ラヴジョイ『存在の大いなる連鎖』補論:現代に生きる存在の連鎖 (ちがう)

昨日、ラヴジョイ『存在の大いなる連鎖』の最終講を見て、その滅多斬りぶりがスゲえという話をした。

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一晩寝ると、なおさらすごいな、と思う。ふつう、ここまでやらないと思うのだ。普通はどうするだろうか? なんとかポジティブに終えたいと思ってしまうのが人情だろう。そしてその簡単な手はすぐに思いつく。まず、最終回の題名を変えよう。

「現代に生きる存在の連鎖」

とかいうタイトルにしましょう。そして、全体の話の構成はこんな具合にしよう。

 

  • (ヤコービが〜、シェリングが〜、で、全部破綻しましたという話)
  • 確かに、こうした神学や哲学の分野においてはこの観念は破綻し消えた。
  • しかしそれは偉大な敗北、豊穣で多産な破綻だったんだ。
  • だって、世界に一貫した合理性があるという確信は現代科学に受けつがれたんだ!
  • さらにベルグソンやホワイトヘッドみたいな現代の人々にも影響は見られる。
  • だから「存在の連鎖」という観念は、いまなお息づいているんだ!
  • ぼくたちも、まさにその存在の連鎖の末端として未来に続くんだ!

 

こんなふうに、目をキラキラさせた結論にもっていくことは十分可能だっただろう。ぼくがラヴジョイなら、絶対そうする。聞いてる人もそのほうが何やら、自分が有意義なものを聞いた気になって満足するし、話すほうも、自分が現代にとって重要な研究したという自己満足が得られるし、win-winってやつではありませんか。

でも、ラヴジョイはそれをしない。ある意味で、このヘンテコな「存在の連鎖」という観念を延命させてきたのは、そんなふうな「意義」を見出してほんわかしたいい気分 (冒頭に出てきた「形而上学的な情感」ってやつです) に浸りたいという人々の願望でもあった。ラヴジョイはそれを知っているし、そこに加担する気はまったくなかった。

だからこの最終回の講義で、彼はそういうのを全部つぶす。その逃げ道の完全な潰し方はこわいくらい。

 

  • (ヤコービが〜、シェリングが〜、で、全部破綻しましたという話)
  • 確かに、こうした神学や哲学の分野においてはこの観念は破綻し消えた。
  • 破綻し消えたんだぞ、それを忘れるなよ。
  • それを核にしていた西洋哲学だの神学だのも大半が無内容なんだ!
  • みんな、この話自体を忘れてるのよね。
  • ベルグソンやホワイトヘッドみたいな連中も千年前のネタを得意げに蒸し返してるだろ。まったく。
  • この手のxxな連中がなぜ復活するか理解するためにも、観念史やろうな。

  • そうそう、世界に一貫した合理性があるという確信は現代科学の役にはたった。副作用はよかった。それを見直すのはいい。

  • でもそれは、ただの怪我の功名。正しさと効用は別物だからな!
  • 破綻し消えたんだぞ、それを忘れるなよ。蒸し返すのは観念史のお勉強でだけにしとけよ!

 

いやね、そのね、もうちょっと手心というかなんというか。マジでシェリング研究したり、ベルグソンがすごいと思ったりして頑張ってる人っているわけでしょ。そういう人のほとんどって、自分が単なる死んだ思想をつつきまわして、それがどう死んだか、あるいは生まれる前からそもそも生きてなかったという話をしているつもりじゃないと思うんですよね。それをまあ、こんなタコ殴りに嘲笑しまくって。あんたには人の心はないでございますか! 背筋が凍るどころか、すべてが凍る感じ。


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単なる冷笑にとどまらず、このすべてを凍り付かせるようなペギラ並のパワーは、ちょっとただごとではないとは思う。一切復活させてはならず、単なる考古学的な関心対象にとどめておけよ、というすさまじい念の入れ方。ある意味、この観念は二千年にわたり、決してバカではない人々の間にはびこり蒸し返され続けた、非常にやばい、しかも出口のない泥沼めいた観念ではある。この念の入れ方は、そのやばさに深く警戒心を喚起された、ラヴジョイの学問的誠実さなのか、あるいは20世紀前半の文系知識人が持つゆとりと余裕と遊び心 (文中で彼が「存在の連鎖」の変な理屈をこまごま解説してみせる様子は、明らかに楽しんでいる) だったのか、あるいはその二つは同じものなのか……

 

