日清戦争と日露戦争の事業収支報告書

断捨離の途中で、いまやウクライナ侵攻の話題で大活躍しているポール・ポースト『戦争の経済学』の解説で使った、日清戦争日露戦争の収支報告書が出てきました。

パブリックドメインだし、ぼく一人が持っていてもしょうがないので公開。ご活用ください。

Expenditures of the Sino-Japanese War (1922)

Expenditures of the Russo-Japanese War (1923)

どちらも、実にしっかり書けているし、英語も見事だなあ。このシリーズで出ているらしい他のやつもおもしろそう。

これを書いたオノ・ギイチとかオガワ・ゴウタロウ京都大学教授とか、有名なのかもしれないけれど、ぼくはよく知らない。田中秀臣氏あたりに聞くと何か出てくるのかな?

なお、この手の内容を日本語で詳しく読みたい人はこちらをどうぞ。

戦争は本当は国の金融システムまで一変させるもので、『戦争の経済学』の解説ではそっちに深入りしたくなくて、本当にCFだけ見ていたけれど、本丸は金融体制や財政システムで、この本はそこらへんすごく詳しい。アメリカでそれがどうだったからは、ペリー・メーリングが詳しい本を書いているが、さすがに訳すことはないと思う。

オリバー・ストーン『コマンダンテ』:きみ、何しに行ったの? 少しは事前調査とか仕事したら?

Executive Summary

 2002年あたりに、3日にわたってオリバー・ストーンがフィデル・カストロに密着したインタビュー映画。

 だがストーンは脈絡なく抽象的な質問をするだけ。相手が怒ったり口ごもったりするような質問は一切ない。また質問の答を受けてさらに質問して話を深めることも一切ない。実際にいっしょに町中を移動して、その状況をもとにキューバの現状について質問することもない。このため抽象的な質問にどうでもいい一般論が帰ってくるだけの、ほとんど意味のない個人崇拝ドキュメンタリーとでも言うべきものになってしまっている。


 プーチンがらみの話の行き掛けの駄賃で、あると知ってしまったので、まあ見ないわけにはいかない。カストロ関係の伝記っぽいのは一通りチェックすることにしてるもんでね。一応、中古とはいえ買ったんだぜ。

 オリバー・ストーンが三日にわたってフィデル・カストロにつきまとい、愚にもつかない質問を投げかけて深遠なつもりでいるまぬけな映画、というのが一言での感想。

 具体的にこのインタビューがどう進行したのかはよくわからない。でも実際の映画はストーンが「宇宙に真理はあると思うか」とか「好きな女優はだれだった?」とか「宗教はアヘンだと思うか」とか「ヘミングウェイは勝者だと思うか」とか、愚にもつかない質問をまったく脈絡なく投げては、どうでもいい答をもらうというだけの代物になっている。「ヘミングウェイは自殺したがどう思うか」ってカストロに聞いてどうすんのよ。カストロも最初のうち、そんなことを尋ねられて面食らっているが、「まあ個人の事情もあったんだろう」と答えて (他に答えようがないよなあ)、だんだんこのuseful idiotの扱いがうまくなり、しゃべりまくるようになる。

 2003年の映画。2003年のキューバといえば、1990年代にソ連に見捨てられて経済的にも政治的にもどん底に陥っていたのから、なんとか脱却して少し改善の兆候が見えていた頃。その意味で、少しキューバとしては気を良くしていた面もあるのかな。あと、最後にリンクしたWikipediaの記述にもあるように、生カストロが見られる機会というのは比較的少ない (と言いつつ、ニュースやプロパガンダ映画には山ほど出てるので、実際にはそんなに珍しくないんだけど)。

 それでも、最初の方の商店の映像とかで、店頭の商品のなさ、建物のボロボロ加減、悪いところはいろいろある。「国民、貧しいよね」とか、「あなたのところ一国だけでやっていけないよね」とか、移動しながらだって目についてすぐに聞ける話はいっぱいあると思うんだけどなあ。

 「若者はみんなあなたを支持している、国民の支持率80%と聞いているが、なぜか」って、そう答えないわけにいかないから、だったりするし、「なぜキューバに選挙はないんだ?」とバカな質問をして「いや議員とか地方代表とか全部選挙だよ、もっと調べてこいよ」とバカにされる始末。カストロにJFK暗殺の話を聞いたので、お、マリータ・ローレンツのオズワルドつながりとかの話が出るのかと思ったら、カストロが射撃うんちくを開陳するだけで拍子抜け。

