タイボII 『エルネスト・チェ・ゲバラ伝』:細かいだけで変な脚色だらけ

もうゲバラ系はそろそろやめようかと思ったが、でかいのが残っていたので片づけよう。パコ・イグナシオ・タイボII『エルネスト・チェ・ゲバラ伝』。先日書評したアンダーソン版と同時に出た、でっかい伝記となる。

さて、このタイボII版の伝記について、ゲバラの死につながったボリビア作戦での生き残り、ブストスはあまりよい評価を与えていない。

基本的にタイボII版の伝記の内容は、キューバの公式見解に沿ったものでしかない、と彼は述べている。このため、たとえばアルゼンチン出身のゲリラであるブストスについては、第35版になるまでまったく触れられていないという(邦訳版には登場している。邦訳版は、何に準拠したのかについて何も触れていない)。もちろん、彼に直接話を聞いたりはしていない。

そしてぼくも、読んであまり高く評価はできない。上下巻の分厚い本だけあって、いろいろぶちこんではあるんだけれど、それがほとんど整理されていない。このため、「こうした」「だれはこう言った」「だれの手紙にこうある」という羅列に終始して、それが結局何なのか、どういう意味を持つのかについて何も描けていない。特にこの手法は、ゲバラの都合の悪いエピソード、たとえば革命後の粛清裁判なんかの描き方に顕著で、ハバナに入る前にバチスタ政権などの公安関係者を12人ほど死刑にしたと書いたあとは一切触れない。その後の失策についても、きちんとした評価は何もなし。

工業省での活動についてだろうとなんだろうと、その行動はそもそもどういう背景で行われたのか、それがどんな成果を挙げた/挙げなかったのか、結局意図はどうあれ結果としてどう評価されるのか、という記述は一切なく、大仰にヒロイックに持ち上げるだけ。中央銀行総裁についても、何も知らないなか、いっしょうけんめい勉強していろいろやったが、外貨不足や購買力の国内流出に伴うインフレには勝てず、とかいう書き方をする。だからその外貨不足や購買力の国内流出がまさにその総裁としては半端な政策の結果だろうが! 他人事みたいな書き方は悪質すぎるだろう! 強制労働についても「自発労働」と言い換えてゲバラがそれを自分でやっていたことは書くけれど、その準強制についてはまったく触れない。

さらにこのタイボII版の書きぶりは、小説家みたいな脚色や著者の勝手な独白があまりに鬱陶しい。特に、ゲバラが捕まる前の描写とか、「おお、このときゲバラの脳裏にはどんな思いが流れたのであろうかウダウダ」といった2ページにわたる憶測の束とか、勝手な脚色がすぎる。そして、死体が展示されたときの話はこんな具合:

傷だらけの聖人や拷問されたキリストを礼拝するという恐るべきキリスト教の伝統があるラテンアメリカでは、この姿は当然、忘れ去られることはなかった。

死、解放、復活。

このような亡霊に導かれ、バリェグランデの農民たちは遺体の前を列をなして進んだ。一言も発することなく……。軍が接近を阻止しようとすると人々は怒涛のごとく押し寄せ、兵隊の隊列は破られた。その夜、初めて小さなこの町のあちこらこちらのあばら屋にろうそくが灯された。世俗の聖人が、貧者の聖人が生まれた。(下巻, p.368)

同じできごとについてアンダーソン版の記述は以下の通り:

死体の頭が持ち上げられ、目は開かれたままにしてあった。腐敗を避けるために、医師がその喉を切ってホルムアルデヒドを注入した。兵士、野次馬の地元民、カメラマン、記者たちが行列を成して死体を取り巻く中、チェは不気味なほど生きているように見えた。死体を洗った看護婦や何人かの現地女性は、ゲバラの髪の毛を切り取って幸運のために取っておいた。

どっちが客観的で脚色のない記述だと思う? ぼくが読んだ他の伝記や記録では、タイボIIが書いているような、現地農民たちが大挙して押し寄せて軍隊の制止すら突破した、なんて話はまったく出てこない。