実は彼は、これについて冒頭の最初の講義できちんと予告はしている。

また観念史は、過去の人間思考の働きに対する興味を前提とするものです。そうした思考が、見当はずれで、混乱していて、バカげている、少なくとも私たちの世代の多くにそう思える場合ですら、興味を抱かねばならないのです。哲学や、人間の思索のあらゆるフェーズの歴史は、その相当部分が、観念の混乱の歴史です。そして私たちがこれから専念しようとする、その歴史の一章もまた、その例外ではありません。私たちの一部にとっては、だからといって興味深さが失われるわけでもないし、また示唆もまったく減りはしません。人間は良かれ悪しかれ、その性質、しかもその性質の中で最も明確な衝動のおかげで、思索的で解釈したがる動物で、常にrerum cognoscerec ausas (物事の原因を知る) ことを求めており、経験のむき出しのデータの中に目に映る以上のものを見出そうとしているので、その知覚可能な存在の粗野な事実に対する知性の反応の記録は、少なくともいささかあまりに自画自賛的にホモ・サピエンスを自称してしまった生物種あるいは亜種の自然史における、少なくとも本質的な一部ではあるのです。そして私は昔から、その生物種の自然史において独特なものが——特にその一員である人々にとって——ゾウリムシやハツカネズミの自然史研究よりも研究対象として劣るのか、まるで理解できないのです。(強調引用者)  

これから述べる観念、「存在の連鎖」というのは「見当はずれで、混乱していて、バカげている、少なくとも私たちの世代の多くにそう思える」ものなのだ。でもそれ故に、人がどんなピントはずれな涙ぐましい努力をするものか、ということにも、人間の本質はあるのだ、と。そしてそれは、自然科学に負けず劣らず立派な研究対象であるべきだ、と。

これを読んで、ぼくもわかっているつもりではあったけれど、でもラヴジョイがここまで腹をくくっているとは、ちょっと予想していなかった。

 

いやあ、大したもんだ。

(注:イラストの出所はいずれもいらすとやさんです。)

ラヴジョイ『存在の大いなる連鎖』の最終講:存在の連鎖は破綻した無意味な思想

ラヴジョイ『存在の大いなる連鎖』の翻訳を始めた話はした。

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素直に第2講を初めて、半分くらいはおわっているんだけれど、そもそもこの話がどこへ行くのか知りたくて (はい、推理小説もまず最後を読むタイプです)、最後の第11講をあげてしまいました。

ラヴジョイ『存在の大いなる連鎖』第11講 (最終回)

もちろん、このpdfを読むとそれなりにウダウダしい。だが、そこで言われていることは、第1講と同じでとてもシンプルではある。それはつまり、以下の通り:

 

  • 「存在の連鎖」という観念は最終的に、二千年かけて詰めていったらボロボロでまったく整合性がないことが明らかになった。
  • だから破綻して、すると一気に忘れられてしまった。
  • 思想そのものの現代的な価値はまったくない。
  • ただこういう変なものにハマる精神の働き (すでに蒸し返すバカも出てる) の記録という意味はあるかも。

 

うひー。もう少し詳しく、同じくパワポにまとめてみましたので、ご参照あれ。

個人的には、何よりもアーサー・ラヴジョイの持っている、自分の研究対象に対する恐ろしいほど冷たい視線に驚かされた。

こう、各種の哲学の概説書とかを読んでいると、その著者はしばしばどうしようもない心酔者でビリーバーだ。プラトン研究者でも、シェリングでもベルグソンでもドゥルーズでも。その哲学が持つ現代的意義、新たな可能性、いま読み取るべきポイント等々が、ずーっとウダウダ解説されている。それもしばしば、どう見てもこじつけみたいな話も頻出する。何かそこに秘められた「真理」がある、みたいな。

ところが、上のパワポを見てくれても、あるいは奇特な人は訳文を実際に読んでくれてもいいけれど、ラヴジョイは本書において、自分がずーっと解説している「存在の連鎖」という観念は、基本的にはまったくのナンセンスだと断言する。そして西洋思想は二千年かけてこれに取り組んできたけれど、二千年かけて結局、これがダメだというのがわかって、そして一瞬で忘れ去られたのだ、と述べる。

ある意味で、ラヴジョイは2000年の西洋思想の相当部分が、単なる幻影を追いかけるだけの活動で、つまり西洋思想そのものが結局は破綻したんです、と述べているに等しい。現代人なら、一瞬でそれがわかるはずだ、と。

 

なんと。

 

この兆候はすでに、第2講でも出ていた。本書の基調となる、プラトンにおける「異世界性」「この世性」の解説で、それがかなりばかばかしい話で、でも人々の「形而上学的な情感」に訴えることでこれがえらく受け入れられてしまい、宗教やがインチキなありもしない概念を一般人に売り込むのに使われてきた、という話をする。ほとんどリチャード・ドーキンスのような無神論者だなあ。でも、その非ビリーバー的な視点が、逆にその対象に対する距離感と客観性を担保できている。これについてはすでに書いた。

