ピケティ『21世紀の資本』: r>g は格差の必要 or 十分条件か?

21世紀の資本

21世紀の資本

新年仕事始め前の小ネタ。ツイッターでこんなのみかけたのよ。

f:id:wlj-Friday:20210104093105p:plain:w400

このツイ主は、浅田論文を読んでおくことでどういう知見を得るべきなのか、ここで採りあげているネット番組の問題提起に対してそれがどう関係してくるのかは明記していない。けれど、文脈から判断して、これは日本で r>g が顕著になってきたことなんか重視すべきじゃない、それで格差なんか増えない、こんなんで騒ぐやつは煽りだ、と言いたいのだろうとぼくは判断する。

さて、この人がツイートないで言及している論文はこれだ。

core.ac.uk

ちょっと待った、これ、COREか! ワタクシが座興で訳していたら「金払わないと訳しちゃダメ」と言ってそれを潰しやがった……まあいいや。勝手にやってたことだから仕方ないんだけど。が、閑話休題 (なんか別物らしい。とばっちり受けたCOREプロジェクトさん、ごめんなさい)

この論文は題名の通り「不等式 r>g は格差拡大の必要条件でも十分条件でもない──ピケティ命題の批判的検討」だ。ピケティ『21世紀の資本』は、格差が増大する要因として、資本収益率 r が経済成長率 g より高いことを挙げていて、それが歴史的にずっと成立していたことを指摘した。でも、r>g が格差をもたらしたというのは本当だろうか、とこの論文は疑問視する。

必要条件/十分条件

さて必要条件/十分条件というのはどういうことか、もちろんご存じだろうけれどちょっとおさらい。

AがBの必要条件だというのは、Bが成り立つためには、Aが絶対必要、ということだ。つまり、AがなければBは絶対起こらない、ということ。

AがBの十分条件だというのは、Aさえ成り立っていれば、Bは絶対に成り立つ、ということだ。つまり、Aが起こったら絶対にBになる、ということ。

つまりここで言うなら、r>g が格差拡大の必要条件だというのは、「r>g でなければ格差は絶対に拡大しない」ということだ。r>g が格差拡大の十分条件だというのは、「r>g だったら格差は絶対に拡大する」ということだ。

浅田論文は、これがどっちも成り立たないことを、いくつかのモデルを使って証明している。が……それで?

必要/十分条件の反証はとっても簡単!

 この論文は、ぼくごときが言うのもアレだけど、経済学の論文としてはきちんとしたものだし、おかしなことは何もない。経済学の練習問題としては、おもしろい業績ではある。とても勉強になって、ありがたい論文だったのは事実。

 その一方で、中高時代以来、「絶対」とか「必ず」とかいうのが出てくる命題に反証するのはそんなにむずかしくない、というのは多くの人が知っていることでもある。一つでもいいから反証を見つければいいのだ。だいたい、x がゼロの場合とか、x と y がたまたま等しい場合とかを見て、「ほーれダメじゃん!」とやればいい。

 言うなれば、r>g が格差増大の十分条件か、というのは「r>g なら絶対絶対逆立ちしてもゴジラが出てきても格差増えるのか」という難癖だし、r>g が格差増大の必要条件か、というのは「r>gでなければウンコ喰っても地球が二百万回回っても絶対格差増えないのか」と言った難癖でもあるわけだ。だから、「さかだちしてゴジラが出てきたら、r>g でも格差増えません」とか「ウンコ喰ったらr>g でなくても格差増えます」というのを示せば良い。

 だから屁理屈でもいいから、それが当てはまらない場合を考えればいい。経済学っぽ話でいえば、

  • r>g になっても、資本からの収益 r をみんな一斉にその場でパーッと使っちゃえば、r>g でも格差は増えない。よって r>g は格差増大の十分条件ではない。

  • r<g でも稼いだ人がみんなKLFみたいに儲けを燃やしちまえば、資本のわずかな収益が積み重なって格差が増えることもある。よって r>g でなくても格差は増えることがあるので、必要条件ではない。

en.wikipedia.org

よって、r>g は格差増大の必要条件でも十分条件でもない。おしまい。 

 これは、浅田論文の中で言及されている岩井克人の主張ではある(もちろん岩井はKLFなんか引き合いに出さないが)。でも、この浅田論文はもう少し先に行っているのだ。

資本家がいくら儲けても、賃金がいかに停滞しても格差は起きない??!!

 この浅田論文は、新古典派モデルと新ケインズ派モデルにおいては、r>g は格差を生み出さないことを示している。こうしたモデルにおいては、さすがにゴジラやウンコ喰う話はないだろうというのは考えられている。「資本の収益率ってだんだんだんだん下がるよね」とか「経済全体で見ると人はこのくらい稼いだら、このくらい貯金するよね」「社会の稼ぎは資本と労働でこんな具合に山分けされるよね」という仮定がある。その仮定に基づけば、r>g で格差は増えるだろうか、という検討をしているわけだ。

 新古典派モデルについては、r と g がどうであれ利潤分配率には全然関係しないから格差は増えない、とのこと。

浅田論文:新古典派モデルでは利潤分配率は r や g には依存しない!
新古典派モデルでは利潤分配率は r や g には依存しない!

