ストーレンハーグ『エレクトリック・ステイト』拙訳についての論難は不当だと思うのです。

Executive Summary

 シモン・ストーレンハーグ『エレクトリック・ステイト』の山形の翻訳について、アマゾンレビューで悪口が出ているけれど、山形自身は不当だと思う。その主張と山形の言い分は以下の通り。

  • 話者が二人いるのを、一人だと誤解している! → まさか。一人称を見なさい。訳し分けてます。原文でもその差は、内容で判断するしかないんです。
  • それをごまかすため重要な一文をわざとぬかした! → ぬかしてません。原著にはバージョンが二つあります。その差です。
  • そのもう一人の話者は絵に出てくる男なのだ!→ その解釈は明らかにまちがっています。山形が正しいかどうかは、続編 and/or 映画をお楽しみに!
  • 2刷りから、削除された文章がこっそり追加されているのに他の部分がそのままだ!→ 文章の追加は原著者の意向を確認した結果です。他の部分はまちがっていないので修正の必要がないのです。


The Electric State by Simon Stalenhag – Animated

はじめに

 先日訳した、シモン・ストーレンハーグ『エレクトリック・ステイト』、おかげさまをもちまして大変好評をいただいており、訳者としてはありがたい限りです。ちなみにこの翻訳は買取制でして、好評だろうと不評だろうとぼくの懐にはまったく関係ないのですが、それでも関わった本が売れるのは嬉しいものです。

エレクトリック・ステイト  THE ELECTRIC STATE

エレクトリック・ステイト THE ELECTRIC STATE

 が、アマゾンでの評判を見ますと、この山形の翻訳がよくない、というコメントがいろいろ見られます。もちろんあらゆる人を満足させるのは不可能であり、また批判は批判として真摯に受け止めねばなりません*1。中でも目につくのが、特に具体的な形で、山形の翻訳がまちがっており、それを隠蔽するために原文の改変削除までしているというきわめて厳しい糾弾を行っている、VARCO氏のレビューです。

SFグラフィックノベルの傑作だが翻訳に欠陥 : (スクリーンショット)

 おそらく多くの方は、上のリンクをわざわざ読む手間はかけないと思いますので、そこでの主張を整理しておくと、次の4点となります。

 

  1. 山形は話者が二人いるのを、一人だと誤解している!
  2. それをごまかすため重要な一文をわざとぬかした!
  3. そのもう一人の話者は男なのだ! 山形はそれを女の子だと思って訳している!
  4. 2刷りから、削除された文章が追加されているのに他は放置していて不誠実!

 

 さて、ご批判はたいへんありがたいのですが、この4点いずれも、読み違えと誤解に基づくものだとぼくは考えます。そのそれぞれについて、以下に説明をしましょう。が、その前に……

1. 本書のあらすじ

 本書は、何か大きな戦争後20年前後たったアメリカ (パシフィカ) を舞台に展開します。その戦争はドローンを使って戦われ、その操縦のために操縦者の神経系をドローンに直結させる仕組みが開発され、そしてそれが戦後にエンターテイメント用途に転用され、VRをさらに没入させた、ニューロキャスターなるものが一世を風靡し、世界はそのための巨大ネットワークインフラが乱立。戦争の巨大兵器残骸とともに、風景は一変します。やがて、神経系をVR界に直結させて没入する人が増えるにつれ、その世界に完全に中毒し、もはや離れられなくなる人々が増加し、次第に現実世界は放棄され、荒廃に任される一方で、ネットワーク経由で接続された無数の人々の神経系が、どうもある大きな集合意識を創発させているようにも思えます。

 主人公の少女ミシェルは、その世界の中で、弟がニューロキャスター経由で遠隔操縦するロボットと共に、荒廃したアメリカを車で横断してゆきます(白地のページ)。そしてその一方で、その世界の成り立ちについて、黒地のページで何者かが「ウォルター」に自分の思い出を交えて語ります。やがてその両者が交錯し……

 本書は、こうした世界観を鮮烈なグラフィックで描き出す……というより、もともとこのグラフィックの連作があり、そしてそこから作品を選び出しつつ、その背景となる物語が書かれたものです。本書に収録されていないものも含め、以下にそのいくつかを挙げましょう。

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 現代のアメリカ地方部や郊外部の日常に、そのニューロキャスターのネットワークが生み出した巨大インフラが重なり合う異様なグラフィックが、単なる思いつきではなく、確固たる詳細な構想を背景として描かれていることがよくわかります。

2. 批判 1:「山形は話者が二人いるのを、一人だと誤解している!」について

 さて、VARCO氏の批判の第一点は、山形は、白地の部分と黒地のページの話者がちがうことに気がつかず、同じ人間 (主人公の女の子) の語りとして訳してしまっている、というものです。

 さすがにそれはない。ティーンの子がかなり前の戦争に従軍していたとかいう場面が出てきたら、普通の訳者なら気がつきます(山形が普通の訳者か、という問題はいろんな意味でありますが)。

 それが証拠に、山形はその両者をちゃんと訳し分けています。まずいちばん明らかなこととして、このそれぞれの一人称を見ると、ちがっています(どうちがうかは、実際にご覧になってください。2刷りでは、これをもう少し明確にすべく追加で修正しています)。そして、その語り口も、そこそこ変えてあります。語り口の区別がつかなかったというのは残念なことでが、その差を読み取れた人もいます。たとえば以下の、おたんちん氏による批判レビューです。

クソ翻訳

 おたんちん氏は、一部の部分の語り口がなっていない、と憤っています。そしてまさに、黒地部分の文章を引用して、こう批判します。「百歩譲って、ティーンの女の子のモノローグですよ?」

 はい、十代の、高校中退の女の子は、こんなしゃべり方はしないでしょう。それはまさに、そこはティーンの女の子のモノローグではないから、なのです。おたんちん氏は、VARCO氏とはちがい、この二つの部分の語調が翻訳でもある程度ちがうことは読み取ってくれています。逆に、それを無理に同じ人間だと思い込んでしまったために、山形訳がクソだという結論に達しています。

 そしてもう一つ重要な点として、原文も別にそんな露骨に文体がちがうような書き分けはされていないということです。原文でも、内容から推測するしかないのです。

3. 批判 2:「山形は、自分の翻訳のまずさをごまかすために、故意にある一文を削除している」について

 VARCO氏のレビューを読んでいて、ぼくがいちばん慌てたのはここのところです。「あいつらを見つけた、ウォルター、もうすぐ終わる」という原文の一文がぬけており、それは語り手が一人だと思ってしまった山形が、つじつまをあわせるためにわざと削除した可能性さえある、というのがそこでの主張です。己の無能をごまかすため、わざと翻訳をきず物にしたと言われると、さすがに見すごすわけにはいきません。

 当然、即座に作者から送られてきたファイルや、出版社からのハードカバー原著を見ました。が……そんな文章はありません。だから最初は、何かの勘違いだろうと思ったほどです。しかしファン掲示板で、それに類する一節への言及があり、いささか賦に落ちないので少し調べたところ、事情がわかってきました。実はこの本、2種類のバージョンがあるのです。

 本書は、当初はクラウドファンディングにより出版されました (2017)。以下の本で、これが山形の手元にある原著です。

Electric State クラウドファンディング版
Electric State クラウドファンディング

 そしてそのクラウドファンディング版が好評だったため、商業版が出ました (2018)。それが次のバージョンです。

The Electric State

The Electric State

 この両者、いちばん明らかな部分としては表紙に使われている絵がちがいます。また、クラウドファンディング版の巻末にある、サポーター一覧への謝辞は商業版にはありません。

 そして本文は、ほぼ同じなのですが、唯一大きくちがうのが、その問題の一文です。クラウドファンディング版にはこれがありません。その後の商業版で追加されています。

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該当ページ対比。最初がクラファン版、後者が加筆のある商業版

 山形は、巻末にサポーター一覧があることからもわかるように、クラウドファンディング版をもとに翻訳を行っています。このため、その問題の一文は邦訳の初刷には含まれていないのです。

 邦訳版の初刷りに、その下りが含まれていなかったのは、このように元にしたバージョンのちがいによるものです。決して山形や日本の関係者が勝手に削除したものではありません。この点については、是非ともご理解ください。

4. 批判 3:「黒地部分の話者は男である」について

 さて、黒地部分は白地部分と話者がちがうことはわかっていた、という説明をいたしました。だから邦訳で両者の語り口をもっと露骨にちがったものとする手もありました。しかしながら、原文(といってもこれは、スウェーデン語版を英訳したものとなりますが)は、必ずしも明確にちがった語り口にはなっていません。だいたい、英語では一人称は全部「I」です。男とか女とか、若いとか年寄りとか、中身で判断する以外にないんです。ぼくも最初に訳していて、「あれ、なぜこの子がこんな昔の話を知ってるんだ?」と思い、それが別人だと理解するまでに少しかかりました。原文であまり語り口に差がないものを、必要以上に誇張するのは、ぼくは翻訳として適切ではないと思っています。ここはもちろん、人によって考え方はちがうとは思いますが。

 でもVARCO氏は、その差がもっと顕著なものだと述べます。具体的には、その黒地部分を語っているのは男だと断言しています。

 この指摘を受けて、あらためて原文を読み返してみましたが、まずこの本には、この黒地の話者が現在はどういう立場にいる何者なのかについて一切説明がありません。そして男性がそれを語っていると断言できる材料は、一切ありません。ぼくは語り口から、これが女性だと思って訳していました。本書で言及されている女性は、主人公のミシェル以外に、そのお母さんがいるので、そのお母さんである可能性もあるとは思っていましたが、これも断言できません。でも女性であるとは思っていました。

 ではなぜVARCO氏は、それが男性だと断言しているのでしょうか? それは、その語り手が絵の中に登場している、とVARCO氏が考えているからです。こんなふうにご指摘いただいています。

「そのページの絵には常に語り手の男の乗っている赤い車や、男の姿をはっきり描いている」

「語り手の男」?? ストーレンハーグ『エレクトリックステイト』より
「語り手の男」??