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しかし、最後でここまでつきはなすとは思っていなかった。たぶんこの本を読む人は、西洋思想の根底に「存在の大いなる連鎖」という未知の基礎概念/観念があり、それを知ることで、西洋思想についての見方が一変し、その流れなり本当の意味なりがずっとよくわかるようになるのだろう、という期待をこめて読むんだと思う。ぼくもある程度はそうだった。だいたい冒頭でも「西洋思想を支配してきたのにいまや忘れられた観念」「これを知らないと西洋思想の動きはぜんぜんわからんぞ」と書かれているじゃないか。そして、その期待は確かに応えられた。だが……

もっと肯定的に応えられると思うのが人情だろう! こんなふうに「いや西洋思想の大半は、スジ悪な妄想を追いかけていただけで、それが二千年かけて破綻しちまったんですよ、ハッハッハ」なんていう見通しをもらえるとは思っていなかった。特に、神学のほとんどがこれで枯れススキに過ぎないって話にされちゃったもんなー。一面焼け野原で、何もなくなりました、という意味では、見通しはよくなったのは確かなんだけど。

さらに「ま、ベルグソンやホワイトヘッドみたいな、このとっくに破綻した話を蒸し返すバカもすぐに出てきてるから、こういうの勉強しておきましょうね」なんていう話も予想外だった。なにこれ、一種の「知の欺瞞」ではありませんか。

日本では、佐藤優が「西洋キリスト教神学が〜」みたいなことを言うと、それだけで高尚な何かを言っているような気がしてだまされる人も多い。我々の知らない恐ろしい深い思想があるのですかー、みたいな。でも実は、そんなものを引き合いに出したがること自体が佐藤優の空疎ぶりを示唆するモノだったりはする。日本だけじゃない。グノーシスがー、とかいうと、フィリップ・K・ディックみたいにそれを真に受けてしまう人もいる。彼がヴァリスで展開していたのは、この「存在の大いなる連鎖」で破綻した理論だと一蹴されているものの蒸し返しでしかない。

一部の哲学好きな人は、こういうのを見て腹をたてるか、あるいはラヴジョイの本書のそうした部分は見ないようにして、本書での話がベルグソンにどう関連するかとかをコチャコチャ考えたりするだろう (昔の話の焼き直しだと看破されてるんだけどね)。頭の中の観念世界に生きようとする人もいるだろう。「私の哲学は厳密なのだ〜」とか言って。でも、この本でいいなあと思ったのは、最後の最後で、ラヴジョイがこれまでずっと扱ってきた観念のくだらない妄想議論に対して、ついに我慢できず自分の世界観を率直に述べるところ。

「具体的な存在物の世界というのは、本質の領域のありのままの転写などではないのです。そして、純粋論理を世俗的な形に翻訳したものでもないのです——それどころかそんな用語自体が、純粋論理の否定なのです」

「存在物の世界は、それがたまたま持っている特性や、内容の広がりや、多様性を持っているのです。それがどんなものになるか、可能な世界のどれだけがそこに含まれるべきか、などということを、はるか永遠の昔から事前に定めてきたような理性的/合理的な根拠など、ありはしません」

そんな世界を抽象的にとらえてどうするね。この世は不完全でいい加減で、先のことはまったくわからないんだよ。それを何か完成された観念世界に押し込めようとするのがダメなんじゃないか。西洋思想は二千年かけて、やっとそこにたどりついたんだよ——この健全な世界観。それを言うのに、こんな分厚い本が要るのかよ、とは思う。でも、そこにたどりつくまでの迷走というのは、すごいものではあるし、それを描いた本書は、バカにしつつの敬意というか、己たちの若き日々の愚行を振り返るような甘酸っぱい郷愁というか、そんなものが感じられる。

そして、完全に役に立たないと自分でもわかっているものを、そうと明言しつつも愛でるように細かくたどってみせる——無駄だからこそやる、というある種の西洋知識人の余裕が漂ういい本ではあるのだ。

 

さてどうしようかな。残りは、第2講は半分やっちゃってるし、仕上げましょうか。その後は、本当に気が向けばというところ。これはクルーグマンとちがって「そう言ってる間にやっちゃいました」ということにはならないでしょう。

クルーグマン『経済発展と産業立地の理論』の改訳

数日前に、なぜだか知らないがアーサー・ラブジョイの本を訳し始めた話は書いた。

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で、それとまったく関係なしにやりはじめちゃったのが、このクルーグマンの本だ。

で、訳文がこれ。

クルーグマン『開発、地理、経済理論』(3章はまだ途中全部やっちゃいました)

もちろん著作権というものがあるので、クリックして読んだりしてはいけないよ。

なんでこんなのやってるのか? おもしろいから。これは1990年代の前半、クルーグマンが最もおもしろくて天才的なひらめきを次々に発揮していた時期の話だ。そしてそこのテーマは、開発経済学と経済地理学。まあぼくがやらんでだれがやる、というような本ではある。