 新ケインズ派のモデルでも、r>gでも所得の差も資産の差も拡大しない、つまり格差は増えないことが示されている。

浅田論文:新ケインズ派モデルでも、資産格差も所得格差も増えない!
ケインズ派モデルでも、資産格差も所得格差も増えない!

 つまりこの論文は基本的に、ピケティ全否定とも言うべきものだ。r>g は格差を生み出さない。資本家がどんなに大儲けしても関係ない。経済成長がどんなに低くても関係ない。格差はまったく増えない!

必要/十分条件でない:それで?

 さて、いまのを見て、普通の読者は「え???」と思うでしょう。それは変じゃない? そして、それは別に新古典派モデルの含意や資本労働代替比率の扱いについて疑問に思う、という話ではない。実際に格差は拡大しているよね。お金持ちって昔から有利だったよね。浅田論文は、それ自体は疑問視していない。

 でもそれなら……それをまがりなりにも示せない(それどころかそんなことはあり得ないと示してしまう)モデルのほうを疑問視するか、少なくともなんか一言あるのが普通じゃないの? どこが足りないのか、どこの仮定がおかしいのか考えるべきじゃないの? あるいは r や g はどうでもいいなら、そのモデルでは何が効けば格差が出てきそうなの? 構造計算の簡易シミュレーションで、このビルは中性子星の上でもブラックホールの中でもつぶれませんというのが出てきたら、このモデルちょっとやべーよ、となるか、せめていやこれはあくまでこのくらいの近傍で成立するだけの簡易モデルだから、中性子星で使うのはそもそも不適切だよね、とかいう弁明くらいはするでしょー。

 ところが、浅田論文にはそれはまったくない。唯一あるのは、新ケインズ派モデルには制度的なものを入れる余地があるから、こちらを使うといいかもね、というだけ。うーん。

 さっき「経済学の練習問題としては、おもしろい業績ではある。」と書いたのは、そういうことではある。学問内部の練習問題としては、こういうことを考える意味もある。でも本当は、こういう練習問題というのはそのモデルが現実世界に対して持つ説明力を考えるための材料としてのみ意味を持つのでは? それを考えないなら、練習問題以上の意味はないのでは?

 これは別に、数理モデルを使うな、という話ではない。モデルがぴったり現実のあらゆる面を完全に説明できなきゃいけませんよ、なんてこともまったく思わない。すべてのモデルは抽象化であり近似で、自分が何を検討したいのか、現実のどの部分を切り取るのか考えていれば、物体のすべての質量が凝縮されたブラックホールみたいな質点を仮定したって全然かまわん。でも数理モデルが現実にあわなかったら、モデルのどこがおかしいのか、あるいはモデルの適用範囲をどう考えるのか、という話はあらまほし。

 さて、r>g が格差拡大の必要条件でも十分条件でもない、と言われたらピケティ自身「それで?」と言うだろう。彼が『ピケティ以後』のコメントで述べていたのも、そういうものだった。実際に格差があるんだから、まずそっちを見るべきじゃないのか? 数式モデルはその分析や理解の一助にはつかえるけれど、そればっかり注目しないでくれよな、という。r>gでも、必要/十分条件ではない、というのは事実だけれど、でもそれが格差拡大にまったく貢献しないというのもおかしな話だ。だからこそ彼は、数理モデルに安住するのを嫌って、地道な格差データ集めから始めたわけだ。

 そして『21世紀の資本』が出て以降、こうした議論というのは格差の正当化に使われてきた。ピケティはまちがっている……よって資本収益がやたらにでかくなっているのは問題ない。r>gはモデルによれば格差に関係ない……よって累進課税で r を下げるなんてことは考えなくていい。経済学モデルによれば格差は起きない……よって格差は実際には生じていない!

 もちろん浅田統一郎は、そんなことを言ったつもりはないだろう。たぶん、格差分析モデル選びの留意点を指摘した、という意図なんだろうとは思う。好意的には、まあ新古典派モデルではそもそも格差が出てこない形になっているので、ピケティがそれを使って格差増大を説明したのは筋悪だ、と指摘して別のモデル化の方法を考えた、ということになる。でも、そういうふうには読めない。基本は、どちらのモデルでも r>g は格差にまったく関係ないのだ、という話しかしていない。だからピケティはまちがっている、というのが基本的な主張に見える。新ケインズモデルでは制度を入れる余地はある、という生産的な指摘は、確かにあるけれど、でも実はその部分は本論にはない 。補論に入れてあるだけ。だからこそ冒頭のツイート主は明らかに、r>g は重視しなくていいという理解をしてしまっているように見える。ぼくは、それはまずいだろうとは思う。

