オーウェル「バーナム再考:現状追認知識人の権力崇拝とその弊害」(1946)

Executive Summary

ジョージ・オーウェルが、第二次世界大戦中および大戦後に人気を博した通俗評論家バーナム『管理職革命』『マキャベリ主義者たち』を徹底的に批判した書評的エッセイ。バーナムは、マキャベリを引き合いに出して、政治は常にエリートのだましあいの権力奪取で大衆は奴隷、イデオロギーなんて大衆動員の口実、パワーこそ正義、と冷徹なリアリストを気取ってみせた。この見立てを元に、バーナムはドイツが勝っているときはナチスこそ新世界秩序の盟主、ソ連なんか一撃でおしまい、抵抗するな、受け入れよと説いたくせに、数年後にドイツが負け始めたら、ソ連最強でスターリン社会主義が世界を支配する、と手のひら返しを演じて見せた。だがこれは「知識人」にきわめてありがちな態度で、彼らに蔓延する敗北主義の根底でもある。「リアリズム」と称しつつ、臆病な現状追認の権力すりより行動でしかないのだ。根底にある社会のありかた、歴史の流れ、人間の欲望についてまったく見えておらず、短期トレンドを先に延ばしただけ。そしてこの考え方が、バーナムをはじめ知識人たちの現実そのものの見方すら歪めてしまっている。

ここでまとめられている、バーナム『管理職革命』のあらすじがオーウェル『1984年』に登場するゴールドスタイン『寡頭制集産主義の理論と実践』およびそれを解説するオブライエンとまったく同じであることに注目。本稿ではそれが徹底的に批判されている。これを見るとオーウェルの『1984年』は、「こうなる」という予言や警告ではなく、むしろそうした見方に反発した戯画なのだと考えたほうが妥当かもしれない。

またときどき引用される「戦争を終える最もすばやい方法は敗北すること」というのは、さっさと負けて戦争やめろという意味ではないことにも注意。これは知識人のダメな議論の例として挙げられているだけ。現状トレンドの追認しかしなければ、ナチスもスターリンもそのときは無敵に思えるから白旗も魅力的になる。それは強者盲従の敗北主義でしかない。抵抗せよ、戦え、というのが本意。



ジョージ・オーウェル「ジェイムズ・バーナム再考:現状追認知識人の権力盲従とその弊害」(1946)

Second Thoughts on James Burnham

By George Orwell 山形浩生訳

(初出『ポレミック』1946年5月号、および1946年のパンフレット「James Burnham and the Managerial Revolution」)

ジェームズ・バーナム著『管理職革命』(The Managerial Revolution) (訳注:邦訳は何度か出ており『 経営者革命 (1965年)』という邦題になっているが、内容的に「経営者」とはちょっとちがうためあわせていない。)は、アメリカでもイギリスでも出版時 (訳注:1942年) にかなりの波紋を引き起こしたし、その主な主張はすでに議論され尽くしているため、ここで詳述するまでもないだろう。できるだけ手短にまとめると、その主張とは次のようなものだ。

資本主義は消滅しつつあるが、社会主義がそれに取って代わろうとはしていない。いま台頭しているのは、新種の中央集権的な計画社会であり、資本主義でもなければ、一般に認められた意味での民主的な社会でもない。この新社会の支配者たちは、いまや実質的に生産手段を牛耳る人々である:つまり企業の重役、技術者、官僚や兵士たちで、バーナムはこれらをまとめて「管理職/マネージャー」と呼んでいる。こうした人々は、古い資本家階級を排除し、労働者階級を押し潰し、あらゆる権力と経済特権が自分たちだけの手に残るように社会を構築するのだ。私有財産権は廃止されるが、公有制が確立されることはない。新しい「管理職」的な社会派、小さな独立国家のつぎはぎで構成されるのではなく、ヨーロッパ、アジア、米国という主要な工業センターを中心としてグループ化された超大国で構成されることになる。こうした超国家は、世界でまた捕捉されていない、残った部分の所有をめぐって争うが、おそらくはお互いを完全に制圧することはできないだろう。国内では、それぞれの社会は階層的なものとなり、才能を持つ貴族がてっぺんに位置し、大量の半奴隷が底辺に位置することになる。

バーナムはその次著『マキャベリ主義者たち』(The Machiavellians) で、最初の主張を展開するとともに変更している。この本の大部分は、マキャベリとその現代の使徒たるモスカ、ミヒェルス、パレートの理論解説に費やされている。そして怪しげな理由をつけて、バーナムはここのサンディカリスト論者ジョルジュ・ソレルも加えている。バーナムがここで主に示したいと考えているのは、民主社会などこれまで存在したことはないし、我々に見える限り、今後も決して存在しないということなのだ。社会はその本質からして寡頭支配的なものであり、寡頭制の権力は常に武力と詐欺に基づくものとなる。バーナムは私生活では「よい」動機が作用することもあるのは否定しない。だが彼は、政治というのが、ひたすら権力を求めての闘争でしかないのだと固執する。あらゆる歴史的な変化は、最終的にはある支配階層が別の支配階層に置き換わる話に行き着く。民主主義、自由、平等、博愛、あらゆる革命運動、あらゆるユートピアのビジョン、「階級なき社会」の夢、「この世の天国」の夢は、権力の座へとゴリ押しで入り込もうとしている新階級の野心を覆い隠す、おためごかし (必ずしもおためごかしと意識されているわけではないが) でしかない。イギリス清教徒、ジャコバン派、ボリシェヴィキはどれも、それぞれただの権力を求める連中でしかなく、自分が特権的な地位を勝ち取るために、大衆の希望を利用しただけなのだ。権力はときには暴力なしで勝ち取られたり維持されたりはできる。だが詐欺なしにはいじできない。なぜなら、大衆を利用しなければならないからで、大衆は自分たちが少数派の目的に奉仕しているだけだと知ったら、協力してくれないからだ。あらゆる偉大な革命闘争においては、大衆は人間の同朋精神という漠然とした夢に先導され、そして新たな支配階級がしっかり権力を掌握したら、奴隷状態へと投げ戻される。バーナム的には、これこそ政治史のすべてと言ってよいことになる。

この二冊目が前著から進んでいるのは、この事実にもっと率直に直面すれば、全プロセスがいささか道徳的に進められると主張しているところだ。『マキャベリ主義者たち』には『自由の擁護者』という副題がついている。マキャベリとその追随者たちは、政治においては品位などというものはまったく存在しないと教え、それにより政治的な事柄をもっと知的かつあまり抑圧的でない形で実施できるようになった、とバーナムは主張する。自分たちの真の狙いが権力の座にとどまることだと認識した支配階級は、社会全体の善に奉仕したほうが成功しやすいことも認識して、世襲貴族制へと硬直化するのを避けることも考えられる。バーナムは、「エリート循環」というパレート理論を大いに強調する。支配階級は、権力の座にとどまるためには、絶えず適切な新人を下層からリクルートするようにして、最も有能な人間が常にトップにとどまり、権力に飢えた新たな不満階級が生まれないようにしなければならない。これが最も起こり易いのは、民主的な習慣を維持した社会だ、とバーナムは考える。つまり、反対論が許容され、マスコミや労働組合といった一部の組織が自律性を保てる社会ということだ。ここでバーナムは、まちがいなく自分の以前の意見は逆のことを述べている。1940年に書かれた『管理職革命』では、「管理職」的なドイツがあらゆる面で、フランスやイギリスのような資本主義的民主主義社会よりも効率的なのは当然のこととされている。だが1942年に書かれた次著では、バーナムはドイツが言論の自由を許容していれば、深刻な戦略ミスのいくつかを避けられたかもしれないと認めている。だが主要な主張は放棄されていない。資本主義は滅びる運命にあり、社会主義は夢でしかないというものだ。何が問題になっているかを把握すれば、管理職革命の方向性をある程度は導けるかもしれないが、その革命自体は、好き嫌いにかかわらず起きているのだ。いずれの本でもそうだが、中でも最初の本では、論じられているプロセスの残酷さと邪悪さについて、まごうかたなき大喜びぶりがうかがえる。自分が事実を述べているだけで、自分自身の選好を述べているのではないと繰り返してはいるが、バーナムが権力のスペクタクルに魅了されているのは明らかで、ドイツに共感しているのも明らかだ——ドイツが戦争に勝っているように見えている間は、もっと最近の1945年初頭になって『パルチザン・レビュー』に発表された「レーニンの後継者」という論説では、彼の共感はソヴィエト連邦に鞍替えしたように見受けられる。「レーニンの後継者」はアメリカ左翼メディアで激論を引き起こしたが、イギリスではまだ発表されておらず、また後で論じねばならない。

バーナムの理論は、厳密にいえば目新しいものでないことは明らかだ。これまで多くの著者たちが、資本主義でも社会主義でもない、おそらくは奴隷制に基づく新しい種類の社会の台頭を予見してきた。とはいえ、そのほとんどは、この展開が不可避とは想定しなかった点でバーナムと袂を分かつ。その好例がヒレア・ベロック『奴隷の国家』(1911) だ。『奴隷の国家』は退屈な文体で書かれており、提案されている対処法 (小規模自作農土地所有への回帰) は多くの理由から不可能ではある。それでも、1930年以降のできごとについて、驚くほどの洞察をもって予見している。チェスタートンは、これほど系統的ではないが、民主主義と私有財産の消滅を予言し、資本主義的とも共産主義的ともいえる奴隷社会の台頭を予想している。ジャック・ロンドンは『鉄の踵』 (1909) で、ファシズムの重要な特徴をいくつか予見したし、ウェルズ『睡眠者が目覚めるとき』 (1900)、ザミャーチン『われら (光文社古典新訳文庫)』 (1923)、オルダス・ハックスリー『すばらしい新世界〔新訳版〕 (ハヤカワepi文庫)』 (1930) はどれも、資本主義の特別な問題が解決されても、自由、平等、真の幸福が一向に近づかないような空想世界を描いている。もっと最近では、ピーター・ドラッカーや F. A. ヴォイトのような著作家が、ファシズムと共産主義は本質的に同じものだと論じている。そして確かに、中央集権の計画社会は、寡頭政治や独裁制に発展しかねないのは昔から明らかではあった。正統保守派たちはこれが目に入らなかった。というのも彼らとしては社会主義など「うまく行かない」し資本主義の消滅は混乱と無政府状態を招くと想定するほうが心地よかったからだ。正統社会主義者たちもこれが目に入らなかった。というのも彼らは、自分たちが間もなく権力を握ると考えたかったし、したがって資本主義が消滅したら、社会主義が取って代わると想定したからだ。結果として彼らはファシズムの台頭を予見できず、またそれが登場してからも正しい予想ができなかった。さらに後になると、ロシア独裁制を正当化し、共産主義とナチズムとの明らかな類似性について言い逃れる必要が生じたため、この問題がさらにあやふやにされた。だが工業化が独占に終わるしかなく、独占は必然的に圧政を意味するはずだ、という考え方は、別に驚くようなものではない。

他の思想家のほとんどとバーナムが一線を画すのは、「管理職革命」の道筋を世界規模で描き出そうとするところであり、全体主義への移行が抵抗しがたいものだから、それと戦ってはいけないが、それを導くことはできるかもしれない、と想定したところだ。1940年のバーナムによると、「管理主義」はソヴィエト連邦においてその最大の発展段階に到達したが、ドイツでもそれにかなり近いところにまで発達しており、アメリカでも登場してきたという。彼はニューディール政策を「原始的な管理主義」だとして描く。だがトレンドはどこでも、あるいはほとんどどこでも同じだ。常に自由放任資本主義は、計画と国家介入に道を譲り、単なる所有者は、技術者や官僚に比べて力を失うが、それでも社会主義——というか、かつて社会主義と呼ばれていたもの——はまったく登場する様子がない。

一部の弁明者は、マルクス主義が「機会を与えられなかった」といって言い逃れようとする。これはまったくもって事実ではない。マルクス主義もマルクス主義正統も、何十回も機会は与えられた。ロシアではマルクス主義正統が権力を握った。そして一瞬にして社会主義を放棄した。言葉の上では放棄しなくても、その行動は社会主義とはほど遠いものだ。ほとんどのヨーロッパ諸国では、第一次世界大戦の最後の数ヶ月と、その直後数年に社会危機が生じて、マルクス主義にまたとない機会が開かれた。そして例外なしに、権力を握ることも維持することもできなかった。多くの国——ドイツ、デンマーク、ノルウェー、スウェーデン、オーストリア、イギリス、オーストラリア、ニュージーランド、スペイン、フランス——では、改革主義マルクス主義政党が政権を握ったのに、一つとして社会主義を導入できなかったし、社会主義に向けたまともな歩みも何一つ採れなかった。(中略) こうした政党は、実際にはあらゆる歴史的な試験において——しかもそれは実に何度も行われた——社会主義に失敗したかそれを放棄した。これは、社会主義の最も手厳しい敵だろうと、最も熱狂的な友人だろうと消し去ることのできない事実である。この事実は、一部の人の考えとはちがい、社会主義理念が持つ道徳的な性質について何一つ証明するものではない。しかし、その道徳的な性質がどうあろうと社会主義などやってきはしないという、目を背けがたい証拠にはなっているのだ。

バーナムはもちろん、新しい「管理職」レジームは、ロシアやナチスドイツの政権のように、社会主義とよばれていることを否定はしない。彼は単に、それがマルクスやレーニン、キア・ハーディー、ウィリアム・モリス、いや1930年頃以前の社会主義のどんな代表者でも受け入れないような意味でしか社会主義ではないのだ、と述べているにすぎない。社会主義はごく最近まで、政治的には民主主義、社会平等、国際主義を意味することになっていた。こうしたもののどれ一つとして、どこでもあれ確立されつつあるという様子はかけらも見あたらない。そして、プロレタリア革命と呼べるようなものが起きた唯一の大国、つまりソヴィエト連邦は、普遍的な人間の同朋精神を目指す自由で平等な社会という古い概念から、着実に離れつつある。革命初期からほとんどたゆみないほど着実に、自由は削り取られ、人々を代表する制度機関は潰され、格差は開き、ナショナリズムと軍事主義は強まってきた。だが同時に、資本主義に戻ろうという傾向もない、とバーナムは固執する。起きているのは単に「管理主義」なるものの成長であり、これはバーナムによると到るところで進んでいるそうだ。ただしそれが導入されるやり方は国ごとにちがう。

さて、現在起きていることの解釈としては、バーナム理論はどう控えめに言っても、きわめて妥当性がある。少なくとも過去15年のソ連での動きは、他のどんな理論よりもバーナムの理論のほうがはるかに容易に説明できる。明らかにソ連は社会主義ではなく、それを社会主義と呼ぶには、他の文脈とはまったくちがう意味を社会主義という言葉に与えるしかない。その一方で、ロシア政権が資本主義に逆戻りするという予言は常に外れ続け、いまや実現の見通しはこれまでないほど低いようだ。そのプロセスがナチスドイツでもほとんど同じくらいの進捗を見せているとの主張は誇張だろうが、旧式の資本主義から離れて、計画経済に向かっていて、それを養子的な寡頭支配者が牛耳るという動きが見られたのはまちがいない。ロシアでは、まず資本家たちが破壊されて、次に労働者たちが潰された。ドイツでは、まず労働者たちが潰されたが、資本家たちの排除も結局は始まり、ナチズムが「ただの資本主義」だという想定に基づく計算は、常に実際のできごとにより否定されてきた。バーナムが最も勇み足をしているように見えるのは、「管理主義」がアメリカでも行われつつあると主張している部分だ。アメリカは自由資本主義がいまだに画期を持つ、唯一の大国なのだから。だが世界の動き全体を見るなら、彼の結論は抵抗しがたい。そしてアメリカですら、自由放任に対する全面的な信念は、大経済危機がもう一度起きれば生き延びられないかもしれない。バーナムへの反対論として、彼が狭い意味での「管理職」——工場長、計画者や技術者など——をあまりにも重要視しすぎているというものがある。バーナムはソ連においてすら、共産党の親玉たちよりもこうした人々のほうが、本当の権力保持者なのだと主張するのだから。だがこれは二次的なまちがいであり、『マキャベリ主義者たち』では個別に修正されている。本当の疑問は、今後50年でこちらを足蹴にする連中を管理職と呼ぶべきか、官僚と呼ぶべきか、政治家なのか、ということではない。問題は、いまや明らかに滅びる運命に見える資本主義が、寡頭制と真の民主主義のどちらに道を譲るか、ということなのである。

だが不思議なことに、バーナムがその一般理論の根拠とした予想を検討してみると、検証可能なものについてはほぼすべてまちがっていたことがわかる。これは多くの人がすでに指摘している。だが、バーナムの予言を詳しく追跡してみる価値はある。なぜならそれは、ある種のパターンを示しており、それが現代のできごとと関係していて、思うに今日の政治思想におけるきわめて重要な弱点を明らかにしていると思うからだ。

手始めに、1940年のバーナムは、ドイツの勝利がおおむね確実だとしている。イギリスは「溶解」しつつあり「過去の歴史的推移における頽廃文化を特徴づけるあらゆる特性」を示しているが、1940年にドイツが達成したヨーロッパの征服と統合は「不可逆」とされる。バーナムによると「イギリスはどんな非ヨーロッパ同盟国と手を組もうとも、ヨーロッパ大陸を征服するなどとは到底望み得ない」。ドイツは、なにやら戦争に負けることがあったとしても、解体されたり、ワイマール共和国の地位に貶められたりすることはなく、統一ヨーロッパの核として残るのはまちがいない。将来の世界地図は、三つの巨大な超国家を持つようになり、どのみちその概略はすでに決まっている。そしてその三つの超国家の核となるのは、その将来の名前がどうなるにせよ、以前存在していた日本、ドイツ、米国の三国となるのだ」

