教養とは:漁父の辞と水処理

Executive Summary

 教養というと、実学に関係ないステータス財なのか、それとも実学にも役立つべきベースなのか、みたいな議論が起こる。だがその区別がない場合もあるし、それが理想かもしれないという気もする。大学の上水道学の講義で、屈原の「漁父の辞」に水処理の基本原理が描かれていると、まさに我田引水 (水処理だけに) で強引に読み取ってしまった教授は、なんかそれに近いことをやっていたようにも思う。そこから、直接実学と関係なくても、それと関係あるものを引き出す契機、みたいな教養の捉え方はできないものか?


今日、イベントで教養について話せといわれてあれこれ駄弁ったのですよ。

lms.gacco.org

その中で、教養の役割とかいう話になる。こう、教養というと、実学とは離れた古典知ってます、みたいな、ボリス・ジョンソンホメロスギリシャ語で暗唱できますとか、日本なら四書五経だの漢詩だのを暗唱できますとか、もっと最近だとジョイスユリシーズ』読んでますとかレンブラント好きですとか、プラトン読んでますとか安藤昌益読みましたとか、なんかのほほーんとした余計な話、みたいな印象はあって、でも最近ではむしろ進化論知ってるとか利己的遺伝子や、意識や知能のモジュール性や、コンピュータ的情報処理にシカゴ学派的な経済学の考え方知ってますとか、そっちのほうかな、とか思う感じもある。

ぼくはなんとなく、まあ「そっち」のほうを重視したい気分はある一方で、実学離れた話もあらまほし、と思ったりもする。考えのベースなのか、あるいはそのベースがあることで存在が許される枝葉なのか、とか。

が、個人的には、その両者がつながる道もあるんじゃないか、という気がしていて、なんかそういうつながりがあると最強だなあ、みたいなことを考えないでもない。

そんなことを考える理由の一つが、大学のときの上下水道学の講義だった。ぼくは全然興味なかったんだけど、必修科目だからしかたない。で、その講義で教授が、開講にあたって己の学問の来歴みたいな、ありがちな話をしていた。そしてそこで、自分が水処理の研究をする中で、屈原の楚辞にある有名な「漁父の辞」を読んで、衝撃を受けてそれが自分の研究に大きな影響を与えたのです、という話をした。

 

さて読者諸賢は、無教養なサルがほとんどだろうから、漁父の辞の何たるかを知らないでしょう。9割の人は、漁夫の利とまちがえてただろー。実物は以下をみなさい。

ja.wikibooks.org

そういって見る人はほとんどいないのは知っているので、かいつまんであらすじを。


楚 (というのは秦のライバルの一つ、BC300年頃) に立派で有能で高潔な、屈原という大臣がいて、いろいろ楚の王様にいつもあれこれ正しい提言をしていたのに、王様はバカで言うこときかないし、また他の家臣どもは汚職とおべっかつかいの無能のアンポンタンだらけで、正しいけど面倒なことを言う屈原はやがてうとましがられ、讒言されて、王様にクビにされて追放されてしまうのだ。

で、屈原はもう尾羽打ち枯らしたボロボロの格好で、荒れた川の横を歩き、世の中くさってる、オレだけが清く正しいので追放されちゃったぜ、畜生め、とグチっている。

それを見かけた老漁父が、「何ブーたれてんだよ、世の中が汚いなら少しはそれにあわせろ、空気読めよ、お高くとまってるから追放されちゃうんだよ」と諫める。

屈原答えて曰く「なんでおれがバカで薄汚い他人にあわせなきゃいかんのだ、オレが汚れるだろが。死んだ方がマシだ」

すると漁師あざ笑い「水がキレイなら顔 (正確には冠の紐)を洗えばいい。でも水が汚いなら足を洗えばいいじゃん」とだけ詠んで立ち去りましたとさ。

漁父莞爾而笑、鼓枻而去。乃歌曰、

 滄浪之水清兮  可以濯吾纓
 滄浪之水濁兮  可以濯吾足

遂去、不復与言。

まあ、どんなものにも使いようもあればやりようもあるのに、甘いよアンタ、ということですな。


 

横山大観の描いた屈原さん

さてこれを聞いて当然ぼくは、「ああ、どうせ何か、迫害されても正しい信念を持ち続けねばならないとかなんとか、そんな説教くさい話をするんだろうなあ、はやく終わんねえかな」と思っていた。

そして教授曰く

わたしはこれを読んで、頭を殴られるような衝撃を受けた! というのも、ここにこそわが学問の本質の一つが端的に描かれているからです!

はいはい、きましたねー。手短にたのんますよ〜。

ところが、その後にきたのはまったく予想を裏切る話だった。

この漁父の言葉。水がきれいなら顔を洗え。水が汚ければ、足を洗え。つまり、汚い水でも、もっと汚いものを洗うのに使える。これが水処理の本質です! なんでも無理に飲める水準まで浄化する必要はない!むしろ汚い水でもそれにあわせた用途に使うことで、有効利用ができる! 水の再処理、中水利用 、その他あらゆる場面で、基準と用途にあわせた浄水手法が求められる! 上水道学の基本思想がここに描かれているのです!!!

ぽかーん。

いやそれちがうから! 描かれてませんから! それはあくまで例えだから! いや、まあ描かれてはいるけど、ネタにマジレスっつーか (という表現は当時なかったが) 先生、あんた、どういう古典漢文の読み方してるんですか! まさか屈原も、2300年の時を経て自分が水処理のネタにされるとは思ってもいなかっただろうよ!