 革命の話も、「なぜ勝てたんですか」とかほんとうにレベルの低いくだらない質問しかしない。「キューバ危機はどうでしたか」と尋ねて、公式通りの回答。何しに行ったの? 少しでも調べて、少しでもつっこんで、少しはだれも聞いたことない話を聞き出せないの? 質問の答がきたら、それを元にさらにつっこんだ質問をしたりとか、できないの? できないみたい。

 最後の、ゲバラがボリビアで死んだ話は、ゲバラ自身が焦ってて革命したがったので、仕方ないからアンゴラ コンゴに送って、それからボリビアに行かせたんだ、と言っていたのは、まあ本当だろう。「あいつはソ連の悪口言ったりしてヤバかったし、頑固で教条主義的でつきあいづらいヤツだった」と言っていたのは本当だろう。唯一、その五分ほどのゲバラについての意見が出てきたところだけが見所かもしれない。

 あと、人生の女性はどうだった、みたいな話で、奥さんより先に浮気相手のナティ・レブエルタが出てくるところとか突っ込めたはずなのに。カストロの女衒とまで言われたセリア・サンチェスの話題とか、なんかカストロがしゃべりたそうな雰囲気出してるのになー。つっこめなかったのかなー。でも、名前を「セシリア」サンチェスにまちがえていたのを突っつかれ、あまり深入りせずに終わってしまう。

 残りは、つまらない質問にどうでもいい答え、うわっつらであまりに大くくりな問いに、公式見解と一般論がかえってきて、そこにキューバの公式プロパガンダ映画の映像がモンタージュされるだけ。キューバの公式見解映画と見なされてもしょうがないわー。

ja.wikipedia.org

 「あなたはここが包囲されたら自決するか」とか「人生は二度あるべきだと思うか」とか、「『グラディエーター』は見ましたか」とか、次から次へと、よくまあこんなどうでもいい質問思いつくな、というのが連続で出てくるばかり。見る価値ほとんどありません。倍速でも見ないでいいよ。『プーチン』とまったく同じで、またとない機会を本当に無駄にしてしまっている。腹立たしい、腹立たしい。

 これ見たら、プーチンも「ああ、こいつ御しやすいバカで面倒な質問もしないヤツだ」と判断するわな。

cruel.hatenablog.com

 映像の作りとして、目とか手のドアップを多用しているのは、その質問に答えるときのカストロの心の動揺が〜、とかいうつもりだったのかもしれない。でも、質問が全然そういう水準に達しておらず、なごやかな談笑レベル以上にならない。そういう思わせぶりな映像づくりも、空振りに終わっている。

 しかしこの12年ほどの間のオリバー・ストーンの老け方はすごいなあ。が、『プーチン』でのまぬけぶりは決して老いボケのせいではなく、もとからそうだったのだ、というのはよくわかる (とはいえ、それが老いで悪化しているのはまちがいない。カストロ相手では、あそこまで自分語りする出しゃばりぶりは見せていない)。

 あと、Amazonのレビューを見ると絶賛ばかりなのは、まさにこれが、個人崇拝ドキュメンタリーだからではある。

プーチン本その3:『オリバー・ストーン オン プーチン』:ストーンが頼まれもしない反米提灯かつぎをする情けない本/映画

Executive Summary

 オリバー・ストーン オン プーチン』(文藝春秋、2018) は、同名のプーチン連続インタビューシリーズの文字版。2015-2017という、プーチンやロシアをめぐる各種の大きな事件が次々に起きた時代で、本当であればまたとない情報源となれたはず。ところが、オリバー・ストーンは自分がしゃしゃり出て、頼まれもしないのに反米妄想をふいて呆れられ、そしてそこにつけ込まれてなんでもアメリカの陰謀のせいにするプーチンの主張を全部鵜呑みにしてしまい、明らかに変なことを言われても何もつっこみを入れず、話も深まらない。おかげで、この貴重な機会が完全に無駄になり、プーチンの本当の腹がまったく見えないままで終わってしまう。映像版は、舞台となったクレムリンや大統領専用機、さらにプーチンの余裕の笑みは一見してもいいが、冗長。


 ダメなプーチン本は、もちろん日本だけに限られるわけではない。ただ通常、日本に入ってくるときには翻訳というプロセスがあり、その中であまりにまぬけなものは、あらかじめ選別されて落とされる。だから、そんなにひどいものはそもそも紹介されないことが多いというだけの話だ。