とはいえ、こうした分野そのものの中身に切り込んだというよりは、なぜこういう分野が1950年以降イマイチぱっとしなかったのか、という話ではある。そして答は簡単。どっちも収穫逓増がとっても大事だった分野で、その頃の理論家たちはそれをちゃんとモデル化するツールを持っていなかったから、というもの。

もちろん、その経済地理に関する話は、この時期にすでに並行して後の『空間経済学』につながる研究となっていろいろ展開されていたわけだ。

また、話の一部は後の『自己組織化の経済学』にも発展している。こっちの分野は、その後投げ出されたようではあるけれど。

そして、本書でもそのモデルも一応提示されてはいるけれど、まだ未完成となっている。その意味で、ストレートな経済学理論の探究というよりは、余技の手すさびというような位置づけで、過渡期の本ではある。

そして何より、訳したところまではそれぞれの分野のレビューをして、その洞察や意義や問題についていろいろ見ていておもしろいんだけど、最後の第3講になると、経済学におけるモデルの意義という話になって、もちろんモデル盲信はいけないし、モデル化できないからといって無視するのはひどいけど、まあしょうがないんじゃないの、という生ぬるい結論になってしまうので、ちょーっと拍子抜け。

でも、この頃のクルーグマンの常として、いろんな漠然としたアイデアの提示の仕方は非常におもしろい。そしてそのアイデアを思いつきにとどまらずちょっとしたモデルにまとめるやり方も。その思いつきは、開発経済学にも経済地理にも、いまだに少し示唆を持っていると思う。そして結局、開発経済学と経済地理学のどちらも、泥臭いし詰められてはいないけど、その洞察自体は決してまちがっていたわけではないってことで、それを勉強してきたぼくも決して無駄ではなかったということで、めでたしめでたし、ではある。

あと、第2講の最後で、新都市経済学の話が出てくるけど、これを見るとMITで不動産経済学の教授が、がんばってエッジシティやロサンゼルス/フェニックスのような茫漠と広がった都市の存在を示すモデルを説明してくれた理由がわかるなあ。ここで「新都市経済学は、単一中心の都市しかモデルかできない」と言われたのにむかついたんですねー。

残りの第3講も、まあここまでやったらそのうち仕上げるとは思うけど。 ←そんなことを言っている翌日には仕上げました。

 

ところでこの本には邦訳がすでにあった。

ただし、あんまりうまい翻訳ではなかったうえ、出て間もなく訳者の高中が論文盗用騒ぎで失墜したせいもあってか、目立たずにすぐ消えてしまったような記憶がある。出版社の文真堂は、早稲田の郵便局の裏にあるのを以前ふと見つけて、ちょっと感慨深かったりしたけど、小さかったなー。もう少しこの本の販促かけられなかったのは痛手だったんじゃないか、と他人事ながら心配ではあった。再訳で再刊したければこの訳文提供しまっせ? もう翻訳契約の期限切れてるだろうからあんまり関係ないのか。ついでに、同じクルーグマンの高中訳『国際貿易の理論』も消えたのかな?まああちらは、読む人は原文でも問題なく読むだろうけど……

ちなみに話はまた本書に戻るけれど、ぼくとしては、自分の勉強してきた都市論の一部である都市経済学/地域経済学と、仕事でやっている開発経済学の意外な (ネガティブなとはいえ) 共通性の指摘という意味で非常におもしろかった。たぶんこの両分野は、実はちがう分野ではなく、本当は一つの分野なんじゃないかという気さえしてはいる。それを統合するような話というのはありえるのかなー、とかね。

また一方で、本書で言われている、開発経済学の大論理なんかだれももう提示しないというのは、実務屋としては「そうなの?」という感じ。なんでも自由市場とか、なんでも民営化とか、なんでも制度とか、開発経済学の少なくとも現場は、昔から、なんか乱暴な大理論が降ってくるところではあるのだ。が、まあ理論面での話と援助の現場での流行りというのは、また話が別ではある。

それと、本書の話には、いささか個人的には首を傾げるところがある。第3講の冒頭にこうある。

いいえ、こうした分野が放置されたのは、その土壌が手持ちの道具にはふさわしくないと思われたからでした。経済学者たちは、ビッグプッシュ開発も、経済地理学についておもしろいことは何一つ、ますます期待されるようになっていた厳密性をもってモデル化はできないのに気がつき、そのためあっさりその分野をほったらかしたのでした。

さて、経済学者たちが「モデル化できない」と気がついた、というのは本当だろうか? もしそうであるなら、なぜクルーグマンが1990年代になってこんな講演/本を書かねばならなかったのか? その当時の経済学者たちがなぜ「これはおもしろい問題だけどさあ、収穫一定では扱い切れない話じゃないの? いまはちょっと扱い切れないのでは?」と一言言ってあげなかったの?