が、外野が何と言おうとこの先生は、漢文読んで、まさに水処理の原理を感得してしまったわけだし、確かにその通りのこと書いてあるし、うーん。これって、あくまで余計な非実学的な知識たる漢文がまさにまともな工学原理につながってしまったわけで、するとこの先生にとって漢文って、教養ではあるけどどういうもんなのよ、というのはいちがいには言えなくて……

 

もちろん、だからみんな漢文を勉強しなさい、現代の工学につながる原理が出ております、なんてことはもちろん言えないんだけど、でも「何の役にもたたない漢文、古文」とかいう話がでてくるたびに、ぼくはこの40年近く前の話を想いだしたりするわけです。いやあ、意外と役にたっちゃったりするみたいですよ。なんか、ここに教養というものを考えるうえでのヒントがあるような気が……いや、ないか。

(でも、ちょっとはあると思う。アルキメデスユリイカしたとき、「だから風呂桶重要です、イノベーションのために風呂環境充実させましょう」といったらアホだし、ニュートンのリンゴ話で、じゃあ物理学発展のためにリンゴの木をもっと植えろというやつは何かかんちがいしていて、彼らがそうしたヒントからあるアイデアにとびついたのは、その人たちがそれをずっと考えていて、それが出てくる契機がたまたまそこにあった、という話。それはこの屈原から上水道の原理を引き出した先生も同じで、たぶん風呂桶やリンゴや屈原である必然性はなかったんだけど、でも何かは必要だった。そうした契機となるいろんなものがまわりにある状況、みたいなものは考えてもいいのかな、とは思うんだ。すると環境の多様性とかそんな話につながるとは思う)

   

付記:ウヒヒヒ、漁父を漁夫とまちがえてたぜ、付け焼き刃教養がバレますな。

ポランニー/イモータン・ジョー/コルナイ:不足の経済と社会権力

Executive Summary

 ポランニー『ダホメ王国奴隷貿易』は、ダホメでは経済が社会に埋め込まれており、各種交換は社会関係の一環として行われる儀礼でしかない、権力関係の結果として行われるお歳暮やお中元みたいなもの、という描き方をする。だがその見方は片手オチではないか? 各種交換や配布は人々の生存に直結するものであり、その中では、そうした贈与にせよ交換にせよ、そうした行為自体が権力を創り出す。これはコルナイ・ヤーノシュ「不足の政治経済学」の指摘でもある。つまり、そうした経済関係がむしろ社会関係とその権力関係を創り出しているのでは? ニワトリと卵的な面もあるが、社会関係を先に置くのは倒錯ではないのか?


昨日、ポランニー『ダホメ王国奴隷貿易』の全訳終わった。

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この本は、小さく見れば17-19世紀ギニア海岸での経済システムと、特に奴隷貿易に伴うその変化を扱っている*1

が、そのダホメだけの話を超えて、あの本にはいまの西側資本主義=市場経済システム批判、という大きなテーマがある。いまの西洋では、あらゆるものが市場関係で決まってしまっている。自由も、平等も、人権も市場の要請から決められた価値観だ、という指摘はとても重要。そして、多くの人は、自由や平等が市場に形作られた社会組織でしかない、ということにすら気がつかないくらい、市場システムにどっぷり浸かり、それに囚われきっている。ポランニーはそれを批判する。

これに対してポランニーの描くダホメ経済は、社会に埋め込まれている。社会関係の一部として、経済関係があるのだ。そこでの経済は、取引や、まして収益のためのものでは必ずしもない。広い意味での経済、モノのやりとりは、社会的なつきあいであり、儀礼だ。

そしてそれ故に、収益だけのために勝手に取引が起こり、全然知らないやつがいきなり取引して、なんてことはあり得ない。社会の中で、関係の維持のために、決まった形で決まったもの同士の交換が起こる。市場での価格交渉に見えるものも、実は価格交渉ではない。決まったモノ同士の交換が起こるときに、そこで交換されている「モノ」が、ちゃんと「決まったモノ」の決まり通りになっているか、つまり品質が基準を満たしているか、つまり交換という儀礼のお作法を守っているか、という話だ。

ポランニーは、もちろん冒頭で、ダホメ美化しちゃいけないよ、王様がでかいツラして捕虜を先祖への生け贄として大量にぶち殺す野蛮なところだよ、という注意書きはする。が……彼がその仕組みに魅了されているのは、読めばかなり明らかだとは思う。もちろん、冒頭での市場システム嫌いとあいまって、その印象はなおさら強まる。

 

その主張はわかる。何でも市場化しないやり方もある、社会に埋め込まれた経済のあり方が存在する——それはわかる。が、その一方で、ぼくはちょっと賦に落ちないものを感じている。

社会関係、つまり権力関係とその儀礼の仕組みやお作法が最初にあって、その中で従属的に経済が動いています、経済はただの握手とか、結婚とか、お世辞とか、成人式とか、そういうのと同じで、その社会関係と人々のつきあいの一形態なのです、というのは本当なのか? 社会とその人間関係が主であり、経済は従であるというのは本当なのか?

ぼくは、なんか逆のような気がする。このダホメの社会においても、経済が主であり、社会制度はその結果でしかない。なぜか?

いきなり、あらかじめ社会と権力関係が不変の形であります、というのが変だと思うからだ。王様が食べ物をでっかいお祭りの中で、税金としてとりたてたものすべてをみんなに贈り物としてくれてやる、という。でも、まさにその、みんなに贈り物として食べ物だのなんだのをくれてやる、ということ自体が権力関係を創り出している。社会の一部として経済がある、というのは変だ。経済の結果として——その流通配分システムにより、社会を構成する権力関係が作られている。

だって、それってまさにこのマッドマックスの世界だもの。

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イモータン・ジョーとこの乞食のような民草との関係 (ついでにウォーボーイズも) は、社会があって、権力関係があって、そのなかで儀礼として水をまいているのではない。まさに水を撒くことが、イモータン・ジョーの権力の源であり、それがこの社会を作っている。

そしてここで出てくるのが、コルナイ・ヤーノシュ。彼の「不足の経済学」だ。

この人の理論もいろいろ含蓄があってすばらしいんだけれど、その大きなポイントの一つは、ものが不足している状態だと、単純な需給と価格調整による市場とはちがうものが作用しはじめる、ということだ。

不足状態では、持っている人は、持たない人に対して権力行使できるようになる。足りないものを誰が得るのか? いちばん高いお金を払った人、という仕組みもあり得る。でももう一つ、持っている人が、だれがそれを獲得できるのか、という選択権を行使できるようになる。そして逆に、その権力を行使できるようにするために、様々なものを出し惜しみし、不足を人工的に作り出すことさえやるようになる。

コルナイは、これを数理モデルにまでして (ごめん、その部分は読み飛ばしてるのではっきり説明できない) もとにして、社会主義の経済/社会が陥っている状況を見事に描き出す。

おそらく、ポランニーが描いたようなダホメ経済が成り立ったのは、経済の生産力が限られていたため、あらゆるものが軽い不足状態に置かれていたことがある。そしてそれ故に、それを(おそらく最初は暴力か血族関係により) 集めてみんなに配る、という配給システム/贈り物システムみたいなものが出てきて、そしてそれが社会の権力関係を確立していった。いったんそれがまわりはじめると、経済は確かに社会に埋め込まれ、権力構造の結果としてモノがやりとりされるだけに見えてしまう。