バーナムはまた、ドイツはイギリスを倒すまではソ連を攻撃しないと断言してみせる。『パルチザン・レビュー』1941年5-6月号に発表された、次著の要約記事 (おそらくは本より後に書かれたもの) で、彼はこう述べる。

ロシアの場合と同様に、ドイツでも、管理問題の3つ目の部分——管理職社会の多の部門との支配をめぐる紛争——が将来的には残る。まずは、資本主義的世界秩序転覆を確実にする、死の一撃が起こらねばならなかった。これは何よりも、大英帝国 (資本主義世界秩序の要石) の基盤を、ヨーロッパの政治構造破壊を通じて直接的に破壊するということである。ヨーロッパの政治構造は、大英帝国にとって必要となる大道具だったのだ。これがナチス=ソ連不可侵条約の基本的な説明である。この協定は、他の根拠に基づけば理解不能でしかない。ドイツとロシアの将来の紛争は、本当の意味での管理的紛争となる。大いなる世界管理戦闘に先立ち、資本主義秩序の終焉が確実に起こらねばならない。ナチズムが「頽廃資本主義」だという信念は (中略) ナチス=ソ連不可侵条約をまともに説明できなくしてしまう。こんな信念があるからこそ、いつも予想として独ソ戦争が持ち出されてくるのであり、ドイツと大英帝国との間に起こる実戦の死闘は出てこないのだ。だがドイツとロシアの間に起こる戦争は、未来の管理戦争であり、過去と現在の反資本主義戦争ではないのだ。

それでも、いずれはロシアへの攻撃が起こり、ロシアはおおむねまちがいなく破られるのだという。「あらゆる理由から見て (中略) ロシアは分裂し、西半分はヨーロッパの拠点へと引き寄せられ、西側はアジア地方へと惹きつけられる」。この引用は『管理職社会』からのものだ。上で引用した論説は、おそらくその6ヶ月ほど後に書かれたものだが。もっと強い形で述べられている。「ロシアの弱さから見て、おそらくは持ちこたえられず、結果としてロシアは割れてしまい、西と東へと転落する」。そしてイギリス版 (ペリカン版) に追加された補遺 (1941年末に書かれたらしい) で、バーナムはまるで「割れてしまう」プロセスがすでに起こり始めたかのような口ぶりだ。彼によれば、戦争は「ロシアの西半分がヨーロッパ超国家に統合される手段の一部なのである」

こうした各種の主張を整理すると、以下のような予言が得られる。

・ドイツは戦争に勝つだろう。

・ドイツと日本はまちがいなく生き残って大国となり、それぞれの地域におけるパワーの核となる。

・ドイツはイギリスが敗北するまでソ連を攻撃しない。

・ソ連はまちがいなく敗北する。

だがバーナムは、これら以外にも予言をしている。『パルチザン・レビュー』1944年夏号に発表された短い論説で、彼はソヴィエト連邦が日本と結託することで日本の完全敗北は阻止され、一方でアメリカの共産党員たちが戦争の東端について妨害工作を行うという意見を述べている。そして最後に、同誌の1944-45年冬号で彼は、ほんのわずか前には「割れてしまう」運命だとされていたロシアが、ユーラシア全体を征服する目前だと主張する。この論説は、アメリカ知識人の間で激しい論争の種となったが、イギリスでは発表されていない。ここではそれについて少し考えないわけにはいかない。というのも、そのアプローチ方法と情緒的な書きぶりは異様なものであり、それを検討することで、バーナム理論の真のルーツに近づけるからだ。

この論説は「レーニンの後継者」と題され、スターリンこそはロシア革命の真の正統守護者なのであると示そうとする。スターリンはロシア革命をいかなる意味でも「裏切」ってなどおらず、単に最初から暗黙のうちに示されていた路線を推進したにすぎないのだという。これ自体としては、スターリンなど革命を自分の目的のために歪めた単なる小悪党にすぎず、レーニンが長生きしたりトロツキーが権力の座に留まったりしていれば、何やら事態はちがっていたはずだという、お決まりのトロツキー主義者の主張よりはもっともらしい意見ではある。実際のところ、主要な展開の道筋が大きく変わったはずだと考えるべき強い理由などまったくない。1923年のはるか以前から、全体主義社会の種子はかなり露骨に存在していた。実際、レーニンは夭逝したことで、不当なほどの評判を勝ち得ている政治家たちの一人なのだ。*1。死んでいなければ、おそらくトロツキーのように追放されたか、あるいはスターリンに負けず劣らずの野蛮な手法によって権力の座に留まり続けただろう。したがってバーナムの論説は一理ありそうで、彼がそれを事実に訴えることで裏付けてくれるのだろうと期待したくもなる。

ところがこの論説は、そこで述べられているはずの対象にはほとんど触れないのだ。レーニンとスターリンとの間に政策の連続性があることを本気で示したいなら、まずはレーニンの政策の概説から初めて、それからスターリンの政策がどの様な点でそれに似ているかを説明するだろう。バーナムはこれをやらない。一、二文で軽く触れる以外は、レーニンの政策について何も述べず、レーニンの名前は12ページの論説で5回しか登場しない。最初の7ページでは、題名を除けば一度も登場しない。この論説の真の狙いは、スターリンをそびえたつ超人的な人物として描き出し、まさに一種の半神的な存在にしたて、ボリシェヴィズムを世界すべてにあふれ出して覆いつくす、抵抗しがたい力として描き、それがユーラシアの最果ての境界に到達するまで止められはしないのだと示すことなのだ。自分の主張を多少なりとも証明しようとするとき、バーナムはスターリンが「大人物」だとひたすら繰り返すだけだ——これはたぶん本当ではあるだろうが、ほぼ完全に関係ない話だ。さらに、スターリンの天才ぶりを信じることについて、いくつかしっかりした議論を提示はするものの、彼の頭の中で「偉大さ」という概念は、残虐性と不正直さという概念と分かちがたく混ざり合っているのも明らかだ。スターリンは、果てしない苦しみを引き起こしたからこそ崇拝されるべきなのだと示唆しているように見える、奇妙な下りがある。

スターリンは壮大な様式での「大人物」であることを証明して見せた。ソ連来賓たちのためにモスクワで催される晩餐会の話が、その象徴的な調子を示している。チョウザメ、ロースト、ニワトリ、デザートの壮大なメニュー、果てしない酒、その末尾を飾る大量の乾杯、それぞれの来賓の背後にいる、物言わずじっと動かぬ秘密警察。そのすべての背景となっているのは、包囲された冬のレニングラードでの飢えた無慮大衆、前線で死につつある何百万人、すし詰めの強制収容所、生存ギリギリの乏しい配給で生きながらえる都市の群集だ。退屈な凡庸さやセコい商人根性などはかけらもない。むしろツァーリや、メディア王国やペルシャ王国の大王たち、金帳汗国のカーンたちなどの伝統を我々はそこに見る。それはあまりに大規模な尊大さ、無関心、残虐性のため、人間的な水準を超えた存在に彼らを引き上げてしまい、英雄時代の神々の晩餐を思わせてしまうようなものなのだ。(中略) スターリンの政治技法は、因習的な制約からの自由を示しており、凡庸さとは相容れないものとなっている。凡庸な人間は因習に縛られている。しばしばこの両者をわけるのは、彼らの活動のスケールなのである。たとえば実務生活で活躍する人間であれば、たまに陰謀に手を染めるのは普通のことである。だがその陰謀を何万人も、社会の階層丸ごとの相当部分に対して、自分の同志たちを含む形で仕掛けるのは、あまりに常軌を逸しており、長期的な大衆の結論は、その陰謀が事実にちがいない——あるいは「少なくとも幾ばくかの真実を含む」——か、あるいはこれほど強大な権力には従うしかない——インテリなら「歴史的必然なのである」ということだろう——というものになってしまうのだ。(中略) 国家的な理由のために数人を餓死させるのは、まるで意外なことではない。だが意図的な決断により数百万人を餓死させるのは、通常は神々だけのものとされる種類の行動なのである。

これなどの類似の下りには、ちょっとしたアイロニーの響きが見られるとはいえ、ある種の魅了と崇拝を感じずにはいられないのも人情だろう。論説の終わりでバーナムは、スターリンをモーゼやアショカ王のような半分神話的な英雄と比肩する存在だとしている。こうした人々は丸々一時代を体現する存在であり、当人が実際にはやらなかった偉業も、当然のように彼らのものとされるのだ。ソ連の外交政策とその目的と称するものについて書くとき、バーナムはさらに神秘的な論調となる。

ユーラシアの中軸地帯の磁力を持つ核から出発したソヴィエト勢力は、新プラトン主義における「一者」が次々にあふれて流出の階層を順次下るように、外側へと広がる。西はヨーロッパへ、南は近東へ、東は中国へ、そしてすでに大西洋、黄海とシナ海、地中海、ペルシャ湾の岸辺をなめつつあるのだ。分化されていない「一者」がその流出において、精神、魂、物質の段階を次第に下り、そしてその宿命的な回帰で己へと戻るのと同様に、ソヴィエト勢力も。統合的に全体主義の中心から発し、併合 (バルト諸国、ベッサラビア (訳注:欧州南東のモルドバあたり)、ブコビナ (訳注:ルーマニアとウクライナにまたがるあたり)、東ポーランド)、征服 (フィンランド、バルカン諸国、モンゴル、中国北部、そして明日にはドイツ)、影響力行使 (イタリア、フランス、トルコ、イラン、中国中央および南部……) を通じて外へと広がり、ユーラシアの境界を越えたMH ON、つまり外縁の物質圏へと消散し、一時的な宥和潜入へと向かう (イギリス、アメリカ)。

この一節を埋め尽くす無意味な強調文字 (訳注:原文では大文字。原文では強調部分以外も固有名詞はすべて大文字で始まるのでもっと極端) が、読者に対して催眠術的な効果を持つよう意図しているのだといっても、うがち過ぎではないだろう。バーナムは、恐ろしく抵抗しがたいパワーという図式を作り上げようとしており、潜入というごくふつうの政治的な動きを潜入と書いてみせることで、全体の尊大な調子が強まっている。この論説は全文を読むべきだ。平均的な親露派が容認可能だと思うような種類のトリビュートではないし、バーナム自身もおそらく、自分は厳密に客観性を保っていると主張するだろうが、彼は実質的にオマージュ行為をしているのであり、果てはケツなめまでしてみせているのだ。一方、この論説は一覧に加えるべき新たな予言もしている。ソヴィエト連邦がユーラシアすべてを征服し、おそらくはそれよりさらに広い地域を支配する、というのだ。そしてバーナムの基本理論は、独立に検証すべき予言を含んでいるのだということはお忘れなく——つまり他に何が起こるにせよ、「管理職」的な社会形態が必ずや主流となる、というものだ。

バーナムの以前の予言、つまりドイツの戦勝とドイツを核にしたヨーロッパ統合という予言は、その主要な方向性でもまちがっていたことが示されたし、さらにはいくつか重要な細部でもまちがっていたことがわかった。バーナムは最初から最後まで、「管理主義」が資本主義民主主義やマルクス主義社会主義よりも効率的だし、さらには大衆に受け入れやすいものなのだと固執している。民主主義や国の民族自決というスローガンは、もはや大衆的な訴求力をまったく持っていない、と彼は言う。それに対して「管理主義」は熱気を引き起こし、わかりやすい戦争目的を生み出し、そこらじゅうに第五列 (スパイ部隊) をつくり出し、兵士たちに熱狂的な士気をもたらせるという。ドイツ人の「熱狂性」とイギリスやフランス党の「しらけぶり」「無関心」との対比は大いに強調され、ナチズムはヨーロッパを席巻する革命勢力であり、その哲学を「感染」により伝えているのだと述べられる。ナチの第五列は「一掃することはできない」し、民主主義国は、ドイツ人やその他ヨーロッパの大衆がこの新秩序よりも好むような仕組みを提示することはまったく不可能なのだそうだ。いずれにしても、民主主義国がドイツを倒すには「ドイツのはるか先までこの管理職の道を進む」しかないのだ。

こうした主張には一抹の真実が含まれている。ヨーロッパの小規模国家は、戦前の混乱と停滞でやる気を失ってしまい、必要以上に急速に崩壊してしまい、ドイツ人たちが当初の約束を守っていれば、ナチスの新秩序を受け入れたことも十分考えられるからだ。だがドイツ支配の実際の体験は、ほぼ即座に世界が見たこともないほどの極度の憎悪と糾弾の怒りを引き起こした。1941年初頭あたりから先、積極的な戦争の目的などほとんど示すまでもなかった。ドイツ人たちを追い払うというだけで十分な目標になったからだ。士気の問題と、その国民連帯との関係はとらえどころのないもので、証拠をいじればほとんどどんなことでも証明できてしまう。だが各種の死傷者に占める捕虜の割合や売国行為の量を見ると、全体主義国家は民主主義社会よりもひどい成績を示している。戦争中に何十万ものロシア人がドイツにわたったし、同じくらいのドイツ人やイタリア人たちは、開戦前に連合国に逃げ出している。これに対応するアメリカ人やイギリス人のドイツやロシアへの逃亡者は数十人規模にとどまる。「資本主義イデオロギー」が支援を集められない実例として、バーナムは「イングランド (さらには大英帝国全体) やアメリカにおける志願兵募集の完全な失敗」を挙げる。これを見ると、全体主義国家の軍は志願兵だけで構成されているのだろうと思いたくもなる。だが実は、全体主義国ではどんな目的だろうと志願兵など検討されたことすらなく、歴史上どの時点でも志願制により大軍を動員したこともない*2。バーナムが提示している似たり寄ったりの各種議論を羅列するまでもない。要するに彼は、ドイツは軍事戦争だけでなくプロパガンダ戦争にも勝つはずだと想定していた。そして、その想定は、少なくともヨーロッパでは事実により裏付けられることはなかったのである。

バーナムの予言は、検証できる場合には単にまちがっていたというだけにとどまらない。ときには、それはとんでもない形で相互に矛盾し合っているのだ。この最後の事実は重要だ。政治的予想がまちがえるのは、通常はないものねだりの願望充足思考に基づいているからだが、それには症例としての価値はある。特にそれが急激に変わった場合にはなおさらだ。しばしば、馬脚を露わにする要因は、それらの予言が行われた日付となる。バーナムの各種著作の執筆時点を内部証拠に基づきなるべく正確に見極め、それと同時期にどんな事件が起きていたかを見ると、以下のような関係が見いだせる。

  • この本のイギリス版補遺で、バーナムはソ連がすでに敗北しており、分離プロセスが始まりつつあると想定しているようだ。これは1942年春に刊行されたので、書かれたのはおそらく1941年末、つまりドイツがモスクワ近郊に迫っていたときだ。

  • ロシアが日本と手を組んでアメリカを攻めるという予想が書かれたのは1944年、新しい日ソ条約締結の直後である。

  • ロシアによる世界征服の予言が書かれたのは1944年冬、ロシア軍が東欧で急速に進軍し、西側の連合国はまだイタリアとフランス北部で足止めをくらっていた頃だ。

いずれの場合も、それぞれの時点でバーナムは、そのときに起きていることを先に延ばしただけの予測をしていることがわかる。さて、これをやりたがる傾向は、不正確さや誇張のような、単に悪いだけの習慣ではない。不正確さや誇張は、よく考えれば修正できるからだ。現状を先に延ばすだけというのは、大きな精神の病気であり、その根っこの一部は臆病さ、一部は権力崇拝 (これは臆病さと完全に分離はできない) にある。

仮に1940年にイギリスで、ギャラップ世論調査を行って「ドイツはこの戦争に勝つか?」と尋ねたとしよう。奇妙なことだが、「負ける」と答えた集団よりも、「勝つ」と答えた人のほうが、知識人——IQ120以上とでもしようか——の割合がはるかに高いことがわかったはずだ。同じことが1942年半ばでも言えただろう。この場合には数字はそれほど極端にちがわなかっただろうが、「ドイツはアレクサンドリアを制圧するか?」「日本は占領地域を維持し続けられるか?」という質問だったら、ここでも知能の高い人々が「はい」の集団に集中する傾向が見られたはずだ。このすべての場合に、あまり知能のない人々のほうが正解する可能性が高かった。

こうした事例だけを元にするなら、高い知能とダメな軍事判断が常に手を携えているとも思いたくなる。だがそれほど単純ではない。イギリス知識人は全体として、人民大衆より敗北主義的だった——そしてその一部は、戦争にはっきり勝ったときにすら、敗北主義を押し通した——今後待ち受ける、戦争の陰惨な年月を思い描く能力が高かったせいもある。彼らの士気が低かったのは、想像力が豊かだったからだ。戦争を終える最もすばやい方法は敗北することであり (強調訳者)、長期戦の見通しが耐えがたいと思うなら、勝利の可能性を信じたがらないのも無理はない。だが話はそれだけにとどまらない。大量の知識人の間には不満があり、このため彼らはイギリスに敵対的な国すべてに、つい肩入れしてくなってしまったのだった。そして何より根深いのはナチス政権のパワー、エネルギー、残虐さに対する崇拝があったことだ——とはいえそれが意識的な崇拝だった例はごくわずかしかないのだが。左派メディアをすべて調べて、1935-45年におけるナチズム批判の言及をすべてかぞえあげると、面倒ながら有益な活動になるだろう。それが絶頂に達したのは1937-38年と1944-45年だったのがわかるはずだと私は確信している。そして1939-42年には激減しているはずだ——つまりドイツが勝っているように見えた時期ということだ。 また、1940年に妥協して講和を結べと言っていた人々が、1945年にはドイツ解体を主張していたのもわかるはずだ。そして、イギリス知識人のそれにに対する反応を研究したら、そこでも本当に進歩的な衝動が、権力と残酷さへの崇拝と混ざり合っているのがわかる。権力崇拝が、親露的感情の唯一の動機だといったらひどく不公平になってしまうが、動機の一つにはちがいないし、知識人の間ではおそらくそれが最強の動機だっただろう。

