Ocean Blue, または安定と成長について

YouTubeに逃避をしていたら、なんとOcean Blueが今年新アルバムを出していたと知って驚愕。まだ存在していたのか! 昔のよしみで買って聞きました。

Kings and Queens /..

Kings and Queens /..

  • アーティスト:Ocean Blue
  • 出版社/メーカー: Korda
  • 発売日: 2019/06/28
  • メディア: CD

Ocean Blueは、ペンシルベニアのハーシーチョコ城下町出身のオルタナロックバンド。前世紀/全盛期MTVで、ちょうどニルヴァーナが人気を確立してカート・コバーンが方向性に苦しんで、二枚目出して自殺しちゃった頃にそこそこ流行っていた。メロディアスなオルタナカレッジロックで、奇をてらわず非常に優等生的で、常に中堅的な位置づけでドーンと一世を風靡したことはなく、ロックフェスとかでも大トリを張る存在ではないけれど、その二つ前くらいに登場してくれたらすごくうれしい感じ。当時は、いろんなバンドが、グランジオルタナロックのいろんなバリエーションを試していて、もう少しノイジーな路線を目指していたキャサリンホイールとか、いろいろいたなあ。

で、そのオーシャンブルーはなんか雰囲気的には、日本で言うならミスチルみたいなもんで、歌もほぼすべてだいたいこんな感じ:

失われた思いをよそに

あてどなくさまよう

世界をつつむ謎と輝き

はるか彼方で

きみが微笑む

その当時のシングルの一つがこれ。「オルタナティブ・ネイション」でよく聞いた。


The Ocean Blue - Sublime (Official Video)

決して嫌いなバンドではなく、かつてCDを(中古で)買うくらいには気に入っていた。そしてその後もしばらく聞いて……まったく忘れていた。それが突然出てきて、懐かしくてつい聞いてみたんだけれど……


The Ocean Blue - All The Way Blue (Official Video)

まったく変わっていない。曲調、雰囲気、歌詞の感じ、歌い方。まったく同じで、文句を言う必要もないんだが……なんというか……ある種の苛立ちというかもどかしさを感じてしまうのだ。たぶん、初めてこのバンドを聞く人はそういう感じはしないだろう。でも、昔聞いていた身としては、当時まあまあ同世代くらいだった人が、50代のおっさんになって、相変わらず当時とまったく同じことをやっているというのが、なんだかすごくアレだ。おまえ、もうあてどなくさまよう歳じゃねえだろう。はるか彼方はいいけどさあ、もう遠くを見て目をキラキラさせてる場合じゃなくて、その「きみ」ともけじめつけて、道もとっくに探し終えてそれなりに結果出してなきゃいけない歳だろう、お互いにさあ、となんとなく思ってしまうのだ。

なんかすごく初期に、すごく堅実で安全な居場所を見つけて、そこから一切冒険せずに安住した結果、そこから出られなくなってしまった感じ。そして明らかに声は衰えていて、もう後はジリ貧かなあ。もったいない気はする。もっといろいろ可能性はあったし、似たような曲に戻るにしても一回、わけのわからんヘビメタやレゲエ方面に走って「迷走してる」とか言われて、それで原点回帰で戻ってくるならまだ広がりができて、ポストロックみたいなのとつながる動きもあり得たような気がするんだけど。

まあ迷走すればいいってもんじゃなくて、スマッシング・パンプキンズ/ビリー・コーガンとかも、解散したりしてあれこれやって、結局まったく同じことの蒸し返しになってしまったけど。なんかビデオまで、90年代からまったく変わってない。


The Smashing Pumpkins - Solara

もちろん、エリック・クラプトンがいまだにレイラを演奏させられるとかいうのはある。昔惚れてた相手の歌をジジイになって歌い続けるというのは、どうなんだろうねえ。でもそれは懐メロだ。「あの頃は〜」みたいな感じでもある。いまのクラプトンが「レイラ」みたいな歌を作ったら「おまえ、いい歳してまだひきずってたの??!!」と思ってみんなドン引きすると思うんだ。NINのトレント・レズナーも子供ができて「やっぱ子供がいるとあまり fuck とかいう歌は控えたいよねー」みたいなことを言い出して、それで歌がよくなったかといえば、まあおもしろみはなくなったけど、いろいろ悩みはわかるし、音楽的な発展があるのもわかる。

先日、ギブスンについて論難して、以前はディレーニのことも論難したけど、同じテーマだと思うのだ。ディレーニ『アインシュタイン交点 (ハヤカワ文庫SF)』を先日読み返して、すごくうまいなと思うと同時に、こう、小説そのものに対するこだわりよりは、むしろ技巧的な誇示のためだけに存在している計算高い小説だな、という気もした。それは、若気の至りでもあって、それが円熟してくるともっとすごいぞ、と思っていたら、円熟しなかったんだよなー。ディレーニについて書いたとき最後に英語で「でもディレーニ、一度でいいからちゃんと就職したらよかった」と書いたけれど、本当にそう思う。

そういうのをいろいろ見ると、成長ってむずかしいけど、でも必要なんだよなー、と思う。いやおまえが言うな、という声もあるだろうし、うん、こんな文章を書くのはまさに我が身を振り返っての意味もある。だけれど、ぼくがあまり成長していないからといって、成長の必要性がいささかも減るわけではない。成長といっても、おとなしく丸まる必要はないよ。でも歳食って経験積んだだけの蓄積がどこかに反映されないと。

そしてそれは、日本のサブカルが陥った罠でもある。いや、日本だけじゃない。世界的にそうだ。それを言うなら、サブカルだけじゃない。いま、リベラリズムの危機みたいなことがよく言われる。リベラル左翼が現実離れして、本当に広い問題ではなく自己満足な環境だの本当に狭いLGBTだのといった話に流れ、その結果として社会から乖離してしまい、それで逆上してあらゆる人をレイシスト呼ばわりしてさらに支持を落とす——それは成長しなかった結果だし、また成長しないでいいと思えたある時代の産物でもある。これはいつか書かないと。

そしてそれと関連して、これは特に橋本治の陥ったある種の落とし穴でもある。『革命的半ズボン主義宣言』は、高らかな宣言ではあったけれど、それは基本、ぼくは成長しませんという宣言だった。そしてそれは、昭和的な成長のモデルを拒否するという意味では正しかったんだけれど……でもそれがあらゆる成長を拒否する方向に向かってしまった(というのは言い過ぎで彼なりの成長のイメージも少しはあったんだが)のはまちがっていたし、それが晩年の橋本治の、目も当てられないひどさにつながってしまったと思う。若い頃には鋭い直感だけでやっていけたけれど、でもそれがやがて鈍重さと無知に陥る……そういえば、追悼文を書くと言っていて、年内には仕上げるつもりがずっと放ってある。だんだん話がこういう方向に向かってしまい、収拾がつかなくなってしまったから、なんだけれど、でもどこかでキリをつけないと。*1

*1:とはいえ、成長したくないというのもすごくわかるだけにねー。子供が前の保育園の同級生と集まって遊んでいたら、女の子が一人ちょっとはずれで憂鬱な感じだったから、話を聞いたら「XXちゃん、大人になりたくないなー。子供のほうが楽しいなー」とのこと。5歳にして人生の真理に目覚めてしまいましたか。「ママが、ご飯食べないで寝なければ大きくならないって言ってたよ」とのこと。うーん、いやお母さんが言ってたのはそういう意味じゃないと思うけど……仕方ない、次回、ブリキの太鼓を用意しておいてあげましょう!


Tom Waits - I Don't Want To Grow Up

格差の拡大は本当だろうか?——経済学者、格差の数字を見直す(The Economist より)

訳者口上:秋にピケティの新著が出たところで、The Economistの11/30号に格差についての議論を見直す研究についての話が出ていた。おもしろかったので勝手に翻訳。トップ層がすさまじく豊かになっているという見立ては、実はそんなに正しくないのではないか、という研究がどんどん出てきたというお話。ただし、どれも金持ちの豊かさ増大がピケティらの言うほどはすごくないかも、というだけで、金持ちが豊かになっていること自体を否定するものではないので念のため。なお、途中の見出しはオリジナル通りで、全部ある有名な曲の歌詞から。(山形浩生)

www.economist.com

2011年にニューヨークのズコッティ公園での抗議デモに何千人もが集結する10年以上前、フランスのあまり有名でない経済学者が腰を据えて、所得格差についての新しい見方を扱った論文を書き始めた。「我々の研究の焦点は、トップ10%、トップ1%、トップ0.5%などの所得推移の比較となる」とトマ・ピケティは1998年論文で書いた。昔からの共著者エマニュエル・サエズと共に、ピケティはアンケート調査よりも課税データを使う手法の先鞭をつけ、それにより最富裕層の所得をもっとうまく捕捉できるようにした。その結果「1%」が「99%」を犠牲にして大躍進していることが明らかにされた。この研究でウォール街占拠のスローガンが生まれた。

この研究に続き、先進国すべてに見られる格差拡大の原因とその影響に関する研究が爆発的に増えた。ベストセラーとなった『21世紀の資本』(2013)で、ピケティは資本主義の下だと格差拡大こそが常態なのだと論じた。