 実はピケティの次の本、「資本とイデオロギー」は、まさにそれをテーマにしている。昔から格差はあった。そしてその格差を延命させてきたのは、それが当然なのだとか正当なのだとか、あるいは金持ちがいくら懐にためこんでも、何も問題はないのだという弁明と正当化=イデオロギーなのだ、と。経済学の理論というのも、ときにそのイデオロギーの一部になってきたのだ、と。浅田論文も、スーパー好意的に解釈すれば、まさにこれまでの数理モデルの不備が、そもそも格差の十分な検討を困難にしているのだという、従来の経済学モデルにひそむイデオロギー性を示したもの、とはいえなくもない (かなり努力しないとそういう読みはしづらいけれど)。

Capital et idéologie

Capital et idéologie

  • 作者:Piketty, Thomas
  • 発売日: 2019/09/01
  • メディア: ペーパーバック

この本、基本テーマは「左翼が意識の高い金持ちのお遊び集団になったから格差増大したんだよ!」という主張で、まさに前著を支持した意識の高い左翼たちにウンコ投げつける本なので総スカンをくらっているけれど、でも大事なことを言っていると思う。今年中には何とか訳をあげますので!

付記:

このhatena記法だと、r<gと、それからいろいろ間に書いてみて r>g というのを書くと、この半角の不等号にはさまれた部分を何かタグだと思って消してくれることが判明。なんとかならんのかー。mathjax記法にしないとダメってこと?

付記2:

なんとか浅田論文をもう少し好意的に見ることはできないかといっしょうけんめい考えて、少し加筆してみた。が、ちょっと苦しいなあ。(1/5)

クレクレくんの要求と自分の実験を兼ねて、正月にいくつか電子ブック化

あけおめ(死語)。

 各種の翻訳の公開がpdfなのが気にくわねえとかいうケチがついて、なんでも若者はepub形式だそうで、pdfなんざ加齢臭で読んでいただけないそうですよ。悪うございましたね。epubは昔、少し検討したんだけれど、確か日本語だと注かルビが処理できないというので、これは使えないなあと思って放置したような記憶がある。が、進歩したとのことだし、久々に(正月早々)いくつか実験してみた。

 いちばん楽な道を、と思ってpdfからebookに変換してくれるソフトやサイトを試してみたけど、使い物にならないレベル。pdfの折り返しを全部文の終端扱いしてくれるし、ヘッダやフッタが全部途中に入り込む。

 次に latex ファイルをebook形式に変換できるはずのtext4ebookが、すでにtexliveのパッケージに入っていたので試してみたけれど、エラーが出て中断。細かく原因チェックしてもいいんだが、正月早々やるのは面倒過ぎ。luaで解釈するようにしたら少しはよくなったけれど、それでも何やらエラーが出るし、あとlualatex入れたときにおさらばしたはずのdviがまた登場するのが、いささか鼻についていやな感じ。たぶん、調べればいろいろ高度なこともできるんだろうけど。

github.com

 調べるうちに、なんだかここを見たら、epubにするならlatexなんか最初っから使うな的なことまで書いてあって、ちょっと落ち込んだ。

www2.slideshare.net

昔からこう、markdownですべて書いて、あとはもうあらゆる形式にバッチファイル一発で変換して公開というのにあこがれていたこともあったし、latex使い続けているのも、テキストに近くて他のフォーマットに変換しやすいかも、といった期待も多少あってのことだったし。それが無駄と言われるとねえ。epubにするならMSWordファイルからやれば、みたいな話が結構あって、そのほうが実際いろいろツールはあるみたいなんだが、これまた悔しい感じではある。html5ですべて解決、みたいなことにはならないんだろうか?

 ということで最後に、昔使った pandocにあまり期待せず戻ったんだが (なぜ期待しなかったんだっけ? html変換したときに手作業が必要だったからだっけな?)、やっぱこれがいちばんいいわ。あっけないくらいの簡単さ。

pandoc.org

完璧ではない。ケインズ『一般理論』は、脚注の中で数式組んだり表使ったり面倒なことをしているけれど、そういうのは苦悶してエラーを出すけれど、でもそれ以外はふつうにできる。表もまあまあ。さすがにセル内での折り返しみたいなことはできないけど。基本、以下の本はいずれも字ばっかりだし、図や変なレイアウト処理はまったくないので、そんなにソフトが迷う余地も少ないせいもあるんだろうとは思う。

ということで、以下にメジャーなものをepub化しておいておくので、せいぜい活用してくださいな。

アダム・スミス『国富論』(0-8章) epub版

ケインズ『一般理論』epub版

ケインズ『お金の改革論』epub版

ケインズ『平和条約改訂案』epub版

エンゲルス『イギリスにおける労働階級の状態』epub版

グチ的に言えば、ほぼすべてについてlatexのソースが同じディレクトリに入っていて、pdfの拡張子をtexに変えればダウンロードできるし、せっかくのクリエイティブコモンズライセンスなんだから、epub版があるといいなーと思ったら、自分で作ってどんどん作って公開すればいいのに、と思わないでもない。なんだってぼくに何でもやらせようとすんのよ。……って、言われてこうしてホイホイやっちゃうので、言えばやるだろうとなめられてるせいなのはわかってるんだけどさ。まあ仕方ないね。mobi にしろとかいうのは自分でやってよね。