 なるほど、こうした絵ですね。確かにこの絵に描かれているのは男性です。が……

 残念ながら、この解釈は明らかにまちがいです。この絵に登場する男は、語り手ではありません。この人は、その語り手が語りかけている相手、ウォルターなのです。そして、それをはっきり示しているのが、まさにVARCO氏が問題にしている一文です。原文はこうです。

You're almost upon them, Walter. It is almost over.

 主人公ミシェルとその弟に迫っているのは、”You" であるウォルターなのです。語り手ではありません。VARCO氏はこれを「あいつらを見つけた、ウォルター、もうすぐ終わる」と訳されていますが、これは誤りです。「あなた=ウォルター」が、二人に追いつく寸前まできているのです*2。語り手は、どうもどこかから(『24』のクロエみたいに) ミシェルと弟、およびウォルターの動きをモニタリングして、ウォルターに指示を出しているようなのです。

 語り手とウォルターは、何か共通の狙いがあるようで、主人公の二人を追っているのはそのためのようです。が、それが具体的に何なのかは、本書でははっきりしません。でも、実際に物理的に「upon them」なのはウォルター一人なのです。この数ページ後に、ウォルターは拳銃を抜いて主人公二人がいる家に迫ります。おそらくウォルターがあちこちの場面で、ニューロキャスターをかぶっているは、それを通じてこの語り手から、このモノローグを(どこか離れた場所から)聞かされているのでしょう。

 では、その「語り手」は男性なのか、女性なのか? (最近はここに、「ノンバイナリーLGBTなのか?」とか入れなきゃいけないんですか?) それについては、ここでは申しますまい。ただ、このシリーズの絵は本書に収録された以外のものもたくさんあり、その中に出てくる人物がそれなのかな、とも思えます。いずれにしても、本書の世界は今後も広がり、映画化も予定されています。その中で、これについてはおのずと明らかになるかと存じます。お楽しみに!

5. 批判 4:「山形は批判を受けてそれをごまかすために、2刷で削っていた文をこっそり復活させたくせに、他の部分はそのまま!」について

 山形が問題の文を、故意に削ったわけではないことは、すでに説明した通りです。

 が、実はこの一文、かなり決定的なものです。これがないと、この話者と、その人物が話しかけているウォルターという人物が、主人公ミシェルとその弟を積極的に追いかけているということを示すものは一切ありません。黒地の話者は、ミシェルたちとはまったく関係なく、この世界の時代背景をウォルターなる人物に対してモノローグしているだけに読めます。いったいなぜ、その人がここでクローズアップされてモノローグしているのかは、この一文がないと明確にはわからないのです。

 また黒地ページの絵にしばしば登場する、Yシャツとネクタイ姿でニューロキャスターをかけている人物 (VARCO氏が語り手だと思った男) がウォルターだということについても、決定的な材料はありません。そもそもあちこちに出てくるこのYシャツの男が同じ人物かどうかもわかりません。この世界ではどうもほとんどの人間はニューロキャスター中毒なので、そういう連中が何人か描かれているだけ、とも読めます。この一文があるから、黒地の語り手がこの二人と何らかの関係があり、またYシャツの男が主人公の二人を追っているウォルターなのだ、というのがようやくはっきりわかるようになります。

 で、これを追加したほうがいいかどうかを著者に確認したところ、追加したいという意向がありました。2刷り以降で、商業版にしかない一文を追加したのはそのせいです。これがなくても、クラウドファンディング版の翻訳としてはまったく問題ないのですが、あったほうが読者には親切だろうと判断してのことです。もちろん、それを余計なお世話だと思う向きもいらっしゃるでしょうが……

 その他のご批判の部分 (黒地の語り手が男だとか) は、上で述べたとおり、誤解ですので直しておりません。そういうことです。

6. おわりに

 VARCO氏は明らかに、ストーレンハーグの絵に深い感銘を受け、原著まで入手の上で対比させ、そしてそれが適切に訳されていないと思ったからこそ、あのような辛辣なレビューを投稿されたようです。そうした読者を得たストーレンハーグ氏は実にアーティスト冥利に尽きると思います。

 そうした強い思い入れがあればこそ、抜けているように見えた一文に気がつかれたわけです。ぼくも、VARCO氏にご指摘いただくまで、その一文の存在については気がついておりませんでした。これについては、深くお礼を申し上げます。ありがとうございます。

 おそらく、その一文を今一度読み返していただき、絵と対比させて考えていただければ、黒地の語り手が男だとは必ずしも言えないこと、ましてそれが絵に出ている男ではないことは、ご理解いただけるかと思います。そこまで行かず、山形訳についての評価や話者についての解釈が変わらなくても、少なくとも本書にちがったバージョンが存在し、初刷での脱落に見えるものは、そのバージョンちがいの反映であって、決して脱落などではなく、まして悪質な隠蔽工作などでないことだけは、ご理解いただければと存知ます。そしていつか、本書の続編が出たときに、山形が決してデタラメを言っていたわけではないのかもしれないということも、思い浮かべていただければ幸いです。

 

 ……というようなことを山形が書いている、ということをどなたかアマゾンのVARCOレビューのコメントに貼ってあげてくださいな。山形はアマゾンレビューに書き込めないもので。(早速 studio-rain 氏がやってくれた。ありがとう! いまはレビューにurl 貼れるんだ! また捨て垢とおぼしきaaaa氏も、要約つきでやってくれました。ありがとう!)

cruel.hatenablog.com

*1:もちろん実際にはぼくはこんなことは思っていない。ぼくの翻訳が読みにくいとかわかりにくいとか言うやつは、山形になんだか恨みを抱いていてなんでもかんでも悪口を言わねば気が済まない人か、「だが/しかし」ではなく「でも」を使っただけで文章が読めなくなるとかいう連中を皮切りに、何やら難読症の面妖なバージョンに捕らわれているか、そもそも読んで理解できないものが高尚だと信じ込んでいて、理解できてしまうのがこわい連中だと思っている。でも、こういうことを書いておくと、謙虚でいい人に見えるでしょうに。

*2:それは山形の勝手な理解だという人もいるでしょうが、実はこれ、作者に確認済みです。ぼくのほうが当然ながら正しいのです。

脱グーグルを目指してはみたけれど:クラウドコンピューティングとの苦闘

 個人的にはネットやコンピュータのセキュリティに関する意識みたいなものは、かなりそのときの気分次第でやたらに変動を繰り返す。

 ときには、「いやあ、オレには隠すものなんか何もないよ、グーグルやフェイスブックはてなやWeChatがどんな検閲かけてNSAやファイブアイズにどんなネタを流してようが、ぜーんぜん平気だぜ」と思ってなんでもガーガー使おうという気分になることもある。だって、いい盗聴者だっているものね、お母さん!

cruel.hatenablog.com

とか言ってるうちに、突然なんだか急にセキュリティ意識に目覚めて、「いやGAFAやアリババの思惑にはまってなるものか、国家の不当な諜報に屈してはいけない!」とか思って、フェイスブックの投稿消したり、PGPの署名を確認したり、Google ChromeやめてFireFoxにしたりBraveにしたりするとかいうときもある。

 で、どうなんだろうねえ、どっちが正しいとかいうのはもちろんないわけで、その人の重視するもの次第ではある。個人的にはセキュリティ引き締め期に、たとえばパスワードマネージャの利用に移行してほとんどのパスワードを強化したのは、とってもよい動きではあったと思う。メールの多くをPGP署名するようにしたのも、向こうが見てない場合がほとんどだろうから自己満とはいえ、まあいいんじゃないのかな。一方で、WIRED本国版の定期購読のおまけについてきたのを機会に、すべてをYubiKeyとかOnlyKeyの認証に移行しようとしたけど、うーん徒労感多し。すべてハードウェアのキーに頼るというのは、さすがに不便すぎる。(ついでにWIREDもかつての興奮のかけらもなくて、購読は更新しなかった)。

onlykey.io

 で、各種ある中でやはり問題になるのが、ストーレジ系。スマホで撮るくだらない写真もいっぱい溜まって、これを整理するのも面倒だ。iCloudにあげちゃうと手間がかからないし、いいよねー。あと、Amazonのプライムでおまけについてくるのでも結構容量あるし。一時、SugarSync使っていたのだけれど、なんかときどき、どうしてもsyncしてくれないファイルが出てきて、頭にきたのでgoogle One/Google Driveに切り替えて、InSyncと併用することで、デスクトップにラップトップ各種もファイルを同期させて、何も不自由はなかったのではある。

 でも、またセキュリティ心配期がやってきて、やっぱグーグル依存は減らそうと急に思い立った。

 なぜそんな時期がやってきたかは、年末までに明らかになるでしょう。

 が、理由はさておきChromeはすててBraveに変え、検索もDuckDuckGoQuantQwantを中心に切り替え。メールは、自分のドメインホスティングにくっついてくるメールサーバ (gmailでメール検索できるのはありがたいんだけどねー)。そして問題は、やっぱりストレージ。Google Driveに年に3800円払っているけど、その程度払うんなら脱グーグルでオプションあるはずだよねー、と考えて、暇を見て探す。

 こちらの条件としては

  • 200GB以上ほしい
  • DropBoxみたいに一つだけ専用フォルダをSyncするのではなく、いまあるフォルダをそのまま同期してくれること。
  • もちろんデスクトップとラップトップのファイル同期しないとダメ
  • グーグルよりはセキュリティで安心であってほしいよね。あまり中身覗かないでほしいよね。建前上は。

 で、いろいろながめてみて、よさげだと思ったのが pCloud。

www.pcloud.com

 少し無料アカウントで見てみて、悪くないし同期もちゃんとするし、上の要求も一応満たしている。ちょうど、生涯アカウントを少しお値段安めに得られるキャンペーンをやっていたので、それを申し込んで、自分のファイルを一通りまとめてクラウドにアップロード開始して、そしてその日は寝た。

 ところが。

 翌日、「アップロード終わったかな」と見てみたら、いつのまにかログアウト。あれ、ネットワークがまた何かおかしくなったのかな、コンピュータが急に寝てタイムアウトしたか、と思ってやりなおそうと再ログインしたら、できない。パスワードまちがえたか(パスワードマネージャ使ってるんだけど)といろいろやってみたら、全然入れない。

 あれこれやってわかったのが、アカウントそのものがなくなっている!!!!