ピケティやそれに類する各種の研究は、アメリカをはじめ西側世界の相当部分で政治論争の一部となった。アメリカ大統領選で民主党候補トップの二人、エリザベス・ウォーレンバーニー・サンダースは、格差への対策として富裕税を提案した——これはサエズと、ピケティの別の共著者ガブリエル・ズックマンが支持している。ピケティは新著『資本とイデオロギー』(2019)で、格差危機があまりに大規模だからと言って資産課税90%を提案している。

Capital and Ideology

Capital and Ideology

  • 作者:Piketty, Thomas
  • 発売日: 2020/03/10
  • メディア: ハードカバー

確かに現代資本主義はいろいろ歪みが出ている。多くの国では社会移動が下がっている。あまりに多くの企業が過剰な市場支配力を持つ。住宅価格も高すぎる。こうした要因に限らず、様々な原因で富裕国の経済成長は弱いものとなっている。

だが格差についての考えがちょうど、学会から政治の最前線へと進軍を終えたまさにそのとき、研究者たちは格差の見直しを始めた。そして一部の学者は、格差は本当に言われるほど拡大したのだろうか、と疑問視しはじめている——それどころか、一部の指標を見ると、格差はまるで拡大していない。

人々が年にいくら稼ぐか、あるいはどれだけの資産を牛耳っているのかを計算するのは、発狂するほどややこしい。政府のアンケートに答えない人もいる。確定申告で所得をごまかす人もいる。そして何をもって「所得」とするかを定義するのも、驚くほどむずかしい。また、市場で取引されない株式や芸術作品といった資産の価値評価も面倒だ。大量の学者だけでなく、政府職員やシンクタンク研究者たちが、こうした問題を解決しようと群れをなして取り組んでいる。

お金なんてガスだぜ

こうした努力から生じた一般的な見方は、四つの主要論点が核となっている。まず、40-50年ほどの間にトップ1%の所得は激増した。第二に、中間層の所得は横ばいだ。第三に、生産性は高まっているのに賃金はほとんど上がっていない。つまりGDPのますます多くの部分は、利子、配当、キャピタルゲインという形で投資家たちの懐に入り、賃金として労働者の懐には入っていない。第四に、金持ちは成功の果実を再投資したので、富(つまり資産のストックからローン残高といった負債を引いたもの) の格差も高まった。

どの主張も、疑う人はそれなりにいる。だが一連の論文が既存の格差推計を疑問視するにつれて、これらの主張を疑問視する人も増えつつある。

まずトップ所得からだ。トップ所得激増という考えそのものが、アメリカ以外ではかなり危ういものではあった。イギリスではトップ1%の税引き後所得シェアは1990年代半ばと同じままだ。ヨーロッパ各地でも、トップ10%の税引き後所得を最底辺50%と比べた比率は、1990年代半ばから驚くほど安定している。これはパリ経済学スクールのトマ・ブランシェたちの研究結果だ。

アメリカでは、ピケティ、サエズ、ズックマンたちが分析した課税データから見て、元の主張はずっとしっかりしているようだった。だがアメリ財務省の経済学者ジェラルド・オーテン及び議会課税共同委員会の経済学者デヴィッド・スプリンターは、衝撃的な新しい結論に到達している。二人の研究によると、税金と移転を考慮するとアメリカのトップ1%の所得シェアは1960年代からほとんど変わっていないのだ (図1)。

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トップ層のシェアはそんなに増えていない?

税と移転について補正したのは、この二人が初めてではない。アメリカの議会予算局 (CBO) も同じことをしている。その統計によると、トップ所得は1980年代と90年代では急増した。通常、税と移転語の所得は支払い能力補正健康保険の提供が増えてきたことで大きく左右される。1997年に児童健康保険プログラム(CHIP) が多くの若年層に対する健康保険の連邦予算を拡大した。2014年にバラク・オバマのヘルスケア改革が、ほとんどの州でのメディケイド (貧困者向け健康保険プログラム) の受給資格を拡大した。CBOのデータによると、メディケイドとCHIPは1979-2016年で、貧困世帯に対する支払い能力補正移転の80%を占めている。

オーテン&スプリンターのイノベーションは、既存の格差推計で最も有名なものに見られる一連の誤差だと言うものを一歩ずつ補正することだった。たとえば、人々の区分を変えた。ピケティ&サエズの最も影響力の高い2003年論文は、「税区分」のトップ1%を扱っていた。これは普通、まとめて確定申告を行う世帯を指す。だがこれは偏向をもたらす。結婚率は貧しいアメリカ人では大幅に下がった。すると、貧困労働者の所得は多くの世帯に分散することになるのに、トップ1%世帯の所得はそのままの世帯に貯まってしまう。オーテン&スプリンターは、世帯を個人に切り分ける。

別の補正は、1986年にレーガン政権で可決された税制改革についてのものだ。この改革に伴ってトップ所得に生じたように見える変化は、ピケティ&サエズの推計でトップ1%の所得増の4割を占めている。オーテン&スプリンター論文は、これが錯覚だと言う。レーガンの税制改革は、企業が「トンネル」会社となる強いインセンティブをつくり出した。つまり企業の所有者は、利潤を企業の中に貯めておくのではなく、所有者自身の所得として計上するようになったということだ。こうしたインセンティブは1987年以前には存在しなかったので、トップ所得のシェアは1987年以前には過小に申告されていたはずだ。

ピケティ&サエズ論文の数字でも、企業の中に貯まったお金はやがて顔を出す——が、その年がちがっている。企業が内部留保をする (つまり利潤を配当として支払わない) と、企業の価値が高まる。そうした企業の株がやがて売買されると、売り手は確定申告でキャピタルゲインを申告しなくてはならない——これはピケティ&サエズ論文が捕捉しているものだ。

だがキャピタルゲインはまた、売り手が売却するタイミングや株式市場の動きにも左右されるため、変動が激しい。このため、オーテン&スプリンター論文はキャピタルゲインを無視して、むしろ毎年の企業の内部留保に注目する。そしてその利潤を持ち株比率に比例する形で、1986年税制改革の前も後も個人に帰属させた。そして課税されるキャピタルゲインは金持ちに集中しているけれど、労働者たちも免税の年金口座で大量の株式を保有しているのだ。

去年ピケティ、サエズ&ズックマンが発表した論文では、税区分を個人で見て、キャピタルゲインを企業内部保留で置きかえる新手法が採用されている。それでも、トップ1%の税引き前所得シェアが1980年代初頭の12%から2014年には20%にまで高まったとされている。これは彼らが様々な新しい所得源を計上しているからだ。この新しい手法はGDPのあらゆる金額を追跡して配分し、「所得分配による国民会計」をつくり出そうとしている——ズックマンはいずれこれが政府の統計局にも採用されることを期待している。だがこれはなかなか面倒な手法だ。というのもGDPの4割は、個人の確定申告には計上されないものだからだ。そうしたものは政府が意図的に免税にしているか、あるいは申告者が違法に申告漏れしているものとなる。

この表に出ないGDPを個人に配分するのは、科学というよりは職人技だ (だからこそピケティ&サエズのもっと保守的な以前の手法のほうがいまだに有力なのだ)。これを正しく行う方法こそが、この経済学者の2集団の間で最も重要な意見の相違点となっている。

表に出ないGDPの大きな一部は退職用の貯蓄が増えるにつれて、年金システムの中に貯まる——これは免税口座に入っていることが多い。全体として、どちら側の経済学者たちも、この所得は年金貯蓄額に比例した形で個人に配分されるべきだという点では同意している。だがその貯蓄の配分自体を推計しなくてはならない。

オーテン&スプリンター論文は、ピケティ、サエズ&ズックマン論文がこれをやるときにデータの扱いをまちがえたと主張する。そのまちがいというのは、一部のフローについて、実は年金口座の間で起こる既存の貯蓄の振替——あるいは専門用語では「ロールオーバー」——でしかないのに、それを引退貯蓄の所得だとしてしまったことにあるという。『エコノミスト』がズックマン氏に問い合わせたところ、彼はそんなまちがいは存在していない(したがってオーテン&スプリンター論文が行った補正すべてに賛同しない)という。

現金を両手でつかめ

GDPの別のかたまりは、税金逃れのせいで行方不明となる。だが経済学者たちの両サイドは、その犯人の正体について意見がちがっている。オーテン&スプリンター論文は、税金逃れの主導的な研究に頼る。この研究は、アメリ国税局 (IRS) のアンドリュー・ジョンズと、ミシガン大学のジョエル・スレムロッドが2010年に書いたものだ。これはIRSによる税務査察の結果を使い、所得集団ごとの税金逃れを推計している。当初、ピケティ、サエズ&ズックマン論文はこうした数字が金持ちによる税金逃れを過小評価していると主張していた。金持ちは賢すぎてIRSなんかに尻尾をつかまれないから、という。だがもっと最近になると、彼らも自分たちの手法がジョンズ&スレムロッドの研究と実はほとんど同じだと論文で述べている。他の経済学者たちは、ここに割り込んでどっちが正しいのか判断したがっていない。ほとんどは、計上されない所得の配分が面倒だと指摘するだけにとどめる。スレムロッド氏は、まだこの意見の不一致を調べていないという。

既存の格差理論と一貫した形で、オーテン&スプリンター論文は最終的には、課税前所得に占めるトップ1%のシェアは1960年代から上昇しているという結果をだす。ただし、その上げ幅は他の推計よりは低い。