 が、もちろんそのフィルターをかいくぐって、ろくでもないものが来てしまうことは当然ある。特に、かつてはえらかった人が、高齢になってボケたか、勘違いしたか (この二つは結局同じことだけれど)で、まぬけなものを創ってしまった場合。昔取った杵柄でなんか紹介だけはされてしまうけれど……

 この『オリバー・ストーン オン プーチン』はまさにそんな代物だ。

中身は2015-2017年の9回にわたるプーチンインタビューだが……

 これは基本的に、彼のドキュメンタリーのインタビューだ。映像版は尺におさめるために、端折っているようだ。その意味ではこの本のほうが完全版なのかもしれない。確実ではない。後述する理由から、ぼくは映像版は本当に流してしか見ていないからだ。

 2015年から2017年にかけてこれだけまとまったインタビューを行えたというのは、それ自体としては大したものだ。2013年のスノーデン事件と、2014年クリミア侵略の直後。シリアでの虐殺加担があり、アメリカへの選挙介入が疑われた大統領選のロシアゲートもあった時期。それらについて、十回にわたりかなり長時間のインタビューをプーチンに行えたわけだ。プーチンに関する一次資料はとても少ないので、多くの面でプーチンについては各種インタビューがきわめて大きな情報源となる。だからオリバー・ストーンがきちんと仕事をしていれば、この一連のインタビューも得がたい情報源になっていただろう。

 オリバー・ストーンが、きちんと仕事をしていれば。

 が。

 しねーんだよ、こいつが!!! プーチンのインタビューではなく、プーチンにかこつけた、ご自分のあほな反米陰謀論の開陳の場にしちまってんの! プーチンの手玉に取られた、と言いたいところだけど、手玉に取られるまでもなく自分で勝手にゴロゴロして、むしろプーチンにたしなめられてんの!

ダメなところその1:対等なつもりでストーンがでしゃばる!

 名作『ナチュラル・ボーン・キラーズ』の最後では、絶好調の旬だった時代のジュリエット・ルイスが「きみたちの姿を世に伝えるために私が必要なはずだ!」というバカ記者の命乞いをせせら笑い、「おまえは人間じゃない、メディアなんだよ」と言い放って殺す。かつてのストーンは、少しはメディア=自分の役割に自覚的だった。撮る側、撮られる側の区別もわかっていた。メディアは決して相手と対等なんかではないというのを知っていたはず。

 ところが『ストーン/プーチン』では、その自覚がまったくない。インタビューを受けてもらえたのが、自分の重要性を認めてもらえた証拠だと思って舞い上がり、何やら自分がプーチンと対等に話ができるつもりになっていて、ひたすらイタい。会ってすぐため口になれると思い込む、アメリカ人の悪いクセをしょっぱなからむき出しにして、延々と自説開陳を続け、あげくにプーチンに「それは質問じゃなくてあんたの意見を言っているだけだな」と何度かせせら笑われる始末。その時点でお話にならないでしょー。

ダメなところその2:反米妄想を即座に見透かされるまぬけさ!

 実際には、オリバー・ストーンプーチンに完全に見透かされているだけ。彼は反アメリカが骨の髄まで染みついている。だから、アメリカの悪口でプーチンと盛り上がれるものと勝手に思い込んでいる。だから、「アメリカはこんなことしてる、こんなろくでもない、あんな悪辣な、ウォール街が、ディープステートが」と一方的にがなりたて、「あんたの意見はどうだ」「あんたもそう思うだろ?」とやたらに同意を求めている。いやあ、そんなアメリカの国内事情についてプーチンに聞いてどうすんのよ。

 その反米ぶりのあまりのひどさに、当のプーチンまでが「私を反アメリカ主義に引きずり込むのはやめてほしい」 (p.85) と釘を刺しているほど。そして「なんで僕チャンに同意してくれないの! あんたはアメリカがひどいとおもわないのか!」とダダをこねるストーンに対し「あんたはアメリカ国民だから、自国批判も好き勝手にできるけど、オレは別の国のトップなんだから、他国の国内事情や政策についてあれこれ論評する立場にないんだよ」と諭しているほど。