 どういうことだと思ってもちろんすぐメールしたら

「おまえはTerms of Service に違反したファイルをアップロードした。よって利用契約に基づきアカウントを停止した」

 とのこと。

 さて、そう言われても、ぼくにはまったく心当たりがない。どうせ山形なんて違法エロ動画や獣姦ビデオを大量に持ってるんだろうと勘ぐる向きもあるだろうけれど、そういうのはほとんどない。せいぜいが、dmm (はいはい、いまはFANZAね) あたりからダウンロードしたアダルトビデオのサンプル程度。あとは、厳密にはぼくのものではないファイルはたくさんある。翻訳するときに、原著のファイルをもらってりして、それは大量にある。書評用、あるいはコメントをくれということで送られてきた他人の著作物ファイルはたくさんある。原著の著作権はぼくにはないから、厳密にいえばそれをクラウドにあげるのは、自分に権利がないものをアップロードしていることになる。各種の白書類、調査でもらった各国の部外秘ファイルなんかもある。そうそう、アルカイダのプロパガンダ雑誌とかもあるのがヤバかったのかもね。が、それがこれまで他の各種サービスで問題視されたことはない。もちろん、そのファイルを公開するような設定にはしていない。

 そこで当然、まずどのファイルが気に食わなかったのか、と尋ねた。

 すると、

「セキュリティの観点から、どのファイルが問題視されているのか、およびその理由を開示することはできない。 Terms of Serviceをよく読め」

 という答が返ってくるだけ。もちろん、読んだって何もわからん。数ギガある、二万個近いファイルのどれがいけなかったのか?とても全部精査なんかできない。

 そしてそれ以上に、ぼくはこのクラウド業者が、実際にぼくのファイルの中身をいちいちチェックしているのだ、という事実にちょっと驚愕した。確かにユーザ同意書を見ると、弊社の基準に違反したファイルをあげたら、勝手に削除したりアカウント停止したりするよ、とは書いてある。があ、ぼくとしては、これはこちらがfc2のモロだしポルノ配信や漫画村もどきを運営しはじめたときの対策用に書いてあるだけで、事後対応目的のものであると思っていた。積極的に日常的に普通のファイルをすべてチェックしているとは思わなかった。だいたい「弊社の基準」がなんだかはっきりしないんだよね。

 他にもpCloudに勝手にファイルを削除されたとかいう人が、検閲されたと文句を言っているのを見かけた。するとpCloudはそれに対して

「いやファイルの中身は見ていない。ただそのファイルをハッシュにかけて、こちらの手持ちの禁止ファイルと一致したものがあったら、それは自動的に対応する」

と返事していた。

 さて自動的にせよ、利用者がどんなファイルを持っているか調べるというのは、ぼくは十分に検閲だと思う。GAFAから離れてわざわざマイナーなサービスを使おうという人は、ある種のパラノイドか、同じ事だけれど物好きか、多少は後ろ暗いところがある人々だろうというのは確かだ。そういう人々は、GAFAがまさに自分のファイルを何らかのアルゴリズムにしたがって処理してデータを集めるというのを嫌がって、こういうところを探し出している。でもそこで、ファイルのハッシュ取られていろいろ照合されてるんなら……それってここに移ってくる意味がないだろうに。このサービス、ゼロ知識対応とかも書いてあるけど、明らかにゼロ知識ではない。さらにお金を払って、暗号化オプションつければいいかもしれないけど、それだと本当に大丈夫なんだろうか、と思ってしまうのは人情だろう。

 しかも、もしこれが本当であるなら、pCloudさんは、「危ないファイルの一覧とそのハッシュ値」という表をどっかに持っている、ということになる。えー、それっていったい、どこのだれがどんな基準で作っている表なわけ?? AIで中身見て、首切り動画があるっぽいからダメ、というならまだ理解できる。でも首切り画像固有のハッシュ値なんてあるわけないから、なんか規定のファイルについてそういうリストがあるわけだよね。なんだ、それは。ひょっとして世界中のブログや各種ファイルのホスティング業者 (たとえばこのはてな) はそんな秘密のファイル一覧をもらったりしてるんだろうか? ちょっと考えにくいと思うんだけど……どうなんだろ。

 じゃあせめて、返金してくれよ、と要求したら:

「いやこれはおまえがTerms of Serviceに違反したのが悪いのであって、こっちのせいではない、したがって返金には応じかねる。Terms of Serviceをよく読め」

 …… 数百ドル払って生涯アカウント作ったつもりが、30分でアカウント削除、理由も説明できません、しかも返金できませんって、なんだよそれ。

 ちょっとひどいだろう、と文句を言ったら、「気持はわかる。今回だけは特別に、別のメールでアカウント作ったら、そっちに支払った額を引き継いで生涯アカウントにしてあげるよ」とのこと。

 それはすばらしい。一応それをしてもらって、生涯アカウントは回復した。したのだけれど……これでどうしようか? だって、また同じフォルダを同期させたら、また同じファイルでひっかかってアカウント削除でしょうに。そしてそれがどのファイルかわからない以上、ぼくとしてはこのサービス、こわくて使えないのだ。

 そもそも、ネットで「検閲された」と騒いでいるやつは、モロだしのヤバいポルノを大量に持っていると述べていた。それは、その特定ファイル削除だけで済んでいた。それがぼくは、いきなりアカウント削除。ヤバいポルノすら上回る悪質なファイルがまぎれこんでいたということ? うーん、やっぱりアルカイダのやつかなあ。

cruel.hatenablog.com

 じゃあ他のサービスあるかなー、と思って見たけれど、たとえばこのMEGAとか、こちらのパスワードを鍵にして全ファイル暗号化、完全ゼロ知識でファイルを保存してくれるとのこと。

mega.nz

 でも高いなあ。年間6千円かぁ。うーん、そこまで払うか。そしてもちろん、この業者が何をしているのかは、結局はぼくにはわからないわけだ。当然だけど。そうなると、どこを使おうと、五十歩百歩ではないかという気が当然してしまう。

 もちろん技術に長けた人は嘲笑しているとは思う。自分でサーバー立てて、VPN接続とかすればいいんだろうけれどね。うちのルーターにも一応それに対応した機能もあることだし。でもそれも面倒ではあるなあ。そうこうするうちに、またセキュリティどうでもいい期がやってきて、なあなあになるんだろうなあ。でもこの生涯アカウント、どうしようか。

付記

 そうそう、セキュリティ系の話となると、クラウド系の話と並んでもう一つ定期的に出てくるのが、OSの話。Windowsは捨てようとか、MacOSXもアレだ、やっぱ Linux にしようぜとか、セキュリティなら OpenBSD でしょーとか思って、ふとインストールしたりもするんだけれど、それ以上なかなかすすまず、仕事でMSWord使うような事態が出てくると戻ってしまい、そしてそのまま普通に使い続けるのが常道ではある。そして3年くらい、Linux なんか触れないことになる。

 そのたびごとに、まあ新しい発見はあるんだけれど、その一方でインストールも UEFI なんていう面倒なものがはびこって、USB から起動するだけでまずBIOSのセキュリティ設定をいじるところから始めねばならないので、それだけで軽い気持でのインストールとかできなくなってるし、デュアルブートも面倒だし……

 でも今回、おもしろい試みとして Qubes なんてのを見つけて試してみようかと思っているところ。

www.qubes-os.org

 用途ごとに仮想マシン作りまくって、その間でのデータの往き来を制限することでセキュリティを高めようという試み。さてどこまで利用性を下げずにこれができているのか、チュートリアルとか見るとそこそこよさげだけれど、どんなものだろうか。人柱の報告を探してみたけれど、あまり真面目に使っている人が見あたらず、どうしようか。いまの本を訳し終わったら少し本格的にいじってみようかな。

キューバの経済 番外編: ノマドの夢と現実

キューバの話は書きかけがいくつかあるんだけれど、なんとなくまとめるところでモチベーションが落ちて放置してある。一つの理由は、コルナイ・ヤーノシュ『不足の政治経済学』を読んだら、ぼくが考えていたような話がすでにかなりきちんと考察されていて、ちょっと今さらかなあと思ってしまったことがある。コルナイ・ヤーノシュ*1、おもしろいから読んでねー。

が、コルナイ・ヤーノシュとこの山形ごときを比べること自体不敬であるし、下々の俗人の考えとして今後少しずつまとめていこうとは思う。が、そういう気が向く前に、また余談となる。

モンゴルで、いろいろ常識が覆された話はすでにやったけれど、もう一つ大きかったのは、ノマド/遊牧民というものに対する理解が完全に変わったことだった。

ノマドとは何か?