権力崇拝は政治判断をぼやかしてしまう。というのもそれは、ほぼ不可避的に、現在のトレンドが続くという信念につながってしまうからだ。いつでもその瞬間に勝っている側は常に無敵に思えてしまう。日本が南アジアを征服したら、南アジアを永遠に持ち続けるだろう。ドイツがトブルク (訳注:リビアの一部) を捕獲したら、まちがいなくカイロも制圧するだろう。ロシアがベルリンに入ったら、ロンドンにも間もなく進軍するはずだ、等々。こうした頭の習慣はまた、ものごとが実際よりもはるかにすばやく、完全に、壮絶に起こるという信念にもつながってしまう。帝国の興亡や、文化・宗教の消失が、地震のように一瞬で起こると思われてしまい、ほとんど始まったばかりのプロセスが、すでに終わりを迎えたかのように論じられる。バーナムの著作は、終末論的なビジョンだらけだ。国民、政府、階級、社会システムが、絶えず拡大、縮小、衰退、解体、転覆、衝突、崩壊、結晶化しているとか言われ、全般に不安定でメロドラマ的な動きを見せていることにされる。歴史的変化ののろさ、どんな時代でも、その前の時代の相当部分を含んでいるという事実はが十分に考慮されることは決してない。こうした思考形態は、まちがいなくまちがった予言につながってしまう。というのも、それができごとの方向性を正しく見極めたとしても、そのテンポを誤算してしまうからだ。わずか5年の間に、バーナムはドイツがロシアを制圧すると予言し、次にロシアがドイツを制圧すると述べた。いずれの場合にも、彼は同じ直感に従っていたのだ。その時点の征服者に平伏して、既存トレンドを不可逆なものとして受け入れるという直感である。これを念頭におくと、彼の理論をもっと広い形で批判できるようになる。

私が指摘したまちがいは、バーナムの理論を反証するものではないが、彼がそんな理論を抱くようになった理由とおぼしきものに光を当ててくれる。この関連では、バーナムがアメリカ人だという事実は無視できない。あらゆる政治理論は、ある種の地域的な風味を備えているものだし、あらゆる国民、あらゆる文化は独自の特徴的な偏見や無知な部分を持っているものだ。一部の問題は、自分が見ている地理的な状況にともなう観点とちがう視点から見る必要が絶対にあるのだ。さてバーナムが採用している態度は、共産主義とファシズムをほぼ同じものに分類し、同時にその両方を受け入れる——少なくとも、そのどちらも激しく反対闘争を行うべきものだとは想定しない——というものである。これは基本的にはアメリカ的態度であり、イギリス人やその他の西欧人にとってはほとんどあり得ないものである。共産主義とファシズムが同じものだと考えるイギリス人作家は、まちがいなくそのどちらも化け物じみた邪悪であり、死んでも戦うべき相手だと確信している。これに対して、共産主義とファシズムが正反対のものだと考えるイギリス人はすべて、そのどちらかに肩入れすべきだと感じるだろう*3。この見通しのちがいの理由はごく単純で、いつもながら、ないものねだりに絡み取られている。全体主義が勝利して、地政学屋の夢が実現すれば、世界の列強としてのイギリスは消滅し、西洋全体がある一つの大国家に飲み込まれる。これはイギリス人が他人事として考察しやすいような展望ではない。イギリス人は、イギリスに消えて欲しいとは思わない——その場合には、彼は自分の求めるものを証明する理論を構築する方向に向かうだろう——あるいは少数派の知識人のように、自分の国はもうおしまいで、何か外国勢力に忠誠心を鞍替えしようとするだろう。何が起ころうともアメリカは超大国として生き残るし、アメリカの観点からすれば、ヨーロッパがロシアに支配されようとドイツに支配されようと、大したちがいはない。ほとんどのアメリカ人は、そもそもこんな問題を考えるにしても、世界が2つか3つの怪物国家に分割された状態のほうを望むだろう。それぞれの国は自然な境界にまで拡大してしまい、イデオロギー的な差に囚われることなく、お互いに経済問題について交渉できればいいというわけだ。こうした世界像は、大きさをそれ自体として崇拝したがり、成功は正当化してくれると感じるアメリカの傾向には適合しているし、全体に広がる反英感情にも合っている。実際には、イギリスとアメリカは二度にわたり、ドイツに対抗して連合を強いられ、おそらく近いうちに、ロシアに対して連合を強いられるだろう。だが主観的には、アメリカ人の大半はイギリスよりはロシアかドイツのほうを好むだろうし、そしてロシアかドイツかと言われたら、どちらでもその時点で強い側を好むはずだ*4。したがって、バーナムの世界観というのが、一方ではアメリカ帝国主義者と露骨に近いものとなり、そうでないときには孤立主義者の見方に近くなるのも、驚くべきことではない。アメリカ的な願望充足思考にあてはまる、「タフ」で「リアリスト的」な世界観なのだ。前著でバーナムが示す、ナチス手法へのほとんど公然とした崇拝ぶりは、ほぼあらゆるイギリス人読者にはショッキングに思えるだろうが、最終的には大西洋が英仏海峡よりも広いという事実に依存しているのだ。

すでに述べたように、バーナムはおそらく現在と直近の過去については、まちがっているよりも正しい部分が多いだろう。ここ50年ほどの間に、全般的な方向性はほぼまちがいなく寡頭政治に向けてのものだった。ますます工業と金融権力が集中している。個人資本家や株主の重要性が低下している。科学者、技術者、官僚という新しい「管理職」階級が成長している。中央集権化した国家に対してプロレタリアは弱い立場になっている。小国は大国にますます抵抗できなくなっている。人々を代表する制度機関が衰退し、警察テロやインチキな国民投票などに基づく一党政権が登場している。こうしたものはすべて同じ方向性を示しているように見える。バーナムはこのトレンドを見て、それが抵抗しがたいものだと思い込んでいる。まるで大蛇ににらまれたウサギが、大蛇こそ世界最強の存在だと思い込むようなものだ。だがちょっと深く見てみれば、彼のアイデアすべてが、たった二つの公理に基づいているのがわかる。この公理は前著では当然のものとされていたし、次著では部分的に明示されていた。その公理とは:

(1) 政治は基本的にあらゆる時代で同じ。

(2) 政治行動は他の行動とはちがう。

二番目の点から見よう。『マキャベリ主義者たち』でバーナムは、政治とはひたすら権力闘争にすぎないと固執する。あらゆる大きな社会運動、あらゆる戦争、あらゆる革命、あらゆる政治綱領は、いかに啓発的でユートピア主義的ではあっても、実は権力を奪取しようと企む派閥の野心をその背後に隠しているのだ。権力は、倫理的、宗教的なコードで抑えることは決してできず、他の権力で抑えるしかない。愛他的行動に最も近いアプローチとしては、支配集団がまっとうなふるまいをしたほうが権力の座に長居できるという認識くらいしかない。だが不思議なことに、こうした一般化は政治行動だけに適用され、その他の行動には向けられない。日常生活では、バーナム自身が目撃して認めているように、あらゆる人間行動を「だれが得をするか?」と問うことで説明することはできない。人間は明らかに、利己的ではない衝動を持っている。したがって人間は、個人として行動するときには道徳的にふるまえるのに集合的に行動するときには不道徳になる動物、ということになってしまう。大衆はどうやら、自由と人間の同朋精神を漠然と求めてはいるらしいが、これは権力に受けた個人や少数派たちにやすやすと利用されてしまう。だから歴史は一連の詐欺で構成されるのであり、そこでは大衆が、まずはユートピアの約束で反乱へとおびき出され、そして仕事を終えたら新たなご主人様たちに再び奴隷にされるというわけだ。

したがって、政治活動は特別な種類の行動ということになる。その特徴は完全な恥知らずぶりであり、人口のごく一部でのみ生じるもので、特に既存の社会形態で才能を自由に活かせない、不満を抱いた集団の中でそれが発生しやすい。人民の大半を占める大衆——そしてこれが (2)と(1) の接点となる——は常に非政治的であり続ける。だから実質的に、人類は二つの階級に分かれている。利己的で偽善的な少数派と、頭のない大群衆だ。その群集どもの運命とは、そのときのニーズ次第で、ブタが小屋に戻るようにケツを蹴飛ばされたりバケツをガチャガチャ鳴らしたりするのと同様に導かれたり追いやられたりすることとなる。そしてこの美しいパターンは永遠に続くことになっている。個人は、ある区分から別の区分へと移行することもあるし、またある階級が丸ごと他の階級を殲滅させて支配的な地位に上ることもある。だが人間が支配者と被支配者に別れるのは決して変わらない。人間は、能力面でも、欲望やニーズの面と同様に、平等ではない。「寡頭政治の鉄則」が存在するのであり、これは機械のおかげで民主主義が不可能ではなくなっても、作用し続けるのである、ということになる。

実に不思議なことだが、権力闘争についてやたらに話すのに、バーナムはそもそもなぜ人々が権力を求めるのかについて、立ち止まって考えようとしない。権力に対する飢えは、比較的少数の人の間でしか支配的なものではないが、食べ物への欲望と同じ自然の本能であり、説明するまでもないと想定しているらしい。また社会の階級区分は、あらゆる時代に同じ目的を果たすものだという想定もある。これは実質的に、何百年もの歴史を無視するに等しい。バーナムのご主人様たるマキャベリが執筆していた頃には、階級区分は不可避だったばかりか、望ましいものでもあった。生産手段が原始的である限り、人々の相当部分は必然的に、退屈で消耗する肉体労働に縛り付けられることになる。そして少数の人がその労働から解放されねばならない。そうでないと文明が維持できないし、進歩など望みようもない。だが機械の到来によりこのパターンがすべて変わった。階級区分を正当化する理由は、そんなものがあるとするなら、もはや同じではいられない。平均的な人間がこき使われ続けねばならない機械的な理由などないからだ。確かに厳しい肉体労働は続いている。階級区分は、新しい形で再確立されつつあり、個人の自由は虐げられつつある。だがこうした発展がいまや技術的には避けられるのだから、そこには何か心理的な原因があるにちがいない。バーナムはそれをまったく見つけようとしない。彼が尋ねるべきなのに、一度たりとも尋ねない疑問とは次の通り:なぜむきだしの権力に対する欲望が、人間に対する人間の支配など不必要になりつつあるまさにこの瞬間に、大きな人間的動機となっているのか?「人間の本性」だのあれやこれやの「不可侵な法則」が社会主義を不可能にするという主張は、単に過去を未来に投影しただけだ。要するにバーナムは、自由で平等な人間社会などこれまで存在したことがないから、今後も決して存在できないと言っているだけだ。この議論を使えば、1900年には飛行機など不可能だと証明できるし、1850年には自動車など不可能だと証明できてしまう。

機械が人間関係を変え、結果としてマキャベリはすでに時代遅れになったという概念は、きわめて自明なものだ。バーナムがそれに対処できないなら、それは彼自身の権力願望が、武力と詐術と圧政のマキャベリ的世界が終わるかも知れないという示唆をすべて一蹴するように仕向けているからとしか思えない。私がさっき述べたことを是非とも念頭においてほしい。バーナムの理論は知識人の間でいまやえらく広まっている、権力崇拝の一変種でしかないということだ——それもアメリカ的な変種であり、それが興味深いのはえらく大風呂敷を広げているからだ。そのもっと一般的な変種は、少なくともイギリスでは、共産主義と呼ばれる。ロシアの現政権がどんなものかについて多少なりとも理解しつつ、強い親露派となっている人々を検討してみると、全体として彼らがバーナムのいう「管理」階級に所属していることがわかる。つまり狭い意味での管理職ではなく、科学者、技術者、教師、ジャーナリスト、放送者、官僚、専門政治家なのである。一般に、まだ部分的に貴族主義的であるシステムに制約されていると感じている中流の人々で、さらなる権力と名声に飢えている人々なのだ。こうした人々はソ連を見て、上流階級を排除し、労働者階級に分をわきまえさせて、自分とよく似た人々に無限の力を委ねている社会をそこに見て取る、あるいは見て取ったつもりになる。イギリスの知識人たちが、大挙してソヴィエト政権に関心を示すようになったのは、ソ連が露骨なまでに全体主義的になってからだったのだ。イギリスの親露派知識人たちはバーナムを糾弾するだろうが、彼は実はその親露派たちの秘密の願望を代弁してあげているのだ。古い平等主義的な社会主義を破壊し、知識人がついに鞭を握れるような、階級社会を実現したいという願望だ。バーナムは少なくとも、社会主義など到来しないと言うだけの正直さは持っていた。他の連中は単に、社会主義がやってくると口にしつつ、実は「社会主義」という言葉に新しい意味を持たせて、古い意味を否定しようとするだけだ。だがバーナムの理論は、客観性の見かけを採ろうとはするが、単に願望を合理化してみせたにすぎない。彼の議論が未来について何かを教えてくれると考えるべき大した理由はない。ほんの目先のことがわかるくらいだろう。彼の議論は単に、「管理」階級自身、少なくともその階級で意識的かつ野心的な人々が、住みたいと思っている世界がどんなものかを教えてくれるにすぎないのだ。

ありがたいことに「管理職」はバーナムが信じているほど無敵ではない。『管理職革命』で、バーナムは不思議なほど一貫して、民主国が享受している軍事的および社会的な利点を無視している。あらゆる箇所で、ヒトラーのキチガイ政権の強さ、活力、耐久性を示すために証拠が押し込まれている。ドイツは急速に拡大しており、「急速な領土拡大は常に、頽廃ではなく (中略) 刷新の証拠であった」。ドイツは成功裏に戦争を遂行し、「戦争遂行能力は頽廃のしるしであったことはなく、その反対なのだ」。ドイツはまた「何百万人もの人々に熱狂的な忠誠心を引き起こす。これもまた、頽廃には決してともなうことがないものである」。ナチス政権の残虐性や不正直ぶりさえも、同政権のよい側面だとして挙げられる。というのも「若く、台頭しつつある新社会秩序は、旧秩序に対抗するにあたり、ウソ、テロ、糾弾に大規模に頼る見込みが高い」からなのだという。だがたった五年以内に、この若く、台頭しつつある新社会秩序は己自身を粉砕してしまい、バーナム自身の表現を使うなら、頽廃してしまった。そしてこれが起きたのは相当部分が、バーナムの衰廃する「管理職的」(つまり非民主的) な構造のせいなのだ。ドイツ敗北の直接的な原因は、イギリスがまだ破られておらず、アメリカが明らかに戦闘準備をしているときに、ソ連を攻撃するという前代未聞の愚行だった。こんな規模のまちがいができるのは (少なくとも最もしがちなのは)、世論にまったく力のない諸国に限られる。一般人の声が聞かれる限り、すべての敵と同時に戦うようなことはしないというくらい基本的な原則は侵犯されづらい。

だがいずれにしても、ナチズムのような運動はろくな結果も安定した結果も生み出せるわけがないということは、最初から見て取れるべきだったのだ。だが実はバーナムは、ナチスが勝っている間は彼らの手法にいけないところは何もないと思っていたらしい。そうした手法が邪悪に見えるのは、それが目新しいからにすぎないのだ、と彼は言う。

礼儀正しさだの「正義」だのが支配するという歴史的な法則などない。歴史では常に、だれの礼儀でだれの正義かという問題が生じる。台頭する社会階級と、新しい社会秩序は、古い道徳的なコードを打ち破らねばならない。これは彼らが古い経済的、社会的制度を打ち破らねばならないのと同じである。当然ながら、守旧派の目から見れば、そうした連中は怪物である。そして彼らが勝てば、いずれは彼らが礼儀だの道徳だのを左右することになる。

これだと、そのときの支配階級が願うなら、文字通りどんなものでも正しい/まちがっていることになれるということになる。だがこれは、人間社会が多少なりともまとまりを持つために、ある種の行動規範が遵守されねばならないという事実を無視している。したがってバーナムは、ナチス政権の犯罪や愚行が、いずれ何らかの道筋により、大惨事につながるということを見通せなかった。彼が新たにスターリンに対して見出している崇拝ぶりも、いずれ同じことになるはずだ。ロシア政権がどのような形で自滅するか、いまは正確に予想するには時期尚早ではある。どうしても予言しろというなら、過去15年のロシア政策の継続——そしてもちろん、国内政策と対外政策は、同じもののちがった側面でしかない——は、ヒトラーの侵略ですらままごとに思えるほどの核戦争につながるしかないと言いたい。だがいずれにしても、ロシア政権は民主化するか、あるいは消滅するしかないのだ。バーナムが夢見ているらしき、巨大で無敵の永続的な奴隷帝国は、確立されることはないし、確立されても長続きはしない。なぜなら奴隷制はもはや、人間社会の安定した基盤ではないからだ。