特に、ポランニーはすべて文書記録をもとにあれこれ記述をしている。すると、社会関係があって、その中でお歳暮やお中元や季節の贈り物をしているうちに、なんとなくあらゆる人が過不足なく物が行き渡る、みたいな印象が得られやすいのかも知れない。

でも、そのモノのやりとりが、まさに権力をかためて社会を作る——たぶんそっちのほうが重要なんじゃないか。

というのも、そこで交換されている食べ物その他は、なければ死んじゃうものだからだ。単なる儀礼的なおつきあいだけでいろいろ交換しています、というのはたぶんあり得ない。それぞれのケースでそれぞれの人が、そういう意識で贈答をしている可能性も十分にある。でも、たぶん実際はちがう。ポランニーは、その現場を見ていない。もちろん、彼は20世紀のひとだから。でもその贈答の現場——イモータン・ジョーのこの儀式を実際に見れば、そんな平和なお歳暮のやりとりでないのは、たぶんすぐにわかるはずだ。

ある社会が一定期間存続した、ということは、その社会の物質収支がなんとかトントンでまわっています、という証拠だ。そしてそこで生産力の上昇がなければ、何か配分のシステムができた場合、そこからちょっとでも逸脱したらだれかが死ぬ。したがって、そこから逸脱しないような必死の努力が社会参加者のすべてによって行われる。それがまさに、ポランニーの見ていた、「先にある社会」の安定性=硬直性の源だ。それを支えているのは、(不足気味な)物の分配流通の仕組みとしての経済と、その不足の経済から生まれる権力、なのだ。

つまりは下部構造が上部構造を規定する。マルクスさま♥

これはニワトリか卵かの議論ではある。だから当然、ポランニーがまちがっているとかいうのではない。でも、彼があまりきちんと述べていない逆の面もあるのはまちがいない、とは思う。そしてコルナイの見方をとるなら、社会主義(の一形態)がダホメに似ている、というよりダホメが社会主義に似ているというべきか (まあこれは言葉遊びに堕しているが)

ついでながら、ポランニーも、コルナイも、ハンガリーの人なのね。この両者が、別の形とはいえ、いまの一般均衡的な市場システムのあり方に疑問を抱き、不足をベースにした経済システムと社会との関わりみたいな話を展開しているのは、単なる暗合かもしれないけれど、なにかハンガリー的な視点というのもあるのかもしれない、という気はしなくもない。

というわけで、みんなポランニー読まなくていいから、マッドマックス/怒りのデスロードを見なさい! それでわかるから! V8!V8!

……というオチでいいのかな?

*1:栗本慎一郎は確か『パンツをはいたサル』で、ダホメの奴隷取引は、西洋がいやがる奴隷を無理矢理買っていったのではなく、ダホメ人たちのほうが積極的に販売していて、常にダホメ人たちのペースで話は進み、白人たちは翻弄されていただけだった、と述べていたけれど、記述を見るとそんなことはない。ヨーロッパ人たちがダホメのやり方にあわせてあげていたのは事実。でも、そこに詰め合わせ方式を導入し、独自の変な通貨単位をでっちあげ、利潤確保をしていたヨーロッパ人どもの巧みさは、やっぱ肉食ってる連中はちがうぜ、という感じではある。

ポランニー『ダホメ王国と奴隷貿易』全訳終わった

Executive Summary

 タイトル通り、ポランニー『ダホメ王国奴隷貿易』の全訳がおわりました。


先日、半分まで終わったポランニー『ダホメ王国奴隷貿易

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全部終わった。

カール・ポランニー『ダホメ王国と奴隷貿易』(全訳、pdf 4.8MB)

まあ、こうさ、訳してもさ、どうせだれも読みはしないんだよね。「スゲー」とか「感謝」とかコメントはつくんだけどさ。まあ君たちのためにやってるわけじゃないのでいいんだけど、ときどききょむかんはあるよな。でも、おもしろいよ。

書き方は下手クソで、おんなじ事何回も言っててアレだ。もう少し長生きしていればきちんと手直しできたのかも、でもなかなかおもしろいし、しょせんこの仕組みが一過性ではあったことは、ポランニーも認識しているんだね。現代世界でこんな仕組みが成り立たないのは、彼も知っている。その一方で彼は市場経済がそんなに好きではないのも伝わってきて、そこらへんのアンビバレントな感じは非常に楽しいし、いろんな意味で現代的。もちろん、中身は実に楽しい。決まった交換レートで、物と物の交換が基本で、そのために商品詰め合わせを作って、それを奴隷と交換したとか、ひょえーという感じ。

一切読み返していないので、まちがいはあるはず。またいくつか、調べてもわからない用語とかあった。old sheetって何だろう? 誤字脱字とか、お気づきの点とかあればご一報くだされ。解説は途中まで書いたが、残りは気が向けば書くかも。

追記:

グチくさくなってしまった。この本の中身について考えたことなどは、この次のエントリをご覧あれ。

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プーチン本その5−7:木村『プーチン』3巻セット:冗長な記述に埋没するが中身は悪くないし、最終巻は優秀。

Executive Summary

 木村汎プーチン』三部作 (藤原書店、2015-2018) は、書きぶりはあまりにひどい無内容な水増しぶり。だがその中身はかなりきちんとしている。プーチンの自伝的エピソードのごまかしも述べ、また変な柔道談義で舞い上がることもなく、北方領土返す気がないことも指摘。特に最終刊の「外交的省察」は、最初の二つのうんざりする書きぶりがかなり薄れ、北方領土に浮かれたりせず、変な親ロシアのイデオロギーに流されることもなく、きわめてポイントを押さえた冷静なよい記述になっていて、2022年のウクライナ侵攻に繋がる動きもまとめられている。最終刊だけは読むべき。前の二巻は……ウザい書きぶりに耐えられれば。


だいたい何かについて勉強したいときには、一番薄い本を見て大枠つかみ、一番分厚い本を見てそのテーマで出てくるネタを一通りおさえるのが通例。すると他の本については、各種情報がどう取捨選択されて、大きな枠組みとどう関連づけられているか、というのが見やすくなる。