何か不都合が見つかったら教えてくださいな。ちなみに、pandocくんはepsは扱えないのがわかったが、gif/jpgに変えたら問題なし。表をscaleboxで拡大縮小しているのもすっとばされている。あと、ルビが処理できていなくて、ルビがつかないどころかそのもとの文字も消えている。うーん。たぶんここにあるようなフィルタを書けばいいんだろうが…… これからの課題だな。

pandoc.org

お年玉にしてはショボいが:アダム・スミス『国富論』8章まで (その後9章まで)

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/0/0a/AdamSmith.jpg/440px-AdamSmith.jpg

 その昔、1999年にプロジェクト杉田玄白をたちあげたときに手をつけたはじめた、アダム・スミス国富論』、4章くらいまでやってその後ほとんど進んでいなかったが、この4日ほど気晴らしでがーっとやって、8章まで終わった。これで第一巻の半分くらいになる。10章と11章がやたらに長いんだよ。(その後9章も終わった)

アダム・スミス『国の豊かさの性質とその原因についての検討』 89章まで (pdf, 1.1MB)

アダム・スミス『国の豊かさの性質とその原因についての検討』 89章まで (epub, 0.2MB)

お年玉にしてはショボいが、まあ新年に暇なら、読んで罰はあたらないと思うぜ。しかしアダム・スミス、こうして見ると本当にいろんなこと考えていて、制度の影響とかインセンティブの影響とか、貧困削減の重要性とか労働争議問題とか、人口との関係とか、あれもこれもすでにここにあるというのはスゲえもんだ。経済成長はいらないとか言ってる連中は、スミス読めって感じ。

まだきちんと見直しとかしていないし、20年前の部分との整合とかも見ていないし、調べなきゃと思ってやっていない部分も多い。Stockというのを在庫とするのがちょっと違和感あるんだよねー。あと、wageは賃金と訳しているが、この頃は労働の対価は必ずしもお金では払われておらず、住み込みで養ってやるかわりに働く、というような労働対価も一般的だったので、賃「金」ではないんだけど、報酬とすべきかなあ、と迷ったり(付記:年明けて、報酬に変えた)。

そしてこれがあるから、現在ならreal/nominal で実質/名目と何も考えずに訳すところでも、そういう風に訳してはいけない。いまのreal/nominalはインフレを考慮するかどうか、という話だけれど、金本位制がマジで機能していた時代には、現在のようなインフレというのは存在しない。当時のイギリスで一ポンドといったら、マジで銀の重さが一ポンド、という意味だ。その意味ではインフレはない。良貨が悪貨を、というインフレはあるが、程度は限られる。が、その一方でその一ポンドの銀が買えるもの、という意味ではインフレがあったりするので、現代の常識で考えると話がとってもややこしいのだ。

そしてその話をおいても、ここでのreal/nominalは、インフレの話ではない。衣食住を提供する分も含めた形での、金銭以外の収入まで考慮するか、それとも金銭的な収入だけを考えるか、という話だ。だからまさに「本当のモノも含めた収入」「金銭的な収入」というちがいなのだ。そこらへん、現代的な考えで機械的に訳すと意味合いがかなりちがってきてしまう。でもそこまで厳密なものを求めないなら十分読めると思う。

この調子で、第一巻は今年度中には終えて、うまくいけば来年中に最後まで……は無理でも3巻の終わりくらいまではやっつけたいね。ひどい翻訳ばかりだった前世紀末に比べて、いまはマシな翻訳も増えてきたから、かつてほどの意義はなくなったけれど、ぼく自身の座興でもあるし。

来年まであと15分。よいお年をお迎えくださいませ。

付記。ところできみたち、「見えざる手」というのがまだ登場していないのに気がついてるかい?

まあXmasプレゼントみたいなもので、ケインズ「芸術と国家」(1938) 翻訳。

https://delong.typepad.com/.a/6a00e551f08003883401b8d0f69497970c-pi

 今年はろくな年ではなかったし、来年もどうなるやらという感じだが、まあそれでも欲しいやつにはクリスマスプレゼントみたいなものでもあげようか。耶蘇じゃないけど。都市景観保全系の論集にケインズが寄稿していたのを見つけたもので。

 全集のどれかの巻に入ったりしているのかな? 特に調べる気もないけれど、ケインズがスラムクリアランスや都市再開発を、不景気対策の公共事業として具体的に提案した文章って他にあるのかな?