 ブッシュやオバマやトランプなど、個別の大統領についても、ストーンは「あいつらはこんなことして、不正直で、わかってなくて」とまくしたてる。それに対してプーチンは、それぞれの大統領個人についてはかなり高い評価をする。あいつらはわかっていた、あいつらは結構考えていた、きちんと話もした、と。当然だ。「いやあ、ブッシュは本当にアホな小者で世間知らずのボンボンでさあ」なんて言えるわけないじゃん。ストーンは何やらそれが不満らしいのだけれど、「いや悪いのはその大統領にいろいろ吹き込んで手足を縛る側近とその背後の利害関係者だよ」とプーチンが述べるとストーンはすぐに「おお、ディープステートだね」と嬉しそうに食いつき、またもプーチンに「いや呼び名はどうでもいいけど、産軍共同体みたいなのはどこの国にもあるからさー」と理性的に返されてしまう。

 そして、そういう相手だと見切ったプーチンは何をするか?

ダメなところその3:アメリカの悪口さえ出てきたら何も疑問視しない!

 もちろん反米妄想に巻き込むなと言っておいて、ひたすらアメリ陰謀論をぶつのだ。そうすれば相手が喜ぶから。そしてストーンのまぬけな反米妄想をたしなめた後なので、プーチンアメリ陰謀論は何やらえらく中立的で根拠のある、まともなものに聞こえてしまう。

 反米に巻き込むなと言ったその口で、プーチンはあらゆるものをアメリカの陰謀、CIAの工作に仕立て上げる。チェチェンの分離独立も、ダゲスタンの分離独立運動も、すべてCIAが工作した。NATO拡大もアメリカの工作。ソ連崩壊後のロシアの低迷もアメリカのせい。マイダン革命は、アメリカによるテロ工作。クリミアやドンバスは、アメリカによるテロ工作で生じた虐殺をロシアが救いにいっただけ。イラクもシリアもイスラム国もアメリカのせい。

 これに対してストーンは、一切つっこみを入れない。「そうだよなー、アメリカひどいよなー」「やっぱあいつらの仕業だったかー」みたいなことを言って、全部スルー。彼は、アメリカが悪いという話をききたかっただけで、それが出てきたらもう満足しちゃう。

ダメなところその4:反論つっこみ一切なしで不勉強!

 明らかに事実とちがう話をされたら、少しは反論したり問いただしたりしないのか? しないんだよ。ウクライナのマイダン革命で、当時のヤヌコーヴィッチ大統領がロシアに逃げたのに対し「いや逃げてなくて外交旅行だったのに、そのすきに国が乗っ取られてアメリカがフェイクニュースを〜」なんて話をされたら、普通は「いやそれはないだろー」と突っ込むはず。クリミア侵略に対して「いやだってコソボは〜」と言われたら、「ちょっと待て、話をすり換えないでくれ」と言うのが普通じゃない? そういうのまったくなし。マレーシア航空撃墜の話も、「いやあれはウクライナ軍がやった」と言われて何もきかないの? アメリカ大統領選での選挙工作だって、ロシア系のアカウントがいろいろデマながしたり工作したりしていた事実はかなりはっきりしている。それがどこまで影響したかは議論の余地はある。でも、「ロシアはまったく手出しをしていない」と言われて、はいそうですか、と引き下がるか、ふつう?

 でも、ストーンは、あっさり引き下がる。プーチンの言うことはすべてそのまま額面通りに受け取る。いやはや。軍事費の話で、アメリカの軍事費の絶対額はロシアの10倍だ、と言われると、普通はそこで「いやでもアメリカのほうが国がでかいんだからさあ、GDP比ではロシアのほうが高いぜ」くらいの反論はほしいところだけど、ストーンは「アメリカの産軍共同体のディープステートが〜」の話に流れて平気だ。

 ストーンはさらに、信じられないほど勉強不足。彼はなぜか、ビン・ラディンアルカイダがロシアの手先だと思っている。だからプーチンに、なんでビン・ラディンの居場所を教えなかったとか言う。それに対してプーチンは、「そんなの知らん、あいつらを育てたのはアメリカだ、オレたちは関係ないしコネもないぞ」と言う。そして、それはその通りなのだ。ストーンがこういうオウンゴールをやるおかげで(つーかこのシリーズすべてが壮大なオウンゴールではあるが)、プーチンの主張がなおさらご立派に聞こえてしまうという……

スノーデン(字幕版)

スノーデン(字幕版)