「こうなるだろう」という予言は必ずしも可能とは限らないが、ときに「こうはならない」という予言ができそうなときはある。だれもヴェルサイユ条約の正確な結果を予測することなどできなかったが、何百万もの思索家たちは、その結果がよくないものになるというのは予想できたし、実際に予想している。今回はそれほど多くはないにせよ、ヨーロッパに押しつけられている協定の結果もまた、よくないものになると見通せている人々もたくさんいる。そしてヒトラーやスターリンを崇拝しないようにすること——これまた、そんなにすさまじい知的な努力を必要とするものではないはずだ。だがその一部は、同時的な努力でもあるのだ。バーナムほどの才能を持つ人物が、一時的にせよナチズムがなにか立派なものだと思ってしまい、機能する持続性ある社会秩序を構築できるはずだと思ってしまうというのは、いまや「リアリズム」と呼ばれるものをもてはやすことで、現実感覚にどれほどの被害が生じてしまったかを如実に示しているのである。

 

原文は以下を参照 www.orwellfoundation.com

*1:80歳まで生きながらえても、相変わらず成功者と見なされている政治家はなかなか思いつかない。「偉大な」政治家と人々が呼ぶものは通常、その政策が効果を発揮する暇がある前に死んだ人物なのだ。クロムウェルがあと数年長生きしていたら、おそらくは権力の座から失墜し、そうなれば現在は失敗者と見なされていただろう。ペタン (訳注:軍人でフランスのヴィシー政権首相となり対独協力者として戦後は裏切り者扱いされる) が1930年に死んでいれば、フランスは彼を英雄で愛国者として崇拝していただろう。ナポレオンはかつて、モスクワへの行軍中に大砲の弾に当たって死んでさえいれば、史上最も偉大な人物として歴史に名を残しただろうと語っている。

*2:イギリスは1914-18年戦争の初期に、志願兵100万人を調達した。これは世界記録だろうが、そのためにかけられた圧力はあまりに大きく、この兵の調達が志願制と言えるのかどうかは疑わしい。最も「イデオロギー的」な戦争ですら、おおむね強制動員された兵によって戦われている。イギリス内戦、ナポレオン戦争、アメリカ南北戦争、スペイン内戦などでも、どちら側も徴兵や強制徴兵に頼っている。

*3:唯一思いつく例外はバーナード・ショーだけである。彼は、少なくともしばらくの間は、共産主義とファシズムがほぼ同じものだと宣言し、そしてどちらも支持していたのだった。だがショーは結局のところイギリス人ではないし、おそらく自分がイギリスと運命を共にしているとも感じなかったことだろう。

*4:1945年秋の時点ですら、ドイツ駐留アメリカ兵に対して行われたギャラップ世論調査では、51パーセントが「ヒトラーは1939年以前はかなりいいことをやった」と考えていたことが示されている。5年にわたる反ヒトラープロパガンダの後でもこんな具合だ。引用した評決は、ドイツにあまり強く肩入れしたものとは言えないが、同じくらいイギリスに好意的な評決が、米軍の51パーセントなどという数字の足下にすら及ぶとは信じがたい。

1984年縦書きepub版の暫定版

一部の人の要望に応えて、1984年の縦書きepub版を作って見たが、ルビがうまくいかない。ルビだけ表示されて、地の文字が出てこないというのは何なんだ。

まあないよりましでしょう。以下の目次の下にリンクしてあるので、見てみてください。

genpaku.org

MS-Wordの縦書き作ってepubに出力したら、縦にはなったけれどページが相変わらず左から右へ流れて不自然きわまりない。epubのスタイルシートいじって、epub-writing-modeを変えてそこは突破したが、ルビはどうするのかわからん。あと表紙をつけるのにずいぶん苦労。目次も「部」までしかなくて、章の目次を入れるのに難渋。英数字が全部寝ているのもcssいじればいいんだろうが、いまは面倒だ。

いまIn-Designでそこらへん立派に作って下さってる奇特な方がいるので、そっちがいずれできるのをお待ちください。できた模様。非常に優れた出来です。アマゾンKindleで販売中。

表紙の絵は、Stable Diffusion様に描いていただいたもの。既存のビッグブラザーはみんな、妙ににらんででおっかなくて、スターリンとヒトラーを露骨にモデルにしすぎていて、あまり気に食わなかった。この表紙は、ビッグ・ブラザーがメガネをかけている以外は、ニュートラルでそんなに悪くないとは思う。あとは、こんなのもある。

これを、白目を強くして目力強化するとかなりよくなるかと思うんだが、まあそこまでやるのも手間過ぎ。しかしAIえらいなー。

オーウェル『1984年』全訳完成

Big Brother is Watching YOU!!!

2023年の年頭に宣言した通り、オーウェル『1984年』の全訳をあげました。

genpaku.org

html版と、pdf版があるので、まあお好きに。当然、クリエイティブコモンズなので、自由にお使いください。個人的にはいま出版されているどの翻訳よりもいいとは思うが、それは趣味もあるでしょう。商業出版したいとかいうところはあるかなー。なければ自分で電子ブックでも作って売ろう。

追記:商業出版したいというところが出てきたので (まだ確定ではありません) 、いまのうちにダウンロードしたりあちこちにばらまいたりしておくといいと思うぞ。(11/28)

ビッグ・ブラザーのポスターでもトップにかざろうかと思ったけれど、みんなおどろおどろしいものばかりで、小説の記述に即したニュートラルなものがあまりないので少しびっくり。

訳していて、いろいろ含蓄があっておもしろい。ゴールドスタイン『寡頭制集産主義の理論と実践』や、特にオブライエンの理論は、ほとんどポストモダン理論で、ポモがなぜ弾圧と専制にはしりたがるかがよくわかる。現実は存在しない、過去は人々の意識と記録の中にしかない!

そして、多くの人はウィンストンとジュリアの悲恋に反応するけれど、ぼくはなんだか、お母さんとのかすかな思いでのほうに心が動いた。ウィンストンが最後に思い出すのもそれだし。そこらへんも含め、いろいろ読める。とはいえ、最後にウィンストンが捨て身の反逆を試みるときの核はジュリアへの想いなので、たぶんジュリア中心に見るのは決してまちがいではないのだろうけれど。

ちなみにぼくは、バージェス『1985年』のほうを先に読んだんだけれど、あまりおぼえていないというか、あからさますぎて鼻白んだ記憶がある。ただ彼が、ウィンストンは植物の名前とかをやたらに知っているが、すでに1980年代でも都会人はそんなもの何も知らないので違和感があると言っていて、時代の差やことばの現れ方に関する考察を展開していたのはおもしろかった。

さて年頭の宣言では、オーウェル『1984年』と、あとバロウズの『爆発した切符』もあげると言っていたが、あと一ヶ月で終えるのは……ちょっと無理。

で、ここではこれを貼らざるを得ないよなー。あの映画にはかっこよすぎる曲ではあった。

www.youtube.com

焚書坑儒の続き:学者もその批判も昔から同じ。徐福も、無駄金づかい。

以前、史記の焚書坑儒の話をした。

cruel.hatenablog.com

ここでは、焚書坑儒の理由が封禅の儀式をめぐる話と関係があるんだろう、という説を紹介してそれの通りに書いた。でも、その後も史記をちまちま読んでいたんだが、なんか秦の始皇帝のところを読むと、普通に焚書坑儒の理由は書いてある (前回は、その封禅の儀式のところだけつまみ食いした)。きちんと部下からの進言があって、それをもとにやったのね。そしてそこの部分だけでも、封禅の儀式の話と主張はまったく同じだ。儒学者どもは、実用性のある役に立つ知識を持たず、何も結論を出せず、そのくせ批判だけは口うるさかった。

それよりもっと手厳しいかも。学者が訓詁学に堕している理由、それがかつてはオッケーだった理由も、そのえらい部下はきちんと分析し、進言している。時代とともに学問も進歩しなければいけない! 立派です。

その当該ヶ所を以下に引用。

始皇帝本紀第六より (引用は『筑摩世界文学大系6 史記1」pp.53-5)。

始皇帝は、自分の治世および命をながらえさせるにはどうしたらいいか、というのを学者どもに議論させたら、学者の一人淳于越が「古の教えを守らねばならない、部下のお世辞にのって勝手なことをしてはいけません」と述べた。始皇帝は、これを議論させた。

すると、丞相李斯がふざけんなと怒って、こう述べる。

五帝時代は同じ政治をふたたびせず、三代も同じ政治を踏襲しませんでしたが、それでもそれぞれに収まっていました。これは政道が相反したのではなく、時勢に相違があったからです。いま陛下が大業をはじめ、万世の功を建てられましたのは、もとより愚儒などのわかることではありません。越 (訳注:淳于越) の言うのは三代の昔のこと、それを今にのっとるにはたりません。

やり方コロコロ変えても、治まるときは治まったじゃん。一つの正しいやり方なんかない、時代が変わればやり方も変わる、昔の話をそのまま今にあてはめられるわけないじゃん。何も実績ないバカ学者だまれ。

かつて諸侯が並び争ったときには、厚く遊説の士を招きましたが、 今は天下がすでに定まり、法令は一途に出て、百姓はおのおの家にあ って農耕につとめ、士人は法令を学習して禁令にふれないよう にしています。それだのに学者だけが、今を師とせずに活ぴ、当代のことをそしって民衆を惑わすのです。

他のみんなは、時代にあわせて適応しているのに、学者どもは現代を学ばずケチをつけてるだけだ!

丞相臣斯は死をおかして、あえて申し上げます。古は天下が散乱して統一が なく、諸侯が並び興ったため、学者のことばはみな古をたたえ て今をそしり、虚言を飾って真実を乱し、おのおの自己の学ん だところを最善として、上の建てた制度をそしったのです。

昔は諸侯があらそっていたから、今はダメだ、昔のやり方がいいと言っていれば珍重されただけだ。

今や皇帝が天下を併有し、黙白を分って政令を一尊に定められま したのに、私学の徒はなおたがいに法教をそしり、一令が出る と聞けば、おのおのの学ぶところで非議するのです。朝廷では 心中に非とするだけですが、外では巷間に非議し、君主に従順 でないのを名誉と心得、違った見解を立てるのを高尚と思い、 有象無象を率いて誹謗をおこなうのです。

もう世の中定まったのに、学者どもは訓詁学でいまの制度をバカにするだけ。しかも、むしろ反抗的なのが立派だと思い、反対するのが高尚だと思って悪口三昧。

これを禁じなければ、 君主の勢威が上に哀え、小人の徒党が下にできあがります。こ れを禁止するのが上策です。わたくしは史官の取り扱う秦の記 鉢以外は、みなこれを焼き、また博士官が職務上保存するもの のほか、一般民間にある詩・書・百家の語は、これを、ことごとく郡の守尉に提出させて、焼き払い、ことさらに詩・書う偶語する者があれば棄市し、古をもって今をそしる者は族滅し、官吏で知って見逃す者には同罪を科し、命令が出て三十日以内 に焼かない者はいれずみをして城旦にしたいと思います。

そういうのを禁止しないと下々の連中がつけあがり、上が衰えるだけ。だからその手の古い本は全部禁止して焼き払おう。それを広めるヤツはぶち殺そう。

ただし医薬・朴筮・種樹の書は例外とし、もし法令を学ぽうとする者があれば、吏をもって師とするようにいたしたい」と。始皇はこれを裁可した。

でも理系の実学は大事だから、保護しようぜ。

 

とてもわかりやすいです。文系学問は訓詁学に堕して、新しい知識をまったく入れようとしない。政府批判がかっこいいと思ってるバカばかり。使えねーからつぶせ、理系の実学だけ重視、ということですねー。昔から言っていることは同じですねー。

あと、徐福の話もこの直後に出てくる。しかも始皇帝自らお怒りです。

わしはさきに天下の書物を集め、役に立たないものはことごとく焼き捨て、文学方術の士を多く用いて、太平を興そうとした。方士は金を練って奇薬を作ると言っていたのに、いま韓衆 (訳注:子飼いの学者どもで、始皇帝がおっかなくてへつらい屋のペテン師ばっかになって学問や進言ができねーとグチって逃げ出した二人) が逃げ出して何の消息もない。また徐市ら (訳注:徐福のことです) に費やした金は巨万に達するのについに仙薬を得ることができず、ただ彼らが姦利を貪っていると告げる声が、毎日耳に入るだけだ。慮生 (訳注:前出の韓衆の片方です) らには、ずいぶん手篤く賞賜したはずだのに、いまかえってわしを誹謗し、重ねてわが不徳を天下に吹聴するとは不都合極まる。わしが咸陽にいる諸生を調べさせたところ、妖言を言いふらし、人民を惑わしているものがある」といって、御史に命じ、諸生をみな調べ上げさせた。諸生たちは、これを聞くとお互いに罪をなすりあい、自分だけ言い逃れようとした。かくて禁令を犯したもの460余人を、みな咸陽で穴埋めにして天下に知らせ、のちの懲らしめとした。(強調引用者)

徐、徐福たん……

徐福伝説がもちろんデタラメで、もちろん日本になんかきませんでしたというのはしっていたけれど、ここまで役立たずだと見切られていたとは知らなかった。不老不死の薬もできなかったのか。できたとかデタラメ言って始皇帝に水銀飲ませて、それで始皇帝は死んだという話もきいたんだが、それは別の話なのか。諸星大二郎とか好きなので、もうちょっと中身があったほうが夢があるなーとは思うが、まあ仕方ない。

トマス・ピンチョン「『1984年』への道:オーウェル『1984年』序文」

Executive Summary

トマス・ピンチョンによるオーウェル『1984年』への2003序文。本書が単なる反ソ反共小説ではない。オーウェル自身、立派な左派社会主義者ではあった。だが彼は、制度化された社会主義が己の権力にばかりこだわり、スターリニズムに目を閉ざし、むしろ肯定するのに絶望していた。本書の批判は、そうした社会主義が己の権力温存のために使う手段の戯画化である。世界分割はヴェルサイユ講和会議や第二次大戦後の戦後体制の戯画化でもある。本書の批判はもちろん、現在のネット監視社会の予兆めいた部分もある。その一方で、宗教的な狂信は登場せず、反ユダヤ主義的な面もほとんどない。オーウェルは、本書で底辺労働者に希望を寄せている。そして最後に、ニュースピークについての過去形の論説を載せることで、ビッグ・ブラザー支配がいずれ倒れることを予見しているのかもしれない。彼は一般人の人間性、親子愛などが決して否定できないと考え、それがすべてを変えられる能力に希望を寄せていたのだ。(要約は訳者による)

凡例

茶色の文字は、書籍版だけに登場する部分。黒字は、The Guardian 2003年5月3日号に掲載されたもの。新聞版が書かれてそれに加筆して書籍版になったのか、書籍版を抜粋して新聞版にしたのかは不明 (たぶん後者)。ただし新聞版は、きわめて筆足らずになっていて、書籍版よりさらに論旨が不明瞭となっている。

『1984年』への道

トマス・ピンチョン

訳:山形浩生

 

ジョージ・オーウェルは、1903年6月25日にエリック・アーサー・ブレアとして、ネパール国境近くのベンガルにあり、きわめて生産的なアヘン地帯の真ん中の小さな町モティハリで生まれた。父親はそこで、イギリス阿片局の官吏として働いており、その育成者を逮捕するのではなく、その製品の品質管理を監督していた。この製品をイギリスは長きにわたり独占してきたのだ。一年後に若きエリックは、母親と妹と共にイギリスに戻り、1922年まで生まれた地域には戻らなかった。そのときにはインド帝国警察の下士官としてビルマに赴いたのだった。この仕事は高報酬だったが、1927年に休暇で故国に戻ると、父親が大いにがっかりしたことだが、その仕事を投げ打つことにした。というのも彼が人生でやりたいのは作家になることだったからだ。そして、彼はそれを実現させた。1933年に処女作『パリ・ロンドン放浪記』で、彼はジョージ・オーウェルという筆名を採用し、その後はこの名前で知られるようになる。オーウェルは、イギリスを放浪するときに彼が使った名前の一つで、サッフォークにある同名の川からとったのかもしれない。

『1984年』はオーウェルの最後の本だった——それが刊行された1949年までに、彼はすでに12冊を刊行しており、そこにはきわめて評価が高く人気のあった『動物農場』も含まれていた。1946年の夏に書かれた「なぜ私は書くのか」というエッセイで彼はこう回想している。「『動物農場』は私が、完全に自分のやっていることを自覚しつつ、政治的な狙いと芸術的な狙いを一つの全体にまとめようとした最初の本だった。7年にわたり私は長編小説を書いていないが、かなり近いうちに書くつもりだ。これは失敗作になるはずだ。あらゆる本は失敗作なのだが、自分が書きたいのがどんな本か、私はかなり明瞭にわかっているのだ」。その後間もなく、彼は『1984年』に取りかかっていた。

ある意味でこの長編は、『動物農場』成功の犠牲となってきた。ほとんどの人は『動物農場』を、ロシア革命の悲しい運命に関するストレートな寓話として呼んで満足してきた。『1984年』の第2段落目で、ビッグ・ブラザーの口ひげが登場したとたん、多くの読者はすぐスターリンを連想し、前作からのあらゆる点についてのアナロジーを読み取る習慣を持ち込むのが常だった。確かにビッグ・ブラザーの顔はスターリンだし、嫌悪される党の異端者エマニュエル・ゴールドスタインの顔はトロツキーだが、この両者は『動物農場』のナポレオンとスノーボールほどは、そのモデルときれいに整合していない。それでもこの本は、何の不都合もなくアメリカで一種の反共文書として売り出された。1949年に出た本書はマッカーシー時代に登場した。「共産主義」が公式に、一枚岩の世界的な脅威として糾弾され、スターリンとトロツキーを区別する手間など、羊飼いがヒツジたちにオオカミを細かく見分ける方法を教えるのと同じくらいの無駄と考えられた時代だったのだ。