だが生活水準の差に本当に影響するのは、税と移転後の所得格差だ。そしてこの部分では、オーテン&スプリンター論文はほとんど変化が見られないと述べる。一部の経済学者は、こうした数字がメディケイドを含めることで歪んでいると主張する。だが無料ヘルスケアを提供すると格差が減るということは否定しがたい。問題は、こうした「金銭以外の便益」がまともな所得として扱われるべきかということだ。

お金、それは大ヒット

こうした論争の多くは、格差に関する定説の二つ目に対する批判へとつながる。つまり、中産階級が停滞しているという主張だ。ピケティ、サエズ&ズックマン論文はトップ1%の稼ぎ手のシェア増大は底辺50%の犠牲で実現したと述べる。すると、もしトップ1%がそんなに大儲けしていないなら、だれかがその分だけいい目を見たはずだと言うことになる。

そして確かに、格差に関する推計は実にいろいろあるのと同様に、中産所得の長期的な成長についても、推計値にはすさまじい開きがある。シンクタンクであるアーバンインスティテュートのスティーブン・ローズによるレビュー論文は、1979-2014年のアメリカの実質メジアン所得成長について、可能な数字が6つあるという。下はピケティ&サエズの2003年論文の手法による8%下落というもの、上はCBOの手法を使う51%増大というものになる。

格差に関する第三の定説——生産性増大が所得増大を上回っているというもの——は、ピケティ氏のベストセラー『21世紀の資本』の中心的な議論だった。それが本の題名になっているほどだ。その主張によると、所得分布のてっぺんに新しい金利生活者階級が生じていて、そうした人々は働くよりも投資や相続によりほとんどのお金を得ているのだという。これは、先進国のあらゆるところで見られる、GDPのうち労働者ではなく資本に向かう比率が増えているというデータとも整合しているように見えた。だがこうしたデータもまた、ますます精査されつつある。

21世紀の資本』から間もなくして、現在ノースウェスタン大学のマシュー・ロンリーはアメリカの資本シェア増大は住宅の収益が増えていることで説明がつき、アメリカ世帯のトップ1%が突出して保有している株や債券では説明できないと論じた。

2019年2月に発表された別の論文で、別の経済学者たちがアメリカのトップ1%の稼ぎ手たちについて、どこから収入を得ているのか調べた。その所得の大半は、トンネル会社からやってくるものだった。こうした利潤は、投資収入とまちがわれやすい。だがこの論文の著者たち——アメリ財務省マシュー・スミス、カリフォルニア大学バークレー校ダニー・ヤガン、プリンストン大学オーウェン・ジダー、シカゴ大学エリック・ズウィック——は、トンネル会社の利潤はその所有者が引退したり死亡したりすると四分の三が消えることを発見した。つまりそうした稼ぎのほとんどは労働に依存していることになる。多くの医師、弁護士、コンサルタントはトンネル会社を運営している——そうした人は、本当は自営業と判断されるべきだ。その所得を資本シェアに含めることで、資本シェア増大が過大になっていたわけだ。

最近になって経済学者たちは、こうした批判を国際的に広げた。近年のワーキングペーパーで、フランス銀行のジルベール・セテ、ニューヨーク大学(NYU) トマ・フィリポン、フランスINSEEのロレイン・ケールは自営と不動産所得が引き起こす歪みを補正した。すると労働シェアはアメリカでは2000年から下がっているが、先進国すべてで見られるような普遍的な低下は見られなくなった。NYUのゲルマン・グティエレスイングランド銀行ソフィー・ピトンも同じ結果を得ている(図2)

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アメリカ以外では格差拡大はそんなにはっきりしない

格差に関する定説の最後、4番目も攻撃されている。これは富の格差に関するものであり、昔から最も判断のむずかしい種類の格差だ。どんな格差指標でも、個人を追跡するのではなく、人口のある塊を追うにすぎないという事実でかなり歪んでしまう。そうした塊は、見る時点が変われば構成員も変わってしまうのだ。個人にとって、将来の所得増大が高まるという予測因子として最も優れているのは、貧しいということになる。というのも統計的に、平均回帰という現象が見られるからだ。

たとえば、2013年のオーテン氏と、アメリ財務省の同僚ジェフリー・ジーおよびニコラス・ターナーは1987年に35-40歳だった個人の所得を20年以上にわたり追跡した。1987年の最下位4分位の平均稼ぎ手は、この期間に実質所得が100%以上も増えた。トップ4分位の平均稼ぎ手は実質所得が5%低下している。2002年のトップ1%の稼ぎ手のうち、5年後にトップ1%に残っていたのは半分に満たない。コーネル大学トマス・ハーシュルの研究によると、アメリカ人の11%は25歳から60歳の間に少なくとも一年はトップ1%に入るという。

オレの札束に手を出すな

富の格差の場合、この構成員の問題はさらに大きな問題となる。富は人々が引退に備えて貯金することで貯まる。つまり、富は高齢になれば、特にまだ働いているうちに増える傾向があるということだ。だから多くの人は、人生のどこかで全人口でみれば相対的に金持ちに見えるようになるはずだ。さらに貧困個人が貯金して富を蓄積するニーズは、年金や公共サービスがあれば低下する。すると、社会民主的なスウェーデンで富の格差が極度に高い理由はなぜか、さらにほとんどだれもそれを問題視していないのはなぜかという謎も説明がつく。

2016年のサエズ&ズックマン論文は、アメリカ世帯のトップ0.1%が持つ富のシェアは1978年に7%だったのが2012年には22%、ほとんど1929年の水準に上がったと述べている。サエズ&ズックマン論文はてっぺんでの富について自分の推計値を使い、ウォーレン候補やサンダース候補が提案している富裕税が毎年どれだけ生み出すかを予想している。ウォーレン候補の富裕税は、当初は5千万ドル以上の財産にかかるもので、最も豊かな世帯3%に適用され、年にGDPの1%に相当する歳入を生み出す、という (ウォーレンはその後、最高税率を2倍にした)。

この推計は広範な批判を招いた。サエズ&ズックマン論文も検証を受けた。彼らの富の推計は、一部は確定申告に見られる投資収入を調べることで得た物だ。ある所得カテゴリー、たとえば株式や、「確定利回り」投資 (債券など) については平均の収益率を想定し、それを使って個人に富を帰属させている。たとえば、ある投資の想定収益率が5%なら、所得額を20倍することで投資規模が推計される。

スミス、ジダー&ズウィックのワーキングペーパーはこの手法を拡大した。だが収益率の想定にもっと幅を持たせた。特に確定利回り投資の収益率が大幅にちがっているというアンケート調査のデータを挙げている。たとえば底辺99%は、確定利回り資産の70%近くを銀行預金で保有していると言う (銀行預金の利息はゼロかきわめて小さい)。だがトップ0.1%の数字は20%以上ではない。

最もたくさん確定利回り資産を持つ人々は社債を持つ可能性が高い。高リスクだが収益率も高いからだ。利回りが高いということは、資産推計を行うときに掛ける数がもっと小さくなるということだ。近年のように利子率が低いとこれは大きなちがいをもたらす。たとえば収益率を1%で想定したら、0.5%で想定した場合にくらべて推計資産額は半分にしかならない(これが4.5%と5%のちがいならそんなに大きな差にはならない)。

こうした変更に、トンネル会社をきちんと考慮するなどその他の補正も加えることで、スミス、ジダー&ズウィック論文は富の世帯ランキングを新たに作り直し、トップ0.1%のシェアはわずか15%だとしている。もっと重要な点として、1980年代以来のトップ層の富のシェア増大も半減する。サエズとズックマンは、この前提に反論している。だが最低でもこの論争は、資産推計がいかに面倒なものか、そしてその推計値が不確実な要因についての想定の変化に対してどれほど敏感かを示している。そしてこれは、各種の富裕税がもたらす歳入額も同じくらい不確実になるということを意味する。

アメリカで、トップ層の資産シェアが増えたことについては、ほとんどだれも異論がない。さらにその増大が、本当にエリートと呼べる人びとの中でも最頂点の人々の財産に左右されていることもみんな認める。むしろはっきりしないのは、その増大がどれほどか、ということだ。

おれの取り分を奪うな

国際的には、この構図はずっと不明確だ。ストックホルムにある工業経済学研究所のダニエル・ワルデンシュトレムによると、資産分布のよいデータはアメリカ以外だと3カ国にしかない——イギリス、デンマーク、フランスだ。こうした国々では、過去数十年にわたり格差にはっきりしたトレンドを指摘するのはむずかしい(図3)。コペンハーゲン大学のカトリン・ヤコブセンら (ズックマン氏も含む) の研究によれば、デンマークのトップ1%の資産シェアは1980年には上がったが、その後はほぼ横ばいだ。フランスで富の格差が広がっているように見えるかどうかは、資本収入を見るか相続を見るかで変わってくるとワルデンシュトレム氏は語る。

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他の国でもトップは豊かになってはいるが……

この大量の新研究は、格差についての人びとの見方を変えるだろうか? これは最終的には、経済学者たちが各種の論争に決着をつけるなかで、どの学者たちが生き残るかで決まってくる。データの改善余地はいくらでもあるので、ピケティ、サエズ&ズックマンの批判者たちも結局まちがっていたということになるかもしれない。そして格差が多くの人の思っているほどは広がっていなくても、貧困者と金持ちとのギャップはいまだにがっかりするほど大きい。