やっぱクルーグマンのこの言い方は岡目八目だとは思う。彼なりに、収穫逓増によりなんかおもしろいモデル構築の可能性ができたと思ってふりかえってみて、初めてそれがわかったのではないだろうか。当時の経済学者は、その立派な主流派経済学者たちですら、これが収穫逓増に関係した問題なんだということも理解できていなかったとは思う。まあこれは揚げ足取りではあるけれど。

ラヴジョイは「冷笑系」:非ビリーバーの優位性

ラヴジョイ『存在の大いなる連鎖』を勝手に翻訳している話をした。

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で、引き続きやっていて、第2講もいまのところ、なかなかおもしろい。まだ前半だけだけれど、言われていることはやはり単純だ。

 

  • 頻出する観念として「異世界性」と「この世性」みたいなのがある。
  • 異世界性は、来世の天国で処女が17人!とか、この世が気に食わんから異世界転生するなろう小説みたいなもの欲しげな話とはちがう。そういう異世界転生って、この世の価値観のまま自分の都合のいい世界になるってことで、「この世性」の権化。
  • 本当の異世界性というのは、この現実は現実ではなく、永遠不変の絶対的な善の世界があるのよ〜みたいな話。
  • この手の論者はみんなインチキ。なんだけれど、西洋思想では圧倒的にこの異世界性が大きな影響を持つ。宗教なんてみんな神さまだのといったありもしないものを押しつけるという理屈で、この異世界性のゴリゴリの影響下にある。 そしてインチキであってもそれが哲学や宗教のありかたに大きな影響を与えたことで、社会的価値観も変わってしまったのよ。

  • さてそんな発想の根源はプラトンなんだが (ここでプラトン著作は本当にプラトンの哲学かという問題にえらく深入りする)

 

それで非常に興味深いのは、ラヴジョイが(それを研究しているのも関わらず) ここに挙げられている「観念」にまるで心酔なんかしておらず、むしろ徹底的にバカにしていること。特にこの「異世界性」論者のいろんな議論をあれやこれや羅列してみせて、おまえらの手口なんかすべてわかってるんだよ、と示して見せる。

「現実性」や価値の否定を生み出しかねない、いくつかのちがう特徴やカテゴリーがあります。現実は、はかなく永遠に不完全だというだけで形而上学的に糾弾されるものなのかもしれません。あるいはその構成要素すべてが一見すると相対的に思えたり、そのそれぞれについて思考が折り合いをつけられるような、自足したわかりやすさがないせいもあるでしょう。あるいは現実なんてつまらない存在の単なるごった煮にしか思えず、そのすべてが断片的で不完全で、明確かつ必然的な存在理由を持たないから、ということもあります。あるいは現実に対する我々の把握が、感覚という欺きに満ちた器官を通じてのものでしかなく、その感覚自体どころかそれに基づきそれが提示する条件に基づいて定義できる推論による構築物ですら、主観性の疑惑からは逃れられないという話もありますね。さらにその単なる複数性、思索的な理性を覆う一体性への満たされぬ渇望への反抗が許せなかったりします。あるいは——一部の推論下手な精神の場合は——現実感覚を喪失するような、間歇的な体験があるから、というだけのこともあります (中略) このためそうした精神にとっては、真の存在、魂が安住できる世界は、何やらとにかく「卑近なすべて」以外のものでなくてはならないという確信が圧倒的に思えてしまうのです。

(中略)

また価値の面では、「この」世界は、異世界派の道徳家や宗教教師たちのページを満たす、お馴染みの不満のどれか一つ、いやすべてに基づけば、邪悪または無価値として一蹴できます。世界プロセスは、それを全体として把握しようとすると、想像力に対して一貫性のない面倒なドラマを提示するだけで、喧噪には満ちていても何も意味しないせいもあるでしょう——同じエピソードの無意味な反復だったり、始まりのない果てしない変化の物語だったり、延々と果てしなく続いているくせにそれに見合う仕上がりに達しておらず、理解可能な目標にまるで向かわなかったりするせいもあります。あるいは時間の中で登場して時間の中にある目標にこだわる欲望はすべて、経験的に果てしない不満の刷新を生み出すだけで、ふりかえって見ればそれが埋没しているプロセスの呆れたはかなさを必然的に共有していることがわかったから、というのもあります。あるいは少なからぬ人々——それも自分では真の神秘主義的恍惚を得る能力のない人々さえいます——の間には、事物の相互的な外部性や、自分自身の存在が持つ閉塞した分離性に反発する感情的な反逆があり、自意識の重荷から逃れたいという渇望があり「自分が自分だということを忘れたい」気持ちがあり、あらゆる分断の感覚とあらゆる他者性の意識が超越されるような一体性の中で己を失いたいという願いがあるのです。