朝鮮紛争 (1950-53) もまた、「洗脳」を通じたイデオロギー強制という、共産主義の手口と称するものに脚光を浴びせることになる。これはI・P・パブロフの研究に基づくとされる一連の技法だ。彼は合図を聞かせることでイヌが唾を出すように訓練したのだった。『1984年』に洗脳ときわめて似たものが、長々しく恐ろしいほど詳しく、その主人公ウィンストン・スミスに起こっているという事実は、この小説を単純なスターリン主義の残虐行為糾弾とみなそうと確信しきった読者にとっては、驚くようなものではなかった。

これは必ずしもオーウェルの正確な意図ではなかった。『1984年』は、当人たちがパブロフ的な反応の問題を抱えている何世代にもわたる反共イデオローグに、支援と安心感をもたらしてはきた。だがオーウェルの政治は単なる左派ではなく、左派の中の左派なのだった。彼は1937年にスペインにでかけて、フランコとそのナチ支援のファシストに対する鷹飼に参加し、そこですぐに本物の反ファシズムとインチキな反ファシズムのちがいを学んだ。彼は十年後にこう書いた。「スペイン戦争など1936−37年のできごとが事態をはっきりさせ、その後私は自分の立ち位置を知った。1936年以来書いてきた真面目な仕事は一行残らず、直接間接を問わず、全体主義に反対し、私の知る形での民主的社会主義のために書かれてきたのだ」

オーウェルは「公式左派」ではなく「異論左派」の一員を自認していた。公式左派とは要するにイギリス労働党であり、そのほとんどをオーウェルは第二次世界大戦のはるか以前に、潜在的、いや顕在的にも、ファシストだと考えるようになっていた。大なり小なり、イギリス労働党とスターリン配下のソ連共産党との間には類似性があると見ていた——どちらも、労働階級のために資本主義と戦うと称しつつ、実際には自分自身の権力を確立して永続させることしか考えていない、と彼は考えていた。大衆は、その理想主義、階級的な恨み、喜んで安く働き、何度でも繰り返し売り渡される意欲を利用されるだけの存在だ。

さて、ファシスト的な傾向を持つ人々——あるいは単に、正しくてもまちがっていてもあらゆる政府の行動を、あまりに平然と正当化したがる人々——は即座に、これが戦前の考え方であり、敵の爆弾が故国に落とされはじめ、風景がかわり友人やご近所に死傷者が出始めたとたんに、こうしたすべては本当にどうでもよくなり、それどころか破壊的なものになるのだ、と即座に指摘するだろう。故国が危険にさらされたら、強いリーダーシップと実効性ある対応が不可欠となり、それをファシズムと呼びたければ、仕方ない、好きに呼べばいい、たぶんだれも聞きやしないだろう、それが空襲を終わらせてすべて安全だという発表をもたらすものでない限り。だがある議論——まして予言——が何か後の非常事態の中で不適切に聞こえるからといって、必ずしもそれがまちがっていることにはならない。チャーチルの戦時内閣は、ときにファシスト政権とまったく同じ動きを見せたという主張は十分にできる。かれらもニュースを検閲し、賃金や物価を統制し、旅行を制限し、市民の自由をお手盛りで決めた戦時中の必要性に従属させたのだから。

イギリスの公式左派に対するオーウェルの批判は、1945年7月に多少の変更をとげる。このとき、イギリスの有権者はこの最初の機会をとらえて、戦時中の支配者たちを地滑り的に追い出して、労働党政権を実現したのだ。これが1951年まで政権にとどまる——オーウェルの余命を上回る長さだ。その間に労働党はついに、イギリス社会を「社会主義」路線に沿って作り替えるチャンスを得た。オーウェルは、永遠の異論者だったので、党が己の矛盾に直面するのを大喜びで助けたことだろう。特に、同党が戦時中に抑圧的なトーリー党主導の政府に従属し、一時は連合までしたことから生じる矛盾を何とかしたいと考えたはずだ。いったんそうした権力を享受し行使したら、労働党はその勢力を当然のように広げ始めた。その創立者たちの理想に固執し、抑圧された者たちの側に立って戦い続けるはずもなかったのだ。この権力への意志を40年先に投影すれば、イングソック、オセアニア、ビッグ・ブラザーは容易に登場するだろう。

『1984年』を書いていた頃の書簡や論説から明らかなのは、オーウェルが戦後の「社会主義」の状態に絶望していたということだ。キーア・ハーディー (訳注:イギリス労働党創設者) の時代には、資本主義を儲けのために使う人々の議論の余地なき犯罪行為に対する栄誉ある闘争だったものが、オーウェルの頃には恥ずかしいほど制度化され、売買され、あまりに多くの場合に自分の権力維持しか考えなくなっていた。英国だけでもそんな状況だ——外国では、その衝動はさらに腐敗させられて、しかも計り知れないほど邪悪な形で、果てはスターリンの強制収容所やナチスの絶滅収容所に続くことになる。

オーウェルはどうやら、左派に見られたスターリニズムに対する広範な忠誠に特に苛立っていたようだ。その頃には、スターリン政権の邪悪な性質について圧倒的な証拠が積み上がっていたのだから。1948年3月、『1984年』初稿の改訂作業の早い時期に、彼はこう書いている。「いささか複雑な理由のため、イギリス左派のほとんどすべては、ロシアの政権を『社会主義』として受け入れつつ、その精神や実践がこの国で言う『社会主義』で意味されるものとはまったく異質だということを、暗黙のうちに認識している。したがって、何やら分裂症的な考え方が生じており、そこでは『民主主義』といった言葉が二つの相容れない意味を持ち、強制収容所や大量強制移住といったものは、同時に正しくてまちがっていることが可能となる」

この「何やら分裂症的な考え方」こそ、この小説の偉大な成果の一つの源だろう。これは政治的言説の日常用語にすら入り込んでいる——二重思考の同定と分析だ。エマヌエル・ゴールドスタイン『専制的集産主義の理論』——オセアニアでは非合法とされ、「あの本」とだけ呼ばれる危険なまでに転覆的な書物——において、二重思考は一種の精神的な規律であり、その目的は、あらゆる党員にとって望ましく必要とされるものだが、二つの矛盾する真実を同時に信じる能力なのだ。これはもちろん、何も目新しいことではない。私たちみんなやっている。社会心理学では、これは昔から「認知不協和」と呼ばれてきた。また人によっては「コンパートメント化」と呼びたがる。一部は、特にF・スコット・フィッツジェラルドが名高いが、これを天才の証拠と考えた。ウォルト・ホイットマンにとって (「私は自己矛盾しているだろうか? よろしい、自己矛盾しよう」)、これは巨大となって多種多様なものを含むということで、アメリカのアフォリズム作者ヨギ・ベラにとっては、これは分岐点にやってきて分岐するということであり、シュレーディンガーのネコにとっては、それは同時に生きて死ぬという量子パラドックスなのだった。

この発想は、オーウェル自身のジレンマを当人に突きつけたらしい。一種のメタ二重思考だ——それが果てしない害をもたらす可能性にはゾッとしたが、同時にそれが反対物を超越する手法として有望なので魅了されたのだ——なにやら禅の逸脱した形のようなもので、その根本的な公案は党の三つのスローガン、「戦争は平和」「自由は隷属」「無知は強さ」であり、それが邪悪な目的につかわれるのだ。

この小説における二重思考の見事な体現者は、党中心の高官オブライエン、ウィンストンの誘惑者にして裏切り者、保護者にして破壊者だ。彼はまったくの誠実さをもって己が奉仕するレジームを信じており、それでありながら、その打倒に献身する熱心な革命家を完璧に演じることができる。彼は自分が、より大きな国家組織の単なる細胞だと考えているが、私たちが記憶するのは、説得力があるのに自己矛盾している彼の個性だ。全体主義の未来のための、平静にして雄弁なスポークスマンでありながら、オブライエンは次第にバランスの取れない側面、現実との遊離をあらわにして、それが愛情省として知られる苦痛と絶望の場において、ウィンストン・スミスの再教育の間に、その不愉快さを全開にして姿をあらわす。

二重思考はまた、オセアニアで社会を運営するスーパー省庁の名前の背後にもある——平和省は戦争を遂行し、真実省はウソをつき、愛情省は脅威と見なした存在をすべて拷問してやがて殺す。これがあまりに倒錯的に思えるなら、今日のアメリカでも、戦争をしかける機関が「国防省」と呼ばれてもだれも疑問視しないし、「司法省 (正義省)」と真顔で言いつつ、その最も有力な機関であるFBIが人権や憲法上の権利を侵害しているのがしっかり記録されているのを知っていても平然としているではないか。名目上は自由なはずのニュースメディアは、「バランスの取れた」報道を求められているが、そこではあらゆる「真実」が即座に、同じくらいの正反対の見解によってつぶされる。日々の世論は書き直される歴史、公式の健忘症と平然としたウソの標的となり、そのすべてが優しげに「スピン」と呼ばれ、回転木馬で一周する程度の有害さしかないかのようだ。聞かされることを鵜呑みにするほど愚かではないのに、鵜呑みにしたくなってしまう。私たちは同時に信じつつ疑う——現代の超国家における政治思考は、ほとんどの問題について永続的に相反する考えの中にいるのが通例のようだ。言うまでもなく、これは権力を握り、そこにできれば永遠にとどまりたいと思う者たちにとっては、計り知れないほど便利なのだ。

ソ連の現実に関する左派の曖昧さだけでなく、第二次世界大戦後には二重思考が活動する他の機会も生じた。その多幸症の瞬間に、勝っている側は、オーウェルから見れば、第一次世界大戦後のヴェルサイユ条約で行われたのと同じくらいの致命的なまちがいを犯しつつあった。きわめて名誉ある意図にもかかわらず、実際には旧連合国の間での戦利品山分けは、致命的な愚行の可能性を抱えていた。「平和」に対するオーウェルの不安は、実のところ『1984年』の大きな伏線となっている。 オーウェルは出版者に1948年末——この小説の改訂で私たちにわかる限り最も早い時期だ——にこう書いた。「本当にそれが意図しているのは、世界を『影響圏』の分割する意味を論じることなのです (これについてはテヘラン会議の結果、1944年に思いつきました)」

まあもちろん、小説家は自分の霊感源について、完全に信頼できるわけではない。だが創造的な手順は見ておく価値がある。テヘラン会議は、第二次世界大戦における初の連合軍頂上会談で、1943年に開かれ、ルーズベルト、チャーチル、スターリンが出席した。そこで議論された話題の一つは、ナチスドイツが倒されたら、連合国がそれをどんな占領地域に切り分けるか、ということだった。だれがポーランドのどれだけを手に入れるかは別問題だ。オセアニア、ユーラシア、イースタシアを想像するにあたり、オーウェルはテヘラン会談の規模を飛躍させ、敗戦国の占領を、敗北した世界の占領へと投影したのだった。中国はまだ含まれてはいなかったし、1948年の中国革命はまだ進行中だったが、オーウェルは極東にいたこともあるし、自分の影響圏の仕組みを作り上げるときに、イースタシアの重さを無視しないだけの知恵はあった。当時の地政学的な思想は、イギリスの地理学者ハルフォード・マッキンダーによる「世界島」のアイデア、つまりヨーロッパ、アジア、アフリカを、水で囲まれた単一の陸のかたまりと見なし、「歴史の核心」として、その中軸地帯が『1984年』の「ユーラシア」だとしたのだ。「この中軸地帯を支配する者が世界島を支配する」とマッキンダーは述べ、「世界島を支配する者が世界を統べる」と述べた。この宣言は、ヒトラーなどリアルポリティークの理論家たちも心に留めたものだった。

諜報業界とつながりのあったマッキンダー主義者の一人がジェームズ・バーナムだった。彼はアメリカ人の元トロツキー主義者で、1942年に当時の世界危機に関する挑発的な分析『管理職革命』 (Manegerial Revolution) を発表した。これについてオーウェルは、1946年の長い論説で後に論じている。バーナムは当時、イギリスがまだナチスの攻撃に怯えており、ドイツ軍がモスクワの目前まで迫っている状況で、ロシア制圧と世界の中軸地帯支配が避けられないのだから、未来はヒトラーのものだと論じた。戦争の末期になって、OSS勤務中にナチスが敗北に向かうと、バーナムは「レーニンの後継者」という長ったらしい後知恵論説で心変わりを見せて、アメリカが何とかしないと、未来はヒトラーのものではなく実はスターリンやソヴィエト体制のものになるぞと論じた。この頃には、バーナムを真面目に扱ってはいたが無批判だったわけではないオーウェルは、この人物の思考が何やら場当たり的なものでしかないと感じたかもしれない——それでも、バーナムの地政学の痕跡は、『1984年』の三頭権力均衡に見られる。バーナムの、戦勝した日本はイースタシアとなり、ロシアは重要な中軸地帯としてユーラシアの大陸を支配し、英米同盟は変形してオセアニアになるわけだ。そしてこれが『1984年』の舞台となる。

この英米を単一ブロックにまとめるというやり方は、予言として見事に的中し、イギリスがユーラシアの大陸統合を拒否するのも予見し、さらにイギリスがヤンキーの利害に従属し続けるのも見通していた——たとえばオセアニアの通貨単位はドルだ。ロンドンは相変わらず明らかに、戦後緊縮期のロンドンなのがわかる。冒頭から、ウィンストン・スミスがその決定的な非服従行為を行う陰気な四月の日にいきなり冷たく叩き込まれ、ディストピア生活の細部は容赦ないものとなっている——言うことをきかない下水菅、煙草の葉を落とし続ける紙巻きタバコ、ひどい食事——だが戦後の物不足を強制された者にとっては、これは大した想像力の飛躍では無かっただろう。

予言と予測は必ずしも同じではなく、オーウェルについてこの両者を混同するのは、作家にとっても読者にとっても利益とはならない。一部の批評家にお好みのゲームがあって、オーウェルが「当てた」ことと「外した」ことの一覧表を作るのだ。たとえば現在のアメリカであたりを見回せば、「法執行」のリソースとしてヘリコプターは人気があるし、それは無数の「犯罪ドラマ」テレビ番組でお馴染みだ。そしてこの犯罪ドラマ自体も社会統制の一形態だ——それを言うならテレビ自体の遍在ぶりも。双方向テレスクリーンは、2003年現在には「インタラクティブ」ケーブルテレビとつながった、フラットプラズマ画面と十分な類似性を示している。ニュースは政府の言いなりだし、一般市民の監視は警察活動の主流になってきたし、合法的な捜査や押収などもはや冗談でしかない。等々。「わおう、政府はビッグ・ブラザーになっちゃったぜ、 オーウェルの予想通り ! たいしたもんだぜ、え?」「オーウェル的だぜ、おい!」

うーん、イエスでもありノーでもある。結局のところ、具体的な予測は細部でしかないのだから。おそらくもっと重要、いやまともな預言者にとって不可欠なものは、ほとんどの人間よりも人間の魂を深くのぞきこめるということだ。1948年のオーウェルは、枢軸国の敗北にもかかわらず、ファシズムへの意志は消えておらず、その絶頂期は過ぎたどころか、いまだに全面開花すらしていないということを理解していた——精神の腐敗、権力への抵抗しがたい人間の中毒はすでにとっくに存在していた。第三帝国にもスターリンのソヴィエト連邦にも、イギリスの労働党にすら見られた——恐ろしい未来の初稿のように。同じ事がイギリスやアメリカに起こるのを何が防いでくれるというのか? 道徳的な優位性か? 善意? 純潔な生き様?