この長く血みどろの学者バトルが続く間、政策担当者としては慎重に歩みを進めるほうがいい。高所得者への税率を激増させたり、純資産に課税したり、あるいはピケティの新著に見られるようなはるかに過激な提案などは、まだ部分的にしか理解されていない問題への対応となるのだから。

スノーデン暴露の背景解説書……その前に各種スノーデンインタビューの不思議。

スノーデンがらみで、さらに関連書を読んでいる。スノーデンが直接登場した各種の本を離れて見ると、土屋大洋『サイバーセキュリティと国際政治』はスノーデンを手がかりに現代のサイバー環境、国際政治、監視社会と自由のジレンマまで、広範な内容をきわめて手際よくまとめた、ぼくが読んだ中でベストの本だと思う。

サイバーセキュリティと国際政治

サイバーセキュリティと国際政治

が、その前に、これまでに採りあげたもので首を傾げるところがあって吐き出しておきたいので、まずはその話から……

日本の各種スノーデンインタビューは、なんだかずいぶん不思議な代物ばかり。

その首を傾げるところというのは、スノーデンのインタビューだ。ポイントは二つある。どの本でも、スノーデンはとってもサービス精神旺盛でいっぱいしゃべってくれたようだ。が、そのいずれでも、スノーデンが日本の事情に詳しすぎる。しかもその詳しさは、やたらに特定の方向に歪んだ詳しさになっているのだ。どうしてだろうか?

さらにスノーデン文書の中で日本について触れたものがNHKの協力などで公開されている。でもその中身について、当然疑問に思うはずの中身をだれもつっこまない。どうしてだろう?

スノーデンインタビューの不思議 :スノーデンは日本の事情に詳しすぎるのでは?

どのインタビューも、そこそこ分量はある。監視社会の恐ろしさ、自分の暴露に到る過程、ロシアでの亡命について、といった定番の話をどれでもやっている。というか、定番の話しかしない。そしてその定番の話の一つが、日本も監視社会だ、政府を信用するな、という話だ。それも、一般論や理念の話ではない。スノーデンは自ら、秘密保護法はやばい、共謀罪はやばい、日本政府=安倍政権はいろいろ隠そうと画策しているのだ、と述べる。

さて、そういう見解はあり得るだろう。でも、ロシアに亡命中のアメリカ人が、日本の状況についてそこまで詳しいものだろうか?秘密保護法に何が書かれているか、共謀罪がどんな規定か、英語できちんと説明する資料がそんなにすぐに手に入るんだろうか?

スノーデンは、日本ではテロはないから共謀罪いらないとか、秘密保護法なくても秘密は保護できる法体系があるとか言う。でもそう断言する割には、彼が具体的に念頭においているのはどういう規定なのか、その規定をどう適用すれば秘密保護法と同じ保護がすでに実現できていたかについて、具体的なことは何も言わない。通常、ぼくが開発援助なんかの現場で相手国の制度や法案の不備についてあれこれ論じる場合には、向こうの法体系についてそれなりに知る必要がある。社債法案のこの規定はいらないだろう、と主張する場合には、おまえたちの既存の債券法の何条にコレコレの規定があってこれと矛盾するとか重複するとか具体的に主張する。そうしないと、ガイジンが印象や思いこみでモノ言ってると思われかねないもの。ぼくでなくても、普通はそういう配慮をする。しなければ突っ込まれる。でもスノーデンのインタビューには、そういう具体的な話がないまま、なんか日本の一部勢力とまったく同じ発言が並ぶ。

さらにはどこかワイドショーのアナウンサーが反アベで辞めさせられたとかいうヨタまで知ってて、それがジャーナリズムの弾圧とか言ってる。さてそうだっけ?そもそもキャスターと称する連中なんてジャーナリズムじゃないじゃん。それにアベ憎しで不勉強なヨタ飛ばしている三百代言がいまも昔もテレビにたくさん出てるけど、一向に弾圧されてないじゃん。スノーデンは本当に日本の状況を見て、言論弾圧が行われていると考えたのか?

さらにスノーデンは、日本のマスコミ事情にも詳しい。スノーデン暴露による監視問題がマスコミに採りあげられないのは、そういうのを採りあげると政府ににらまれて、ソフトな弾圧にあうからなんだって。役所の人が質問に答えてくれなくなったり、情報をくれなくなったりするんだとか。本当かなあ。政府に限らず、人が自分たちに都合の悪い質問には答えたがらなかったり、必要最低限の情報しか出さなかったりするのは、どこでもあることじゃないか? よいことかどうかはともかく、政府の言論弾圧と言えるものではないだろう。

またこうした法制に、国民みんなが反対してるというんだけど、そうだっけ? ぼくの知る限り、とうてい国民がみんな反対しているという状況ではなかった。賛成している人、秘密法が必要だと主張している人も結構いたぞ。なぜスノーデンは、それが反対一色だと言えたんだろうか?

さらにはモリカケ問題まで知っていて、政府が情報を隠してる証拠だと言う。が、そうだろうか? モリカケはほぼすべて、政府はおおむね説明資料を出し、野党その他が勘ぐっているような首相が無理矢理いろんな規定を強権的に曲げたような事実は一向になかったように記憶している。だからこそ、首相の意図が証明できず、周囲が勝手に配慮したという「そんたく」とかいう変な用語が流行語にまでなった。籠池という人物も、怪しさ全開で安部首相とのつながりなんかろくにない。学校に名前をつけるとかいう話もヨタだった。出てきた「資料」と称するものは、フォントや書式その他がいろいろ怪しい正体不明の文書だった。そして、野党は自分たちの期待どおりのものが出てこないと「疑惑は一層深まった」と言うだけ。全体として国会の時間を無駄にしたバカな話だったと思う。資料の破棄はあったけれど、それはどう見ても、財務省が入札をしなかった自分たちのヘマを隠すためのものだった。けしからんことだけれど、枝葉の話にすぎない。カケのほうは、獣医学部の創設の申請すらさせない文科省の変な利権が浮き彫りになって、そもそもそれを乗り越えるための特区だろう、というのがはっきりしただけだったように思う。

さて、スノーデンはホントにそのモリカケ問題を見て、その中身を理解し、それが問題だと言ったのか? 本当に自分でそこまで日本の事情を調べていたのか? そこまでモリカケ問題について報道されてたの?

(付記:日本の新聞の英字版を読んでいたら、そんな印象を受けたのかもしれない、という気はしないでもない。その一方で、いずれの事件もかなりセコイどうでもいい話で、それをもって政府の隠蔽が大問題だ、と主張するほどのものではないことはわかりそうなもんだとも思う。そういう事件が日本各地で10件も20件も出てきました、というならシステミックな問題と言えるだろう。トランプなら、あっちでサウジにトランプタワー建て、こっちで自分の施設に軍を泊まらせ、あっちで規制を曲げ、と次々に出てくるから政権全体の隠蔽と利益誘導の問題と十分に言える。でも無数にある国有資産売却で1件、各種の新設案件のなかで1件、しかも何も決定的なものがないとなると、どうよ)。

ホントの発言が聞きたいと思ってニコニコ動画にお金払ったけど、同時通訳の声しか聞こえず当人の発言が聞こえない。でも本人が言ったにしても、外国の法規制の体系や事情をそこまで細かく理解しているとはにわかには信じられないし、がんばって予習した結果だとしても、それがスノーデン自身で行ったものならば、招聘者たちの主張とここまで細かく一致するってホントだろうか? どうしても、スノーデンが何か事前のブリーフィングを受けて入れ知恵されてるのではと勘ぐりたくなってしまう。そうでなければ、よほどサービス精神旺盛で、ホスト役の意向を完全に把握してそれに合わせてくれたのかもしれない。が、その場合であっても、ここまで細かく一致するものだろうか?

スノーデン関連本の不思議 2:XKEYSCOREの日本提供にどうしてだれも突っ込まない?