ノマド遊牧民。ぼくはそれまで、遊牧民を自由の象徴だと思っていた。どこにも定住せず、常に風任せで気ままに移動し、何にも縛られることなく自由に生きる。階級もなく平等で、所有もきわめて限定的。定住民は、遊牧民が自由に生きる土地を勝手に囲い込み、私有概念を押しつけ、そこをチマチマ耕作しては余剰を貯め込んで蓄財に励み、所有と紛争と管理と規制の陰湿な制度を構築して、現在の資本主義の矛盾に到るすべてのものを構築してきた。そういう鈍重な定住民に対し、遊牧民/ノマドは常に移動と速度を体現する存在なのである! もちろんモンゴルに出かけた2000年頃には、すでにポモ思想なんかありがたがる時期はすぎてはいたけれど、ドゥルーズ/ガタリやその受け売り浅田彰ノマドジーとか、細かいところはそのまま信仰が残っていたりした部分もあった。

たぶん日本でも、世界でも、こういう印象を抱いている人はいまでも多いと思う。一時流行ったノマドワーカーとかいうのは、まさにこうした信仰の反映でもある。そういえば、ノマドワーカーの旗を掲げていたいけな非正規雇用者を搾取していたミッフィー、いまはどこで何をしているんだろうねえ (別に知りたいわけじゃなくて、単なるレトリック上の疑問なのでコメント欄にいちいち報告したりしないように!)

が。実は全然そんなものではないのだった。それを知ったのは、郵便局の調査でモンゴルの地方部に出たときだった。

モンゴルのノマド/遊牧民

モンゴルはご存じの通り、多くの人が遊牧生活をしている。ゲルという巨大なフェルトテントを抱えて、羊の群れと共に移動し、それを設営して羊をその周辺で放牧し、羊が満腹になったら次のところへ移動する。それを繰り返すわけだ。前にも出した写真だけど、こんな具合。ゲルはかなりでっかいです。(あと、これをパオと呼ぶ人はニワカだと見なされます)

Inside a Gel

ちなみにその人数は、固定ではない。遊牧民VS定住民みたいな発想自体がまちがいだ。景気がよくなって、都市部の仕事が多くなれば、人は都市部にやってきて定住する。あるいは、草が生えない冬期には、みんな都市部にやってくる。そして都市部の仕事がなくなれば、失業者の多くは遊牧を始める。だからモンゴルの都市部には、かなりでかいゲル集落がある。

Untitled

ちょっと見にくいけれど、奥の山のふもとに広がっている黒いあたりはすべてゲル集落となる。近づくと、こんな具合。ゲルだけだと寒いし不便なので、こんなふうに家を作っちゃってるところも多い。

https://www.flickr.com/photos/36484111@N00/5136154931:embed:w360

mongol 013

さてもちろん、遊牧をしている人は、遊牧中はどこにいるかわからない。でもそういう人々もお手紙は少しはあるし、公共サービスもあるので、郵便局の私書箱を作るしかない。配達なんか無理だから……ですよね?

ところが、運転手さんが「まあそうだよなあ。急ぎのときでなければ届けたりしないよね」と言った。

え????? 急ぎなら届けられるの?

「うん、やるよ。もちろん郵便局がそんなサービスをするわけではないけれど、知り合いとかだとやることもあるよ」

????? どうやって? どこにいるかわからないじゃん!

すると、その運転手さんは、ちょっと驚いた顔をしてから、仕方ないなあ、という感じで説明してくれたのだった。無知な日本人は、先方にとっての常識を全然知らないので、それを途中でいろいろ補って、いったり来たりした話をまとめると、だいたい次のような具合。

ノマドは、自由に好きなところになんかいけない。

まずノマドとか言って浮かれている人は、遊牧民の「遊」の部分だけ見ていて「牧」の部分を見ていない。これは、もちろん、羊のことだ。それも一頭、二頭ではない。十頭、百頭単位でいる。そうなると、そうそう好き勝手にはできないのだ。

というのも、考えて見れば当然の話なんだけれど、放牧をするためには、それだけ大量にいる羊たちのための草場、水場が必要だからだ。勝手放題に好きなところに出向いて、エサや水がなければ羊が死んでしまう。遊牧は、そういうポイントを巡る形でルートを組むしかない。そしてまたもや当然ながら、草場、水場は限られている。モンゴルなんて、ゴビ砂漠。砂漠といっても、モンゴルは大半が岩砂漠と呼ばれるものだから、みんながイメージする砂丘ではないけれど、どこでもいくらでも草場や水場がある状況ではないのだ。

ノマドは、あらかじめ決まったルートをたどる。

すると、ある拠点を中心に動けるルートは、かなり限られたものになってしまう。ルートごとに、一週間コース、二週間コース、一ヶ月コース、なんてのがある。ご覧の通り、さっきのゲルはかなりでかい。地元の人はパタパタと器用に設営するけれど、それでも半日がかりだし、引っ越しは面倒だ。一回張ったら、三日くらいはそこにいる。すると一週間コースというのは、行って、どこか一ヶ所で羊にエサ喰わせて、また戻ってきます、というコース。二週間だと三ヶ所くらい。一ヶ月だともっと増える。

そして一週間だとピンポイントかなり小さい草場や水場を含む形でも組める。一ヶ月コースとなると、不確実性が増えてくるので、かなりでかい草場や水場をつなぐ形にしないと、リスクが大きすぎる。

これはもう、水場や草場の位置と羊の移動速度、さらに草の育成速度を前提とすれば、完全に決まってしまう。季節的な変動はあるし、その年ごとの状況を見極める経験や知恵はある。それでも、このコースが決定的に変わったりはしない。限られた周遊コースをきっちり回る以外に、遊牧民が選べる選択肢はない。

勝手気ままにはできず、ノマドのネットワークと相互調整が当然行われる。

そしてまた、そのルートですら好き勝手には行けない。気分次第でみんな行きたいところにホイホイ行けるわけではない。というのも……草地があるはずのところに行ってみたら、昨日まで別の連中がそこで放牧してて、草が全然ありませんでした、なんてことになったら羊は壊滅だ。だからだれがどのくらいの間隔でそれぞれのコースに行けるか、というのは、暗黙のお約束がある。というか、自分の羊のことを考えたら、無茶はできないから自分でその間隔を補正する。ここでももちろん、一ヶ月コースは比較的余裕があるルートだから、多少の無理はきく。でも当然ながら、それには限界がある。

だから、ある集落/都市を拠点とする遊牧民は決まっていて、その人は出発前に、自分が何日コースにでかけるのか、というのを集落/都市の知り合いにだいたい伝えてある。その知り合いつながりの中で、そのルートを動いている他の遊牧民がだれかも、だいたいわかっている。そしてもちろん、あらゆるところが完全に予定通りではない。草場がイマイチで早めに移動ということもあるし、思ったよりよければ長居することもある。すると、それはだいたい後続の人にはわかる。「あれ、思ったより草が生え戻ってないぞ、前の連中が長居したな」という具合。そして前の人々と後ろの人々も、馬で往き来したりして、多少の連絡はある。

もちろん、途中で何かトラブルがあったら、後続の人には当然わかる(1-2日遅れかもしれないけど)。戻ってこなければ、集落/都市で待っている人にもわかる。そしたらみんな、探しにくる。勝手に風任せに好きなところには行けない/行かないのだ。

でも、途中で草の状態がよいなあ、もう少し遠回りしようか、なんてこともあるのでは? もちろんそれはある。その場合はもちろん、たとえば一ヶ月ルートの途中から、さらに二週間のオプションコースみたいなのが出たりするわけだ。そしてそれは当然、後続の人たちには伝言しておく。

イメージとしては、次の図みたいな感じになる。

モンゴル遊牧民の遊牧コース イメージ図。集落を中心に、決まったコースがいくつかある。
モンゴル遊牧民の遊牧コース イメージ図

だれがどこを「遊牧」しているかはだいたいわかっている。

このイメージ図からもわかる通り、コースは都市/集落の周辺にいくつかある。そしてどのコースに行ったかは、彼らが向かった方角でわかる。「ガンゾリグはどうした?」「ああ、二日前に北西に行ったよ」そういえば、現地の人は、そいつが一ヶ月コースに向かったんだな、というのがわかる。そして二日前に出かけたということは、今頃はたぶん最初の水場/草場にいるだろうな、ということも見当がつく。そしてさっきも述べた通り、定住民も景気が悪くなれば、すぐ遊牧民になる。だからみんな、だいたい水場/草場は知っている。

だから、どうしても届け物がしたいとかいうことになれば、それだけの情報を周辺の人から集めれば、どこへ向かえばいいかはだいたいわかる。

実際に届け物をしてみると……

こんな説明をしてくれた後で、「じゃあこれから妻のところに出かけてみるか」とその運転手が言って、連れて行ってくれることになった。一ヶ月コースをまわっていて、すでに一週間くらいになるそうなので、ソ連製の四輪駆動箱バンで草原を走って行くと……おお、ゲルが見えてくる。

が、そこにいたのは、お目当ての人ではなかった。が、そんな場合でも、当然ゲルに招かれるのだ。そして、馬乳酒をふるまわれる。

Mongolian Hospitality

三杯飲まないと男じゃねえと言われて、どんぶりに三杯のんで、世間話をして、おみやげ(塩やお菓子)をあげて、さてガンゾリグを知ってるか、ということになる。すると、「ああ、おれたちより少し先にいるぜ」と答が返ってくる。そこでさらに世間話をして、場合によっては彼らの作っている固いヤクのチーズを買ったりして、そして次のところに行く。

次がちがえば、また同じことがくりかえされる。馬乳酒は、ビールより少し強いくらいかな。

途中、らくだの群れに出くわしたりする。先日訳した本では、「温暖化が進むとカナダにラクダがうろつくようになるぞ!」というのを何か効果的な脅しだと思ってしきりに使っていたのだけれど、冬には氷点下50度になるモンゴルにも、こうしてラクダはいまでも平気でウロウロしてますんで、単にその著者が思いこみだけでしゃべっているのが、わかる人にはわかってしまう。

Camel hearding

(モンゴルの地方部——に限らず当時は、野菜があんまりなく、羊肉ばっかなので、若き山形も、とっても腹が出ています)