プーチンがらみでは、大枠はまあニュースその他で大ざっぱにわかっていたので、分厚い本を見ましょうということで、かなり最初のほうで図書館にでかけて手にとったのが、この木村汎プーチン』三部作。

人間的考察、内省的考察、外交的考察の三部にわかれ、そのそれぞれが600-700ページの分厚さ。もともとはこれに加えてもう一冊加える予定だったとのこと。これだけあれば、豊かな情報、深い考察と分析がたっぷり提供されているものと思うでしょう。

ところが。

スカスカなんだ、これが。それぞれの巻の冒頭に、本の構成とそれぞれの章の概要をまとめた30ページほどの「はじめに」がある。基本的な話はそこで出尽くしている。あとは手当たり次第の記事だの発言だのや変な伝聞を並べ、そこに要領を得ないレトリックで同じことを5回も6回も繰り返した間延びした文をはさんで水増し。

惜しいなあ。というのも、書いてある中身は結構いいから、なのだ。

間延びした無内容なレトリックは最悪なんだが……

たとえば、こんな部分。

木村汎プーチン:外交的考察』pp.19-20

本論と各論を書き、そのそれぞれで5W1Hを書きます、というだけのことを言うのに、丸一ページ以上。あたりまえすぎて、むしろ全部削除すべき内容だ。ところが、木村はあらゆる部分でこれをやってくれる。

また実際の中に入ったときにも、仮にそれっぽいものを再構築してみると

ではここでプーチンは何を考えていたのであろうか。それを理解するためにはプーチンの頭の中で起きていたことを理解しなくてはならない。というのも頭の中で起きていたことこそがプーチンの考えを左右し、最終的には彼の行動を決めるからである。そしてそれを左右していたのは、様々な外部の圧力とともに彼の過去の蓄積であろうが、そうしたもののそれぞれについて慎重な考察を加える必要がある。

という感じの、言わずもがなの前置きがあらゆる部分にくっつく。(上は引用ではないので念のため)。

あるいはこんなの。

木村汎プーチン:内政的考察』p.68

途中の「保守主義とは」とかいう話はまったく無意味。最初のほうの無意味なetwasとかのドイツ語披露はなんですの? これもせいぜい3行ですませていいものを、一ページに引き伸ばす。

もちろん、これは書き方の趣味ではあり、これを雄大な含蓄ある文体と思って感動する人もいるのかもしれない。ぼくは要領を得ないダラダラした駄文だと思う。

とにかくすべてこの調子なんで、読みつつずっとイライラし続けていて、それが1500ページ続く。内容の書き方も、「だれはこう言った、誰の発言はこうだった、だれはこう評している、あそこの雑誌ではこう書かれていた、こういう見方もある云々」といった羅列が果てしなく続くばかり。で、結局何が言いたいの、というのが実に要領得ない。

……と、ここまでこの三冊の罵倒を書いてやろうと思って下書き準備していたのよ。でも、通読してその評価を変えざるを得なくなってしまった。

本当に、このレトリックのひどさ、書きぶりのひどさはあまりに残念なことではある。というのも、そういう全体の8割に及ぶ、どうでもいい詰め物やら尾ひれはひれやらをとっぱらうと、かなりきちんとしたことが書いてあるからだ。

実は中身的には決して悪くなく、政府見解にへつらうこともなくポイントは押さえている。

たとえば、プーチンKGBドレスデン勤務後に恩師に請われてサンクトペテルブルクの副市長になる。で、そのとき声をかけてくれた恩師に「でもぼくは真実を言わねばならない! 実はKGBなんです!」と言って、恩師が「それがどうした!」と受け容れてくれました、という猿芝居みたいなエピソードが『プーチン、自らを語る』では述べられている。それをそのまま鵜呑みにしている本も多い。

でもこれはデタラメで、プーチンKGBだなんてのは周知の事実だった。むしろKGBとのコネが欲しくて恩師はプーチンを引き入れたらしい。木村は、そういう話をしっかり書いて、プーチンの演出に注意を促している。

また、以下などででっかく採りあげられてきた、暴徒単独撃退エピソードも無視している模様。見識ですな。

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さらに、同じくこの朝日本の話など、ヒキワケで二島返還、みたいな妄想を展開したがる日本の本が多いという話はした。

ところが木村は、そんなのただの日本を喜ばせるための口先の小細工でしかない、というのをきちんと指摘する。それに際して、ヒキワケが面積のことならどうで、島の数のことならどうで、とさんざん書き立ててページを水増ししているのは、本当にウザイ。うざいんだが、それが延々続いた後で結局は棄却される (なら延々と続けなくてもいいでショーにとは思うが、棄却したのはえらい)。そして日ロ平和条約に関して、通常は自分からあれこれ提案して相手に迫るのを常とするプーチンが、いつまでたっても外務省の提案待ちになっていることを彼は指摘する。結論は次の通り。

そもそも大統領自身は、日本との平和条約交渉を推進しようとする積極的な意図などまったく有していない。したがって、同交渉を推進しようとする日本側の要請を常にその場しのぎの口実を設けて何とか逃避し、先送りにしようと目論んでいる。(『人間的省察』p.129)

おお、そうだよな。普通そう思うよな。2015年の本でこれをきちんと書けたのはえらいじゃん。二島返還なんかなさそうだ、と言えるのは立派。ジャーナリストの黒井文太郎は、プーチンがもともと一島たりとも返す気なんかねえよ、というのを書いていたメディアも研究者もない、とこぼしているけれど、この部分での木村の記述はそれをはっきり述べていると言って良いんじゃないかと思う。

そして、最終巻の『外交的考察』。これだけ新宿区の図書館になくて、わざわざ買ったんだけど……

ヘタなレトリックがかなり薄れ、書き方にまとまりが出てくるし、クリミア併合までの動きやその後の軍事的野心に関する記述なんかもしっかりしている。三つの中でいちばん良い巻。ちゃんと読める!