でもその上でラヴジョイは、それが全部ウソで、言ってる連中自身だってこんなことを信じているはずはないと断言する。

ほとんどの人が、こんな考えを受け入れると口ではいくら言ってみても、そしてその主張者の理由づけやレトリックに、ほんわかした感動的な種類の形而上学的な情感 (これは部分的には説明できないものの情感でもあります) すら感じてしまったとしても、それを本気で完全に信じたことなどないというのは、何よりも明らかです。というのもそういう人たちですら、感覚が明らかにするものに対して、本物で圧倒的できわめて重要な種類の現実性を否定することは決してできず、実は異世界性が差し伸べる目的を本当に自分自身のために望んだことなどはないのは明らかなのです。

でも、その影響は大きく、宗教なんてほとんどが、この手の「異世界性」を持ち出して、ありもしないものを信じさせようとする活動だったのだという。

偉大な哲学者や神学者が、非実在物の崇拝を教えることにこだわっていたという奇妙な真実 (中略) 人間がそもそも考えられる具体的なモノを特徴づける、個別の欠陥や制約——その相対性、内的論理性の矛盾、思考や欲望にとっての最終性欠如——から逃れていると強調することで、彼らは非実在物をもっと「リアル」でもっと情緒的に満足できるものに思わせてきたわけではあります。

彼はここで、神さまなんてのがありもしないもので、宗教その他は、それをこの「異世界性」使って押しつけようとする活動なんだよ、とまで断言してくれているわけだ。彼は、その検討対象である西洋思想の大きな一部である宗教——キリスト教含む——そのものを、眉ツバもののガマの油売りだと嘲笑してしまっている。

だがそれでも彼は、それを研究してきたし、それについてこんな400ページ近くある講義までしてしまう。

 

ぼくはしばしば書評なんかで、その対象となる本や論説を茶化し、バカにしてみせることが多い。すると「冷笑系」とか「嫌味」とか「皮肉っぽい」はては「不真面目」とか言われる。そこには、それが何か意地の悪い不当な読み方をしているという含意があり、その対象に真剣に取り組んでおらず、したがってそこでの論評はなにやらまちがっているというほのめかしがある。

その一方で、世の中の特に哲学っぽい本に顕著だけれど、ある哲学や哲学者の研究者というのは、その心酔者であることが多い。やたらに心酔し、教祖様の言うことを何から何まで真に受けて非常に生真面目にコチャコチャ調べ、「ここに深い真理があるのです!」とやってみせて、その一見すると矛盾や明らかなおかしいところまで、変な論理のアクロバットをしてこじつけてみせると、「渾身の力作」とか言われて評価される例もときどき見かける。ビリーバー本が評価されるわけだ。

でも、生真面目にやっている信者著作こそ、まさにそのためにダメになっている場合が多々ある。真面目ならいいわけじゃない。むしろ、遊び半分に不真面目に取り組むことこそがその本質に到達できることも多い。それはクルーグマンが (いまのような生真面目になる前には) しつこく言っていたことだ。むしろ茶化せる、バカにできるというのは、ある意味でその議論のエッセンスを把握できているということでもある場合が多い、とぼくは思う。そして、それが本当の興味につながっている場合も多い。

この講演の中で、上に引用したラヴジョイによる、異世界派の浅はかな議論の各種変種を羅列した部分。この長さ。彼はそれをバカにしていたけれど、でもそのバカにすべきくだらなさをおもしろいと思っていたからこそ、その手口をこうやって延々と解説できた。実際の演台で彼がどんな顔でこれを語っていたか想像してみよう。「あいつら、こーんなバカなこと言ってんの!」と嬉々とした顔だったはずだし、また聞く側の半分くらいは「あるある!」とニヤニヤしながらうなずいていたはず (一方で「冷笑系」「ふまじめ」「対象への敬意がない」とかいって、陰口たたいていた人もいただろうけど)

その意味で、ぼくはこのラヴジョイに対する評価が、いまかなり上がりつつある。高山宏による議論などを読むと、ラヴジョイや観念史一派は、その彼らの「観念」なるものにある種の物神崇拝みたいなものを抱いていたような印象まで受けることがある。イェイツとか読むと、その「観念」というのが、裏の隠された真理のような扱いを受けていて、つまりは観念史一派が、秘教的、オカルト的な一派だったような印象がある (そして、一部の人はまちがいなくそうだったと思う) でもここでのラヴジョイは明らかにちがう。

というわけで、先に進むか迷っていたけれど、もう少し先までやってみようかな、などと思うわけではある。

ところでいまふと名前がでたクルーグマンだけど……という話はまたこんどね。

ラヴジョイ『存在の大いなる連鎖』

その昔、荒俣宏だったかで、ラヴジョイ『存在の大いなる連鎖』をほめていて、その後高山宏が、ニコルソンとかの紹介で観念史をいろいろもてはやしていた頃に、読もうかと思って邦訳を買って取りかかった。

が、これ本当にひどい翻訳で、何を言っているのかさっぱりわからない。で、原書を見てみたら、なんだ、ずっとわかりやすいじゃないか。

訳者はおそらく、著者が何を言っているのかまったく理解できていなかったと思う。最初の一章をまず訳してみたので、まあ暇な人は読んで見てくださいな。持っている人は邦訳版と対比してみるのも一興かとは思う。

ラヴジョイ『存在の大いなる連鎖』第1講:観念史とは何か?