そしてやっと、その目的の相手のところに到達するわけだ。それまでに寄り道した他の人のゲルで三杯ずつ馬乳酒を飲まされ、もちろん目的地でも歓待のために三杯飲まされて、その日昼過ぎまでにどんぶりに十杯以上も酒を飲まされた山形はかなり酔っ払ってはしまって……

My driver with his wife

このおじさんが、運転手さんで、その隣が奥さん。奥さんが羊を飼って遊牧している間、旦那は町で運転手として出稼ぎをしているわけ。

まとめ:ノマドジー(うっぷっぷ)

いまの話、どれも考えて見ればあたりまえのことだ。遊牧民/ノマドは別に、ファッションでうろうろしているわけじゃない。羊その他の家畜を喰わせ、肥やすという目的があって遊牧している。そしてかれらにとっても、資源は無限にあるわけじゃない。希少性の中で活動しているわけだ。相互扶助の仕組みも一応あるし、なるべくリスクを減らそうとする。だってへたすると家畜全滅か、最悪の場合は自分も死んじまうもんね。

  • 好き勝手なところは行けません。コース決まってます。それを外れたら死にます。
  • どこに行くかも、コミュニティの中でかなり管理されています。それに従わないと死にます。
  • だからみんなが思ってるほど自由じゃないっす。制約だらけの中、細々とした選択肢の中で生きるのです。

これは動物だって同じだ。アフリカのサバンナで、動物はだいたい決まったところを往き来する。また縄文時代の狩猟採集民も、決まったところを動きつつ生活していたらしいよ。同じ希少性の中で、抵抗最小の合理的な行動を進化や試行錯誤の中で選べば、似たような結果になる。

そして、定住民は所有するけどノマドは〜とかいうのがアホダラ経なのもすぐわかるだろう。確かに遊牧民の所有物は少ないけれど、それは移動するからある程度は所有物を制限するというだけだ。そしてもちろん、彼らは自分の羊については、ものすごい所有権を発達させていて敏感で、それに伴うもめ事もたくさんある。そして羊をたくさん持ってるやつと、ちょっとしかいないやつとでは、当然ながらいろんな力関係はちがってくるよね。それは階級というものと、そんなにちがうわけじゃないだろう。

で、こういうのを見て、ほんの一日ほどいっしょに動いたくらいだけど、それでもなんか、ノマドとかいうものに変な幻想を抱くのがいかにアホらしいか、というのはわかってくる。速度? いや羊の群れといっしょで、そんな速度出ませんよ。何か、ノマドは軍事的な存在であり、常に定住民を襲撃することで生活を〜 とかいう勝手な話も読んだけれど、定住/ノマドという区分自体が、そんなきっちりしたものではないのはすでに述べた通り。他のところはちがうのかもしれないね。アフリカのトゥアレグ族は全然ちがうのかもしれない、が……彼らがそんなにちがう条件に支配されているようには見えないし、定住民を絶えず襲撃ばかりしていたというのも、ちょっと考えにくい。

ちなみに、ハラリ『サピエンス全史』は通説に異論を唱えて現代文明批判をして見せたので人気が出て、確かにおもしろかったんだけれど(だから帯の推薦文も書きました)、その説にどこまで説得力があるかというのは疑問符もある。農業そんなよくない、定住ダメ、なんかインチキの結果なんです、というのは本当か? 他にも定住よくない、実は遊牧生活すばらしい、みたいなことを言いたがる学者とか結構いるけれど、狩猟採集がそんなにいいか? 遊牧がそんなに楽しくてよいことなのか? 自分のわずかな体験を敷衍しすぎるのはよくないけれど、でもそういう議論を見てぼくがあまり説得力を感じないのは、こんな体験のせいもある。もちろんいまの遊牧民は、すでに定住社会を前提としてそれに適応した形態であり、かつての純粋遊牧生活とか純粋狩猟採集生活はまったくちがうものだったのだ、というなら話は別だけれど。

たぶんここから、いまの(もはやあまり話題にならない)ノマドワーカーを見て、なんだか結構同じじゃん、と思う人も多いだろう。水場/草場がスタバに変わり、自由なはずなのになんだかんだで動くルートは毎日似たり寄ったり、そしてその動きは都市部の非ノマドたちにかなり監視され……

おわりに

そんなわけで、ぼくはもうノマドとか遊牧民についての変な夢物語や妄想にはあまり説得力を感じなくなっている。定住民と遊牧民が、まったくちがう原理で生きているとも思わない。希少性に直面したときの合理的な行動、最も無駄のない行動を考えることで、かなりの部分は説明がつくと思う。

そこから、ホモ・エコノミカス批判とか、お話としては楽しいけれど、でもそれはあくまでマイナーな話だとも思う。もちろんマイナーな話が大きな影響を保つことを、シェリングアカロフは論証してみせて、それはすごい話だ。でも合理性の限界を考えたがる人は、同時に不合理性の限界もよく考えた方がいいとは思うのだ。が、これは余談。

そしてまた、ノマドだってつらいのよ。大変なのよ。定住民の妄想オナペットにできるほど甘いものじゃありませんぜ*2。それは理解してあげるほうが、お互いにとって有益だと思うなあ。もちろんぼくたちは、ときどき「ああこんなしがらみを逃れて自由に生きたいなあ」なんてことを思う。そしてそれを投影するが故に、ふーてんの寅さんをなにやらありがたがってみたり、遊牧民やジプシーにロマンチックな思い入れを抱いたりする。でも彼らには、彼らなりのしがらみがあり、苦労があり、制約があるのです。

余談

flickr の写真を張り込めるのは便利ではあるんだけれど、サイズって変えられないのかなあ。それと写真選ぶインターフェースはもう少し考えてほしい……

付記

こんなコメントあり。

キューバの経済 番外編: ノマドの夢と現実 - 山形浩生の「経済のトリセツ」

えっ?遊牧民の夏営地と冬営地が決まっているのは常識だと思ってましたが。(清代以降に牧地の細分化が進んで、争いが少なくなった代わりに、発展も制約されたものかと。チンギス再来は恐ろしいですから)

2019/07/15 01:25
b.hatena.ne.jp

そうなんだよね、おっしゃる通りで、言われて見ると、ああそういえばそういう話は聞いたことあったかもなあ、という部分はある。でも人はなかなか、それを自分の頭の中のイメージと結びつけられないのです。それと、そういうのはもう少し漠然としたでかい話だという印象もあった。「冬は寒いからオーストラリアにいくよー」という感じ。こんな細かい数日単位でのルート設定があって、個人レベルで位置をほぼピンポイントできるというのは新鮮だったのだ。でも単純に、山形個人の無知という部分は当然ながら大量にあるので、ご指摘いただければ幸い。

*1:ヤノーシュじゃなくてヤーノシュなのか!!いま気がついて訂正したです。

*2:こう書くと、「いや、ドゥルーズガタリノマドとは必ずしも現実の遊牧民などではなく、ある種のメタファーであり云々」とか言うヤツが必ず出てくる。が、基本的に、そういう現実とのちゃんとした対応関係すらない、いい加減な例え話をすること自体がそもそも有害なのだ、というのが『知の欺瞞』の教訓でもある。具体的に何でも考えよう。例え話をするなとは言わないけれど、それはあくまで補助的なものだと認識して、それに頼らないきちんとした説明をまずしましょう。

お嬢さんは中東の石油相の遺産をもらえるそうです。

まったくどうでもいい話だけれど、近くのカフェで御禁制品のファーウェイMatebook Xでかっこよく仕事をこなしていたところ、隣でそこそこ妙齢の女子が二人ダベっている。その一人曰く:

「なんか変な英語のメールがきたのよー、中東からでぇ、なんか億万長者の遺産があるので、その遺族を探して口座から遺産を出すのを手伝ってくれって」

おー、最近また少し増えてきたよねー、その手のメール、と思いつつ聞いていると、相手方は「なんかあやしーよねー、どうしてそんなの来たの-」とお返事。

最初の女子は「そーなのよー、なんか変でしょー、そんな話あり得ないよねー、その遺産の人の名前とか聞いたことないし、あたしその人と関係ないしー」、と非常にまっとうな疑念を表明していて、あー、ネットリテラシー教育も少しは浸透しているのねー、と感心して聞いていた。そのまま彼女は、いろいろ怪しいところを並べて、いちいちごもっとも。相手も「そうだよねー、絶対変だよー」と相づち。

ところがそこで、この女子がいきなり爆弾発言。

「でもさあ、一応返事しようと思うのよー」

えー、どうしてですか、いままでそれがインチキであることを的確に指摘なされていた聡明なお嬢さんがなぜ? と思っていたら、相方ももちろん「えー、どうしてー」と同じ返事。すると彼女答えていわく、

だって、この人、あたしをわざわざ探し出して、メールをくれたわけじゃない? 他の人なら、こんな英語メールがきても読めないけど、あたしがちゃんと英語読めることまで知ってて、しかもアドレスも知ってるわけでしょう。あたしのこと調べて、何か知ってるのよ。だからちょっと、どうしてあたしのこと知ってるのか、一応きいてみようと思うの-」

……うーむ。なんか、英語のメールが読めるというのがプライドのツボで、そこがこのお嬢さんの秘孔だったのねー。ネットリテラシーも、小さなプライドには勝てなかったか!