もう一つ、これはちょっとマニアックな話ではあるんだけど、スノーデンの日本関連文書では、XKEYSCOREが日本に提供されている、というのが(ほぼ唯一の)大きな話ではあった。日本でスノーデンを担いだ各種の本も、それをここぞとばかりに叩いている。当のスノーデンも、それを繰り返し指摘する。

さてXKEYSCOREは、NSAのソフトで、そこに名前その他を入れるだけで、その人に関する過去のあらゆる通話、メール、ウェブの閲覧暦、SNSなどがずらずらっと表示され、その人のすべてがわかってしまう、というおっかないソフトだ。それが日本に提供されている、となると、いまやぼくの名前を入れただけでぼくのアダルトサイト鑑賞履歴からツイッターの裏アカから何か全部わかってしまうのかな、というふうに思ってしまうのは人情だ。

でも、まずXKEYSCOREが提供されたというとき、どこまで提供されたの? つまり、NSAが抱えているそのあらゆる通話通信の完全保管データベースに日本がアクセスさせてもらえるということ? それとも、そのフロントエンドだけなの? あるいはNAMAZUみたいな検索のインデックス作成部分だけ? それで話はかなり変わってくると思うんだけど、聞いている人はだれもそこに突っ込まない。

その収集データは、ある意味でNSAの虎の子だと思うんだが、それを完全に使わせてもらえるならすごい話で、純粋に技術おたく的な感覚からするとすごいお得感があるようにさえ感じてしまうけれど(もちろん監視という点ではおっかない)、ホントにNSAはそんなものを好き勝手に日本にアクセスさせるの? スノーデンによると、日本は同盟国の中で「サードパーティー」と呼ばれてあまりランクが高くないそうなんだけど、そんな下っ端に、そんなすごいデータをすべて提供するんだろうか。

テッキーでない人々はもちろん、「ソフトウェア」というものに具体的なイメージがないから、「すべてをコントロールするソフト」「すべてを監視するソフト」みたいな話を特に疑問も抱かず受け入れてしまう。でもキャットウーマンですら『バットマンダークナイトライジング』で「そんなもんあるわけないだろ」と悪玉に嘲笑されてしまうのだ。以下の1:50あたりからね。


The Dark Knight Rises The Clean Slate Scene

(まあこれは映画だから、最後にバットマンがそのあり得んソフトを持ってきてくれるんだけどさ)

でもそんな単純なものではないはず。もちろんスノーデンも、細かいところまではわからないだろうけれど、これを他国に提供するという場合にどんなやり方が考えられるのか、くらいの話は確認してもいいんじゃないだろうか。

さらに、XKEYSCOREと並んで日本に提供されたと書かれているソフトが他に二つあるんだけど (WEALTHYCLUSTERとCADENCE)、それって何なの、という質問をだれもしていない。みんなXKEYSCOREやばい、というだけでおしまい。うーん、あなたたち、本当に日本とNSAなどの諜報活動の実態に興味あるんですか?

スノーデン文書の中身に本当に興味あるんなら、だれかしらそういうことを聞いてもいいんじゃないかとは思う。もちろん、インタビューした連中がみんな技術的にタコでそういう方面に頭がまわらなかったという可能性はある。その一方で、どのインタビューを読んでも、スノーデンはほぼ同じことを聞かれて、同じ事を答えてるだけ。なんだろう、これは?

だからいくつか出ているインタビュー本を読んでも、やたらに重複が多くて突っ込みが浅く、あまり読んだ甲斐がないように感じられる。

土屋『サイバーセキュリティと国際政治』:スノーデンを手がかりにもっと広い背景まで扱うベストな副読本

サイバーセキュリティと国際政治

サイバーセキュリティと国際政治

いくつか読んだ中で、これが最も優れた本だと思う。スノーデンの暴露について、その背景を押さえつつ、もっと広いいまの情報環境全般と、その中での監視社会と自由との相克、国際政治における諜報活動の役割の中での位置づけまで説明してくれる。

この本は、スノーデンの暴露についてはそれなりに評価している。そして、それがまったく目新しいわけではない一方で、なぜ画期的だったのかについてもきちんと書く。一方で、スノーデンの主張を鵜呑みにするわけではない。スノーデンによると、政府/NSAはとにかく9.11に便乗して自分たちの活動を徹底的に広げて権益を確保したかっただけだ。確かにそういう面もあるだろう。でも一方で、むしろ情報機器や通信量が莫大になったために、ピンポイントの監視においてすら従来のやり方では困難になっているという状況は確かにある。そして監視そのものより、保存と分析のほうがボトルネックになっていることを本書は指摘する。かつての信号諜報は、手紙と電報電話だけ押さえればよかった。いまはそうではない。だから、監視能力が拡大していることだけを取り沙汰するのは、必ずしもフェアではない。監視されるほうも拡大しているのだから。

スノーデンですら、きわめて制約された形でピンポイントで行うなら、盗聴、監視は正当化されると述べる。でもその正当化される監視も、現状の情報環境ではかなり広い捕捉を行う必要が出てきてしまう。スノーデンは、オバマが当初は透明性の高いオープンな政府を公約しつつ、実は大量監視に加担していたことを失望とともに語る。でもオバマが聖人だとは思わないけれど、「これで国民のやること全部わかるぜ、うっひっひ」とダークサイドにいきなり転向したとも思わない。土屋は、それを現在の自由と安全とのジレンマの中でオバマが下さざるを得なかった苦渋の選択の結果だろうと考える。少なくとも、そう見ることは十分に可能だ。それに賛成するかどうかはともかく、そういう見方が決して完全なナンセンスではないことは、念頭においておく必要がある。

そもそも、サイバー空間の中で何が容認されるのか? そこは本当に、完全にだれが何でも自由にできる、プライバシーの確保された空間であるべきなのか? それですら合意があるわけではない。この本は、その点についても述べる。そもそも、プライバシーとは何だろうか? そういう根本的な話も本書はきちんとしてくれる。

そして最後に本書は、安全保障という問題に立ち戻る。ぼくたちは、自由と民主主義こそが安全と繁栄をもたらすのだ、と考えがちだ。でも実際には……安全が保証されているからこそ、みんな自由にふるまえて、民主主義も栄えるというのが実態のようにも見える。その場合、優先すべきなのは何なのか? スノーデンを担いだ日本の他の本みたいに、とにかく政府信用できない、監視社会あー恐ろしい、というような本ではまったくない。スノーデンの話をもとに、それをもっと広い視野で見直させてくれる、極めてすぐれた本で、副読本としてベストだと思う。

その他

他の本として、ライアン『スノーデン・ショック――民主主義にひそむ監視の脅威』は、やはりスノーデンの話をもっと広い文脈の中に置こうとした本だけれど、その「広い文脈」は実はそんなに広くなくて、監視社会よくない! 民主主義の敵! というだけ。つまりは、題名以上のことはわからないということだ。そしてそれを言うのに、どうでもいい小説や哲学の話をいろいろちりばめてみせるけれど、全体にとっちらかっていてぼくはあまり感心しなかった。この人、小笠原みどりの先生なの? 彼女とスノーデンの橋渡し役でもあったようだ。彼女の、いろんなものが整理されない書きぶりと非常に似ていて、この師匠にしてあの弟子あり、という感じはする。

また三宅『監視社会と公文書管理――森友問題とスノーデン・ショックを超えて』は、森友問題とスノーデンの話を無理につなげようとして成功していないように思う。上に書いたような理由で、ぼくは森友問題はまともな「問題」と思っていないので、それを題名に掲げる時点でかなり色眼鏡で見てしまうというのもあるだろう。確かに公文書管理をもう少しきちんとすべきだ、というのはあるし、森友話で多少それが関係してきた部分はある。でもそれは役所の保身と、統計調査資料破棄に見るような予算をケチった問題でもある。監視社会という話とは遠く、スノーデンを持ち出す理由もないのでは?

挙げ句に、豊洲市場移転の話まで隠蔽だなんだと(いまだに)言うんだが、あれはすべて言いがかりで経緯も問題なかったし、構造的にも何ら疑問はなく、汚染物質が基準の〜とかいうのも、飲むわけでもない湧水に飲料水の基準を適用したピントはずれの全然無問題な話でしかなかく、むしろ騒いだ側が小池百合子の無知なメディアパフォーマンスに踊らされ (あるいは小池のほうが乗せられたとも言えるが、同じことだ) 豊洲地区に風評被害をもたらしただけだった。むしろ豊洲市場の騒ぎ、さらにはモリカケの一見で明らかになったのは、情報の隠蔽とか正しさとかいうものを問題にする場合、情報を出す側だけでなく、それを受け取る側の理解力 and/or integrity が問われるということだ。きちんと情報があっても、それが理解できない、あるいは理解しないふりをして情報がないない、隠蔽だと騒ぎ立てる人が何やら政治力をもってしまう——ぼくはこちらのほうが大きな問題だという気さえする。この受け手側の能力不足という問題を抱えた人が、政府の公文書管理の適切さを判断できるのだろうか?

ウルーソフ『遠い蟻たちの叫び』

以下の本に収録。

当時のソ連ならではのテーマを、当時のソ連において唯一可能だった文学という形式でしか書けないやり方で書いた異様な傑作。必然性もなしに社会問題にすり寄り、必然性もなくそれを小説化してみせて悦にいるいまのほとんどのブンガクに比べ、書かずにはいられないことを、小説にしかできないために小説にしたすごい作品。他にこの人の作品は知らないけれど、この一作だけでもぼくはペーター・ハントケの10倍は価値があるとは思う。

OCRしてみたが、昔の活字は機械可読性が低く、かなり打ち直す羽目になった。

アレクサンドル・ウルーソフ『遠い蟻たちの叫び』

誤字などお気づきの方はご一報いただければ幸い。OCRのありがちなまちがいは、濁点と半濁点、「こ」と「と」、「米」と「来」、「闇」「間」「聞」で、つぶしたつもりだけれど見落としあると思うので。

スノーデンの公表した日本関連文書

昨日、スノーデン関連の本をざっとレビューしたとき、小笠原みどりの『スノーデン・ファイル徹底検証』についてかなり論難した。

これはほとんどが、 Interceptが出したスノーデン文書をネタにしたものだった。でも、そもそもこのInterceptの出した文書というのはどういうもので、どんな文脈だったのか? 小笠原本があまりにひどかったので、好奇心にかられて見てみました。そして、そっちがあまりにまともだったのでおどろいた。というわけで、勝手に翻訳したからみなさんも読んでね。

cruel.org

(原文はこちら)