  • ジョセフ・ゴードン=レヴィット
Amazon

 このインタビューは映画『スノーデン』を撮るついでに実現したものだという。だからスノーデンの話が結構たくさん出てくるのは、まあ当然なんだけれど、そのスノーデンがらみの質問もしょうもないものばかり。また、キューブリック博士の異常な愛情』にやたらにこだわって見せて、挙げ句の果てにそのDVDをいっしょに見たりする。なんで? 何のために? それってあまりに壮大な時間の無駄じゃないですこと? いまのアメリカもこれと同じだ、とか言うんだが、どのへんを問題にしたいんだろうか? 忙しいプーチンの時間を割いてこれをわざわざ見せる必要が本当にあったの? そういうポイントもなく、プーチンがあれを気に入ったと言ったことに満足して (いや社交辞令ってもんがありましてですね) それでおしまいにしてしまう。

 さらにロシアの民主制について尋ねるにあたり、大統領の独裁が強くて議会が弱く、メディアが統制され、LGBTの権利がないがどうする、と尋ねる。(pp.161-2) LGBT??? まったく粒度のちがう話じゃないの? なんでそれが同列に出てくるわけ? そしてプーチンに、そこを突っ込まれる。アメリカの一部の州だって、同性愛を刑事犯罪にしてるじゃないか、ロシアにはそんな法律はないぞ、と切り替えされたら、もうそれっきり。レベルのちがう話をごっちゃにして、そこを突っ込まれて大事な民主主義の話はもうそっちのけ。情けない。

 結局、何か言ったらプーチンに一蹴されるか、あるいは反米の宣伝をとうとうと語られてそのまま納得してしまうので、これを見るとプーチンがすべてに対して見事に隠し事もなく誠実に答えているように見えてしまう。インタビューなら、相手を多少は怒らせるくらいの質問ができなくてどうすんのよ。あまりにプーチンの言い分しか聞かず、つっこみもないので「おまえ、これを公開したら殴られるぞ」とプーチンに心配されるありさま。

いやあ最初のうちは「いやこれはおだてて反米言質を引き出すための高度なブラックウィドー的策略かもしれない」と無理に思おうとしたけど、ストーンのほうがひたすら雄弁で、むしろ引き出されている感じ。まったく、なにしに出かけたんだよ、オリバー・ストーンくん。

映像版は、舞台やプーチンのご尊顔を見るにはいいが、冗長。

 最初に述べた通り、基本はドキュメンタリー用のインタビューだ。だから、これを読まなくても、ドキュメンタリーのほうを倍速で流して見る手はある。また、実際のプーチンの受け答え、インタビューの舞台となったクレムリンや自家用飛行機の中やその他様々な場所、ストーン相手の余裕のかましかたなどは、見ておいて損はない。Amazonプライムで無料だし。

 その一方で、一応はえらい映画監督であるオリバー・ストーンが (高校生のときに見た『ミッドナイト・エクスプレス』は衝撃だったよなー) 、撮る側と撮られる側の境界をだらしなく忘れ去り、プーチンと親しくお話している自分に酔いしれ、手玉に取られるまでもなく次々に自爆し、プーチンへのインタビューというまたとない機会を、己のくだらない反米陰謀論開陳に無駄遣いしている様子を見せられるのは、結構苦痛ではある。映像的に各種の時代のニュース映像を混ぜているが、それがあまり効果的でもなく、冗長。

訳者あとがきと解説がトホホ。

 これが発表されたらアメリカでは罵倒の嵐で、プーチンに甘すぎ、突っ込みなさすぎ、飼い犬でも人質に取られていたのか、と叩かれたとのこと。訳者の土方奈美は、こうした批判が不当なものであり、アメリカで意見が単一の方向に流されている証拠なのだ、と訳者あとがきで述べている。へー。突っ込みの甘さを指摘すると、意見が一方的ですかあ。つまり土方奈美としては、本書におけるストーンの勉強不足、つっこみ欠如その他は問題ではなく、本書で提示されているプーチンの姿が適切なものである、と判断しているわけですね。

 なお、彼女の主張は以下にある。営業の一環とは言えプーチンの主張を一理あるものとしてほめ、その旗をふったストーンもほめているのは、どんなによくても軽率のそしりは免れ得ないとは思う。

gendai.ismedia.jp

 さらには本の解説は、鈴木宗男プーチンに初めて会ったのはオレっちだ、本書を読めばプーチンが独裁者じゃないとわかるはず云々かんぬん。いやまあ、いまやだれも何も期待しないと思うけど。

