うーん、やめてほしいんだよね、この手の哲学的なお遊びに「転形期の公共空間」なんて副題つけるのは。公共スペースデザインの話だと思って読み始めたら、特に目新しい発想が何もない哲学者が、己のまとまらなさをだらしなく垂れ流しているだけじゃないか。
著者はしつこく、生活とか全体性が失われているんだ、という。で、プライバシーがないのも全体性喪失、原発問題も全体性喪失、貧乏な人がいるのも全体性喪失、孤独死も全体性喪失、子育ての苦労も全体性喪失、あれも生活や全体性これも生活や全体性。そして、こういう個別の問題に技術的に対処するのではだめで、その根源にある生活とか全体性とかの回復がいるんだと。
で、その生活とか全体性って何? 本書はそれがまったく出てこない。全体性の全体像がないまま、ないないないないと並べ立てるだけ。あらゆる社会問題は、生活の解体やら全体性喪失の一つの現象だってことにされるんだけど、結局それが何なのかはわからない。そして喪失したんなら、昔はそれがあったんですか? いろんな監視体制が出てきてプライバシーが侵害されていて云々。で、昔はプライバシーがあったんですか? いつの話? 一方で孤独死で人々が顧みられないのはよくなくて、これまた全体性喪失なんだが、でもそれはつまり村や昔の社会ではプライバシーという概念自体がなかったから可能だった話。で、結局あなたは監視してほしいの、してほしくないの?
「いつのまにか自らの〈痛み〉を言葉にすることをやめてしまった私たち」と著者は言う。だけどこれって本当? <痛み>って何? そして本書からわかるのは、お気楽なアームチェア哲学者様のお耳に入るくらいにはその<痛み>とやらがことばになってるってことでしょう。江戸時代の人がプライバシー問題でどんな痛みを感じていたか、あなたにはわかるの? 昔の人が病気でどんな痛みを感じていたかわかるの?
「やめてしまった」「失われた」この種の表現でわかるのは、この哲学者は、「昔はよかった」と思っていることだ。でも、その「昔」とは具体的にいつの話だろうか。そしてそれは本当によかったのか。しかもどんな具合によかったのか? この人の意見では、その「昔」の人々はなんか全体性のある生活に包まれていて、その一方で自分の<痛み>を常時ぎゃあぎゃあわめきたてて愚痴っていました、ということになるんだが、おれはつらい、おれはいやだ、あたしはきつい、あたしは面倒だ、あたしはもっと楽したい、とみんながわめきたてるのはいいことなの?
そして公共空間がどこで出てくるかというと、いまの公共空間/私的空間とはなんか別なものなんだけど、でもそれが具体的に何なのかはよくわからず、でもいろんなものを包み込む「包み込む全体性」としての公共空間をつくりださなきゃ、ということなんだって。全然わかんないけど、それって何なの?