それ以来、着実かつ静かに改善してきて、人文主義的な議論をほとんどどうでもよくしてしまったのは、もちろん技術だ。ウィンストン・スミスの時代に活躍している監視手法のポンコツぶりに、あまり気を取られてはならない。「私たちの」1984年でも、結局のところ集積回路チップはまだ生まれて十年もたっておらず、2003年頃のコンピュータ技術の驚異に比べれば、ほとんど恥ずかしいくらい原始的なものだったのだから。特にインターネットは、あの風変わりで古くさい、ヘンテコな口ひげをはやした二十世紀の専制支配者たちが、夢見るしかできなかった規模での社会統制を可能にしているのだ。

その一方で、オーウェルは私たちにはあまりにお馴染みになった、各種の原理主義のからむ宗教戦争といった異様な展開は予見しなかった。宗教的狂信主義は、実のところオセアニアには奇妙なほど欠けており、党への献身という形で存在するだけだ。ビッグ・ブラザーの政権は、ファシズムのあらゆる要素を示している——単一のカリスマ的な独裁者、行動の完全統制、個人の全体に対する絶対的な従属——だが人種的な敵意、特に反ユダヤ主義はない、これはオーウェルの知っているファシズムで実に強力な特徴だったというのに。これはどうしても、現代の読者にとって不思議に思えるはずだ。小説の中で唯一のユダヤ人登場人物は、エマヌエル・ゴールドスタインであり、それも単に、そのモデルとなったレオン・トロツキーがユダヤ人だったからというだけかもしれない。そして彼は表舞台には最後まで登場せず、『1984年』での本当の機能は、『専制的集産主義の理論と実践』の作者として説明の声を提供するだけなのだ。

最近では、オーウェル自身のユダヤ人に対する態度についていろいろ論じられており、一部の評論家はそれを反ユダヤ主義的だとすら述べるに到っている。もし当時の彼の著作でこの話題についての明示的な言及を探すなら、ほとんど見あたらない——ユダヤ人問題はあまり彼の関心をひかなかったらしい。実際に刊行されている証拠を見ると、収容所で起きたことのすさまじさに対する一種の麻痺か、どこかの水準でその全容を理解し損ねている様子だ。まるで、心配すべき深い問題があまりに多いので、オーウェルはホロコーストについて考えすぎるという追加の不都合が世界に提示されないのを望んだような、ある種の寡黙さが感じられる。この小説は、ホロコーストが起きなかった世界を定義し直そうという彼なりの試みだったのかもしれない。

『1984年』が反ユダヤに最も近づくのは、かなり最初の方に出てくる二分間憎悪という儀式的な慣行の中でのことだ。これはジュリアとオブライエンという人物を導入するための、物語上の仕掛けとすら言える。だがここで描かれる反ゴールドスタイン主義は、実に有害な即時性を持って描かれてはいるが、何か人種的なものに一般化されることは決してない。エマヌエル・ゴールドスタイン自身が著書で述べているように「またそこには何か人種差別もまったくない。ユダヤ人、黒人、純粋インディアンの血を持つ南米人は、党の最高位にもいる (後略)」。わかる限りでは、オーウェルは反ユダヤ主義を「ナショナリズムという現代の大病の一変種」と考えており、特にイギリスの反ユダヤ主義はイギリス的愚かさの別形態として見ていたようだ。『1984年』で彼が想像した三勢力合体の頃には、彼にとってお馴染みのヨーロッパナショナリズムは、なぜかもはや存在しなくなると思っていたらしい。というのも国民、ひいては国籍は廃止され、もっと集合的なアイデンティティに吸収されると思っていたせいかもしれない。この小説の全般的な悲観論の中で、現代の状況を知っている私たちからすれば、異様なまでに軽薄な分析に思えてしまうかもしれない。オーウェルが、ただのばかばかしい話より大してひどいものと思わなかった憎悪が、1945年以来の歴史のあまりに多くを左右してきたので、そう簡単に一蹴するわけにはいかない。

オセアニアにおける予想外の人種的寛容の存在だけでなく、階級構造もいささか奇妙ではある。階級のない社会のはずなのに、そうではない。党中心、党外周、プロレに別れている。だが物語は、党外周に属するウィンストン・スミスの立場から語られているので、プロレはほぼ無視されている。これは政権に無視されているのと同様だ。救世の勢力として彼らを崇拝し、やがて彼らが勝利すると確信はしていても、ウィンストン・スミス自身はまったくプロレの知り合いがいあいようだ——唯一の個人的な接触、しかも間接的なものは、彼とジュリアが恋人の隠れ家を見出した古物商の裏にある部屋の外で歌っている女性だけだ。「この曲はロンドンを過去何週間も席巻していた。それは音楽部の下部局がプロレのために発表し続けている、無数の似たり寄ったりの曲の一つなのだった」。ウィンストンの党中心の詩的な基準からすると、この曲は「たわごとめいた」「ろくでもないゴミクズ」だ。だがオーウェルはそれを、ほとんど省略もなしに、三回も繰り返す。何か別のことが起きているのだろうか? 確信はできない——オーウェルは、隠れ作詞家で、韻を踏むビートのある歌詞を書くのが大好きなので、この歌詞につけるメロディも実際に考案して、『1984年』執筆中にそれをハミングしたり口笛を吹いたりしていた、と考えたくもなる。ヘタをすると一日中それを続けて、まわりの人をうんざりさせたかもしれない。彼自身の芸術的な判断は、ウィンストン・スミスとは別物だ。ウィンストンは四〇代末のブルジョワを未来に投影した存在なのだ。オーウェルは私たちがいまではポップカルチャーと呼ぶものを愛好していた——彼が忠誠を示すのは、政治のみならず音楽でも、人民に対してなのだった。

ジョン・ゴールズワージーの小説に対する、『ニュー・ステーツマン』掲載の1938年書評で、オーウェルはほとんどついでのようにこうコメントしている。「ゴールズワージーはダメな作家であり、内面の戸惑いが、その敏感さを磨いて、ほとんど彼をよい作家にするところだった。その不満がおさまってしまい、彼は型に戻ってしまった。この種のことが自分自身にもどんな形で起こっているのか、立ち止まって考えて見る価値はある」

オーウェルは、左派仲間たちがブルジョワ呼ばわりされるのにビクビクして暮らしているのを面白がった。だが彼自身が恐れているものの中には、自分がゴールズワージーのように、いつの日か政治的な怒りを失い、ありがちな現状肯定の弁明者に成りはてる可能性があったのかもしれない。あえて言うなら、彼は自分の怒りを貴重なものと見ていた。彼はその人生を通じてその立場に到達したのだ——ビルマでもパリでもロンドンでもウィガン波止場への道でもスペインでも、ファシストたちに撃たれ、やがて負傷させられ——彼はその怒りを勝ち取るために血と苦痛と辛い労働を投資したのであり、資本にこだわる資本家と同じように、それにこだわっていたのだった。あまりに安住してしまうことへの恐れ、買収されてしまうことへの恐れは、他の職業よりも作家に特有の病理かもしれない。執筆で生計を立てているものにとっては、確かにリスクの一つではあるが、あらゆる作家がそれに反対するわけではない。支配分子が異論を丸め込む能力は、常に危険として存在していた——実はそれは、『1984年』の党が絶えず底のほうから己を永遠に刷新するプロセスと大差あるものではない。

オーウェルは1930年代の大恐慌の間に、労働者階級と失業貧困層の中で暮らし、その過程で彼らの不滅の価値を学んだので、ウィンストン・スミスにプロレというその1984年の相当物に対する類似の信念を与えている。彼らこそがオセアニアというディストピア的な地獄からの脱出をもたらす唯一の希望だとしたのだ。この小説の最も美しい瞬間——リルケの定義した意味での美しさ、いままさに生まれようとする恐怖の到来——ウィンストンとジュリアは、自分たちが安全だと思って、窓から中庭で歌う女性を眺め、そしてウィンストンは空を見ながら、その下に暮らす何百万人もの人々について、ほとんど神秘的なビジョンを体験する。「考えることなど決して学んだことはないが、その心と臓腑と筋肉に、いつの日か世界を転覆する力を貯め込みつつある。希望があるとすれば、それはプロレにある!」これは彼とジュリアが逮捕される直前、本の冷酷で恐ろしいクライマックスが始まる直前なのだ。

戦前のオーウェルは、小説における暴力の赤裸々な描写を、一時的に軽蔑していた。特にパルプ雑誌に登場するアメリカのハードボイルド犯罪小説のものは嫌った。1936年に彼は、探偵小説の書評で、暴力的で徹底した殴打の描写を引用する。それは愛情省の中でのウィンストン・スミスの体験を、不気味なまでに前触れしているものだった。何が起きたのか? スペインと第二次世界大戦らしい。もっと保護されていた時代には「胸が悪くなるゴミクズ」だったものが、戦後には、政治教育の一般用語の一部となり、1984年のオセアニアでは、それが制度化されることになる。だがオーウェルは、そこらのパルプ作家とはちがい、どんな人物であれ肉体や精神への侮辱を、何の考えもなしに享受するようなぜいたくは得られなかった。彼の描写はときに、正視に耐えないものだ。まるでオーウェル自身が、ウィンストンの苦悶のあらゆる瞬間を感じているかのようだ。

だが探偵小説においては、その動機は——作家にとっても登場人物にとっても——通常は金銭的なものだし、それも通常ははした金だ。レイモンド・チャンドラーはかつてこう書いた。「人が殺されるのは可笑しくはない。だがあまりにつまらないことで殺されるのはときに可笑しいこともあるし、またその死が我々の文明と呼ぶものの通貨だというのも、笑えることもある」。だがまったく笑えないのは、その金銭的な動機がまったくないときだ。わいろを受け取るオマワリは信用できるが、受け取ろうとしない、法と秩序に狂信的なほど忠実なオマワリにでくわしたらどうしようか? オセアニアの政権は、富の誘惑にはまったく反応しないらしい。オセアニアにおける政権の関心は、権力のための権力の行使、記憶、欲望、思考伝達の道具としての言語に対するたゆまぬ戦争にある。

専制主義の観点からすると、記憶は比較的対処しやすい。いつの時代も真理省のような機関は何かしら存在し、他人の記憶を否定して過去を書き換えている。2003年頃には、政府の従業員がほとんどの人よりも多くの報酬をもらって歴史を転覆させ、真実を矮小化し、過去を日常的に殲滅するのが通例となった。歴史を学ばないものは、かつてはそれを繰り返すはめになったが、それは権力を握ったものが、その歴史が一度も起きなかった、あるいはお手盛りの目的に奉仕する形で起きたのだとみんなを (自分自身を含む) 納得させられる手口を見つけるまでのことだった——いや何よりいいのは、そんな歴史なんかどうでもいい、一時間ほどの娯楽を提供するための、薄めたテレビドキュメンタリーにするくらいの意味しかないと思わせることだ。

だが欲望をコントロールするのは、もっと面倒だ。ヒトラーは、何やら非伝統的な性的嗜好で知られる。スターリンが何を好んだかは神のみぞ知る。ファシストたちですらニーズはあるし、無限の力を享受できたらそれに耽溺することも可能だ。少なくとも当人たちはそう夢見る。だから自分たちをおびやかす者たちの心理および性的プロフィールは攻撃しても、それを実行するに先立って、しばしのためらいはあるかもしれない。もちろん法執行の仕組みがすべてコンピュータに任されれば、コンピュータは少なくとも現在の設計では、私たちが魅力を感じるような形では欲望を感じないので、おお、するとまったくちがう話になるではないか。だが1984年にはそれはまだ起きていない。欲望そのものは必ずしも簡単に利用できないので、党は仕方なく、最終的な目標として、オルガズムの廃止を採用するしかない。

性欲が、それ自体として見れば本質的に転覆的だという論点を主張するのが、ここでは人生に対する快活な情欲を持つジュリアだという論点 (訳注:この文章はきちんと終わっておらず、文法的におかしい。こういうのがこの序文ではいくつかある。校閲が見逃したとも考えにくいし、あえてやっているとしか考えられないが、目的は理解不能。)。もしこれが本当に、小説のふりをしたただの政治論説であるなら、ジュリアはおそらくは何かを象徴させられてしまったことだろう——快楽原理や中産階級の常識とかいった代物だ。だがこれは何よりもまず小説なので、彼女の人格は必ずしもオーウェルの完全な統制下にはない。小説家たちは、最悪の全体主義的な気まぐれを、登場人物の自由に対して押しつけたいと願うかもしれない。だが実にありがちながら、その企みは無駄に終わる。というのも登場人物はいつも、作者の全能の目を逃れ、プロットだけしかなかったら決して思いつかなかったようなことを考え、台詞を口走るのだ。本書を読む多くの歓びの一つは、ジュリアが強烈な誘惑婦から、愛おしい若い女性に変化するのを目撃できるという点にある。その愛が解体され破壊されるのを見るときこそ、本書の大きな悲しみの一つなのだ。

ウィンストンとジュリアの物語は、他の作家が書いたなら、ありがちな恋人たちの幼き夢といったゴミクズへと崩れていったかもしれない——真実賞の小説書き装置が生み出すような代物だ。なんといってもフィクション部で働くジュリアは、おそらくゴミクズと現実のちがいを知っており、彼女のおかげで、『1984年』のラブストーリーは、大人の現実世界的な鋭さを保ち続けているのだ。一見するとこれは、お定まりの型どおりに進んでいるように見える。男が女を嫌い、男と女がかわいげな遭遇をして、あっというまに二人は恋におち、それから別れるが、最後には再びくっつくというわけだ。確かに、そんなようなものは出てくる……ある程度は。だがハッピーエンドはない。最後近く、愛情省がお互いを裏切るように強制した後で、ウィンストンとジュリアが再会する場面は、どんな小説で見られるものにも負けないほど心乱れるものだ。そして最悪なことに、私たちはそれが理解できてしまう。かわいそうだし恐ろしいとは思うが、この事態の展開について、ウィンストン・スミス自身と同じくらい、私たちも本当は驚きはしない。彼が違法な白紙の本を開いて書き始めた瞬間から、彼は己の破滅を抱えている。意識的に思考犯罪を犯しており、当局が追いつくのを待つばかりなのだ。ジュリアが予想外に人生に登場してくれたもの、ちがう結末を彼が信じるほど奇跡的なできごとではない。最大の幸福時、中庭の窓から見下ろして、突然気がついたことの果てしない広がりをのぞきながらも、彼が彼女に言える最も希望に満ちた言葉は「私たちは死者」なのだ。そして思考警察は数秒後に、それを嬉々として繰り返す。

ウィンストンの運命は驚きではないが、私たちが心配してしまうのは、ジュリアの運命だ。彼女は最後の瞬間まで、自分がどうにかして政権の裏をかける、自分の快活なアナキズムが、あいつらの投げつけるあらゆるものに対する防御になると信じている。彼女はウィンストンにこう告げる。「そう悪い方に考えなさんなって。あたしは生き続けるのが結構うまいんだから」。彼女は自白と裏切りとのちがいを知っている。「あいつらは、どんなことでもこっちに言わせることはできる——どんなことでも——でも、それを信じさせることはできないよ。こっちの内面には入ってこれない」。かわいそうな子。ひっつかんで揺さぶってやりたくなる。まさにそれが、あいつらのやることだからだ——内面に入ってきて、魂の問題すべて、自己の内部の不可侵な中核だと信じているものを、残酷で終末的な疑念に附すのだ。愛情省を離れる頃には、ウィンストンとジュリアは永続的に二重思考/ダブルシンクの状態に陥る。殲滅の控えの間とでも言うべき状態で、愛し合ってはおらず、ビッグ・ブラザーを同時に憎悪しつつ愛せるようになっている。考えられる限り暗い結末だ。

だが奇妙なことに、そこで終わりではないのだ。ページをめくるとその補遺として、何やら批評論説『ニュースピークの原理』が出てくる。冒頭で、脚注により、巻末に移ってそれを読む選択肢を与えられていたのを思い出す。そうする読者もいるし、しない読者もいる——最近ではハイパーテキストの初期の例だと考えてもいいだろう。1948年には、この最後の部分はどうやらアメリカのブック・オブ・ザ・マンスクラブのお気に召さず、そこと、エマヌエル・ゴールドスタインの本から引用している章を削除しないと、クラブの推薦図書に入れないと要求した。これでアメリカでの売上4万ポンドを失うことになるのに、オーウェルは変更を拒否してエージェントにこう告げた。「本は、バランスの取れた構造物として構築されているので、全体を丸ごと作り直す覚悟でもない限り、あちこちからでかい固まりを単純に取りのぞいたりはできません。(中略) 自分の作品がある程度以上いじくりまわされるのは、本当に認められませんし、それが長期的に見返りがあるとさえ思えないのです」。三週間後、ブッククラブ側が折れたが、疑問は残る。なぜこれほど熱っぽく、暴力的で暗い本を、学術的な補遺らしきもので終えるのだろうか?

その答は、単純な文法にあるのかもしれない。「ニュースピークの原理」はその最初の一文から一貫して過去形で書かれており、何かもっと後の、ポスト1984年の歴史の一時期、ニュースピークが文字通り過去のものとなった時代を示唆しているかのようだ——まるで何やらこの論説の匿名著者が、いまやニュースピークを本質としていた時代の政治体制について、批判的かつ客観的に、自由に議論できるとでもいうようなのだ。さらに、この論説を書くのに使われているのは、私たち自身のニュースピーク以前の英語だ。ニュースピークは2050年には普通になっているはずだったが、どうもそれほど長続きはせず、まして勝利などおさめず、標準英語に内在する古代の人文主義的な考え方が滅びず、生き残り、最終的には勝利して、ひょっとするとそれが体現している社会道徳秩序さえも、どうにかして復活したらしいのだ。

元トロツキストのアメリカ人ジェームズ・バーナム著『管理職革命』(Manegerial Revolution) についての1946年論説で、オーウェルはこう書いた。「バーナムが夢見ているらしき、巨大で無敵の永続的な奴隷帝国は、確立されることはないし、確立されても長続きはしない。なぜなら奴隷制はもはや、人間社会の安定した基盤ではないからだ」。昔の秩序回復と救済を匂わせる「ニュースピークの原理」は、そのままでは陰気なまでに暗い結末を明るくするものなのかもしれない——それにより、自分自身のディストピアの街頭に送り戻される私たちは、物語自体の結末がもたらすよりも、少しばかり明るい曲を口笛で吹けるようになるのだ。

オーウェルとその養子、イズリントンにて、1946年

1946年のイズリントンで撮られた写真がある。オーウェルとその養子リチャード・ホレーショ・ブレアが写った写真だ。男の子はその頃2歳だったはずで、何の遠慮もない歓びにあふれている。オーウェルは両手で彼を優しく抱いて、にっこりして喜んではいるが、そこに気取りはない——もっと複雑で、まるで怒りよりもっと価値があるかもしれないものを見つけたとでもいうような表情なのだ。頭は少し傾げられ、慎重な目つきをしているが、それは映画好きならロバート・デュヴァル的な人物が、バックストーリーの中で意図したよりもちょっと多くを暴露してしまったときのような目つきだ。ウィンストン・スミスは「自分が1944年か1945年に生まれたと思っていた」。リチャード・ブレアは1944年5月14日生まれだ。オーウェルが『1984年』で息子の世代のための未来を想像していたと、つい思いたくもなる。その世界は彼が子供たちのために望んでいたものではなく、警告していた世界ではあった。彼は何かが不可避だという予測を嫌い、一般人がその気にさえなれば何でも変えられるという能力をずっと確信し続けた。いずれにしても、私たちが戻ってくるのはこの少年の微笑なのだ。それは直接的で輝くようで、結局のところこの世界はよいものであり、人間のまともさは、親の愛と同じく、常に当然のものとして受け取っていいのだ、という何のためらいもない信念から出ているのだ——その信念はあまりに立派なものなので、オーウェルですら、そして私たち自身ですら、一瞬のこととはいえ、それが決して裏切られないようにするためには、何でもするぞと誓いたい気持になると思ってしまえるのだ。