ケインズ「芸術と国家」 (1938) https://genpaku.org/keynes/misc/KeynesArtandState.pdf

 そんなすごいことを言っている文章ではないけれど、ケチな財務省死ねの論調とか、提案とかはそれなりにおもしろい。それと、建築とか景観の話として依頼されたはずなのに、途中まで舞台芸術BBCの話ばっかりで、建築系は最初と最後にとってつけたような感じがしなくもないのは、まあご愛敬。

 クリスマスイブにこんなものを読む(まして訳す) のはかなりの酔狂というか、ヘタをすると哀しい感じかもしれないけれど、これよりひどい過ごし方はいくらもある。そういう人たちにもう少しマシなものをあげたかった気はないわけじゃないが、まあ今年はコロナでサンタもケチ、ということで許しなさい。ではまた。

コロナなんかどうでもいいから石岡瑛子展に行きなさい。

Executive Summary

この展覧会を前にしてどうでもよくないと思う人は、豚に真珠もいいとこだから観に行かないほうがいいよ。

はじめに

 先日、無料券をもらったので石岡瑛子展にでかけてきたのです。

www.mot-art-museum.jp

ぼくは石岡瑛子は昔からとても好き、というか崇めていて、『風姿花伝』も持っているし、『私デザイン』も持っていて、何度も見ている。

だから別に今回の展覧会で何か新しい発見があるとは特に思っていなかった。いろんな衣装の実物があるというのは聞いていて、それは楽しみだったかな。でもまあ、知っていることのおさらいだろうと思っていた。

ちがった。すげえ。みなさんも是非行きなさい。

いまなお衝撃力を保つバブル期広告作品

まず入ると、万博向けのデザインがあって、ふーん少し時代がかった観じもあるなー、と余裕かまして見ていると、いきなりでかい部屋にくる。そこは彼女の広告時代の集大成。次々に出てくるPARCOの広告ポスターは、今日でもまったく古びていない。『風姿花伝』で何度も見ていたつもりだけれど、実物大というべきか、それで次々に見せられるとその迫力がちがう。

https://nostos.jp/wp-content/uploads/2016/06/blog_0615_21.jpg

https://pds.exblog.jp/pds/1/201608/08/31/a0034031_2502945.jpg

いまのくだらないイデオロギー先行の多様性だのジェンダーだの、そんなお題目がすべて蹴倒される。ご立派なお題目を掲げたので作品しょぼくても誉めろ、みたいなバカな代物じゃない。作品自体の迫力がまずあって、その中でお題目は完全に消化されていて、なんだかわからん壮絶さが迫ってくる。これみて、あぷろぷりえーしょんとかゴミクズみたいなことを言うヤツもいると思うけど、ふざけんな、あぷろぶりえーとされて感謝しなさい、という感じ。

各種の展覧会に行くと、すごい人のいい作品でも「ああこれは70年代っぽいねー」みたいな時代の制約というのがはっきり見えることは多い。特に一時代を作った人の作品展だと、そんな感じがする場合がある。でもそういうのが一切無い。主題も、配置も、フォントも、写真の厚みもすべて。沢田研二のやつとか、ドミニク・サンダやフェイ・ダナウェイのやつとか。

彼女が各種の見本刷りにいろいろつけた注文とかがいっぱい出ているのもすごい。ここまで細かくうるさく指定して、何から何までやりなおしさせて。すげえ。角川書店の一連のやつも。いまにして思えば、先日角川武蔵野ミュージアムを見たときにも感じたけれど、角川春樹ってすごかったよなあ。そのすごさに応えるだけのものがこうしてできたのも、すごいよなあ。日本のバブル文化って、以前建築学会でも、高松伸とか実は結構良かったという話をしたけれど、やっぱパワーはあったしもっと評価すべきだった。お金があったからそういうのが出てこられた、というのはある。でも時代が持っている生産力があって、お金もその一表現でしかないという気もする。石岡も明らかにその一部。

展示してあるけど彼女の作った商品パッケージとか、まだそのまま使われてるのね。1980年代という時代がいかに彼女に支配されていたか、そしてその影響がいまだにどれほど続いているかというのが、この一部屋でビシビシ感じられる。逆に彼女が古びていないというのは、その後日本が新しいものを創り出せていないという証拠でもある。

作品そのものもすごいけれど、やはり今回の展覧会では、彼女がそこで何を考えていたかというのがものすごくよくわかるようになっている。マイルス・デイヴィス TUTUのジャケットとか、彼女が出した8つくらいの案——スケッチと説明が並んでいて、ここまで考えをつきつめてこれを創っているのか、と驚愕させられる。

もうとにかく、展示一つごとに流せなくていちいち読んで見入るしかないので、時間がいくらあっても足りないわ。リーフェンシュタールのヌバとか、ぼくたちが持っている印象って石岡瑛子が造り上げたものという感じ。

そして……その後に彼女が手がけた、映画/舞台衣装系の作品が始まるんだが……

映画/舞台系衣装——失敗と言うのもはばかられるオレ様世界の独演

最初に出てきたのがシュレーダーの「MISHIMA」で、ものすごく頑張った真っ二つのキンキラ金閣寺が登場するんだが……まだこの段階は模索している感じではある。(その意味で、ちょっと展示のでかさが空回り気味な気もする)。が、次に出てきたのが、コッポラの『ドラキュラ』だ。

この映画、ぼくはあんまり好きではなくて、一つにはウィノナ・ライダーがあんまりはまってなかったしあれやこれや。そしてこの映画、『私 デザイン』を読むと、すごいことが書かれている。石岡瑛子は、この映画にはえらく苦労させられた、と述べている。ウィノナ・ライダーというのが全然存在感のない、中身のない役者なので、あたしが全部衣装の力でふくらませてやらねばならず、えらい手間だった、と。