相方は「そうかなあ、適当にやってるんじゃないの?」と常識的な突っ込みをしていたけれど、お嬢さんの腹はもう決まっているようで、「でも一応確認くらいはしておきたいしー」だそうです。

人がこう、露骨にだまされる現場というのを見ると、人間の底なしの愚かさに感動することしきりでございます。ちなみにその後、このお嬢さんが実際にどうしたのかは不明。口座登録料くらい10万円くらいだまし取られて、痛い授業料ですむだろうとは思うんだろうけどねー。しかしこれでは、ナンパも宗教団体の勧誘も、なんかガバガバのような気がするんですけど。

ちなみにこれをお読みのみなさん、そういうの全部インチキですから。アフリカの口座に元資源大臣の遺産があるとか、美しい未亡人が秘密の関係を求めて一発百万払いますとか、知り合いが身ぐるみはがれて、その代理でメールを送っていてすぐに30万を送金しろとか、全部ウソですから。念のため。

キューバの経済 番外編: モンゴル唯一の自販機

うーん、前回かなり気合いを入れたつもりなのに、反応が薄くてがっかりですよ。減価償却ガー、といったあたりですでにかなりみんなの理解力を超えたということなのかしら。

まあ仕方ない。今回は息抜きで、番外編としてコメントできた、モンゴルの自販機の話をしよう。特に何の衒いもない。これがたぶん2000年以来、かなりの期間までモンゴル唯一の自動販売機だったものだ。

mongolvending

当時、ぼくが滞在している間に、ある日これが突然出現したんだ。そしてたぶん、多くの人はこれを見ても何も感動はないと思うんだ。なんか、自動販売機みたいなものがあって、ちょっと並んでる人もいるねえ。それがどうした?

この写真のおもしろさを理解してもらうためには、モンゴルではコインというものがない、というのを知る必要がある。モンゴルのお金は紙幣だけだ。ではコインなしでどうやってみんな自動販売機を使っているんだろうか?

もちろん、紙幣を読み取るような高級な仕掛けはない。そもそもモンゴルの紙幣は汚すぎて、たぶんまともな紙幣読み取り機は通用しないだろう。それは、この自動販売機の隣にすわっているおばさん(右半分にいる、新聞を保っているおばさんじゃなくて、自販機の隣で白い帽子をかぶってるおばさん) から、トークンを買って、それを使ってこの自動販売機でオレンジジュースを買うんだ。

じゃあ、そのおばさんがいないときはどうなるの?うん。こうやって閉店になる。

mongoliavending

なんか、これまでいろんな人にこれを話して、半分くらいの人しかそのおもしろさがわかってくれないので、結構がっかりしているんだけど…… つまり、人がついていて、トークンを販売しているときしか稼働しないんなら、自動販売機の存在意義がそもそもない、と思わない? 無人で稼働できるのが自販機の強みでしょう? そのおばさんが直接ジュースを売ればすむ話じゃない?

そうやってオチを説明しないと多くの人がわかってくれないんだよねー。

まあ、こんな不合理な代物が長続きをするわけはない。いまの写真は2000年。その後、10年くらいして、ぼくはウランバートルにちょっと戻った。その際に、まさかと思いつつ、この自動販売機のあったところ(なんて、結構目抜き通りなのでわざわざでかけたわけでもないんだけど)にも行ってみた。

そしたら、まだあったんだよ。

mongol 011

Vending Machine

The only vending machine in Mongolia

さすがに、もう使われてないみたいだったけど。何度か横を通りすぎたけど、おばさんは戻っていないようだった。そして、2017年に戻ってみると、もう消えていた。仕方ないね。

かわりに、財務省の中に自販機はあった。モンゴルでも、すでにQRコード支払いとか、銀行カードのタッチカード決済とかが入っている。それを使った自販機だった。でもそれも、すぐに撤去されちゃったんだよね。

というわけで、この写真に写ったものが、ぼくの知る限り、2000年以来2015年くらいまでは、モンゴルにある唯一の自動販売機だったんだ。それがどうした、と言われるとそれまで。でも自販機なんていうつまらないものですら、コインという一見どうでもいいような「制度」に基づいているんだ、というのを気がつかせてくれた点で、ぼくにとってはかなり想い出深い代物ではある。

では次回、キューバイノベーションの話をしようか、それとも社会主義そのものの話をしようか? まあ乞うご期待ってことで (期待してる人もそんなにいないようで、あまりインセンティブもないけど、まあ一応完結させるためにも、なんか書きます)


クリエイティブ・コモンズ・ライセンス 山形浩生 Hiroo Yamagata 作『キューバの経済 番外編: モンゴル唯一の自販機』は Creative Commons 表示 - 継承 4.0 国際 ライセンスの下に提供されています。

キューバの経済 Part3: 利益は「計画からのずれ」!社会主義会計と投資

前回、キューバ経済に見る「効率性」の考え方のちがいについて述べて、それをもたらす資本や投資の不足を指摘した。今回はその資本や投資の話を……

はじめに: モンゴルの財務諸表

開発援助がらみの仕事で、いろんなところでいろんな変なものを見てきたけど、いくつか後悔していることもある。その一つが、2000年にモンゴルで郵便局の改革案を作ったときに出てきた、社会主義会計の資料をなくしてしまったことだ。

その仕事では、モンゴルの郵便局の再建が仕事だった。モンゴルは昔は、GDPの一割にも相当する財政ミルク補給をソ連からもらっていて、しかも郵便局も扱う郵便のほとんどは、駐留ソ連兵さんたちが故国に書き送るお手紙によるものだった。それがソ連崩壊でみんな帰ってしまい、扱い量が激減し、確か五分の一くらいになったのかな。で、売上も激減して困ったモンゴル郵便は、郵便料金をいきなり十倍に上げる暴挙に出て、もちろんそれで郵便の需要はさらに暴落、どうしようもない状態になって……というわけ。そして折しもGSM携帯電話が一気に普及した時期、もう郵便なんか使う人はいなくなり……

モンゴルのどこかの県都
モンゴルのどこかの県都。2000年当時は、夜十時以降は電気が止まった

この仕事は、郵便がそもそも各戸配達でないなんてことがあるという点から驚きだった。遊牧民がいるからねえ、とは思っていたけれど、当時は都市部でもそうだった。みんなが(というか当時のぼくが)あたりまえと思っていた郵便配達という仕組みが、実はまずきちんとした住所表記の体系が整っているという、インフラ(とすら思ってなかったもの)に依存しているとか、驚きの連続だった。モンゴルとか、オマーンとかでは、そういう住所表記体系がないので、住所表記は「大通りのみずほ銀行の角を左に入ったトヨタショールーム隣のビルの三階」みたいなことに平気でなっているのだ。

同時に、遊牧民もいるから配達むずかしいと思っていたら、遊牧民にも直接配達することが可能だというのを知って、これまた驚いたのだけれど。

My driver with his wife
運転手さんのお宅、遊牧中

が、閑話休題。そしてその仕事では、その郵便公社の十年分の財務分析、というのが、ぼくの仕事の一部だった。

通常、そんなのは大した分析ではない。シンプルな事業で、商品やサービスの仕組みも売上も単純だ。変なデリバティブもないし、オフショア取引もない。そしてどこも、抱えてる問題は似たりよったり。だいたいは売上が減ると売上が減るうえに、客も手元不如意で売掛金がふくらみ、手持ちの現金がどんどん減って支払いが滞り、買掛金がやたらに積み上がって短期借り入れを繰り返し、首が回らなくなるのが通例だ。モンゴルの郵便公社とて、そんなもんだろうと思ったら……

出てきた財務諸表を見て、ぼくは倒れそうになった。モンゴルがFASBとまではいかなくても、ぼくたちの知っている会計方式を採用したのは、ぼくが仕事をした5年前。それ以前は、社会主義会計なるものが使われていたのだ。

そうはいっても、会計なんてしょせんは何を持ってるか(ストック)と、お金の出入りがどうなってるか(フロー)という話。つまりはバランスシートにP/Lだろ? How hard can it be? そう思って、ざっと翻訳してもらって見てみたが……

まったく何がなんだかわからない。そもそも、各費目が何を言ってるのかすらわからない。そこでその郵便公社の財務担当のおじさん(当時はぼくも、他人をおじさん呼ばわりできるくらいには若かった)に、それを教わろうと思ったんだけど、なんせ費目の意味すらわからない状態で、財務や会計に詳しいわけでもない通訳を介して質問しても、まったくらちがあかない。

仕方ないので、まず基本の基本で、そもそもこの表で、この年の利益や損失ってのは、どこに出てくるんですか、と尋ねた。

するとおじさんは、非常に困った顔をしてしばらく考えた挙げ句、こう答えた。

そんなものはない。強いていうなら、ここにある「計画からの逸脱」というのがそれに相当しなくもない。

……計画からの逸脱?!?!?!

しばらく考えて、ぼくはやっと、少し事態が飲み込めてきた。社会主義の会計は、どうやらぼくたちの知っている簿記や会計とは、まったくちがった考え方に基づいているらしい。というかその前提として、社会主義においては「企業」(というより公共事業体)の意味合いがちがう。それは利潤を追求するものではない。上から与えられる計画(あるいはノルマ)があって、それをきちんと実行するのが企業や公社だ。したがってそれに奉仕する会計は、まず「計画」があって、それに対してこの企業がどれだけのパフォーマンスを上げたか、という観点でまとめられているらしい。

じゃあその「計画」ってのが何で、どういう形で決まるのか、というのが問題となる。それについて尋ねると、それはわからん、という。それは上から降ってくるもので、下々は関知しないとのこと。

こんなの無理! そりゃあ、その「計画」をひっぺがして実際のお金とかの出入りだけ抽出することもできなくはなさそうだけど、すさまじい手間で、しかもそれをやったところでなんか有益なものが出てくるとは思えない。ぼくは泣きを入れて、財務分析はふつうのBSとPLのある五年分だけで堪忍してもらったんだけど、この変な会計は少し調べたいと思って、帰ってから社会主義会計の本を探したんだが……まったくない。英語でも皆無。そうこうするうちに、コンピュータを何度か引っ越す中で、モンゴル関係のファイルもどこかに消えてしまった。残念。あれをいまきちんと見直したら、たぶん社会主義の事業や経済運営のいろんなことが、もっとよくわかっただろうし、他に類のない資料になったと思うんだ。