さらにこの最終巻で日本の対ロ外交話にありがちな「北方領土返還のためには〜」みたいな話ばっかりになったらいやだなー、と思っていたんだけれど、その手の話はほとんどない。メドヴェージェフがどんなふうに利用されているかという話の事例として彼の北方領土上陸が登場するのがいちばん多いくらい。東方の重視についての見方も非常に冷静で、プーチンの場当たり主義と機会主義を指摘して、変な期待を煽るようなものにはなっていない。

NATOが約束破って東に拡大しててけしからん、みたいな書きぶりもない。国際法の秩序が踏みにじられている点についての指摘も明確。ウクライナの位置づけ、プーチンのこだわりについても、標準的ながらしっかりした書かれ方で、クリミア併合についても住民投票なんかインチキでそれ以前から侵攻/併合は決まっていた話も出し、同時に目先の戦術でクリミアを盗って、結果的にウクライナを失ったという戦略的な近視眼ぶりもちゃんと書いている。まとも。最初の頃のウダウダが信じられないくらい。買ってよかった!(高いけど)

まとめ:中身的には決して悪くないが、このすごい水増し文体を我慢する価値があるかは、あなた次第。

ということで、この間延びした水増しの文体さえなければ、決して悪い本ではない。ホント、最初はこの書きぶりのひどさとそれに伴う内容的な希釈ぶりに頭にきて、悪口言うためだけに最後まで読んだんだけれど、いやはや、見限らないでよかった。最終巻のできのよさで、一通り読んで意外なくらい評価が変わったのには自分でも驚いた。

プーチンについて、まったくだれも知らなかった新しい話が出てくるわけではない。が、限られた情報源の中で、それは期待するほうが無理だ。一応、論点はきちんとカバーし(まったく整理されていないが)、さらには変な外務省/政府公式見解への忖度はなく、冷静ではある。それぞれの本の冒頭には、内容についてまとめた概要のようなものもあり、またあらゆるものを何度も繰り返すので、各章の冒頭にも要約っぽいものがついているので、そこだけ読むという手はあるし、またしばらくするうちに、どうでもいいくだらないレトリックを目と脳がスルーできるようになってくる部分はある。そして最終の「外交的省察」では、それも必要ない。

ということで、最終巻はきちんと読む価値あり。他の二巻はいらないとは思う。

それにしてももっと編集者が叱りつけて、余計な部分を全部刈り込んで、この三冊を1巻にまとめさせていたら、ものすごくいい本になったんじゃないか。まあそれは言ってもしかたない。たぶんこれをまとめて新書で〜みたいな企画があったと思うし、それが実現していたらよかったのにね。

ポランニー『ダホメ王国と奴隷貿易』半分まで → 全訳

Executive Summary

 ポランニー『ダホメ王国奴隷貿易』の既存翻訳がダメときいて訳し直しました。


昨日のエントリで、ダホメ経済の話をしたけど、そのときに読んだ『経済と文明』こと『ダホメ王国奴隷貿易』。

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翻訳が半分まで終わったので、とりあえず公開。楽しい奴隷取引の部分はこれからだけれど、ここまでの話でも、17−19世紀のダホメ経済のおもしろさはわかる。

カール・ポランニー『ダホメ王国と奴隷貿易』(全訳、pdf 4.8MB)

すでに栗本慎一郎他の邦訳があって、あまり評判がよくないことは述べた通り。ただ訳してみると、結構晦渋な英語を使っていて、未完成で終わったこともあり、論理的におかしかったり推敲が足りなかったり凡ミスっぽかったりする部分もあるのは事実なので、少し難しめではある。現代の普通の英語の感覚でやると、ちょっとつらかったかも。

訳しつつ、一切読み直していないけれど、それでも既訳よりはよいはず。残り半分も、近々終わるが、それまで何かまちがいとかご指摘があれば、是非ともご一報いただきたい。特にこの文化人類学系の専門用語とかで、誤解している部分があればご指摘たもれ。それ以外でも、誤変換、文が途中で切れてる、訳語や表記のブレ等いろいろあると思うので、よろしくお願いします!

なお、栗本訳の問題点を指摘したという論文めいたものがネットにあって、致命的な誤訳は指摘されている。pepperをコショウと訳していたとかね。ここではとんがらしのことだ。その一方で、マリノフスキーがトローブリアン諸島の親族互助方式について述べているところで「家族の対称的な部分」と言っているものに説明がない、と論難されていたけれど、もとの文も説明なんかなくて普通の読者にはわかりにくいし、それに説明つけなかったとケチつけられるのは栗本慎一郎がかわいそうだとは思う。

ポランニー『ダホメと奴隷取引』:18世紀ダホメ経済と社会主義はまったく同じ!

Executive Summary

 ポランニー『ダホメ王国奴隷貿易』に描かれている17-19世紀ダホメ王国は、市場システムを持たない。国内ではすべての作物を王様が召し上げ、一大宴会でそれを民草に配り、それ以外のわずかな部分を、王が配るタカラガイで、市場で定額で売買させる。そして外国との取引と、そのための産物生産 (奴隷狩りの戦争) は王様が独占し、民には外国製品は贈り物としてわたすだけ。これは、政府がすべて召し上げ、配給し、それで対応仕切れない部分の調整を市場での取引で行い、外貨取引は政府が全部仕切るという、キューバなどの社会主義経済とほぼ同じ。結局、ある生産力=生産技術の水準により、合理性を持つ経済システム=分配方式は決まってしまうということではないのか? 社会主義とか部族社会とか、イデオロギー関係ないのでは? するとこんどこそ資本主義が変わるとかいう主張もかなり怪しいのではないか。


プーチン本にちょっと疲れて、全然別の本を読んでおります。

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これはかの、カール・ポランニーの遺作。ポランニーと言えばあの『大転換』で有名なハンガリー出身の経済学者で、その基本的な思想というのは、市場経済というのは最近出てきた特殊な経済形態だ、というもの。市場経済とはぜんぜんちがう経済システムがあり、西洋は特に植民地主義を通じて、市場経済システムとそれに伴う金融システムを押しつけてきた、と彼は主張する。

で、その主張の最大の裏付けが、この遺作で彼が分析した、17−19世紀のダホメ王国だ。ちなみにこの本は、かの栗本慎一郎による翻訳があるが、あまり評判はよくないので、英語で読んでおります。

ダホメ:市場経済ではない別の経済システム

で、この本はむちゃくちゃおもしろい。

それによると、ダホメでは……って、君たちまずダホメがどこかもわかってないだろー。

ダホメは西アフリカの海岸部、いまのガーナとナイジェリアにはさまれた、ベナンのあたり。
ダホメは西アフリカの海岸部、いまのガーナとナイジェリアにはさまれた、ベナンのあたり。