 

まとめ:別に批判しなくてもいいが、つっこみがないので資料的価値が皆無なのがあまりに残念。

 ここで言いたいのは、プーチンに甘いからけしからんとか、プーチンに批判的であるべきだとか、そういうことではない。ただ一応、ジャーナリスト的な体裁で行ったインタビューである以上、相手の話をどう聞き出すかとか、相手が変なことを言ったらそれなりに突っ込みを入れるとか、政策面で予習をしていくとか、そういう基本的な部分をやってから臨んで欲しかった、というそれだけのことなのだ。

 本当に、これはすごく惜しいチャンスを逃してしまっている。こうした各種のアメリカ陰謀説、プーチンは本当にそれを信じていたのだろうか? それとも方便? その中間? これは今のウクライナ侵攻に到るプーチンの考え方を分析する上で、貴重な情報になっていたはず。でも、このインタビューだと、彼が本当にそう思っているのか、それともストーンのバカさ加減を見て「こいつ、反米的なことを言っておけば手玉にとれるな」と思ってエサを投げているだけなのか、全然わからない。映像でのプーチンの余裕の笑みを見ていると、ストーンを適当にあしらって楽しんでいるだけに見えなくもない。が、いまのウクライナ侵攻とそれにまつわる各種の主張を見ると、なんか実は、あのとき言っていた話はかなり本気だったのかもしれない、という気もかなりしてくる。そこらへんを見極めるだけの情報でもあればねえ。でも、ストーンの反米妄想のおかげで、それは一切見えないのだ。本当にもったいない。

 

 柳下毅一郎や町山智洋なら「いやオリバー・ストーンは『JFK』あたりからずっとそんな感じだよ」とか教えてくれるとは思う。あるいは『アメリカ史』とかなんとかあたりから (ぼくは鬱陶しくて長かったから、ナチュラル・ボーン・キラーズ以降は見てないんだよね) 。彼らなら、このプーチンインタビューを見て、別の発見があるのかもしれない。「実はストーンはアレでもかなりカマかけて頑張ってるんだよー」とか。とはいえ、それで話が変わるわけではないけれど。

 実は、そのストーン、キューバカストロと何度も会って、長時間インタビューをしている。キューバの仕事はしばらくなさそうだけれど、カストロ伝を一通り読んだ行きがかり上、それも見ておくべきなのかもしれない。

 が、このプーチンの扱いを見ると、こっちも期待できないなー。たぶんプーチンはこいつを見て「あ、このバカは使えるな」と思ってインタビュー企画に応じたんだろうと思うし……

付記:

 オリバー・ストーンによる、ウクライナ情勢をめぐる (最悪な) ドキュメンタリーがあるそうで

Ukraine on Fire - YouTube

 プーチンの主張垂れ流しだそうです。物好きな人はどうぞ。

 あと、カストロを相手にした『コマンダンテ』も見た。突っ込みナシの相手の言い分垂れ流しはまったく同じ。でも、変なでしゃばりはご自分の意見開陳はない分、まだこのプーチンよりはしっかりしているとは思う。

cruel.hatenablog.com

カブレラ=インファンテ『煙に巻かれて』:葉巻をめぐる、愛情あふれるウンチクと小ネタとダジャレ集。気楽で楽しい。

Executive Summary

 カブレラ=インファンテ『煙に巻かれて』(青土社、2006) は、葉巻をめぐる歴史、文学、映画、政治、その他ありとあらゆるエピソードを集め、さらにダジャレにまぶしてもう一度昇華させた楽しい読み物。著者が逃げ出したキューバへの郷愁もあり、単なる鼻持ちならないウンチク談義に終わらないまとまりを持つ。ギチギチ精読する本ではなく、楽しく拾い読み、流し読み、如何様にも読めるいい本 (つーか、こんなエグゼクティブサマリーつけるべき本ではそもそもない)。若島正の翻訳も、言葉あそびが強引にならずお見事。


 最近、プーチンがらみの話とか、マジな堅い本ばっかり読んでいるし、こちらも真面目に読んで怒ってばかりなので、ときに気軽で楽しい本を読むとホッとする。そんな一冊が、このカブレラ=インファンテ『煙に巻かれて』。

 出てすぐに手には入れたんだけれど (確かそれ以前に、高田馬場の洋書屋に原著ハードカバーがあって、ずーっと持ってたんだよね)、なんだかんだでずっと寝ていた。そしてこれまた断捨離途中で、処分する前に目を通しておこうと手に取った次第。