早川書房の新訳版に収録のもとの同じはず。なお、これについての (かなり批判的な) コメントについては以下を参照:

cruel.hatenablog.com

オーウェル『1984年』序文からわかる、ピンチョンのつまらなさとアナクロ性

Executive Summary

トマス・ピンチョンのオーウェル『1984年』序文は、まったく構造化されず、思いつきを羅列しただけ。何の脈絡も論理の筋もない。しかもその思いつきもつまらないものばかり。唯一見るべきは、「補遺;ニュースピークの原理」が過去形で書かれていることにこめられた希望だけ。だが、考えて見れば、ピンチョンはすべて雑然とした羅列しかできない人ではある。それを複雑な世界の反映となる豊穣な猥雑さだと思ってみんなもてはやしてきた。だが実はそれは、読者側の深読みにすぎないのかもしれない。そしてその深読みが匂わせる陰謀論が意味ありげだった時代——つまり大きな世界構造がしっかりあって、裏の世界が意味をもった60-80年代——にはそれで通ったのに、1990年代以降はもっと露骨な陰謀論が表に出てきてしまい、ピンチョン的な匂わせるだけの陰謀論は無意味になった。それがかれの最近の作品に見られるつまらなさ、無意味さの原因となっている。

はじめに:オーウェル『1984年』へのピンチョン序文

2023年11月になって、今年の年頭の誓いを片方でもあげようと思って、オーウェル『1984年』の翻訳をガシガシ進めている。

翻訳自体はかなり前に始めていたが、特にハヤカワ文庫から高橋和久の新訳が出て、まあそれなら急いでやんないでもいいか、と思って寝かしてあったんだよね。そのときは、高橋訳を特にわざわざ読もうとは思わなかった。もうすでに何度か読んだ本だし。が、当然以前の新庄訳に比べて改善されているものと思っていた。ならば別にさらに新訳がなくてもいいか、とも思った。

でも今回訳する中で見てみたが、訳しなおす価値はあると思う。高橋訳は、高橋和久の訳すべてがそうだけれど、やたらに固く、漢字まみれで、かなり古くさい。全体としては、以前の新庄哲夫訳のほうがずっと読みやすい。一方、角川から別の訳も出ているけれど、こちらもあまりに平板。もうちょっと、オーウェルのこだわりとかは出してあげたい。ジュリアちゃんももう少し生気を持たせてあげたい。

が、それはさておき、その高橋和久の新訳版には、トマス・ピンチョンの序文が含まれている。

これは文庫版だけに収録されており、なぜかKindle版には含まれていないので注意してほしい (巻末に明記されている)

最初、これを見てぼくはちょっとむかついた。何か権利上の都合なのかもしれないけれど、せっかくのピンチョン序文を削除するなんて、あり得ないだろう! というわけで、もちろんその序文を読むべえと思ってググりました。出てきたのがこれ。

www.docdroid.net

実際に本に収録された序文と比べてみると、この文はかなり削られている。あるいは、これが草稿みたいなもので (といっても『ガーディアン』に掲載されたらしいが)、それをふくらませて実際の序文にしたのかもしれない。が、論旨としては大差はない。

さてどうだろう。ピンチョンならではの慧眼があるすばらしい文章だろうか。早川書房がこれをKindle版から落としたのは、許しがたいことだろうか。

うーん。それがねえ。そうでもないんだよ。本当にこれ、大したことない文章、というよりむしろ、積極的に散漫でつまらない文章なのだ。

ピンチョン序文の中身は…… 構造化されない思いつきの羅列。

まあ、まずは読んでみてほしい。全訳してあげたから。上のやつだけでなく、ちゃんと書籍版とも照らし合わせて異同もわかるようにした。

cruel.hatenablog.com

トマス・ピンチョン「『1984年』への道:オーウェル『1984年』序文」(pdf, 550kb)

……と書いてもどうせみんな読まないだろう。中身を要約するとこうなる。(茶色の文字は書籍版のみ)

 

  • 『1984年』は、アメリカのマッカーシズムの影響もあり、単純な反ソ反共文書と読まれたが、必ずしもそうではない。
  • オーウェル自身は筋金入りの左派。だが当時のスターリン礼賛教条体制派左翼に失望し、その連中の二枚舌を批判したのが本書。
  • また社会主義のみならず、 マッキンダー地政学的な戦後の列強による世界の分割相談も本書で戯画化されている。
  • オーウェルの予言は現代にあてはまる部分もあればそうでない部分もある。技術面の粗雑さは大目に見よう。
  • 一方で宗教狂信主義を重視していないのは大はずれ。また人種差別も重視されていないのもはずれ。
  • オーウェルを反ユダヤ主義者呼ばわりする人もいるが、実際にはそういう要素はほとんどない。ナショナリズムもない。
  • オーウェルは自分の政治的怒りを重視して現状に甘んじるのを拒否した。
  • オーウェルは労働者階級や貧困者をずっと重視した。これは本書のプロレ重視にもあらわれている。
  • 最近では真実や過去を政府が書き換えるのはよくある現象となった。
  • ジュリアのキャラが立っているので通俗メロドラマに堕さずにすむが、おかげで結末はさらにつらい。
  • 最後の補遺「ニュースピークの原理」は過去形で書かれている。ビッグ・ブラザー体制の消滅を暗示する、一抹の希望かもしれない。
  • オーウェルは、養子を取ったこともありそういう希望を捨てなかった。親の愛といった人間らしさと世界の善に対する信頼を持ち続け、パンピーの力を信じ、それを決して裏切るまいとした。

 

どう思う? これは本当に登場する順番通りにまとめているんだけれど……一見して、全然整理されていないと思わない? それぞれの項目間にも、論理的な論旨のつながりというものが一切見られない。話もあっち飛び、コッチ飛び。どの話も、その後の論旨にまったくつながらない。とにかくすべて、脈絡が全然ないのだ。

その内容も、鋭いというよりつまらないし、むしろ首を傾げるものが多い。単純な反ソ反共ではないけど、一部の偽善的な左派批判ではあるなら、別に世間的な読みがそんなにちがってるわけじゃないよね。反ユダヤ主義が見られない——それで? 『1984年』がホロコースト無き世界を描く試みだというのは、何を言っているのかさっぱりわからん。ナショナリズムがあまり出てこないというのも、よくわからない。そこで言っている「ナショナリズム」ってどういう意味? 通俗的な用法では、ナショナリズムと愛国心は似たようなものと思われている (頼むからここで変な学者の重箱の隅つつきやめてね)。イングソックに対する愛国心はすごく強調されていると思うんだが。そして、ナショナリズムがなければどうだと? 現代との対比はあまりマジにやるなと言いつつ、政府が過去を書き換えるのが云々と、最後に唐突に出てくる。ユーラシア、イースタシア、オセアニアは、特にイースタシアは明確に人種区分されていて、人種の話はしっかり出てると思うなあ。そして人間らしさへの信頼という最後の部分は、これまで全然出てこなくて、いきなり投げ出される。

普通、こうした要約を作る時、ぼくは最後の結論から始めて、それを支える材料がそれ以前にどういう風に出てきて全体が構築されているか、という構造を捕らえようとする。でもこの文章では、そのやり方がまったくできなかった。全然構造化されていないんだもの。パンピーの変革能力をオーウェルが重視していたという最後の話を出したいなら、それまで一般人や労働者階級の話はどう登場したか? ほとんどない。最初の、本書を単純な反共文書と見るのはまちがいというなら、どう見るべきか? それも書かれない。

小学生が書く、まとまらない読書感想文みたいだ。あっちの部分についてこう思った。こっちのほうではこんな話題もあった。そういう羅列をしてなんとか文字数は埋めるけれど、それがまったく構造化されない。何が言いたいのかさっぱりわからないのだ。

しかも羅列とはいえ、何か刮目すべき慧眼の論点は何かあるだろうか? ぼくはないと思う。ピントはずれに思える部分も多いし、それ以外のところもありきたりの、だれでも言えるような話ばかり。

唯一鋭いのは、最後の「補遺:ニュースピークの原理」が過去形で書かれていて、それが暗い『1984年』にこめられたかすかな希望かも、という部分だけ。この指摘は、『1984年』の見方を変えてくれた。そして、書籍版で加筆されたジュリアのキャラ立ちについての議論のおかげで、やっと最後のところだけ「ジュリアいいよね→だからこそ最後は残酷だよね→補遺が実はかすかな希望のあらわれかもね→養子もあってそういう希望を捨てない人だったよね、オーウェルは」という、多少の脈絡らしきものができている。でも補遺の話から、すぐに最後の写真の話で希望につなげればいいのに、バーナム本の書評の話が間にはさまっていて、その段落が話の流れを悪くしてしまっている。バーナム本の話は、前にバーナム地政学の話が出てくるところでやればよかったのに。

ついでに言うなら、1984年にICができて10年たってないとか、脚注で「補遺参照」と書いたからハイパーテキストだとか、シュレーディンガーの猫が二重思考の実例だとか、あんた一応、かの名作「エントロピー」で理系作家と呼ばれて世に出てきたんじゃん! もうちょっと何とかならないのかよ!!

こんなものをピンチョンが書くとは??!! と思った一方で、ふと考えて見ると、まさにピンチョンというのはこういう作家、ではあるのだ。そしてそれに気がつくことで、ピンチョンの近作に感じていたつまらなさについてもわかったように思う。それは単なる羅列でしかないのだ。

ピンチョンって実はすべて、構造化されない思いつきの羅列ではある。

一応ぼくは、ピンチョンのそれなりに真面目な読者ではある。一通りピンチョンの小説は読んできた。でも、だんだん新しくなるにつれ、つまらなくなってきた。『V』や『重力の虹』は、なんかすげえと思った。『競売ナンバー49』は、ピンチョン的な世界構築が非常に明快だった。でも……

『ヴァインランド』はなんか妙に手すさびっぽい軽い感じがした。その後、『メイソン&ディクソン』『逆光』が出たときには、キターッ!と思ったんだけれど、こう、ウロウロするだけで終わり。そこに何かすごい世界観があるのか、と期待したんだけれど、ないんだよね。

そして『LAヴァイス』はなんか趣味にあわなかったし、そして先日『ブリーディングエッジ』を再読して、ちょっと見放した。ぐちゃぐちゃいろいろ書くんだけれど、それがまったく構造化されず、羅列に終わるだけなんだもの。

これまでは、その羅列が大量なので、ぼくは——そしてたぶん多くの人は——そこに実際には何かあるんだろうと思っていた。ぼくがちゃんと注意していないだけで、見落としているだけで、それを解明すれば何かすごい世界像が浮かびあがるんだと期待していた。

だけれど、『ブリーディングエッジ』を見ると、実は何もないのがわかる。これまでの本は、いろいろぼくの知らないネタが出てきて、知らないからわからない部分もあるのかと思っていた。でも『ブリーディングエッジ』はニューヨークの風景と、90年代アメリカポップ文化と音楽シーンとIT業界の話で、少なくともあの本に出てくるネタは、ぼくは大半がわかる。そしてそれらは別に相互につながっているわけでもない。深い意味があるわけでもない。むしろとっちらかっているだけ。何もそこにはない。

それはこの、『1984年』序文と同じだ。いろいろ言っているけれど、そこで言われていることはすべて思いつきの雑学レベル。そしてそれらが構造化されて何かが出てくるわけでもない。実は彼は、言いたいことをあまり明確に持っているわけではなさそうなのだ。

ピンチョンについて、確か荒俣宏『理科系の文学誌』とかで言われていたのは、当時もてはやされていたバースとかバーセルミみたいな知的に構築された小説に比べて、それが「猥雑だ」ということだった。でも猥雑というのは、まさにそれが雑然とした羅列だということだ。

そんなピンチョンがこれまで大きな扱いをされていたのは、まさにその脈絡のない無意味な羅列に、実は何か意味があるんじゃないかと読者が深読みして、こじつけしてくれるからだった。そしてそれはまさに、陰謀論者の読み方なのだ。ピンチョンの小説にしばしば登場するテーマは、この世の裏に何か隠された陰謀があり、それがこの現実を操っている、というものだ。登場人物は、その陰謀に気がつき、それを読み解こうとする。

でもピンチョンはそれなりに頭がいいからなのか、それとも単にアイデア構築力がないからなのか、最終的にその陰謀が決定的に暴かれることはない。チラ見せしつつ、最後まであいまいなままで終わり、最後に何か宴会でもしたり(重力の虹とか)、続きは後のおたのしみとばかり放り出されたり (競売ナンバー49とか)。結局、何もわからないのだ。そして読者はそれを追いつつ、自分もまたピンチョン作品に隠された陰謀を読もうとする。

これはまあ、お馴染みの読み方ではある。いまさらトニー・タナーでもないけれど、彼のアメリカ現代文学についてのまとめはいまもやっぱ優れているし、まさにそれが主題だった。

現実が何かに操られているという感覚とそれに対する恐怖こそが現代 (というのは1960-1970年代) の米国文学に通底するテーマなんだ、というのがこの分厚い本の主題だ。今さらではあるけれど、慧眼ではある。そしてもちろん、現実が何かに操られているというのはつまり、陰謀論だ。

が、陰謀論というもののあり方は、知っている人は知っている。何もないところに、なんかつながりがあるだろうと勝手に邪推して話を作る——それが陰謀論だ。

トマス・ピンチョンも同じだ。彼の小説そのものが、こうした陰謀論的な構造になっている。それは羅列にすぎない。大した意味はない。でもそこに何か読者は意味を読み取ろうとする——そしてそれは基本的に、そこにないものを読もうとする行為でもあるので、いつまでも果てしなく続く。

でも、ふと気がつけば、そこには何も無いのだ。正体見たり、枯れススキ。

 

さらに、陰謀論が知的なお遊びとしておもしろいのは、表の現実がそれなりに確固たるもので、だからこそ陰謀がそこにあるのでは、と練る余地があるからだ。陰謀は、みんながあるとは思っていない隠れたものだから陰謀なのだ。そしてその確固たる表面の下に出てくる陰謀の巧妙さが、その醍醐味となる。

ところがいま、陰謀論がやたらに表に出て、あらゆるところにやたらに陰謀論が広まっている。その中で、ピンチョン的な、チラ見で結局何も答が出ない陰謀論(および陰謀論小説)の意味そのものが薄れている。

『ブリーディングエッジ』は、ITバブルの企業の会計を追っていたら、何か中東方面との怪しいお金の流れが判明し、CIAの手先の暗躍が次第に出てきて〜という話ではあるんだけれど、何か決定的なことがわかるわけではない。深読みしても、何もわからない。中東とのつながりが何なのも明示されず、9.11と関係がありそうな匂わせはあるけれどでもはっきりしたつながりは出ない。ビルの屋上にミサイルが置かれて、貿易センターにつっこんだ飛行機が怖じ気づいたら撃墜することになってました——うーん。話そのものが苦しいんじゃない? 以前ならこれでよかっただろう。でも、9.11がらみの陰謀論はすでに死ぬほどある。その中で、この陰謀論の優位性は? ぼくは何もないと思う。

まして『メイソン&ディクソン』や『逆光』では、もはやその陰謀が何かもわからない。そのため、みんな前者では奴隷制批判が重要なんじゃないかと言ってみたり、『逆光』ではどこぞの労働争議にまつわる虐殺が重要だったみたいな話をする。でも、本当にそんなものが小説の主題として重要なのだろうか。確かにピンチョンはそういうネタを探しはした。そしてそれについて尋ねられたら、あれこれいろいろ知識を開陳するかもしれない。だがそれは本当にこの小説の中で重要なのかといえば、別にそういうわけでもない。

かつてはそれでも、雑然としていること、その羅列そのものが断片化した現代の猥雑性を反映しているのだ、なんてことを無理にでも言おうとした。でもぼくはいま、それがウソなんじゃないかと思うようになってきた。猥雑性に見えるものは、実は単にピンチョンに構築力がないだけなんだと思う。それを読む方が勝手に深読みしていただけだったのだろう。それこそが現代における「読み」の本質なのである、とかなんとか賢しらなことを言いたければいってもいい。が、たぶんそれは一般性のない内輪うけだ。

以前、ピンチョンがすっかりローカル作家になってしまった、という話を書いたことがある。たぶんそれは、そういう内輪ウケでだんだんネタがあらわになってきた結果でもあるんだと思う。そういう深読み自体が意味を持った時期があったのはまちがいない。そして、その時代がもう完全に終わってしまったということではあるんだろうね。それはつまり、ピンチョン自体がすでにアナクロな作家になったということではある。

ピケティ『資本とイデオロギー』読書ガイド

目次:

はじめに

このたび、ついについに難産の子、ピケティ『資本とイデオロギー』が出ました。

なんといってもあのベストセラー『21世紀の資本』の続編ですし、前作を読んだand/or 買った方は、手に取らずにはいられないでしょう。が、なんせ千ページを超える重さ。手に取った瞬間に腕の筋を痛める方もいるとかいないとか。

また前著は、邦訳が出る以前に英語版がベストセラーとなり、したがってその中身についても、よかれ悪しかれ情報がかなり出回っていて、r>g とか読む前からみんな口走っていた。それに対して今回は事前の情報が少ない。まったく白紙状態でこれだけの本にとりかかるというのは、ちょっとビビるものがあるというのは十分理解できるところ。

そこでざっと説明しておいたほうが親切だろう。

同時に本書は、なんせこの長さだ。通読しろというのは酷だ。みんな自分の関心に応じて適切に拾い読みできたほうがいい。では、どこが自分の関心に合うのだろうか? それが見極められるように、本書のおおまかな筋立てを理解しよう。