このダホメ、18世紀の奴隷販売でものすごく栄えた国だ。ヨーロッパ相手に丁々発止の大取引をやっていたんだが、その国内は市場経済がほとんどなかった。市場はあったけれど、これは「いちば」と読む物理的ないちばのこと。でも、あらゆるモノの市場が相互に関連しあって一般均衡を創り出すような、市場システムは存在しなかった。

市場システムがないと、そこで決まる「価格」はない。では、取引とかはどうやっていたの? 王様が、いろんなものの交換比率を決めていた。その意味で、「値段」はあった。でも価格はない。ポランニーはだから「価格」というのを嫌がって「等価関係」とか述べている。(なんか異様なので、「相場」として訳している。だってそういう意味だから)

そして土地と労働力は、取引対象にはならなかった。市場化されていなかった。

では市場がなくてどうやって経済システムは動いていたのか? 国内の経済は、基本的には互恵と家事だ。そして、各種作物その他はまず王様が召し上げて、それを国民に贈り物としてあげる、という贈与システムで動いていた。もちろんその中で、多少のお金を使った取引はあった。そこでのお金は、子安貝だった。これも、王様が国民にふるまうのだ。

具体的にはどんな仕組みだったのか? 村の中では、血族を中心とした完全な部族社会になっている。やることは農業。その中で金銭取引はほとんどなく、助け合いと家事を共同でやるというのが日常生活の基本的な経済だ。血族と宗教の縁故社会で関係がガチガチに決まっており、また農業として作るモノは、王宮に決められている。それを実現するための労働力や土地など各種の分配や流通はその力関係で決まっていた、ということだ。一部の工芸品は、職人ギルドがあって、労働力の配分や生産量調整はそいつらが決める。

でももちろん、自分では創れないものがある。これは、子安貝を使い、決まった値段で買う。

で、毎年王様が、でっかい宴会を開く。そこへみんな、ドワワっと貢ぎ物を持ち寄って、それを積み上げる。この宴会は毎年、戦争の後で行われて、捕虜もいっぱいつれてこられる。みんな、王様はまた戦争勝ったぜすごいぜー、イェーイ、お祝いにこんな贈り物や貢ぎ物を捧げますゼー、となる。すると王様は、その贈り物をでっかい壇上に積み上げる。そしてまず捕まえた捕虜の相当部分を、ご先祖様への生け贄としてぶち殺し、その血を先祖の墓に撒く。で、ハイになって何週間にもわたる宴会が行われ、その中で積み上がったものの中から出席者にどんどん贈り物として、奴隷だの布だの作物だのが配られる。財の動きは、このでっかい贈答宴会で行われる再分配が相当部分を占めることになる。ちなみにその贈り物の中には子安貝もある。国内経済向けのマネーサプライがここで調整されるわけだ。

さて、これが国内経済なんだが、もうひとつ国際貿易がある。これはダホメの場合 (この対象となっている時期では) 奴隷を売って、銃を手に入れて、それで戦争に出て近隣国から奴隷を狩ってくる、というサイクルだ。

これは、国内経済とは完全に切り離されている。それを仕切るのはすべて王宮だ。そしてこの部分ではもちろん外貨の取引があるわけだが、外国人との文化的接触、外貨による外国商品の国内流入は徹底的に禁止されている。そうしたものに国内社会を汚染させないためだ。こうした外国との取引は、ウィダの貿易港で行われた。チャトウィンウィダの総督 (シリーズ精神とランドスケープ)という本がある。これはこの奴隷取引港を中心としたお話だ。この映画化版の「コブラヴェルデ」は、この奴隷貿易の様子やダホメ首長のイカレタ様子がなかなか面白い。

外国との接触禁止は白人だけではない。隣のアシャンティ族 (ガーナ) は、砂金を通貨として使っていたけれど、ダホメはその砂金の国内流通を禁止し、アシャンティ子安貝の流通を禁止し、隣国の経済すら入り込まないようにしていた。そしてその外国との取引の部分では、為替レートの操作や金融取引、先物、その他きわめて高度な金融経済が発達していた。

でも、そのダホメは無文字文化だった。文字もなかったのに簿記や計算はどうやっていたのか? それは、そろばんと同じような、小石を使った計算システムや記数法があり、それを使っていた。そろばんは、指である決まった動きをすると、なんだか人間の頭をバイパスして答が出る。それを壮大に発達させたのがダホメの仕組み、だったんだって。

もう読みながらひたすら「へえ〜〜!!」「へえ〜〜!!」と言いまくるしかない本。楽しいね。

市場経済はすばらしい、か?

さてポランニーは、市場経済批判の人ではある。本書でも冒頭で、西洋はなんでもかんでも市場化して、自由とか平等とか権利とかいう概念も完全に市場に基づいて作り上げてしまってけしからんのよ、それが格差を生み非人間性を生んでいるのよ、と指摘しており、非常に刺戟的ではある。

で、ポランニーが好きな多くの人たちは、実は単に反資本主義のバカだったりする。だから資本主義が批判されていれば、何でもかまわない。ポランニーすげー、そうですよねー、なんでも市場化して西洋はけしからんですねー、人間の労働力を商品化するなんて非人間的ですよねー。ダホメで見られたような非市場経済でも高度な文明は生まれる、そこでは人々が村の濃密な人間関係の中で、人間らしく助け合って暮らし〜 みたいな妄想に平気でふけってしまう。

が。

上の説明読んで、そんなに結構なものと思えるだろうか?

基本は閉鎖的な血縁農村社会。労働は市場では取引されないが、コミュニティの中であれやれ、これやれ、と勝手に決められる。移住は禁止。毎年の大量の人身御供の虐殺。成人男子の四分の一が駆り出される、年次の奴隷狩り戦争。ちなみに、白人の奴隷商人は自分では奴隷狩りはできなかった。ダホメを中心とする、奴隷狩り国があって、それが白人どもと手を組んで奴隷供給を行っていた。もちろん、白人が買ってくれたからそれが成立した、というのは事実。でもそれに喜んで応じたのは、アフリカの人々だ。

そして価格のない限られた仕組みが成立するのは、そもそもあんまりモノがなかったから、ではある。これはスケールする仕組みではない。もちろん、システムとして安定はしていた。それはいっぱい死んで、人口があまり増えなかったから、ではある。でも、本当にこれが人間性豊かで人を大切にし、云々の社会かといえば、必ずしもそうではないと思う。

ブラックパンサー』というレベルの低い映画は、変な黒人優位主義のイデオロギーに染まって、上に述べたダホメその他の仕組みのいいとこ取りをしようとして (王様を警護する最強アマゾン女性兵士部隊、というのはダホメの習俗だ。ダホメではゾウ狩り軍団!)、結局優しい独裁者モデルしか出せず……が、閑話休題

そしてもう一つ、これを読んでいて気がついてしまったことがある。

この仕組みって、しばらく前のキューバの(そして他のところの) 社会主義経済とまったく同じなんだよ。

市場経済社会主義経済?