付記:確認したら、ちがった。『私デザイン』には入っていなかった。うーん、あれはどこで読んだんだっけ。読んだとき、あまりの衝撃で、そのページの様子すら覚えている。なんか大型本で二段組みの横書きだったんだが…… なんかの雑誌だったか…… (12/25)
その後、記憶をたどって少し調べて見ると、『CUT』1993年5月号のインタビューだった。中身でなく、身体のボリュームについての愚痴が多い。ドラキュラの時代は、デブを締め上げるのがファッションなのに、ウィノナライダーは身体がガリガリでそれが全然できない、と。(02/24)

でも、この映画見ると、衣装でふくれあがっているのって、ウィノナ・ライダーだけじゃないよね。ほとんど全員そうだよね。

その衣装それぞれのデザイン、スケッチ、実物、ほんとすごい。すごすぎて、それが他のものを全部喰っている感じ。おかげで、映画は画面が非常に狭く感じられてゴチャゴチャしている感じ。彼女はもはや、役者とかそんなの関係なしに、自分の衣装だけで映画や舞台の世界を作れてしまうし、キャラも場面もすべて自分一人で表現しきれてしまうという、まったく正当ながら悪しき自信をこの人は完全に身につけてしまったらしい。

そしてその後、それがどんどんすごさを増す——というのは悪化する、ということ。

彼女は晩年まで、ターセム・シンという映画監督といろいろつるんでいて、ぼくは大変それが不思議だった。というのも、このターセム・シンって本当にひどい、自分では何もつくれない無内容な人だから。

cruel.hatenablog.com

ここにも書いたけれど、90年代なかばにこの人が、REMやディープフォレストのPVをパクリだけで作っているのは、まあビデオだから許される面はあった。このAbove and Beyondのやつも、自分の作品とかではなく完全なパクリなのを作り手も受け手もみんな承知していて、まさにそれを承知していないと何かわからないから、見られる。

www.youtube.com

でもそれを映画で「自分の作品でござい」とやられると、ちょっとあまりに許しがたい。この「落下の王国」とか、ブラザース・クエイのパクリが始まったところで、耐えがたくて見るのをやめたけど、なんで石岡瑛子ともあろう人がこんな人とつるんでるのか、というのはずっと不思議だった。でも今回の展覧会でそれが見えてきた。

まさに彼が、中身のない他人の仕事をパクるしかできないから。だから石岡瑛子が、あーしろこーしろと言えば、何でもその通りやったから。言いなりの下僕だったから。

石岡が「ザ・セル」の衣装デザインしたスケッチとかでは「ここでこういうふうに、この水から上がってきてはためいて広がるところをしっかり見せろ」とか注文ついてて、なんで衣装の人が演出指示出してるんだよ、という感じ。でもターセム・シンは本当にその通りに撮っている。結果としてできた映画って、スチルはかっこいいけど、なんか映画ではない感じなんだけど、石岡的には別にそれは知ったことじゃないのね、というのはよくわかる。売店では、最後の作品になった「白雪姫」のメイキングを流していたけど、石岡がずっと現場にいて、勝手に役者たちにあれこれ指示出ししてて、役者たちがビビってたのがインタビューと現場映像ではっきり出てる。

そしてそれが最高潮に達するのが……オランダでやったニーベルングの指輪。

これはすごい。本当にすごい。巨大な部屋であらゆる衣装が展示されているけれど、もうとにかくすごい。そして……すごすぎる。こう、役者とかどうでもいいレベルに達している。ジークフリートとか、虚無僧状態で、顔とかまったく見えてないし、すごいわ。ビデオで舞台の様子を流しているけど、ワルキューレたちはもう完全に石岡瑛子の衣装の僕状態で、彼女の衣装を見せるためだけにいる。演出もすべて彼女の衣装を見せるためにある。というより、この展示室だけでニーベルングの指輪は完結しちゃってて、舞台いらねーわ。

そしてすさまじいのが、彼女が先方に出した指示書。なんか向こうから、もっと役者の顔を見せたい、という注文がきたのに対して「何言ってやがる、見せられるようなツラか、あたしがまず判断しますから!」というに等しい壮絶な返事を返したのがそこに飾ってある。すげー、おっかねー、衣装の分際で完全に演出まで牛耳ってるわー。これを受けとった相手がどんな反応をしたのか興味あるところだが、実際の舞台を見ると完全に言いなりだったらしい。

たぶん、作品全体としてそれが成功かといえば……失敗だと思う。作品全部が石岡瑛子だけで完成しちゃっているもの。舞台ってそういうものじゃないよね。演出もいらない。これだとラインの黄金なのにワーグナーさえいらなくなってる。でも石岡瑛子ショーとしては大成功。恐いよ。