1. 『資本とイデオロギー』の概略

さて、『資本とイデオロギー』は、『21世紀の資本』の続編だ、というのは冒頭で著者自身が書いていることだ。が、『21世紀の資本』をお買い上げいただいたみなさん、あれがどんな本だったかご記憶でしょうか? ということで、まずはそのおさらいから始めましょう。

1.1 .『21世紀の資本』のあらすじ:

『21世紀の資本』は、大部ながら非常に明快なストーリーを持っていた。簡単にまとめると以下の通り。

 

  • 産業革命後に急激に格差が拡大し20世紀前半に急激に下がり、いままた拡大している
  • それは資本収益と労働収益の関係に左右された部分もある (r>gかr<gか?)
  • かつて特に農業経済時代は土地という資本の収益 (r)が、労働の収益の伸び (g) よりでかかった(r>g) から資産持ちがどんどん豊かに
  • その後、資本は工業資本に変わり、そしてさらに金融資本が主流になった。収益率4%ほど!
  • ところが20世紀半ばに、インフレ、累進課税、工業成長で r<g (税引き後ね!) になり働くほうが有利になり、格差低下
  • それが1980年代からr>gに戻り、また金持ち有利になって格差拡大!
  • だから格差を縮小するため、資本を平等化する累進資本課税しよう。

 

その優れていたところはこんな感じだ。

 

  • 格差の拡大を文句なしに示した (当時はこれ自体がまだ不明確だった)
  • それが世界的に並行して起きているのも示した
  • トップ1%が特にいろいろガメているのを示し、we are 99%を改めて示した
  • 資産の果たす役割が大きいことを指摘、格差の議論に資本を復活させた
  • それを r>g というきわめて単純な構図に落として見せた

 

特に最後の点は重要だと思う。『21世紀の資本』をめぐる多くの議論は、r>gが正しいかどうか、という点についてのいろいろ賢しらな議論ではあった。ピケティ自身は「いやまあそこだけに注目せず、本のほかの部分も見てよね」と言ってはいたが、やはり特に経済学者の多くはここぞとばかり微分積分ベクトル解析を持ち出してr>gの妥当性の議論に終始した。

さてその一方で、そのr>g談義以外に出てきた批判としては、なんとなくマクロな格差推移を見ているだけで、その原因をきちんと見てないよね、というものが多かった。そしてもう一つ、出てきた解決策が弱いよね、と言われた。金持ちに課税するだけでいいの? その金で何するの? 金持ちいじめて憂さ晴らししたいだけでは、とまで (一部では言われた)

『資本とイデオロギー』は、それに生真面目に答えようとした本となっている。

1.2. 『資本とイデオロギー』の全体的な話

では、それを受けた『資本とイデオロギー』はどうあるべきか? 当時ながら、まずマクロな格差推移にとどまらない、ミクロな話をもっときちんと見てやろうじゃないか、という話にはなる。そして、施策についてもう少し細かく見よう、という話になる。

でもミクロな話をいろいろ見るだけでは散漫だ。そしてそれをいまの施策につなげるためには?

そこで出てきたのが「イデオロギー」という概念。これは、「言説」と言い換えてもいい。格差は常に、それを正当化するイデオロギー/言説により支えられてきた。だから、その言説を見よう。そしてその言説が現在のイデオロギー構造=選挙における政党構造をどう変えているか見よう。それが格差にどう関係しているか考えよう。その上で、格差低減が実現する方策を考えようじゃないか! 課税するだけでなくその使い方も考えよう!

1.3. 『資本とイデオロギー』のあらすじ

第I~II部:歴史上の格差レジーム/奴隷社会&植民地

ここでは、ヨーロッパを中心とした聖職者/戦士/平民という三層社会、それがフランス革命などによる各種革命で壊れつつ、それを破壊する根拠の一つが、財産権の絶対視だったことを指摘する。そして様々な階級的特権が、かつての権利を財産権にすり替えることで特権と格差を温存拡大し、植民地や奴隷社会がそれを悪化させたことを示す。(そしてその過程でその様々な細かい歴史経路をあれこれ細かく示してくれる)

  • 前近代社会→社会民主主義→新自由主義による格差拡大/縮小の各国別の歴史
  • 格差は社会的な秩序と安定の名の下に正当化されてきた(身分絶対視から財産/所有権絶対視へ)。
  • だがそれは大衆動員のイデオロギーさえあれば変わる
  • その細かい経路を見ることで歴史上にあり得た可能性が見えてくる
  • 第III部:20世紀の大転換

    20世紀に入って格差は大きく減ったが、それが1980年代から急増した。その原因は、左派が資本の国際化に対応した綱領を刷新できなかったことだ。そして社会主義の崩壊で格差はさらに拡大した。

    • 資本は国際化したが左翼は国別にとどまり税制競争を阻止できずに累進課税や相続税/資本税の弱体化を見すごした。
    • また資本の形が変化し、国境を越えるようになったのに、それを追うような国際的左派綱領もできなかった。
    • 社会主義の崩壊で、自由主義に対抗するモデルがなくなり、左派は内にこもった
    • 旧社会主義国は大きく逆に振れて、ロシアは最悪の格差国となった。
    • 中国はロシアの失敗に学んで少しはマシながら、はやり格差は大きく拡大。
    第IV部(その1):政治的対立の次元再考——問題編

    なぜ20世紀末に格差が急増したのか? それは世界的な政党構造の大変動のせいだ。かつて下層民の代弁者だった左派政党が、学歴エリートの政党となり、格差拡大に無関心になった。そして資本の国際化にも対応できなかった。それを改めねばならない。

    • かつてはエリート支配階層の保守系政党VS下層労働者階級の革新政党の構造が格差改善に大きく貢献
    • それが急激にエリート商人右翼(=保守)VS エリート高学歴バラモン左翼 (革新) になり、政治がエリートだけのものに。
    • エリートは能力主義や国際性といったお題目に踊り、累進課税や相続税/資本税の弱体化を見すごす(どころか後押し。さらに教育はエリート内で再生産したがる)
    • 移民や環境など国際的な課題にも無策
    • 下層階級を代弁する政党がなくなり、下層階級は排外主義に走って格差拡大を煽った
    第IV部(その2):政治的対立の次元再考——対策案 (第17章)

    では、具体的にどんな対策をすればよいのか? それは何より、下層民の味方からエリート主義に走った左派が変わらねばならない。そして、資本の国際化に対応した刷新をとげねばならない! そして財産絶対主義に立ち向かう新しい資本概念を打ち立てねばならない!

    • まず20世紀にあれほど効いた累進課税はどんどん弱められている。これをまず強化しよう。
    • それに伴う実効性あるベーシックインカムも考えよう。
    • 税制の国際的な協調と情報共有を進め、いまの大企業しか得をしない税金引き下げ競争をやめさせよう。
    • さらに資産課税をもっと強化しよう。いまは固定資産税だけ。それを金融資産にも広げよう。
    • 資産課税逃れを許さないためにタックスヘイブンその他に圧力をかけ、世界共通の帳簿を作り世界一致の所得/資本課税を!
    • 財産を絶対的なものにしてはならない。財産は個人ではなく社会が生み出したもの。だから資本課税を通じて数十年単位で資本がすべて社会に戻るようにする。そのお金で若者にベーシック資本給付を!
    • 下層階級が環境政策や移民受け入れに反対するのは、金持ちがその費用を負担しないので不公平だと思っているから→累進課税や資産課税で金持ちから税金を取るべき
    第IV部(その3):政治的対立の次元再考——対策案 (その他随所)

    その他、ピケティは本書でいろいろな施策の提案をしている。その説得力はかなりバラツキがあるが、とにかくいろいろ述べられている。

    • インフレは金持ちはいくらでも逃げ道があり貧乏人の負担が大きいのでダメ、金持ち課税すべき
    • 赤字財政支出は国債買える金持ちに金利支払う格差拡大なのでダメ、金持ち課税して財政赤字減らすべき
    • 中央銀行金融緩和は非民主的で財政赤字増やして経済を借金づけにしてインフレ煽りかねずヤバい、真の問題解決に逆行する代物
    • 株主がやたらに力を持つのはよくないので企業取締役会に労働者代表などの枠を設け大株主の議決権も制約すべき
    • EUは国境を越える試みのはずが、エリート主義で反発を抱いている。国際化に向けた取り組みができるよう、その一部だけで共通税制セクトを作って、EU本体と別の意思決定制度を作り、そのセクトがEUの他の部分に対して関税をもうけて他のところにも参加を強制しよう!
    • インドがやっているように、人種や所得別にアファーマティブアクションの化け物をあらゆる場面に導入し、ついでに以前の差別について賠償制度を設けよう。
    • 選挙制度も現在は金持ち献金に支配されているので、政党支援バウチャーで各人が好きなところに支援できるようにしよう。
    • 文化やマスコミ支援も、現在の寄付金減税制度は寄付できる金持ちの趣味に対する公的支援に等しいので、これも文化支援バウチャーでみんな投票できるようにしよう。

    2. 通読する必要はないと思う

    というわけで、『資本とイデオロギー』は、こういう話だ。では、それをどういうふうに読めば良いだろうか?

    「はじめに」でピケティは、頭から通して読むように奨めている。結論だけ先に読んでも、何がなんだかわからないだろうから、と。

    著者の懸念はわからないでもない。その一方で、訳者としては通読はおすすめしない。特に、精読しつつ通読するのはまったくお奨めできない。欧米の書評でもしょっちゅう指摘されていたことだが、本書は前半と後半がかなり明確に分かれている本だからだ。前半の歴史部分、そして最近の政治動向に各種施策をからめた部分だ。

    この両者が関係ないか、といえばそんなことはない。ただ、その関係は必ずしも緊密ではないので、前半を精読せずに後半を読むことは十分に可能だ。むしろ、精読してしまうと細かいところに気を取られて、全体が見えにくくなってしまいかねない。

    たとえば最初のほうで、昔は貴族が威張っていたとか、聖職者が幅をきかせていたという話がある。それが現代の格差にも影響しており、たとえばカトリックはの聖職者は妻帯できず、それがその後の格差の形成に重要な役割を果たした、あるいは身分制が廃止されたあともかつての使役義務が財産権概念を通じて強制労働に変換され云々、という話が出てくる。あるいは、イギリスがマヌ法典を利用してカースト制を固定化し、それがその後のインドの格差に大ききな役割を果たしたがそれがかなり恣意的な理解に基づくもので云々、という話もずーっと出てくる。

    さて、これはそれ自体としてはなかなかおもしろい話。それ自体として「へえー」「へえー」と感心してほしい。が……

    困ったことに、本ではその後、強制労働も聖職者の妻帯の影響もマヌ法典もまったく出てこないのだ。だから前の方で、それらの細かい運用についてあれこれ学んだのがまったく生きてこない。そうしたものが、現在の格差やその元になる権力関係にどう関係しているか? そういう話はほぼ出てこない。

    そして、それは当然ではある。そういうのは、支配や権力関係、さらにそこから出てくる格差の源泉ではない。単なる口実でしかないからだ。貴族は別の口実を使って己の権力を財産的に確立できただろう。マヌ法典がなくても、イギリスは何か別の口実で支配を固めただろう。大事なのはそうした恣意的な言説を選ぶにあたり外部に働いた大きな力であって、そこで利用された恣意的な=つまり定義からしてどうでもいいストーリーを深掘りしたところで、大きな話の理解には貢献しないのだ。

    正直、個別の国や地域のミクロな話にこだわり、それぞれの国での経路のちがいばかり強調したことで、本書は『21世紀の資本』の大きな指摘を見えにくくした面すらあると思う。もし各国の事情がそんなにちがうなら、どうして大まかな格差推移の歴史があちこちでそんなに共通なのか、ということだ。世界的な大きな流れや力学があり、各国の事情はその大きな力学への個別対応のあらわれなのでは?

    また、第Ⅳ部前半の、商人右翼とバラモン左翼は、キャッチフレーズとしてはおもしろい。だがそれ自体としてはおもしろくても、学歴エリートに学歴エリートであるのをやめろ、とは言えない。それ自体としてはどうしようもない話だ。エリート支配はよくない、非エリートの貧乏人もいろいろ参加できるような仕組みを作らねばならない、と言う。でもどうやって? みんな我が身が可愛いし、自分の子はいい学校に入れたいと思ってしまう。累進課税して金持ちから税金とれ、というのはわかるが、そういうぼくだって確定申告のときには、できれば節税したいと思ってしまう。社会としてもっと貧乏人の気持も考えましょう、というのがピケティの主張となる。でも、かけ声だけでそれができるならそもそもこの問題は起きない。たぶんそこに、解決に向けたヒントはあるんだろうが、この話だけを深掘りしても壁にぶちあたるだけのようにも思う。むしろ、ピケティとして必要と考える施策をどう実現すべきか、というところを読者なりに考えたほうがいいのでは?

    3. タイプ別読み方

    すると本書は、読者タイプ別にどう読むべきだろうか?

    『21世紀の資本』の続きとして読みたい人、つまり経済格差とその対応を知りたい人は……

    最も多いのは、格差のあり方とその対応、というところに関心のある人だと思う。そういう人は、第3部で21世紀の各種動きをまず理解するのがよいと思う。そしてそれに続いて第17章を読むことで、ピケティの考える対策を理解しよう。

    たぶんそこから、その背景となる20世紀の政治動向や、個別各国のおもしろい事例を知りたい人は、その他の部分を読んで得るところもあるだろう。でもそれは、その読者の興味次第ではないだろうか。

    経済格差への対応を知りたい人は……

    一方、第3部の格差拡大のパターンも、『21世紀の資本』とそんなにちがうことが書いてあるわけではない。だから『21世紀の資本』の話がわかっている人は、そこを飛ばしても大きな害はない。具体的な施策は、とせっかちに結論に飛びつくのを、ピケティ自身はいさめている。でも、まず17章の各種施策をざっと見るのは決して悪い手ではないと思う。ピケティがどういう問題意識を持っているかは、だいたいそれだけでわかる。

    ある意味でそれは本書の議論の弱さでもある。格差はイデオロギー=言説によるものだ、とピケティは言う。ならば、格差解消にはイデオロギーを変えればいい、言説を変えればいいのだ、ということになりそうなものだ。ところが、出てくる施策は税制や給付の仕組みなど。いったいどういうイデオロギー的な変更が起こればこうした施策が実現するのか? みんながこの施策に賛成すればいい、というのはあまりに弱い。こうした施策をとっても社会は崩壊しないとわかれば、みんな賛成するとでも言いたげなんだが、そうなんだろうか? そこら辺を核に、本書の他の部分を読み進めるというのも一つのやり方だろう。

    世界各地の格差の変動プロセスの比較に興味ある人は……

    歴史に非常に興味ある人は、冒頭から読んでもいいと思う。特に、個別の地域や国に興味がある人は是非。第1部と第2部は、そうした興味に必ずや応えてくれるだろう。奴隷制や植民地主義の部分は非常に興味深い。南米のブラジルをめぐる話、イランの神権政治の話、中国の清朝における格差の話など、実に楽しい部分は多い。もちろん、日本はきわめて成功した例としてあがっているので、これまた是非みてほしい。

    その一方で、その読み方をする人は、『21世紀の資本』を改めて読んで、歴史的な個別性と並行した、歴史的な共通性にも留意してほしいとは思う。また、やはり手を広げすぎたために個別の部分では突っ込む余地もあると思う*1。それが全体の論旨にどこまで影響しているかは、読者のみなさんが判断してほしい。

    4. 最後に

    『資本とイデオロギー』は、非常に野心的な本ではある。『21世紀の資本』の成功に気をよくして、かなり風呂敷を広げようとしている。ただし、そのためにやたらにボリュームが広がってしまい、もう少し絞られた関心を持った人=大半の人にとっては、なかなかポイントがつかみにくくなってしまっている面はある。

    そんな人に、この小論が少しでもお役にたてば幸い。そして、みんなが自分の関心に応じて、この大作をつまみ食いや拾い読みでも、見てくれれば幸甚ではある。

    なお、おそらく格差という面で関心がある人は、まず次の本にざっと目を通しておくといいかもしれない。

    この本は講演録だけれど、この『資本とイデオロギー』の抜粋的な面もあり、ピケティの問題意識を理解する上では有用だと思う。ただ……もんのすごい薄くてスカスカ。そして、問題は挙がったいるけれど、じゃあどうすればという話がきわめて薄い。というか、ない。立ち読みでもすんでしまうほど。

    以下のサポートページに図表が全部あるから、こちらを見ておくのも手だ。

    cruel.org

    本書の原著が出てから翻訳が出るまでに、ちょっと時間がたった。世界情勢はかなり変わった。コロナがあり、そしてウクライナ侵略が起きた。そうしたものが本書の議論を変えるか、あるいはむしろ裏付けるのかは人によって判断が変わる。また、格差拡大も停まり、もはやピケティの問題意識は時代遅れだといった記事が一部の経済誌に出たりもしている。そこらへん、どう判断すべきか? またピケティの施策はどこまで有効なのか? その実現への道は? 本書を手に取って、そうしたことを少しでも考えてくれる人が増えることを祈りたい。

    *1:たとえば宮崎駿の『風立ちぬ』は、西欧の帝国主義レイシスト的な侮蔑に立ち向かう日本の技術者の話と言っていいものやら。さらに『ブラックパンサー』は、独占してきた価値の高い資源を世界で共有する話、というんだが、そうだっけ。しかも続編でいきなりその話はとりやめになっちまうし……