実は、著者もそれがまったくわかんないとのことで、あーでもなくこーでもなく、とないないづくし。少しはわかってから物言おうぜ。己の無知と優柔不断と結論不在をあれこれ弁明してもらっても読者の役にはまったく立たないんだからさあ。そしてあげくに……著者は恐ろしいことに、それを李静和に倣って<母性>という。
<母性>。
李はまだ、引用された部分を見る限りこの発想自体のやばさに少しは自覚的なようだけれど、篠原はここで<母性>を持ち出すことのヤバさをまったくわかっていないようだ。父権的な抑圧から、明示的ではなくすべてを包み込む形で見えざる抑圧を展開する母権的な抑圧の問題点は、浅田彰でもちゃんと指摘していたし、篠原が本書で持ち出すいろんな抑圧や社会的な問題点は、むしろ環境的な母権的抑圧の結果なんだが、そういうのにはまったく無自覚。本書は実は見事な全体主義待望論で、しかもその全体主義を他人が考えてくれるのを待っている情けない本。著者は、p.26あたりでこの本が反動的なことを考えてるんじゃないかという話に対して予防線は張っているけど、いや、その予防線すべて突破して、実に反動的ですから。母なる自然と社会にゆったりつつまれた全体性ある、妄想捏造の昔へのあこがれ――それはまさに、ユートピアコンプレックスの対極にあるアルカディアコンプレックス、桃源の夢想というやつだ。でも、それはユートピアと同じく、いやそれより危険なんだけど。
さらに、そう考えることで何か実際に有効な解決策がどんな問題に対してすら提示できるのか? それもまったくなし。包み込む全体性を信じなくてはならない、それがときどき突発することを信じなくてはならない、とカルト宗教みたいな話はするが、そう言うことで何かそれが突発しやすくなりますのん? 後書きを読むと、「震災でショック受けて何ができるか考えました」本なんだそうだが、結局何もできないとわかったけど、でも何もできないことについても何かする気はない本ですのね。というわけで、無意味きわまる本。こんなの書評しません。
ちなみにこれ、いまアマゾン検索して気がついたが、あのホロウェイの『革命』本の訳者か。
追記 (2012.7.5)
篠原が反論を書いている。が……
全然反論じゃないじゃん。
反論というなら、全体性とか生活なるものの概念的な枠組みや、その具体的な想定を示せばいい。
でも、篠原の「反論」には、そうした部分はまったくない。何をしているかといえば、ぼくの最初の指摘を見事に裏付けてくれることだ。それはつまり、この人の哲学というものが、何の根拠も裏付けもない個人的な印象論を、つまらない自分語りにからめるだけの代物だということだ。だって、この反論に書かれているのはそれだけだから。
70年代から生活が破壊されたとか私生活が困難になったとか。それが今後放射能で悪化するとか。ホントですか? たとえば70年代の公害のひどさってご存じ? 日本中で、朝礼中の小学生が光化学スモッグで夏の間は毎週のようにばたばた倒れてたんだよ。核実験で、雨にあたるとハゲになるとかいうデマが山ほど流れてたんだよ。ひどいことはいっぱいあった。それはいまやかなり改善されている。もちろん、改善された部分もある一方で、ダメになっている部分もある。それを個別に考えることは重要だ。でも、ひどくなったアイテムだけ見て、ほら悪化した、破壊された、困難になったと騒ぎ立てるのでは意味がない。本当に生活が国民全体としてひどくなったのか? それはもっときちんとした検証がいることだ。でも、著者はそんな手間をかけるつもりはないようだ。自分の狭い印象だけで事足れりとしている。
つまり、だいたいぼくがここで書いた通りだと示されたんじゃないかな。あの本はお気楽なアームチェア悩みへの自己陶酔記述に終わっている。印象を具体的に裏付けたり精緻化する努力はない。今回の「反論」もその続きにしかなっておらず、さらに印象と卑近な自分語りを重ねるだけ。残念、と思う一方で、やっぱりね、という気もする。
というのも、この手の議論は別に目新しいものじゃないからだ。現代文明によって、かつてあった全体性や、意味に満ちた生活、神々との交流、自然との共存、充実したコミュニティ生活が失われてしまったという論者は、昔から腐るほどいる。孔子がまさにそうだ。そして、そうした論者が採る/採れる道は限られている。
- 何か勝手な歴史上の社会や未開部族を持ち出して、それを勝手に理想化してそれが全体性であり「生活」であり「空間」だと強弁する。
- 宗教や精神世界に逃げ、それを勝手に(以下同文)
- 抑圧的な社会改良運動に走る
- いつまでもその全体性だの生活だの空間だのを明確にすることなく、印象作文を続ける
篠原の今後の著書や活動が、このパターンのどれにおさまるかはわからない。が、どれになろうともあまり興味深いものにはならないだろう。もちろん、この予想が生産的な形で裏切られることを、ぼくは多少願っていないわけではないのだけれど……
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