そしてここまでくると、やっぱ1980年代のPARCO広告や角川広告って、石岡もいたけれど、角川春樹もいたし沢田研二もいたしその他いろんな他の才能があって、石岡瑛子とためを張れていたからこそ、全体として成立できていたんだな、という感じ。その後、石岡瑛子がでかくなりすぎたのか、それともそれに対峙する他の表現者たちが力不足なのか——あるいはこれは結局同じ事なのかはよくわからないんだけれど……

そして石岡瑛子展の最後の作品は、ああ石岡瑛子もこんな肩の力の抜けたかわいい作品もできるのかー、と思ったら……もう本当に参りました。

ちょうど知り合いのお嬢さんがアーティストっぽいのを目指していて云々という話を聞かされたところだったんだけれど、すぐさまその子にこいつを観に行かせるように言ったわ。この展覧会見て、自分の力量やこだわりや才能や表現したいものや、とにかく何から何まで自信喪失して絶望しないようなら、アーティストとかデザインとか口にするんじゃない、という感じではある。別に自分をアーティストとかデザイン系とか思わずに見た人もたぶん、帰りの道すがらに見る各種の広告の、あらゆる面でのぬるさとやっつけ感で、なんだか身の回りすべてがだらしない弛緩しきった空気に包まれているような忌まわしさを感じてしまうと思う。

ということで、絶対に観に行きなさい。たぶん、だれかといっしょに観に行ってはだめ。楽しくおしゃべりしながら見るようなものではない。一人で、冷や汗流しながら居住まい正して見ないとダメ。来年二月までだそうなので、時間はある。コロナにかかってもいいから、観に行きなさい。たぶんぼくも、あと2回くらいは必ずまた行くと思う。無料券なんかで出かけたのは不敬でした。ちゃんと自分のお金出して行きますんで。

フロイト『夢判断』:フロイトの過大評価をはっきりわからせてくれる見事な新訳

 古典をきちんと読まなければ、みたいな強迫観念は、昔は強かったけれど、いまはあまり残っていない。が、フロイトは高校時代に岸田秀に入れ込んだこともあり、またいろんな人がフロイトはすごい、フロイトにかえれ、みたいなことをしきりに言うので、いずれ読まねば、という気持はあった。そして高橋義孝のギクシャクした金くぎ翻訳をなどを読んで挫折し、いやこれはぼくの理解力が足りないのか、これをきちんと理解すると、何かすごい世界が広がるのか、と思っていた。いつの日か、ちゃんと読もう……

 そしてその「いつの日か」がやってきた。フロイト『夢判断」新訳だ。

 そしてこれは、すばらしい。訳は実に明快でわかりやすい。これまで読んで挫折したのは、何よりも翻訳がダメだったせいだ、というのがはっきりわかる。が、同時にもう一つわかったことがある。フロイトは、そのダメな翻訳のおかげでずいぶん得をしていた、ということだ。多くの人がおそらくはぼくのように、わからないのはフロイトがとても深遠でむずかしいことを書いているからにちがいないと思ってありがたがっていたようだ。でも、実際には全然ちがった。フロイトの書いていることは浅はかきわまりない。

 この本、いろんな夢の解釈の話が出てくるのだけれど、一つ残らずフロイトが勝手な解釈をつけてドヤ顔して、なぜそれが正しいと断言できるのか、ほかの解釈がありえんのか一切説明なし。こじつけと「実はこんな事情があって」と後出しジャンケンまみれ。

 そして理屈はすべて願望充足だ。何かが出てくれば願望充足、出てこなければ抑圧で別のものに転移されてやっぱり願望充足等々。そしてその願望が本当にあるのかどうやってわかるのか? それはもう、この夢に出てきた/出てこなかったからという、ろくでもない循環論法。どれもフロイトの勝手な思いこみだけの屁理屈だなあ。患者とのお話の糸口にはいいし、意識されてる以外に心の働きがあるという最後に出てくる主張は当時は意味があったんだろうけど、いまそれをありがたがる理由は特にないだろう。

 事例として、自分の夢をとりあげたものがある。でもそれこそ、フロイトの我田引水をよく示すものになっている。なんでも、友人をバカだと切り捨てる夢を見たとか。それまでのフロイトの理屈を適用すれば、ああフロイトはその友人を実はうとましく思ってるんだなあ、ということになるだろう。ところが驚いたことに、フロイトの解釈は全然ちがう。「でもオレは実際はあの友人は評価してるから、これはホントはカクカクしかじかで、友人を大事に思ってる夢と解釈できる」そうな。そして自分が実に総合的に物事を捕らえて解釈を行っているなあと悦にいる。いや、そういう自分では認識しておらず認めたくないものが夢として出るのだ、という話をしてませんでしたっけ? 明らかにフロイトが自分の本心認めたくないだけの弁解にしか見えない。

 その他の部分でもフロイトは露骨に患者をその後のセッションで誘導してるし、患者もなんかフロイトに気に入られなくてはという依存関係があるみたいで、「実は……」とフロイトの好きな(=エッチな)話をうちあけてフロイトが悦に入る、というのがしょっちゅう。

 で、結局は「吾輩は患者とはすでにいっぱいセッションやって心の隅々も知り尽くしてるから夢のどこが何にどう対応してるか正しく解釈できるんだよ」よって吾輩の解釈は無謬であり絶対なのだ、という話に落ち着く。でもね、そんなにわかってるなら、何のための夢判断? どんな夢だろうと、フロイトがすでにわかっていることにはめこむだけなんでしょう? だったらお遊び以上の意味はないのでは?