 そして、予想外におもしろく楽しかった。

 映画『フランケンシュタイン』で、怪物は途中で葉巻をすすめられ、うまいうまいと大喜びする。そんなエピソードから始まり、小説、映画、実際の政治家や作家などの葉巻にまつわるエピソード、さらには紙巻きタバコを含め各種タバコをめぐるエピソードをひたすら書き続ける一冊。脈絡は、あるようでないようである。キューバでの葉巻の位置づけ、その創られ方、コロンブスによる初めてのタバコ発見、それが広まる一方で葉巻へと結実する様子。

 脈絡があるわけでもない。葉巻について、何かを主張しようとするわけでもないし、論説でもない。だから、精読の必要なんかない。ダラダラと、あちこち拾い読みするだけでもぜんぜんかまわない。

 どっかリゾートとかにでも持っていって、バーなどで本当に葉巻を吸いながら気軽に読むべき本。Amazonの唯一のレビューでは、禁煙の時代にアナクロだとか、節穴眼を丸出しにした書かれ方になっているけれど、本書の中でも禁煙ヒステリーの猛威の中でだんだん肩身がせまくなる葉巻やタバコのあり方について触れられていて、カブレラ=インファンテ自身がこの本の (そしてその意味では自分の) アナクロぶりを熟知している。そのうえで、かつては葉巻を吸うこと自体がある種の通過儀礼であり、人間たる証ですらあった時代 (フランケンシュタインの怪物の葉巻は、怪物の人間性を示すエピソードでもあるのだ) をふりかえり、それを人々がどう描き、どのようにつきあってきたかを考察してみせる。

 同時に葉巻は、カブレラ=インファンテの故郷でもあるキューバの特産物でもある。当然ながら、カブレラ=インファンテにとっての葉巻は、郷愁の象徴でもある。陽気でノンポリに見える本書の中で、ときどきちょっとその悲しさも顔を出していて、よい味を出している。

 こういう本は、読書に明解な目的を求める人、起承転結のストーリーがないと我慢できない人、時間がもったいなくて倍速で読みたがる人、他人のつくったまとめやパワポのレジュメばかり読みたがる人にはまったく向かない。そういう人々は、そもそもこんな本自体、読む価値はないし利得もないし、したがって存在意義はないと思うことだろう。確か、ぼくがこれをずっと本棚に寝かせっぱなしだったのも、なんかウンチクをひたすら並べているだけで、主題とか主張とかが見えずピンとこなかったからだったように記憶している。

 でも、もちろん本というのは (そして映画も音楽も) そういうものに限られはしない。葉巻自体が、人の暮らしにおいてはまったくの無駄だ。そうした無駄が人間を人間たらしめている。同じタバコを賞賛するのでも、アイン・ランドはそれが火を己の手の中に収めて自由に操るという、人間の火の支配、ひいては文明活動すべてを象徴するものなのであーる! と大上段にふりかぶってほめていた。本書はそこまでおめでたい大風呂敷を広げたりはしない。そしてその無駄をめぐっての人々や文化芸術上のエピソード、それを愛おしげに集め、さらにそれだけではただのウンチク集になるのを、さらにダジャレまみれのそれ自体のお遊び作品に仕立て上げるこの本そのものが、その無駄なもので構築される人間の豊かさを体現する存在になっているとさえいえる。

 もうちょっと早く読んでおけばよかったな、と思わないでもない一方で、別にいつ読んでもいい本だというのも事実。ぼくは喫煙者ではないし、葉巻やシーシャのおもしろさが少しはわかるのは、キューバや中東圏に少し仕事ででかけたおかげで、その前に読んでいたらピンとこなかったかもしれない。紙巻きタバコのおかげで、喫煙自体がすごく悪者視されてしまっているけれど、なんかこう、ニコチン中毒の部分を抜いた喫煙の楽しみみたいなものはあるはずだ、とは思う。本書を読んで、そんなことを考える必要はまったくないんだけれど。

 あと、若島正の翻訳はお見事で野暮な註釈も最低限。ダジャレの翻訳って、がんばって無理な語呂合わせをしても報われないことが多いんだけれど、本書はその苦労をむき出しにすることもなく、うまく文中にちりばめて原文の雰囲気もうまく出していると思う。解説は、カブレラ=インファンテの他の作品が英訳されるときのエピソードを大量に交えておもしろい。

