長ホルヘこそが長期的に見て正しかったという立場を採る。実証主義であらゆる価値の源泉や根拠を否定したことで、現代人は根無し草となり己の存立根拠を失って迷っている、これはホルヘの主張通りだ、と言って。そして現代に通じるその難問に取り組みつつ、知的な水準を維持したエーコを高く評価する。
ちなみに、『薔薇の名前』ラスト近くのウィリアムのセリフのネタバレも、いやあ気がつきませんでした!
だがそれに続きエーコ『覚書』をネタに、レムはなぜ『薔薇の名前』がベストセラーになったかについてつまらない考察を繰り広げては結局わからず、エーコはベストセラーを狙っていたかとかいうくだらない邪推を延々展開して、最後は自分の最近の作品がなぜか売れないというグチに堕するのは情けない限り。なんだか自分がここまでのベストセラーにならないのを、気にしないふりをしつつ、不満で仕方ない様子がわかって、かわいいといえばかわいいんだが本当に無内容。
そして、『SFと未来学』でいいかげんうんざりしている罵倒も後半では復活。エーコの『覚書』はできが悪くて洞察がないんだってさ。自分のお望み通りのものがないと、ダメだヘタだ考えてないと言うのやめようよ (ってレム死んでるから言ってもしょうがないんだけど)。
前半の見事な分析、さらに後半とのコントラストがおもしろい。同時に科学中心主義と思われているレムがときどき見せる妙な偏狭な倫理観の源がうかがえる貴重な文。この偏狭な倫理観については、ぼく以外に指摘している人を見たことがないんだが、確実にある。
繰り返すが、笑いを禁止して神および既存権威や価値の源泉を守ろうとするホルヘ僧院長を、レムは正しいと断言するという、通常とはまったく正反対(だと思う) な解釈が見所。レムは通常は科学重視、合理性重視の人と思われている。だからこそ彼の見せる偏狭さはときどき不思議なんだが、実は彼は現代的な倫理観の喪失、価値の源泉の喪失を実は本気で憂慮している。あちこちで彼が述べる、最近のSFはダメ、商業主義でお先真っ暗といったグチは、実はそうした価値観の基盤が失われつつあるという表現であり、ある意味でレムの持つ宗教的ともいえる価値の存立根拠を希求する、意外な側面の反映であることがよくわかる。
しかし……
『SFと未来学』でもそうなんだけれどさあ、もう少し構成考えて論点整理するというの、やってくれないかなあ。その場限りの思いつきをひたすら羅列して、結局話があっちとびこっちとびして、何言いたいかわからないのはあまりにひどすぎるわー。
訳しているときはブロック単位で数段落ごとにやるから、意味のかたまりがある程度とれるので、話の流れがそこそこわかる。前半のほめている部分は、言いたいことが明確だし、『薔薇の名前』本体というつっかい棒があるので、そんなに揺れない。でも終わって通して読むと、後半は本当にひどい。いろんな比喩とか例示とか、9割くらいまるで機能していない。『覚書』自体がどうでもよくて、なんか自分の思いつきを並べる口実でしかないため、結局何なのか何も残らない
そして、ペーパーバック5ページ続く一段落とか、あまりに壮絶。もうちょっと段落切ろうよ。これも上と同じで、何か思いつきを勢いで切れ目なしにタイプしてるんだろうね。ドイツ語訳が勝手に段落つなげたとは考えられないので。でもケルアックじゃないんだからさあ、そんな切れ目なしにタイプされても困るんだよ。この翻訳では、ちょっとひどすぎるのでこちらで適度に段落切ってる。これも構成とか全然考えていない書き殴りの証拠。
なんかこの文でも、自分が売れないのは読者が馬鹿だから、みたいな話するけど、編集者やライターさんに依頼して構成を練れば、もっともっと読まれたと思うよ。
付記:
いまさらのように、レム「薔薇の名前」論は垂野創一郎@puchiere訳『発狂した仕立屋その他』に収録されていたのに気がついた。でもレムの英訳への変な敵意とかは削除。後半のものほしげな「ベストセラー、いいなあ」論も触れないであげてる。優しい。 pic.twitter.com/g16hul63bB
— Hiroo Yamagata (@hiyori13) 2026年4月1日