社会主義経済を知らない人のほうが多いので、なかなか説明はむずかしいんだけれど、これを見てほしい。

cruel.hatenablog.com

特に重要なのは、この図。

社会主義は、基本は市場経済ではない。で、ベースにあるのは、生産→国が召し上げ→配給として再分配、というモノの流通だ。上の図では底辺に相当する。

これは、ダホメの場合、生産物のすべて (または相当部分) を王様に上納し、それを年次宴会で贈り物として再分配する、という仕組みの部分だ。

そして、それを生産するための労働や土地は、基本は国に属しており、それは地域の中での様々な関係であちこちで使われる。家事や助け合いの部分となる。これは、上のピラミッドには登場しない。そのさらに下の部分になるはず。

でも、それを補うちょっとした「いちば」は? はい。それはキューバなら、CUPという国内だけの非兌換通貨だ。ダホメなら子安貝。それが国の決めたお値段でものを売買するのに使われる。でもこのお金は外貨と交換できない。これで完全に国内経済は切り離される。

では貿易は? これは別のCUCというお金が使われる。これはダホメの場合はウィダで行われていた国際奴隷取引で、国内では生産できない資本財(ダホメの場合は銃)を得るために使用されるわけだ。

つまり、両者の構造はほぼ同じだ。

もちろん、イデオロギー的な背景はちがうんだけれど、でもそれがほぼ同じ経済システムに帰着している。

さらにダホメの場合も社会主義の場合も、ある意味でこのてっぺんの外貨の部分がやたらにでかくて、国内経済をだんだん揺るがしていったのが崩壊の一つの原因のようではある。その弱点もなんとなく同じ、ではあるのね。

資本主義ではない非市場経済として挙げられることの多いまったく別の仕組み、つまりダホメや西アフリカの経済システムと、社会主義の経済システムが、実はほとんど同じだというのは、ぼくは決して偶然だとは思わない。こんなにイデオロギー的な背景も地理的な場もちがう政治体制もちがうところの経済システムだけがまったく同じ、というのはまちがいなく何かしら意味がある。

つまり……ある程度以上の規模の経済を大きく組織する方法というのは、かなり限られているんだと思う。市場を使った資本主義と、社会主義/ダホメ的な非市場的再分配と市場の併存システムと……他にあるんだろうか?

ポランニーなどを持ち上げる人の多くは、実はものすごく多種多様な非資本主義的な経済システムというのがかつてはあって、それがやがて資本主義の猛攻の前に敗れ去った、というような印象を持っていると思う。たとえばミラノヴィッチ『資本主義だけ残った』というのは、まさにそれを含意した題名だ。あれ? ブランコヴィッチ? ミラノヴィッチ? まあいい。とにかくいろんな仕組みがあって、それがハイランダーのように闘って最後に一人残ったのが資本主義、と。でも、実はそうではないのかもしれない。

すると……新しい資本主義を超えるシステムとか資本主義のアップグレードとか、資本主義にかわる新しい仕組みとか言っている人は、ちょっとここのところに何かヒントというか障害のようなものが感じられるような気はする。

ポランニーは、市場システムが経済社会のすべてに貫徹したのは、産業革命による機械とその生産にあわせるためだった、と述べる。そして、このダホメの仕組みとか社会主義の仕組みは、完全な農村統制社会を前提とした仕組み、ということになるんじゃないか。するとある生産システムに対して使える経済システムはほぼ一つに決まっており、生産の技術ベースが変わらない限り、そもそも経済が変わることはあり得ない、とすら言えるかもしれない。そこで「インダストリー4.0でインターネット経済が〜」というような浮かれ方は、不可能ではないと思うけれど、どうだろうね。

 

おそらく、この程度のことはすでに気がついた人はいるんだろうし、またぼくの理解が足りていなくて、誤解している部分もあるのかもしれないね。でも、一応思いつきとして書いておこう。それにしても、栗本慎一郎はこの本を訳しているはずなのにこういう知見はまったくなく、穴の開いた貨幣はチンポの輪切りだとか、くだらん話しかしてなかったなあ。

翻訳がそんなにダメなら、こんな面白い本を放置しておく手はないだろ、ということで、勝手に訳し始めました。なんか2日で1/3終わったわ。うまくいけば月内に全訳あげるね。

プーチン本その4:下斗米『新危機の20年:プーチン政治史』構造がなく個別情報寄せ集めで日本語もむちゃくちゃなロシア擁護論

Executive Summary

 情報寄せ集めで、文章もまったく構築性がなくて構文レベルでむちゃくちゃで意味不明。そして中身は基本的にロシア擁護であり、ロシアが侵略を繰り返すのも、他国がプーチンに配慮しないからいけない、ウクライナがプーチンの言うことを聞いてあげないから悪い、と露骨なプーチン擁護を展開するばかり。


 プーチンの伝記っぽい本といいつつ、これはプーチンが大統領になる前夜から2020年までの話を書いた本。なんだが……

 ほとんど本としての体裁をなしていない。まったく整理されない断片情報の羅列。

 だれそれは何した、地方選挙で対立候補として何がきた、プリマコフがこういう発言をした、だれそれはこれについてこう言った。『エコノミスト』にこんな記事が出た。あーだこーだ。それがひたすら並べられるんだが、それが何を意味するのかという話が一切ない。Aという説があり、Bという説もあるが、プーチンのその後の反応からAのほうが妥当性が高い、といった情報の内容の評価と、それに基づいて何が言えるのか、という分析が一切無い。

 本書の書きぶりもそれに拍車をかける。例えば第1章のこんな段落。

 なによりもエリツィンにとって最大の破壊の対象となったのはソ連邦である。プーチンは2005年4月の大統領教書で「ソ連崩壊は20世紀最大のカタストロフィー」と言って西側の論者を驚かせた。もっともこの言葉はウクライナの政治家が言ったものであり、しかもプーチンはその後に「ソ連崩壊を理解しないのは頭がない」と付加することが通常だった。それ以上にこの演説の主眼はロシアがヨーロッパであるということであった。このソ連崩壊こそ、生活水準の低下に苦しむロシアの多くの市民にとって十分には理解されなかったのである。このことは、この時間の経過にもかかわらず、世論調査などではほぼ一貫している。(p.32)

 まず、ソ連崩壊が20世紀最大のカタストロフィーの一つって、そんな驚くような発言? それをプーチンが言った、ということが重要なの? でもその後に「もっとも」とあれこれつけているということは、実はこの発言はそんな重要ではない、と言いたいわけ? 「ロシアがヨーロッパであるということ」って、ここでいきなり出てくるけど何の話? ソ連崩壊をロシアの市民が理解しなかったってどういうこと? 「この時間の経過」って何のこと?