小笠原本は、この記事と開示文書をもとに、一言一句に自分語りと自分のイデオロギーをまぶして本一冊にふくれあがらせたものだった。そしてとにかく日本はNSAと協力してる、陰謀に加担して、あーおそろしい、いやいや、秘密保護法いくない、アベガー、という話になっていた。

でも、この記事を読んでみて、みなさんはどう思っただろうか? ぼくはそんなに日本やべー、という印象は受けなかった。むしろ、日本がんばってるじゃん、という印象だった。なんでもアメリカの言いなりかと思ったら、そうじゃないよね。自分の立場も保って、おかげでアメリカ側もかなり気を使っている。大韓航空機事件から諜報の提携が始まっているというのも興味深いところ。

それ以外の話はどうだろうかNSAが日本に拠点を持っている——まあ持ってるだろうねえ。日本がその施設建設費とか運用費用とかを負担させられている——日米安保思いやり予算とかあるからなあ。その範囲内ではそういうこともあるだろう。諜報だって軍事活動の一環なんだから。小笠原本は、日本の三沢基地でのSIGINTがアフガンとかの爆撃など作戦行動に使われるといって、人殺しの片棒担ぎだと騒ぐけど、ぼくはそれがそんな騒ぐことだとは思えない。建前やお題目はどうあれ、軍事基地なんだし、そこにある戦闘機や銃器が戦闘で殺傷に使われないはずがない。そこで集めた情報がその支援に使われることだってあるだろう。そしてその細かい内容がわからないのは、日米安保という枠組みで国の基本機能である防衛の一部を委ねている代償としてのお約束事だ。その仕組みを受け入れるなら、ぼくはここに書かれたような内容はそれほど衝撃だとは思えない。

それを衝撃だと言いたい人たちはもちろん、日米安保という仕組み自体を受け入れたくない、ということなのかもしれない。が、それは話の次元がちがってくる。

一方、NSAは日本に対しても諜報活動を行っているとか、アメリカにいる日本人に対して盗聴を行ってるとか、まあ気分はよくないけど、でもそれはそういうもんだろう。日銀なんて盗聴するだけ無駄だとは思うけど。ぼくの一家ですらやられたし。

cruel.hatenablog.com

捕鯨委員会でNSAが盗聴してじゃましくさって、モラトリアム継続になったって、テメーら許せん! と日本人のプライドがうずく面はあるけれど、国際会議はそういうかけひきだしなあ。

唯一アレなのは、日本にXKEYSCORE提供しているという話。どういう使い方してるんだろうね。これは興味ある部分ではある。

でもそれ以外は、小笠原本のように、とにかくやばい、まずい、監視国家、日本も加担、ろくでもない、という話にはぼくは感じられなかった。日本は自分で各種の諜報活動をしているし、その中には当然ながら自国民に対するものもあるだろう。でもそれはNSAともスノーデンともほとんど関係ない話だ。それを無理にからめたために、小笠原の本は話が本当にわけわからなくなっている。

この文書はNHKのクローズアップ現代との協力で公開されたものなんだけど、小笠原本は丸一章かけて、その番組の中で共謀罪の話が出なかった、というのをウダウダ言い続け、それが政府へのソンタクだ、国家の情報統制だとわめきたてる。でもこの記事を見ると、単にほとんど関係ないから、というだけの話にしか思えない。土屋大洋が番組内で、むしろ公表資料は日米間の協力ができている話と見るべきでは、とコメントしたのも偏向発言であるかのように言うのだけれど、彼の言う通り、一方的に指図されているのではない関係が十分に見える資料だと思う。

さらに小笠原本は、人工衛星受信用の巨大アンテナについて、近隣住民が電波で健康被害を訴えて〜とかいうヨタを平気で垂れ流す。この記事にもあるとおり、アンテナが巨大なのは微弱な人工衛星の電波を受信するためであって、送信してるわけじゃないんだから、電波で健康被害なんてあるわけないじゃん。

有益な議論をしたいなら、きちんと話を切り分けないと。まずこの記事くらいの中身をきちんと紹介し、歴史と文脈を考えたうえで、それをもとに自分の主張をからめるならいいけど、とにかく思いつきでなんでもくっつけるだけでは、まったくお話になりません。

スノーデン関連書紹介

このたび拙訳で、エドワード・スノーデンの自伝が出ることになった。我ながらものすごい勢いで訳したので、やろうと思えば9月の原書発売と同時発売も可能だったと思うけれど、なんだかんだで11月末になりました。

自伝は自伝としておもしろいのだけれど、そもそものリークした文書の中身についてはあまり記述がない。また当人の目からの話なので、周辺の状況は必ずしもはっきりしないし、それに当人の話を鵜呑みにする必要もないだろう。ということで、日本語で読める関連本に一通り目を通して観ました。

グリーンウォルド『暴露』

暴露:スノーデンが私に託したファイル

暴露:スノーデンが私に託したファイル

スノーデンが香港で暴露を行った、グリーンウォルドの著書。具体的にスノーデンが公表した資料の中身について細かく書いている唯一の本。スノーデンの暴露文書が何を述べていたか知りたければ、これを読むしかない。必読の1冊。具体的な文書のスクリーンショットも、一部とはいえ載っている。また、パートナーが嫌がらせを受けたりラップトップ盗まれたりする後日談も。これはポイトラス監督『シチズンフォー』にも登場した。

グリーンウォルドはその後、自分で独立メディア The Interceptをたちあげ、スノーデンのファイルを小出しにするとともに、各種の調査ジャーナリズムを実践している。

ハーディング『スノーデンファイル』

スノーデンファイル 地球上で最も追われている男の真実

スノーデンファイル 地球上で最も追われている男の真実

イギリス側からの視点でスノーデンの暴露について述べたルポ。ただし周辺状況に関する説明が主体。「スノーデンファイル」というから公表したファイルの話かと思ったら、実際の文書の中身についてはあまり触れていない。また触れられている部分も、PGPが1970年代から導入されていたとかいうとんでもないことを書いているし、技術的な部分に関してはぼくはあまり信用していない。オープンソースのブラウザ FirefoxNSAなどの裏口が仕掛けられてるって、ホントですか?

スノーデンの生い立ち、香港での暴露に到るプロセス、その後ユアン・マックアスキルが報道を行ってからの顛末について述べられている。伝記的な部分は、スノーデン自身の「独白」とほぼ同じ(あたりまえだが)。

ただし、いろいろな部分が外からの視点で語られるのはおもしろい。たとえば、香港から出た後でのロシアの状況。なぜロシアに向かったかという邪推などは、いまとなってはピントはずれではあるけれど、当時の人々の混乱についてはよくわかる。スノーデンはもちろん自分側の視点しかしらないけれど、この本はそれを取り巻く状況、モスクワにやってきた記者や弁護士についての話などもたくさん書かれている。この部分は自伝では意図してか、あまり詳しくない。またウィキリークスとの関係についても、自伝では流し気味だが、この本ではきちんと周辺情報も含めて語られている。このため、自伝とあわせて読むと状況の理解が深まる。自伝で書かれているほど単純ではなかった模様ではある。

それも含め、その後、NSAがドイツでメルケルの携帯電話盗聴をやらかしていた話なども含め、告発が行われた後の顛末に関してはこの本は非常に詳しい。最後は『ガーディアン』に渡った文書がイギリス政府/GCHQにより完全破棄が命じられ、ハードディスクを物理的に破壊しなけれればならなかった話でおもしろい。『ガーディアン』内部やその政府との各種応酬が詳しく書かれている。実際に破棄する風景は、ポイトラス監督『シチズンフォー』の最後に映像が出ており、それを見ると迫力あり。

ポイトラス監督『シチズンフォー』

スノーデンが告発のために接触した最初のジャーナリスト、ローラ・ポイトラスによるドキュメンタリー。実際の香港での暴露の現場の映像は、緊迫しているはずなのに呑気で、かえってリアル。長い映画ではないので、是非ご覧あれ。

シュナイアー『超監視社会』

超監視社会: 私たちのデータはどこまで見られているのか?

超監視社会: 私たちのデータはどこまで見られているのか?