 そんなわけで、座興に読むにはよいけれど、フロイトの新解釈とか、その価値の再認識といった話にはまったくならない。むしろ「なんでこんなヨタがありがたがられているんだろう?」と悪い意味で目からウロコが落ちる契機になるんじゃないだろうか。ちなみに、フロイトが自分の成功例として他の本であげるいろんな患者(狼男とか)は、他の人が検証してみたら全然治って無くて、フロイトが勝手に完治宣言して追い出しただけだったとかいう話もきくし、「患者のことは全部知ってる」はまったく信用ならん。

 なお、脳科学者の中野信子が2019年7月に、産経新聞でこの本についてヨイショしている。

www.sankei.com

 が、彼女が書評で書いているようなこと、たとえば「本書は自然科学と人文科学を止揚させる試みを通じて新たな気づきをもたらす」とか「人間の内に広がる世界への視座を養うのにまたとない一冊」なんてことは一切ない。むしろ彼女が挙げているこれまでの批判である「本書に記述されているような人間精神へのフロイト風分析について、自然科学の見地からはエビデンス(科学的根拠)に乏しいとして棄却すべきだという考え方の研究者も中にはいる」という考え方がいかに妥当か、というのを改めて認識することにしかならないと思う。訳者名にわざわざ「先生」をつけているところから見て、何か誉めねばならない個人的な義理でもあるんだろうか?

 フロイトの過大評価を修正するという意味では、たいへんありがたい訳書。フロイト盲信病の初期症状治療にはまたとない一冊ではある。フロイトってどれほどすごいの? と思っている人はまず手にとってほしい。

ケインズ『平和の経済的帰結』:アメリカ版とイギリス版

しばらく前に、ケインズ『平和の経済的帰結』(1920) とその続編 (1922) を翻訳した。

cruel.hatenablog.com

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で、後者をやっていたときに、実はこの二冊とも、イギリス版とアメリカ版が微妙にちがっていることに気がついた。イギリス版はマクミラン社から出ていて、アメリカ版はハーコート・ブレース社から出ている。でも、後者では、イギリス版でお金が英ポンド表記になっている部分が、全部米ドルに換算されている。

さて当時は、固定為替レートだったから、これは別に大したことではない。当時の為替レートは、1ポンド=5ドル。だから数字を全部5倍すればおしまいだ。いまの日本の翻訳でも、フィート/マイル表記をメートル法に直したりするし、換算に何か問題があるわけではない。切りもいいので、計算もしやすいしズレもない。日本語訳だと、1フィート=30センチ、3フィート=1メートルで換算しちゃうことが多いけれど、校正で「ここは厳密に計算すると1メートルではなく91.44センチですが直しますか」とか言われることがあって、いやそういう精度を求められる文脈じゃないですから、と却下する場合が多々ある。が、このくらいきりがいいと、そういう問題は一切起こらない。

唯一あるのは、大ざっぱな表現として「5、6万ポンドくらいの〜」といった表現が、アメリカ版では機械的に翻訳されているので「25,30万ドルくらいの」といった表現になること。なんで数字がこんないきなり飛ぶのか、言われて見ればちょっと不自然かな、という部分が出てこないわけではない。本当に翻訳としてやるなら「20万ドル台後半」とかにすればいいのかもしれないけれど、さすがにそこまで細かく手を入れるのは面倒だと思ったんでしょー (というかケインズが特に気にしなかったんだと思う)。

ということで、いずれの本も、やっぱ当然ながらイギリス版がベースであり、アメリカ版はその翻訳版、ということになる。ネット上にある原文のテキスト版やスキャン版は、どっちのバージョンを使ったものもあって、当初はまったく気にせずにプロジェクトグーテンベルクにあったアメリカ版を元に翻訳していたのだけれど、一応イギリス版をベースにしておくのがよろしかろうと思って、改訂しておいた。

ケインズ「平和の経済的帰結 (イギリス版)」(pdf 1.2 Mb, 商業的に出そうなので公開停止)

物好きに、なんとしてもドル表記で読みたい、という方のために、アメリカ版も一応残してある。ただし、上のやつを作る時にいくつか誤変換をなおしたりしたので、上のよりはまちがいが多い。

ケインズ「平和の経済的帰結(アメリカ版)」(pdf 1.2 Mb, 商業的に出そうなので公開停止)

ただし、イギリス版はアメリカ版のドル表記の部分をポンド表記に戻しただけ。全文をきちんと見直したわけではない。ないと思うけれど、ケインズがイギリス版とアメリカ版で何か記述を大きく変えた部分があったとしても、それは反映されていないので、ご注意を。気にするやつもいるまいと思うけれど、まあちょっとした話のタネにでもどうぞ。