言っていることは、全然むずかしくないのだ。人は「すべては一つ!」とか「世界に1人で立ち向かうぜ」とか言うと、理屈もなしですぐに受け入れちゃうよねー、わかんないが故にありがたがる連中もいっぱいいるよねー、というあたりの意地悪さは大したもの。講演であることが、たぶん全体のウダウダしさにかなり貢献してはいる。人が話しているときは、文の途中で脇道にそれたりする。でも、演者のボディランゲージや言い方で、いまは脇道だなというのがわかったりする。でも文にしちゃうと、その加重感覚がわからなくなる。この講演でも、ベルグソン信者どものアホぶりを嘲笑する部分があって、そこが妙に長い。たぶんそこは話している間に、ついつい脇道にそれちゃったんだろう。講演では、そういうつい脇道にそれて長くなっちゃう部分というのは、講演者がノリノリになっていて楽しいので、聴衆を引き込める。でも文にしちゃうとそれはわかりにくいし、バランスが悪くなって論点をとらえにくくなってしまう。でも、話を決定的に理解不能にするようなものではない。

で、他の人の感想はと思ったら、ろくなもんがないね。特にこれはひどい。

1000ya.isis.ne.jp

ここで松岡正剛は、ラヴジョイが言っていることをほぼ何も理解できていないことがわかる。特にこの最後の部分:

あのー、その「因果関係において先行するものは、その結果よりも少ないものを含むことはできない」というのは、ラヴジョイが言っているのではなく、神さまは全能で永遠で至高で善でといっていたヤコービとかの (おバカな) 説を紹介してるだけですよ。その次の人間が云々も、どこだかわからないけれど、かなり怪しい。

この人の馬脚はケインズのときも感じたが、これは輪をかけてひどいなあ。それも山形訳を読んでもらえればわかるはず。

とはいえたぶんこの第1講もかなり長いので、読む人も少ないだろうと思う。でも彼が言ってることは極単純なので、パワポにまとめました。本当にこれだけ。

松岡が「漠然としたもの」と呼んでいるものは、別に漠然としてなんかいない。漠然としているのは、翻訳がダメではっきり意味がわからないから、というだけなのだ。その意味でこれは、翻訳のダメさがうんだ意味不明さが、それをありがたがる論者により何か神秘的なもののように崇拝されているという、まさにこの第1講で指摘されてる、わからないものをそのためにありがたがる情感の見事な例ではある。

この先は、充満の原理とか本当にニッチな世界に入っていくので、訳すかどうかもわからないけど、まあ気が向けばね。

ちなみに、邦訳の文庫版には、高山宏が解説を書いているとか。何かずいぶん前のめりなものらしいけれど、正直言ってぼくは高山宏の文章の多くが、上に指摘したわからなさをありがたがる傾向の産物でしかないと思う。それについてはここに書いた。

cruel.org

たぶん解説でも、この本を明解にしようという努力は何もなくて、名前を乱舞させて読者を煙に巻こうとするか、むしろ煙に巻かれた自分をありがたがって露呈させているにちがいないとは思う。いつかそれもちょっと確認してみよう。

ゲバラ『革命の回想』と『革命戦争回顧録』対比

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ゲバラのキューバ戦争記録の邦訳

チェ・ゲバラの本は、同じものがあちこちからいろいろ出て題名も微妙に変わるので、同じものかどうかがわからずいろいろ面倒。以前、『ゲバラ日記』と称して出ているものが8種類もあることについて書いた。

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で、「ゲバラ日記」はボリビアで破壊工作して死んだときの日記だけれど、キューバ革命のときの日記/記録もやっぱりいっぱい邦訳がある。さすがに8種類はないけれど、なんか似たようなものが5種類 (たぶん探すと変なのがいろいろ出てくると思うけど、面倒だからこれ以上は見ない)。

で、読むほうも、いろいろ出てくるとどれを読むべきかで迷うと思うし、それで結局わかんなくてやめる例も多いと思う。それはもったいない。ボリビアの日記はどんどんドツボに入って陰惨だけれど、キューバ革命の記録は、勝った官軍側だし、なかなか勇ましくていいのだ。というわけで、読書ガイドも含めて比較を。

原書

まずそもそもの混乱は、原書が最低でも2種類くらいあることらしい。まず、1963年に革命の熱気に乗って出た本がある。そしてその後、2006年にいろいろ足した新版が出た。

そしてあとでまとめた革命戦争の記録に加えて、日記は別にあるということらしい。たぶん記録のほうは、日記からつまみ食いして整理したもの、ということになるんだろう。これは今後確認します。