スノーデンの話を見ていると、つい政府の監視やデータ収集にばかり意識が向きがちだけれど、自伝でもスノーデンは民間企業との結託を非常に憂慮している。この本は、政府、民間を問わず (そして両者が結託しているならそれは同じようなものだ) 各種のプライバシー侵害、データ収集、監視について、スノーデンの暴露を含めてまとめ、そしてそれに対してどう対応すべきかを、政府、企業、個人、社会のそれぞれのレベルで提案してくれる。

もちろんシュナイアーはコンピュータセキュリティ業界では権威級の人物。『ガーディアン』に依頼されてスノーデンの持ち出した文書の査読なんかもしていて、その成果が本書にもいかされている。スノーデン自伝の訳者あとがきで、ぼくも個人向け多少のセキュリティ実践のすすめを書いたけれど、この本での提言は山形なんかとは分析も提言の詳しさも段違いではある。

土屋『サイバーセキュリティと国際政治』:スノーデンを手がかりにもっと広い背景まで扱うベストな副読本

サイバーセキュリティと国際政治

サイバーセキュリティと国際政治

(この本についてはこちらから転載) いくつか読んだ中で、これが最も優れた本だと思う。スノーデンの暴露について、その背景を押さえつつ、もっと広いいまの情報環境全般と、その中での監視社会と自由との相克、国際政治における諜報活動の役割の中での位置づけまで説明してくれる。

この本は、スノーデンの暴露についてはそれなりに評価している。そして、それがまったく目新しいわけではない一方で、なぜ画期的だったのかについてもきちんと書く。一方で、スノーデンの主張を鵜呑みにするわけではない。スノーデンによると、政府/NSAはとにかく9.11に便乗して自分たちの活動を徹底的に広げて権益を確保したかっただけだ。確かにそういう面もあるだろう。でも一方で、むしろ情報機器や通信量が莫大になったために、ピンポイントの監視においてすら従来のやり方では困難になっているという状況は確かにある。そして監視そのものより、保存と分析のほうがボトルネックになっていることを本書は指摘する。かつての信号諜報は、手紙と電報電話だけ押さえればよかった。いまはそうではない。だから、監視能力が拡大していることだけを取り沙汰するのは、必ずしもフェアではない。監視されるほうも拡大しているのだから。

スノーデンですら、きわめて制約された形でピンポイントで行うなら、盗聴、監視は正当化されると述べる。でもその正当化される監視も、現状の情報環境ではかなり広い捕捉を行う必要が出てきてしまう。スノーデンは、オバマが当初は透明性の高いオープンな政府を公約しつつ、実は大量監視に加担していたことを失望とともに語る。でもオバマが聖人だとは思わないけれど、「これで国民のやること全部わかるぜ、うっひっひ」とダークサイドにいきなり転向したとも思わない。土屋は、それを現在の自由と安全とのジレンマの中でオバマが下さざるを得なかった苦渋の選択の結果だろうと考える。少なくとも、そう見ることは十分に可能だ。それに賛成するかどうかはともかく、そういう見方が決して完全なナンセンスではないことは、念頭においておく必要がある。

そもそも、サイバー空間の中で何が容認されるのか? そこは本当に、完全にだれが何でも自由にできる、プライバシーの確保された空間であるべきなのか? それですら合意があるわけではない。この本は、その点についても述べる。そもそも、プライバシーとは何だろうか? そういう根本的な話も本書はきちんとしてくれる。

そして最後に本書は、安全保障という問題に立ち戻る。ぼくたちは、自由と民主主義こそが安全と繁栄をもたらすのだ、と考えがちだ。でも実際には……安全が保証されているからこそ、みんな自由にふるまえて、民主主義も栄えるというのが実態のようにも見える。その場合、優先すべきなのは何なのか? スノーデンを担いだ日本の他の本みたいに、とにかく政府信用できない、監視社会あー恐ろしい、というような本ではまったくない。スノーデンの話をもとに、それをもっと広い視野で見直させてくれる、極めてすぐれた本で、副読本としてベストだと思う。

小笠原『スノーデン・ファイル徹底検証』

スノーデン文書の中で、日本と関連する部分についてまとめた本。グリーンウォルドは、現在スノーデンから受け取った文書を小出しにするサイトを運営していて、そこが出してきた日本関連の文書15本について紹介した本。その文書は、ここでアクセスできる。日本でのNSAの活動の歴史について説明するとてもよいまとめになっている。できがいいので、勝手に翻訳した。少しソースをいじってみたけれど、外部からの直リンをはねるセコいスクリプトが入っていて、たいへんむかつくので、問題の文書の画像ファイルだけ全部抜きだして、ここに置いておいた

正直いって、そんなすごい話は出てこない。昔から日本とアメリカは、日米安保の枠内で情報交換をしてきた。その過去の経歴の話や、NSAの本部が移ったとか、日本駐在社に聞く日本での生活とか、そんな話。対韓航空機撃墜のときに、アメリカが日本の情報をかすめ取るのに苦労した、という話は、歴史的にはおもしろいけど1983年の話だから、スノーデンと直接は関係してこない。唯一興味深いのは、日本の防衛省がXKEYSCORE (どういうソフトかは伝記をお読みあれ) を提供されて、きちんと使えるよう講師派遣をした、というくらい。

そうした紹介をきちんとした上で位置づけをしてくれればよいのだけれど、著者はスノーデンがどうしたという話より、秘密保護法反対、共謀罪反対、モリカケ反対、マイナンバー反対、アベガーアベガーの人で、本の7割はスノーデンなんかそっちのけで、そういう話をまったく整理されない形でしているだけ。日本で秘密保護法ができたのはNSAの入れ知恵だったとスノーデンが言っていた、だから打倒安倍政権、みたいなアベガー族に典型的な、支離滅裂な記述が続いて閉口する。

日本の米軍向け思いやり予算の一部は、NSAの施設建設に使われたとのこと。そういうこともあるだろう。でも、それがなぜ問題なのか? 朝日新聞の記事にありがちな、ちょっとでもつながりがあれば、とにかくなんでも陰謀加担で共謀でとにかく国家の大陰謀にしてしまい、理屈もなにもあったもんじゃない。日米安保があるんだから、軍事協力の一環として諜報に協力する部分もあるでしょうよ。それがそんなに騒ぐ話だろうか? 日本の基地が、中東のネットカフェなどのアクセスを即座に捕捉してターゲットを同定する活動の拠点になってるって、軍事協力関係にあるんだし、そういうこともあるでしょう。

さらに、秘密保護法がNSAの入れ知恵だとして、それが何か? スノーデンはこの自伝でもわかる通り、政府に秘密があるのは当然としている。日本では政府に機密があってはいけませんか? ぼくは当然、部外秘の事項はいろいろあるだろうと思う。政府が国民の盗聴しまくって、それを機密指定にすれば、あらゆるものが機密になって政府は好き勝手できて、というんだが、それは仮定に仮定を重ねまくりすぎだろう。そしてそれは日本の機密管理の問題であって、それをスノーデンをダシにしてあれこれ語るのはピントはずれの感は否めない。

帯にも「森友・加計疑惑をはじめ、単発で報道される様々なニュースの陰に、急成長する監視の力が見え隠れする」と本文からの引用が出ている。モリカケは、監視まったく関係ないと思うんですけど、とにかく自分の気に食わないものはすべてアベガーでつなげてしまう。

そして各種文書から日本に関連する部分を抜き出しているはずなんだが、日本の施行した施設をNSAがaccept したと書いているというのを、傲慢だなんだと難癖つける。竣工して施主がそれを引き渡されたときの常套句なんだけどねえ。そして上でリンクした文書を見ても、ネタは比較的限られている。それをごまかすため、文書の全体像をなるべく見せることなく、この手のつまらないつまみ食いに、モリカケだナントカだ許せない恐ろしい沖縄のナントカがアベガーというのを大量にまぶすため、結局何がなんだかわからない。

文書の全体を見せ、「こう書いてあるが、ここのこういうところが、ナントカという法律や規定に照らして問題だ」と冷静に述べればずっと説得力が持てたと思う。でも、結局モリカケ疑惑なる無意味な揚げ足取りのツマにスノーデンを使っているだけとなってしまい、スノーデン文書で日本に関する重要な部分を指摘する、という読者の多くが期待したはずのことがまったくできていない。結局、モリカケ騒動のためにスノーデンを利用しただけで、その話題が飽きられたら、スノーデンも道連れになってしまった。あまり読む価値はないと思う。

その他スノーデンの談話を目玉にした本いくつか

スノーデン 日本への警告 (集英社新書)スノーデン 監視大国 日本を語る (集英社新書)スノーデン、監視社会の恐怖を語る 独占インタビュー全記録 スノーデンが語る「共謀罪」後の日本――大量監視社会に抗するために (岩波ブックレット)監視社会をどうする!  「スノーデン」後のいま考える、私たちの自由と社会の安全 ( )

いずれも、上と同じ問題を抱えた本。小笠原みどりのインタビューは、半分が自分語りで、インタビューもそんなに目新しいことは聞けていない。その他の本も、スノーデンの話についてはまったく新しいことが出てきていない。他の人々が、当人の関心についてあれこれ語るのは、おもしろい部分もあるかもしれないが。いずれの本も、2016-2018年という時期にドカどかっと出てきている。つまりどれも、秘密保護法阻止(ついでにモリカケ)のための駒としてスノーデンを使おうとしている本。

特に、これらの本に出てくるスノーデンインタビューは、いささかぼくとしては賦に落ちないものがある。それについてと、その他追加の本についてのコメントは以下を参照。

cruel.hatenablog.com

バラード『太陽の帝国』新訳は、当然大きく改善されています……と書きたかったんだけど。

先日ふと、バラード『太陽の帝国』の新訳が出たのを知った。しかも山田和子訳。

これについては、国書刊行会の高橋訳がイマイチだという話は結構聞いていたんだけれど、ぼくは英語でしか読んでなかったので、どの程度イマイチかはあまり知らなかった。いつか読むべえと思って、いま見たら家に2冊もある。最初のやつと、映画になったときのカバーのやつと。

太陽の帝国

太陽の帝国

で、いい機会だからちょっと比べて見ようと思った。もちろん、新訳のほうがずっとよいにちがいないとは思っていた。一見してすごい名訳という感じではなかったが、でも山田さんはそういう名文家とかではないし、バラード自体がかなり悪文だ。これが新訳決定版なら、旧訳はよほどひどかったんだろうな、一瞬で審判は下るだろう、というのが当初の期待だった。

でも、そうはならなかったんだよ……

 

まず、冒頭部。英語はこうだ。

Wars came early to Shanghai, overtaking each other like the tides that raced up the Yangtze and returned to this gaudy city all the coffins cast adrift from the funeral piers of the Chinese Bund.