タイボIIはこの伝記について「自分は神話を崩そうと思ったが新たな神話を創ってしまった」と述べているけど、そりゃこんな書き方はゲバラを祭り上げるだけのものでしかないだろう。わかってるなら、もっと落ち着いて書けばいいのに。

アンダーソン版によれば、ラジオでゲバラ射殺のニュースが流れて、その女教師が外に写真撮影で連れ出されていたゲバラを見て「これから撃つのか」と尋ねた、というエピソードが紹介されている。当初、ボリビア当局はゲバラが戦闘中に死んだという話にするつもりだったので、このまま生きているところを目撃した人間が増えるとヤバい、ということで処刑を急ぐことになり、さらにその際に戦闘中の傷で死んだという話とつじつまをあわせるため、頭は撃つな、という命令が下ったそうな。

ついでに、タイボII版だと、死ぬ前にゲバラはそのときの女教師と話がしたいと言って、ヒゲラス村で小学校の女教師と二人きりでいろいろ話をしたことになってるんだが、状況的に、とんでもなくヤバいやつが捕まって厳戒態勢をみんなが敷いている状態で、そんな囚人の要求が受け入れられ、部外者と自由に話をさせてもらえた、というのは、ちょっとあり得ない話だと思う。アンダーソン版によるとこれを言っているのは当の女教師だけで他の人はみんな否定しているとのこと。

ちなみにタイボIIは日本語版への序文でアンダーソンによりゲバラの死体のありかが確定し、その発見につながったことについて、自分の挙げた仮説が正しかったことが証明されただけ、とうそぶいている。でも結局それは、アンダーソンのほうがきちんと取材をし、重要人物にインタビューして情報を聞き出したということだ。ちなみにこの本で書かれている「自分の仮説」って、まさにアンダーソンのインタビューで得られた情報の受け売りだ。

訳者もあとがきでアンダーソン版に触れている。

アンダーソンのものはチェの妻アレイダ・マルチとの密接な取材が売り物になっているが、タイボIIの言うように、アレイダはきわめて謙虚な人物であり、自分のことをまったく語らない。そのため、アンダーソンの試みが成功しているようには思えない。(下巻 p.581)

でも、ぼくはこれがピントはずれだと思う。あの伝記は別に、アレイダの発言内容が重要だったのではなく、当時はまだ公開されていなかったゲバラのコンゴ日記や第二の南米旅行といった資料を参照させてもらえた部分が大きいし、またインタビューはアレイダだけでなく、スウェーデンまででかけてブストスに話を聞き、モスクワでは元外交官に赤面ものの告白をさせ、取材の幅も深さもまったくちがう。後藤政子は本当にあの本を読んだのか? 「アンダーソンの試み」というのが何なのか、訳者の後藤政子は書かないけれど、ぼくは試み的にはタイボIIのものに非常に近く、なるべく予断なしで情報の重みに語らせようというものだと思うし、その意味でタイボIIのものより圧倒的に優れた成果を挙げているとは思う。ぼくは別に、アンダーソン版をひいきにすべき理由は特にないんだけどさ。

また訳者は、タイボIIがゲバラの過激化について、グアテマラ行きが大きな契機だというありがちな見方を採っていないというんだけれど……それじゃ何なのかは読んでのお楽しみ、という。で、4−5回読み直したんだが——何も書いていない。この著者な自分の分析とかがまったくない人なので、ダラダラ伝聞が並んでいるだけで、どれがゲバラにとって重要だったのか何も書かない。正直いってタイボIIには特に見解がないのでは、と思う。強いて言えば、『モーターサイクル・ダイアリーズ』の時点でかなり激しい義憤をたぎらせているところが発端、くらいかな。でもそれについても、まだ口先だけだ、と書かれてはいるし。だから、いろいろダラダラして旅先で女をはらませて、カストロに会って……すぐにゲリラ訓練を受け始めて、え、なんで急に? という感じになる。

というわけで、あまり参考にはならないと思う。この著者は、ゲバラのコンゴでの活動をまとめたりもしているので、コンゴのはなしはやたらに詳しいけれど、いまコンゴ日記もすでに刊行されているし、あまり追加の価値もないと思う。