 出てくるあらゆる記述に、存在理由がまったくない。それが議論にどう貢献するのかさっぱりわからない。そして結局のところ、この段落に書かれたことというのは、この文脈では何の意味もない。エリツィンがソ連邦を解体した、という話だけ。

 おそらく、これだけ読んだ人は「いや、でもこの前後の文脈があってそれがつながるんでしょう?」と思うよね。ところが、まったくない。ここに出てくるすべては、前後とまったくつながらず、突然ここで出てくる。

 あるいはその後にこんな段落がある。

 ソ連の建設部門はいうまでもなく、計画経済の一部であり、時期とリソースが限定された部門であった。時間という要素は特に重要である。計画経済では、ノルマの期限内完遂は絶対の要請であるからだ。建設部門ではこの要請を満たすことは、調達の遅れなどで難しいだけに、時間の政治学はエリツィンにとっての強迫観念となった。(p.34)

 この段落の中身そのもののくだらなさは、さておこう。建設部門がそんな納期厳守なら、モンゴルでもキューバでオレも苦労しなかったよ、まったく。でもこんな記述があるということは、エリツィンがソ連の建設部門に長く所属していたとか、ボルガ=ドン運河の建設で叱責されてトラウマになっていたとか、そういう話がその前に当然あるものと思うでしょう。そうでないと、建設部門での納期へのこだわりがエリツィンの強迫観念となる理由がない。

 ところが、ないの。まったくないの。建設部門の話がどっから出てきたのか、まったくわからないの。

 すべてがこの調子。何の意味があるかわからない (ほとんどの場合はまったく意味が無い) 断片的な情報がひたすら羅列されるだけ。それが構築されて何かプーチン像なりロシア像なりを形成するということが一切ない。

 こんな具合なので、クリミア侵略についても「ああ言った人もいる」「こう言った人もいる」「これを疑問視する人もいる」「これをほめた記事もあった」の連続で、結局は現状追認ロシア容認になる。そしてその際に使う理屈は基本的に、「プーチンにもそれなりの事情があった」=プーチンのやったことは正当だった、という議論のすり替えになる。

 その後の展開をめぐっては、ロシアとウクライナ、そして欧米との解釈は異なっている。ロシア政府は欧米政府が「カラー革命」を仕掛け、ヤヌコビッチの正当政府を武力で追放したために、クリミア併合にいたったとみる。他方ウクライナなどではプーチンが最初からクリミア併合を周到に狙っていたとみがちである(中略) [オバマ大統領は] CNNインタビューで、ヤヌコビッチの逃亡などウクライナでの「権力移行」を米政府が「仲介した」ことを正式に認め、このことがプーチンをして「即興的に」、クリミア併合に至らせた理由だと率直に語った。(pp.211-12)

 別に欧米がウクライナのマイダン革命やカラー革命を支援したからといって、それでプーチンは危機感を感じたかもしれないけれど、でもクリミア併合をしてかまいません、という話になるわけではない。ところが、この本はその手の議論を平気でやる。プーチンにも事情があった、欧米がプーチンを刺激したのがよくない、というわけ。ちなみにプーチンがクリミアやドンバスにいろいろ工作して傀儡政権作らせて、といった事情についてはまったく触れない。さらにそしてクリミア併合後についてもこんな具合。

 プーチン政権とロシアも慎重ながらゼレンスキー政権との信頼醸成措置で応じた。これは19年12月のパリでの4ヶ国会談となったが、東ウクライナの自立を求め連邦制を志向するプーチン・ロシアと単一国家ウクライナにこだわるゼレンスキーとの間の溝はうまらなかった。ウクライナ国内では東西戦略引き離しに6割近い支持があるが民族右派が強力に抵抗したためである。(p.312)

 そもそもウクライナの国内統治について、ロシアがあれこれ口をはさみたがるのが変だから、両者を同列に扱うこと自体まず変だ。が、そんなことはおかまいなし。ゼレンスキーが頑固なのがよくない、ウクライナ国民の総意にすらさからう右派に牛耳られてしまっているウクライナ、というわけだ。で、本としての結論は、NATOの東方拡大がよくないという話だけなんだが、それがどっから出てくるのかも、わかりにくいことおびただしい。

 こんな本なので、読んでも何か参考になることはほとんどない。唯一、一瞬期待されつつすぐに傀儡でしかないことがバレたメドヴェージェフについてそれなりに詳しいのは、参考になるかな。その程度。

 本書の最後はこんな具合。

 この100年間に、革命的ロシア、独裁的ロシア、改革的ロシアと種々の相貌を持って現れたロシアは、21世紀のプーチンのもとではとくにクリミア紛争後、保守と安定を求める心性にこたえてきたが、そのような体制を支える条件やパラメーターはこれからもまたたえず変化していくといって本書を締めくくりたい。

 いやパラメータは当然変わるよ。学者って、それをどういう構造方程式に入れるか、というところ、そのパラメーターを元にどんな分析や見通しがたてられるのか、というところにい腕の見せ所があるんじゃないかとぼくは思うんだが。確かにこの本は、ひたすらパラメーターの変化をあれこれ追いかけるだけなんだ。で? それで? ここから今回のウクライナ侵略に到る何かが見えるだろうか? もちろんあれもこれもなんでもぶちこんであるから、後付で「あいつはこう言った」「こいつはこう言った」というのを拾うことはできるだろう。でも、それらの意義、重要性、位置づけ、そんなものは一切ないし、基本的な文章の構造レベルで変なので、読むだけでも一苦労。手を出さないほうがいいと思うよ。