昔の高橋訳は以下の通り:

戦争は、揚子江をさかのぼる潮流のように先を争いながら、次々と上海にやってきた。その潮は南島のバンド (黄浦灘路) の弔い桟橋から漂い出た棺をすべて、けばけばしいこの都市に押し戻すのだ。

山田訳はこう:

戦争の波が早くも上海に押し寄せていた。揚子江を勢いよく遡る上げ潮が、葬送桟橋から投じられた中国人たちの棺をすべて外灘に再び押し戻してくるように、戦争の波は互いに競い合いながら次々とこのけばけばしい都市に到来した。

うーん、この二つだと、ぼくから見れば……高橋訳のほうがいいかなあ。でも、これは趣味の問題ではある。

まず、ちょっとしたまちがいから。山田訳だと、棺が外灘へと押し戻されることになってる。でもこれはちがう。葬送桟橋が外灘にあって、そこから投じられた棺桶が上海(その中のどことは明示されていない)に戻ってくる、という話。「中国人たちの」というのは、たぶんそういう葬送をされたのは中国人だけだったからなんだろうけど、でも原文にはない。

そして山田訳のほうがやたらに長い。これはその翻訳方針のせいだ。高橋訳だと、表面の意味的には問題ない。でも文章を切ったせいで、後半は潮だけの話になってしまう。原文では棺が川を遡って押し寄せるというのが戦争のイメージと重なりあう。一つの文章で、文章全体の主語が「戦争」だからそうなる。でも切ってしまうと、それがなくなってしまうのだ。山田和子はそれを補うために、「戦争の波は互いに競い合いながら次々とこのけばけばしい都市に到来した」という、最初の「戦争の波が〜」という文章のほぼ繰り返しを最後にくっつけている。

ぼくは、原文にないものはなるべく追加したくない。だから、どっちかというと高橋訳なんだけど、山田訳のやりたかったこともわかるし、原文の意味に忠実なのは山田訳かなあ。長い修飾節が後にくっつくのって、ホント処理しにくいんだよね。でもその一方で、その棺桶に「中国人たちの」と原文にないものをつけてしまったせいで、普遍的な死を暗示する「棺」が、なんかずいぶん限定的になって、せっかく温存しようとしたイメージを弱めてしまっているのは大減点だなあ。

ぼくがやるならどうするかなあ。

戦争は早くから上海に次々と押し寄せ、揚子江を激しく遡る潮の波のように折り重なった。それは外灘の葬送桟橋から流された棺桶をすべて、この派手な都市に送り返す。

うーん、うまくない。「それ」が何を指すのか曖昧にすることで、棺桶と戦争の漠然としたつながりを残せないかな、と思ったんだけれど。

次の段落は、だいたい両者同じなんだけれど、ここは山田訳が勇み足で、高橋訳の勝ち。両者がちがっているのは一文だけ。次の一文:

During the winter of 1941 everyone in Shanghai was showing war films.

この両者の訳は次の通り:

1941年の冬のあいだ、上海では至るところで戦争のフィルムが上映されていた。(高橋訳)

1941年の冬、上海では誰もが戦争映画を見ていた。(山田訳)

高橋訳は、だいたい原文のまんま。山田訳は、上映していた (showing) を「見ていた」にしてしまっている。なぜこんな改変をしたかは不明。しかもこれをこう処理してしまうと、次の段落の冒頭がわからなくなる。

To Jim's dismay, even the Dean of Shanghai Cathedral had equipped himself with an antique projector.

だれもかれも戦争フィルムを上映していて、司祭さんまで映写機を手に入れて戦争フィルムを上映するようになっていた、というのがポイント。だから前の部分でも、人々は見ていただけじゃない。自分で上映していた、と言う話なのだ。

でもって、このいま引用した部分、二人とももう少していねいにやってほしい。

上海大聖堂の主任司祭まで旧式の映写機を手に入れていたのを知って、ジムは仰天した。(高橋訳)

驚いたのは、上海大聖堂の主席司祭までもが古い映写機を持っていたことだった。(山田訳)

この文脈でdismay というのは、単に驚いたってことじゃなくて、がっかりした (または、せめて「呆れた」) ということ。ジムくんは、あちこちで戦争フィルムばっかり流れるのがちょっといやだったのだ。夢にも戦争が出てきて、目が覚めてもそれが続いているみたいで、うんざりしていたのだ。そこへ神父さんまで映写機を手に入れてきて (持っていた、ではなく、どっかから手に入れていたのだ。この点も高橋訳のほうが正確) 戦争フィルムの上映を始めるというので、えー、となったわけ。驚いただけだと、ジムくんが感じていた、戦争を見せられるのがいやだという気分がまったく表現されない。やるなら:

上海大聖堂の主任司祭さえも旧式の映写機を手に入れていたので、ジムはがっかりしてしまった。

このくらい。

うーん。ぼくは自分ではNW-SFの残党のつもりなので、山田和子訳を絶賛したい気持はすごくある。が、その他頭の部分を見ていると、それがなかなかできない。17歳の子守りヴェラについて「This bored young woman」となっているところ、高橋訳は「すでに人生に倦んだこの若い女性(p.15)」だが山田訳は「このうんざりする若い女性(p.25)」だ。「退屈している若い女性」でいいと思うんだけど、山田訳は明らかにまちがっている。これに対して高橋訳は、ここだけを見るならちょっと違和感あるという程度で、まちがいではない。

が、もちろん話はここだけではない。この文は「usually followed Jim everywhere like a guard dog」と続く。当然ながらジムは、ついてこられるのがいやだったわけだ。だから山田訳はそれをソンタクして、つい「うんざりする」にしてしまったわけだ。一方高橋訳は、文脈とかまったく無視して勝手に「人生に倦んだ」なんてしてる。

そんな悩む話ではぜんっぜんないと思うんだけどなあ。このヴェラちゃんは東欧の戦争難民で、他にすることがなくて、ホントに暇で退屈してたのだ。だからジムくんのあとに律儀にくっついてくるのだ、というのがこの文意。この文章全体のジムの気分は理解しつつ、でも文を歪めた山田訳と、雰囲気をあんまり理解せずに字面だけで勝手な訳をした高橋訳。山形的には、どっちも却下だけれど、どうしてもどっちか選ばないと殴ると言われたら……ごめんなさいと言いつつ、高橋訳を採るだろう。

30分程度の対比だから、あまり断言するわけにはいかないんだけど、ここまで見たところでは……うーん。高橋訳にみんなが不満を述べたのはわからないでもない。固い字面だけの直訳だものね。でもそーんなにひどいとは思えない。一方で山田訳が決定版と言えるほどの改訳になっているかは、口ごもるところ。意図は山田訳のほうが汲めているけれど、そのために原文を歪めるのは、ぼくはあまり感心しないのだ。

ホント、これまでの部分はすごくもどかしい。こう、スケートとか各種の競技を見ていて、こっちのほうがいい感じなんだけど、でも審査基準に従うとあっちのほうが得点が高くなってしまい、外野がブーブー言うことがあるでしょう。これはそれよりむずかしくて、採点基準からすると高橋訳にもかなりよい点をあげざるを得ない一方、山田訳は意を汲むのはいいんだけどそのために特に必然性もなく採点基準でマイナス点をつけなくてはならないようなことをしている。うーん。そしてそれで芸術点をドーンとつけられるかというと、そこまでは行っていない。

そしていずれの場合も、特にいま挙げた中では冒頭の一文と「bored」が顕著なんだけれど、なんか変な凝り方していじくらないで,普通にストレートに訳せばいいじゃないか。余計な付け足しするから、二人ともかえっていろいろ穴が出てきているように思う。

 

ここまでのところだけだと、なんか山田訳の旗色がずいぶん悪そうに見えるけれど、そういうわけではない。ぼくが見た中で唯一、絶対に山田訳が正しい部分。

I hear you've resigned from the cubs.

オオカミの子供の世話を止めたと聞いたが。 (高橋訳 p.29)

カブスカウトをやめたそうだね (山田訳 p.40)

これはまあ、文句のないところ。高橋訳の、字面しかみないところが最悪の形で出てしまっている。そんなふうに、改良されたところは確実にある。でもなあ、もう一段改良の余地はあると思うんだ。ごめんなさい。

 

でもこれも含め、いろんな「新訳」とかいうのがどのくらい直っているのか、どこがちがうのか、みんなもっと情報を求めていないのかなあ。旧訳はゴミ箱にたたき込んで買い直すべきなのか、そこまでする必要はないのか、それとも稀なケースとして、かえってひどくなってるから旧訳は大事にしましょうね、となるのか? それについて、いいとか悪いとかいう印象論だけじゃなくて、具体的にこういう改善が行われている、というのを示してくれると、みんな嬉しいと思うんだけど。

以前、『ソラリス』についてはそんなことをやってみた。検閲で削除されていたのを復活、というから、どんなヤバいことが書いてあったか気になるもの。

cruel.hatenablog.com

みんなそこまで考えないということなのかな。