Mongolian Hospitality
真ん中の人がその会計担当のおじさん。左の仕事中に馬乳酒飲んでる若造が山形

(この話が、剰余価値と利潤の関係についての話だというのがわかった人は、えらいというべきかマル経に染まりすぎというべきか。でもこれは、実務的にはあまり関係ない話なので割愛)

ちなみにその、西側式の普通の財務諸表になった期間を見ても、「あなたたち、なんで羊がバランスシートに乗ってるんですか」とかモンゴル唯一の自動販売機の話とかいろいろあったんだが、えーと何の話だっけ、そうそう、それで話はキューバ社会主義経済に戻ってくる。

1. 社会主義経済:計画と実施の分離

いまのモンゴルの話のキモは、まずここでの事業会社/公社(当然国営です)による事業運営は、何よりも「計画」と比べたパフォーマンスが重視されるということ。そして、そこからの逸脱は、「ずれ」であって、プラスでもマイナスでも歓迎されない。計画=予算ぴったりで、与えられたノルマをこなすのがポイントとなる。ある人はこれを見て「日本のお役所と同じですね」と言った。その通り。事業予算があって、それをきっちり消化するのが重要ということだ。予算を超過したら怒られる。でも予算を消化しきらないと、そのときは「鉄の男だ!」とか勲章もらえたりするけど、翌年にはその分だけ予算を減らされてしまうから、これまたよくない。だからお役所は、なかなかコスト低減のインセンティブが働きにくいと言われる。モンゴルでのかつての会計方式は、まさにその考え方を後押しするものだったということだ。

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そしてもう一つの要点は、事業省庁/公社は自分では計画を作らない、ということ。経済の各種活動、つまりは事業会社の事業は、お上が決める。だって、計画経済ですもの。経済全体のバランスがてっぺんで決まり、事業を行うライン省庁/会社はその中の、指定された部分について請け負う。それをこなすために必要な資源は、もちろん計画側が計画する。その計画を作る部分の細かいやり方は謎。もちろん、各ライン省庁からの要望は訊くが、その優先度をつけるのは計画官庁の管轄だ。

これはキューバでもまったく同じ。当然のことで、これがまさに計画経済の真骨頂だ。だれかが中央で、まとめて計画する。全体のバランスを考えて、そのための資源配分を決める。キューバではこれは、経済計画省というところになる。

脱線. 社会主義計画論争

中央計画式の計画経済は、いまはダメダメ、ということにはなっている。でもそのほうがよいのだ、という議論も成り立たなくはない。これは特にバブルについて言える。たとえば不動産バブル。何かを契機に「これは儲かる」と思って各種の企業がいっせいに建設に乗り出し、作りすぎて、市場がだぶつき、暴落を招く。中央計画官庁があって「おめーら住宅作りすぎ。この市は人口五千人しか増えないんだから、建て替え含めても新規では二千戸までね」と言えれば、バブルは発生しなくなる……かもしれない。フードロスとかいう、どうでもいいことを気にする人もいる。食べ物がいっぱい廃棄されてけしからん、というわけ。でももちろん、だれが何を食べるか計画し、それにあわせて食糧生産できたら、理屈の上ではフードロスはなくなるよね。それはつまり配給システムってやつだ。

もちろん、これに対しては現実が強い反論をつきつける。日本の1980年代不動産バブルのときは、その一つの原因は国土庁がやたらに強気なビル需要予測を出してたことだ。お上の調整能力どころか、お上が煽ってどうする! そして前回の「選択」の話と同じで、ロスが出ないようぴったりに作るということは、何かあったときのバッファがないということでもある。みんなが気まぐれで好きなものを食べる選択肢がなくなるということでもある。ついでに言うなら、食べ物無駄にしないと食文化は発達しないと思うんだけどねー。日本酒の吟醸とか、味をなくすために米を4割とか5割とかやたらに削りまくって、さらにその栄養価を微生物に喰わせてアルコールを……まあいいや。

で、このどっちがいいか、というのは価値観の問題かもしれない。さらにもちろん、このどっちがいいのかというのは、その計画の出来次第でもある。これが精緻にはずれなしにできるなら、もちろん計画するほうがいいだろう。「無駄」なバッファは必要なくなる。ただ、現実にはそこまで精緻な計画を立てられる人はどこにもいなかった。これがもちろん有名な「社会主義計算論争」というやつだ。

cruel.org

脱線ついでに言っておくと、ぼくは最近の「AIで産業が変わるぜー、経済が一変するぜー」という軽薄な議論の多くが、この社会主義計算論争の非常に粗雑な再演にしか見えない。その一方で、もしこの粗雑なAI論者の言い分が多少なりとも正しいのであれば、ひょっとしたらそれは、世の中のバランスを市場経済から社会主義計画経済みたいなものに少し傾けるような根拠にもなるのかもしれない。ここらへんの含意は、前回も出たチャールズ・ストロスや全盛期のギブスンみたいなSF作家が漠然と考えているだけで、きちんと考察した人は全然いないのが不思議なんだけど。

だがそれはさておき、ここで言いたいのは、計画経済は原理的にはありえるし、優れたものに成り得るということだ。ただし、今のところ実際の計画者の情報収集力や計算能力には限界がありすぎるから、その「原理的」な理想はまったく実現性がない。だから、原理だけにすがって「いや真のマルクス/レーニン様の教えが実現されれば〜」とかいうのは妄言なので、そんなやつらに耳を貸してはいけないけれど、市場のほうが絶対にいいのだ、という議論は、前提とか範囲とかをチェックしておくべきではある。限られた範囲でなら、計画経済も勝ち目……はないにしても、ダメな市場経済と並ぶくらいにはなれる可能性は、ないわけではない。現時点では誤差範囲とはいえ、宗教的な市場原理主義にも、すこーし警戒する必要はあるのかもしれない。

とはいえ、みんな漠然と「計画経済」というけれど、何をどこまで計画するんだろうか?

2. 社会主義経済:計画の範囲と投資

ほとんどの人は、計画経済の「計画」についてあまり具体的なイメージを持っていない。ぼくも持っていなかった。今年はきみの工場ではトラクター100台作りなさい、とか、ボルガ=ドン運河を3年で完成させなさい、とか鉄鋼の生産量を2割増やしなさい、といった程度の大ざっぱな指示が出て、そうだなあ、そのための予算でも与えられて、あとはその担当者に任されるのか、と思っていた。

でも、よく考えればそんなはずはない。トラクターに必要な部品や素材、あるいは運河の建設に必要な資材や労働、そういうものだって当然ながら計画されてないといけない。だって、その部分だけ勝手に市場経済が動いてて、担当者が好きに調達できるなんてはずがないもの。トラクターの生産量が決まっているなら、そのために必要となるタイヤやネジや鋼板の量も自動的に決まる。運河建設なら、必要なコンクリや鉄骨や建設労働者の量も決まる。そういうのも全部計画の対象となる。そしてもちろん、その鋼板に必要な鉄鉱石も、コークスも、コンクリに必要な石灰石も量が決まる。そしてさらには、労働者の衣食住まで全部決められる。

要するに、これは経済全体を一つの産業連関表としてみようということだ。ちなみに産業連関表そのものが、マルクスの発想をベースにしてレオンチェフが考案したものだそうなので、この見方はちゃんと歴史的な裏付けを持っておるわけです。

ja.wikipedia.org

そしてここでの公社は、基本的には計画省庁の決めた計画を、計画省庁の想定したやり方で実施し、計画省庁の決めた計画通りのノルマを生産するという、純粋な生産ラインとなるわけだ。そしてそこでの工夫の余地は、少ない投入で同じだけのものを生産する、というものとなる。なまじたくさん生産しても、全体の計画の中で余るだけですからね。

キューバでも、だいたいそうなる。たとえば各地に、トラックのバラ荷輸送公社というのがある(コンテナ輸送公社は別にある)。ここは、輸送計画(ノルマ)がある。今月は、この工場から鉄道貨物駅にXXXトン運ぶ、というわけ。そしてそのためのガソリンやオイルの割り当てがある。たぶん、各種実績に基づいた標準燃費計算があるんだろうね。そして、ガソリンやオイルを節約してその輸送ノルマを果たせば、それは誉められるわけだ。

そしてそのための手法は当然ながら、前回書いた通り。

  • でかい車で
  • 同じものをまとめて
  • 限られた箇所だけに

運ぶというやり方だ。

でもいったんこのルートと配車が決まれば、それ以外の改善の余地は? それを実現するためにこうした公社が気にするのは、戻りの空荷だ。トラックが荷物を運んで、駅で降ろして、空っぽのまま戻ってくるのはもったいない。いかにして戻りの荷物を確保するか、というのがこの公社の腐心するところで、そのために空荷禁止規定まである。でも、輸送には偏りがあるから仕方ないこともある。そのときは、空荷許可証をもらわないといけない。それなしで空荷で走っていると、検問で取締にあう。

これだけだと、そんなに変には思えない。でもこれはもちろん、そのためのトラックがちゃんと動けば、という話ではある。つまりいまの話は、変動費のところだけ見ていて、固定費のところはまったく考えていない。そしてそれは当然のことだ。だってこの事業会社は、別にそのトラックなど資本設備 (最初の憲法の話で出てきた「生産手段」) を保有はしているけれど、「所有」しているわけではないもの。だからそれを買ったりとか、更新したりとかいうのは、彼らの仕事ではない。当然ながら、それにかかる減価償却費はこの公社の負担ではない。そういう意味での固定費や投資的経費は、ない(給料とかどういう勘定になってるのか、まだ全然わからない)。