邦訳

で、日記以外で3種類ある邦訳のうち、青木出版から出た「革命戦争の旅」というのは、どうやらこの最初のやつをすぐに出したものらしい。なんか朝日新聞が噛んでいるのかな? 原著題名は「革命戦争の道程」。

それとほぼ同時に出た『革命の回想』は、この『革命戦争の道程』に訳者の真木嘉徳がいろんな材料を他から持ってきて追加したもの。

そして『革命戦争回顧録』(中公文庫) は、2006年版の翻訳となっている。

日記のほうは、まだ手がまわらなくて見ていない。が、この革命戦争回顧録は、昔のやつとどのくらいちがうのか? ちょっと気になって対比してみました。

こうして見ると、真木嘉徳は2006年版とほとんど同じ内容を、1960年代に独自編纂していたんだなあ。すごい。しかも2006年版は昔のやつと、その後追加した文とが別建てになっているので、特に冒頭部分は年代がいったりきたりするけれど、『革命の回想』のほうはそれが年代順に整理されていて、話の流れがつかみやすい。よいですねー。たぶん当時としては非常に付加価値高かったはず。

中身まで細かく見ておらず、それぞれ最初と最後だけで比べているけれど、「最後の攻撃」を除けばほぼ同じ。

あと2006年版は、特に「最後の攻撃」のところで非常にプロパガンダ的な配慮があるのがわかる。『革命の回想』は、そうしたものがないので、むしろストレートな感じ。

ただしいまだと『革命戦争の旅』や『革命の回想』はそもそも手に入らないし、あと『革命戦争回顧録』は追加の話もいろいろあるので、いま読むならこっちでしょう。小犬を殺した話とか、センチメンタルながらも重要なネタもあるし。

翻訳の仕方も、平岡緑の訳は生真面目で固くて、どっちかといえば真木訳のほうが個人的には好みではある。が、それも趣味の範囲。

というわけで、こんど日記のほうも見て、どのくらい回顧録と重複しているのかも調べておきます。

Schumpeter "The Theory of Economic Development" (1934)

Schumpeter "The Theory of Economic Development" 山形整形版のださいビジネス書風表紙
Schumpeter "The Theory of Economic Development"

ちょっと参照する用があって、本棚にあったはずが見あたらないのでオンラインで転がっているだろうと思ったら、ろくなのがないので自分で作ってしまいました。翻訳ではありません。英訳版です。

原文のドイツ語は完全に著作権切れてるが (シュムペーターは1950年に死んでます。オーウェルと同じですな)、英訳者が長生きしてて、もし英訳者の著作権が云々という話だと厳密にはまだパブリックドメインではないんだが、一方で1930年代に欧米言語での翻訳は著作権が認められていなかったような話もあり、版権表示も最近では学長の論文盗用疑惑で有名なハーバード大学だけだし、いまの権利保持者がだれかもよくわかんないという状況で、そもそもネットにいっぱい (質の悪いものばかりだけど) すでにたくさんネットに出回っている状態だし、まあいいだろ、ということで。不安な人は見ないように。

出回ってるのは、Internet Archive あたりのスキャンpdfを OCR機能でテキスト化しただけのものがほとんど。そのテキストを元に、ヘッダやフッタを落とすのと、脚注番号つけるのの前処理、あとスキャンミスにありがちな llをUに誤変換とか引用符がむちゃくちゃになっているのとか、その手のを一括処理、さらにスキャンミスでピリオドがぬけているのを、正規表現の検索で一応洗い出してでもあとは章番号つけたり、脚注で切れた本文をつないだり、手作業でやるしかなくて、チマチマ数日かかりました。述べ作業事件は4時間くらいか。あとはフォーマット変換とかいろいろ試して無駄な時間を喰った。完璧にはほど遠いが、ネットに落ちている他のものよりは数段マシなはず。

あとシュムペーター、あまり好きではないので、表紙はださいビジネス書風にしてあげました。

https://cruel.org/books/hy/shortschumpeter/SchumpeterTheoryofEconDev.md

https://cruel.org/books/hy/shortschumpeter/SchumpeterTheoryofEconDev.epub

https://cruel.org/books/hy/shortschumpeter/SchumpeterTheoryofEconDev.pdf

https://cruel.org/books/hy/shortschumpeter/SchumpeterTheoryofEconDev.html

それぞれマークダウン、epub、pdf版, html。epub作る練習台みたいなものではあるが、マークダウンからxhtml 作ったりもしてみたが結局 MS-WordからKindle Createで変換するのがいちばん楽だった。脚注も、ポップアップみたいなのにしようかと思ったがやたらに長いやつがあって、それでは無理。結局epubだと巻末注になってしまってつらいな。あとpdfはローカルでやると、しおりとかがめちゃくちゃだなあ。Adobeサイトでやってもらった。