3. 社会主義経済:減価償却の (末端での) 不在と設備更新

そもそも社会主義会計は、減価償却の概念がなかったとよく言われている。これは必ずしも正しくはないようだ。こんな古代の論文を見ると、そういう考え方自体はあったらしい*1。少なくとも、設備の損耗を考慮してそれを置きかえるための基金を積む、という意味では。

森章「社会主義減価償却基金の理論について」(1977) m-repo.lib.meiji.ac.jp

ただし、この論文にもある通り、当初は基本的に、それはすべてお上(いや、人民の主体を体現する政府/アンカですねー)が吸い上げ、中央で有効活用するものだったようだ。末端で減価償却費を負担し、それを使って再投資に備えるという発想はなかった。その意味では「減価償却がない」という言い方も、実務的にはおおむね正しい。

でもそれがNEP(!!!あのNEPかよ!)のときに、末端の事業体の裁量を増やすときに、少しは末端でも投資っぽいこと考えてもらおうということで、概念的には導入されたらしい。減価償却は生産ナントカ基金として中央でまとめて仕切るのが本来のアレで、それに対してそれだと末端の裁量が〜みたいな反論もあった、という話(減価償却論争、ですか!!! すごいね)。結局はなんだか両方やる、という話になっているみたいで、なんだかんだいいつつ、たぶん大きな部分については、上で吸い上げて使う話になっていたらしいね。

この現実の運用がどうだったかはよくわからない。これがマル経の文献すべてに言えることで、「だから実際の帳簿とか見せてくれない?」というのが皆無なのだ。キューバでも修繕費用くらいは事業公社レベルでも負担している。そしてエンジンの積み替えとか、かなり投資的経費の資本になりそうなものもやっている。でも大規模なもの(車両の買い換え)は事業公社レベルではなく、どっかずっと上のところが見てる。

ある意味で、これは仕方ないともいえる。だって生産手段(つまりは機械設備その他)を所有しているのはその企業ではなく、人民(つまり国)ですからね。その公社とかは、それを使って事業をしているだけのオペレーターだ。彼らは資産を持ってはいない。だから彼らが減価償却費を負担したり、更新用の費用を積んだりする筋合いはない、ということになる。資産を正規に所有している国が、そういうのは全部面倒を見るのが筋、というわけだ。ぼくはレンタカーを使ってもその車の減価償却費なんか負担しないものね。それはレンタカー会社がやることだ。

(でもレンタカーの場合、車なり設備なりを借りているレンタル料は、その減価償却費を含む形でたぶん設定されているよね。同様に社会主義会計だと、それぞれの事業公社は、国に対してその車とか設備とかのレンタル料を支払ったりしてるんだろうか?そこらへんもよくわからない。が、閑話休題)

そして投資経費やそれに伴う減価償却を考えず変動費だけ見るとどうなるか? もし計画官庁側が豊かで、なんでもホイホイ買ってくれるなら、どんどんトラックをもらうのが最もお得だ。でももちろん、キューバは(そしてほとんどの社会主義国は)そんな状況ではない。するとまず、壊れたりぼろくなったりしたとき、新しいトラック(資本)を自分買おうということはできない。それを決めるのは、事業会社ではない。もちろん、要望は出すけれど、それが聞き入れられるかどうかはわからない。すると、とにかくどんなにオンボロになっても、手持ちの車両を使い倒すしかない。なんとか次の投資がまわってくるまで、それで保たせるしかない。

そして計画側からは、そうそうおいそれと資本を新規に導入するわけにはいかない。なぜかというと、外貨という問題があるからだ。自分で作れない車両や機械を買うには、外貨が必要だ。旧ソ連があった頃には、たぶんいろいろやりようもあったはず。でもいまや、経済制裁しているアメリカはもとより、ロシアや中国から入れるのも外貨がいる。これはどんな資本だろうと同じだ。それを割り振るのも計画官庁の重要な仕事となる。そして全体が不足していれば、いまあるトラックでまがりなりにもやりくりできているなら、まあしばらくそれで続けてくれ、ということに当然なってしまう。よく、減価償却があるから設備の更新が進む、といわれるけど、実はそこには、ホントは設備更新したほうがメンテ費とかも含めいろいろお得だから、という暗黙の想定がある。でも減価償却終わった、簿価ゼロの設備で事業がまわるんなら、それがいちばんお得だ。いま使ってるコンピュータ、2012年購入だし。

そしてだんだん車が物理的限界を超えて壊れるなかで、ノルマを果たすのは一層むずかしくなり、とにかくさっきの方法を貫徹するしかなくなる。

  • でかい車で
  • 同じものをまとめて
  • 限られた箇所だけに

運び、そして残ったトラックの稼働を最大化する、というわけ。でも、それでまわるんなら……ということで、ノルマを果たせば投資はあとまわしになり、さらに苦労するといった変な循環が起こってしまうらしい。

結果として、設備の更新はなかなか進まない。ぼくたちがキューバにでかけると、「うわー、こんなクラシックカーがいっぱい走ってる!」と結構感激する。でもそれは以前も書いた通り、決してクラシックカー愛好とかいう暢気な理由のせいではない。ここに書いたような話で、とにかく車を買うような資本投資ができないからだ。そしてその資本投資ができないおかげで、いまある資本は西洋的には簿価ゼロになっても、とにかく使い続けるしかない。建物とかも同じ話だ。

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ハバナで見かけたT形フォード。でも中身はさすがに入れ替えているらしい。

4. まとめ:社会主義の計画経済と会計システム

まとめよう。社会主義経済において、資本投資が進まない理由はいくつかある。

  • 計画経済。何をどれだけ、どのように作るかが計画官庁で決められている。このため現場からのカイゼンイノベーションが進まない。
  • 計画主体と実施主体の完全な分離。実施主体は自分では投資判断をせず、設備運用と設備投資の最適バランスが考えられない。
  • 会計システム。実施主体は手持ち資本での計画遵守を追及するので、設備更新を考えない。減価償却がない(または特に末端では不十分)なのでみんなが設備更新のためのお金を積んだりそれを後押ししたりするような仕組みもない。少なくとも、それを各現場で分散的に考えて実施する仕組みはない。
  • 計画サイドのリソース不足社会主義計算論争にあるように、計画サイドはここまで様々な部分での投資ニーズをきちんと把握し適切に分配するだけの、情報収集力や計算能力を持ち得ない。あるいはそれがあったとしても、彼らの直面している制約のために全体的な投資が(ほとんどの社会主義国では)不十分とならざるを得ない。

ただし…… これは確かに、ぼくたちから見ると「もうちょっとなんとかならないの?」という印象は受ける。でもその一方で、いま例えばキューバが受けている制約の中で、これをどう変えるとよくなるのか、というのは実はとってもむずかしい。完全に経済を開放してすべて自由化すると、すべてよくなるんですか? そういうお題目を信じたロシアや中南米諸国(かなりマシとはいえ一部東欧も)は、ずいぶん煮え湯を飲まされた。それを考えるとかなり考え込んでしまう。これはぼくの訳書もふくめ、いろんなところに出てくる。

てなことで、何をどうすればいいのやら。うーん。気が向けば、もう少し大きな経済状況の話なんかもできるかもしれないけど、期待しないで待っていてくださいな。

おまけ:社会主義経済って?

 日本はマル経が大好きなので、社会主義経済の教科書とかいっぱいありそうなものだ。でもマルクス様のお説法の話とか、哲学っぽい話はいろいろあっても「で、それが具体的にどういう仕組みでどうまわるの?」という話をしてくれる本はほとんどない。最初のモンゴルの話でも出た、社会主義会計ってどうなってるの、とかね。ぼくがそこまで本気で探さなかったせいもあるんだろうけれど。そしてそれなのに、前出の社会主義減価償却の論文みたいにいきなり冒頭で「周知の通り」とか、いきなりなんでも知ってるのが当然にされてしまう。

 多少なりとも具体性というか現実に沿った教科書で、ぼくたちにもある程度は理解できるものとしては、たぶんこんなあたり:

これもまあ、「この考え方はマルクス様がどこそこでこう言ったのに対応し〜」とか「レーニン様のなんたらの概念に基づく云々が〜」とかうざったくてアレなんだけど、それでも一応、全体的な見通しは得られそう(ぼくも当然ながら、こんなもの全部読んだりしてない)。上で出てきた、剰余価値と資本主義における利潤との関係とかも、これでまがりなりにもわかりました。他にもっとよい本があれば、教えてたもれ。


クリエイティブ・コモンズ・ライセンス 山形浩生 Hiroo Yamagata 作『キューバの経済 Part3: 利益は「計画からのずれ」!社会主義会計と投資』は Creative Commons 表示 - 継承 4.0 国際 ライセンスの下に提供されています。

*1:しかしこの論文すごいねー。1969年の論文だから仕方ないとはいえ、p.219一番下の註の、金日成思想マンセーとか、クラクラする。

平成の30冊:考えるだけ無駄でしたがカード3000円ゲット

朝日新聞の平成の30冊なるものの結果が発表された。

book.asahi.com

文芸偏重ならあらかじめそう言っておいてくれれば……

山形もアンケートに回答していろいろ考えたけど、考えるだけ無駄でした。が、クオカード3000円(いや、図書カードだったかな)はもらったので、ま、いっか。

cruel.hatenablog.com

しかし、民主と愛国があんなに高位につけるとか、え、なんだって、白川ほーめい???!! まあ平成の主犯格という意味では上位に入るのもありかもしれないけど…… どういう人にアンケートしたんだろうか。かなり偏ってるとは思うぜ。

120人のアンケートで、ぼくが選んだものが一つもかすっていないのを見ると、まあものすごくばらけて、たまたま二人か三人が重複して選んでいたらそれだけで入ったんだろうねえ。


クリエイティブ・コモンズ・ライセンス 山形浩生の「経済のトリセツ」 by 山形浩生 Hiroo YamagataCreative Commons 表示 - 継承 4.0 国際 ライセンスの下に提供されています。