 そんなこんなで、いい本です。絶対読めとか推薦するような本ではないし、現代文学の一大問題作でもないし、余裕のない読者には向かないけれど、でも明るさと豊かさを持った本。これは処分せずに取っておくことにしようか。

ゴルバチョフ『ペレストロイカ』(1987) :あまり中身がなく理念とスローガンばかりだった。

Executive Summary

 ゴルバチョフペレストロイカ』(講談社、1987) は、ソ連の体制の刷新と解体から、やがてはソ連そのものの消滅をもたらしたという、当時の世界構造の一大変革につながった図書として、いつか読もうと思いつつ果たせずにいた。いま、35年たって読んでみると、ペレストロイカはスローガンでしかなく、社会主義のダメなところは書いてあるが、それを具体的にどうなおすか、という方策はなく、また書きぶりも社会主義的な制約 (これはレーニン様の路線を継承するものなのだ、等) と、ウソすらまじえた弁明 (レーニン社会主義を世界に広めようとなどしていない、ソ連にそんな疑念を抱くのはゲスの勘ぐりである!)等ばかりが目立ち、あまり勉強にはならない。


 本の断捨離を敢行しているが、その中で「あー、こんな本あったなー」とか、後で読もうと思って何かしら先送りにしていた本とかが出てくるので、メモを。

 まずはこの、言わずと知れた、ゴルバチョフの『ペレストロイカ』。

 まだソ連があった時代から生きている歳寄りにとって、ゴルバチョフソ連改革というのはすごい事件だったし、彼のやったグラスノスチとかペレストロイカとかが、いかに当時画期的だったか、というのはなかなか若者にはわからないと思う。

 だから個人的には、結構すごい文書のはずだと思っていて、これをいつかきちんと読まねばと思いつつ、少し敷居が高いようにも思っていた。で、ずーっと本棚に寝ていた。

 いまやもちろん、ソ連自体がないし、ペレストロイカの中身とか評価も、それがプーチンの登場にどう影響したか、みたいな部分での興味はあれ、それ自体としてはもう歴史的な好奇心でしかない。正直、読まないで捨ててしまおうかとも思ったけれど、まあ目くらい通してもバチはあたるめえよ、というので読み始めた次第。

 で、正直言って、いささか拍子抜けというか期待外れだなあ。いや、いまの視点で言うのはアレなんだが。

 そもそも1987年の本、つまりはもう35年前の本だ。ペレストロイカって具体的に何をしたんだっけ、というの自体がよく覚えていないので、そこらへんをざざっとご説明いただけるものと期待していた。これやるぞ、あれやるぞ、みたいな話がいっぱい出ているものと思っていたのだよ。

 ところが、そういうのがあんまりない。

 これまでの体制の悪口はたくさん出ている。官僚主義がはびこっている、事なかれ主義で新しいものを採り入れない、買い手がいるかどうかも考えずに、求められないものばかり使って、品質も顧みず、無駄が大量に発生している、みんなやる気がないし、停滞しまくっている、けしからん。非効率だし云々。

 で、それを打破するためにペレストロイカしなくてはならん、官僚制を打破し、効率を改善して、新しいものを採り入れ、品質をあげなくてはならない……

 はい、それはごもっともです。で、具体的にどうやって?

 そこのところがほとんど書かれていない。だからペレストロイカだ、ペレストロイカは果てしなく続くプロセスだ! みたいなかけ声がひたすら並ぶんだけれど、具体的に何をするかというと、ほとんどない。唯一それらしいのが、国営企業に対して、品質チェック委員会みたいなのをつくったぞ、という話なんだが、官僚組織の改善のために官僚組織を増やすという、ありがちな(そしてたいがい失敗する)話に見えるよなー。

 で、ペレストロイカ社会主義を壊すものではない、それを正しい道に引き戻してさらに発展させるものだ、というスローガンは大量に出てくる。あと、ペレストロイカがいかにレーニンの本来の思想に忠実なものか、という弁明も山ほど出てくる。ペレストロイカソ連をぶち壊すものではなく、それをさらに発展させるものなのだ、という。レーニン様もNEPをやったぜ、という。そういう話は必要だったんだろうねー。

 さらにゴスプランや国営企業とも議論してペレストロイカの大方針に合意した!全国の労働者からもペレストロイカ支持のお便りが続々!レーニンの基本精神に立ち返るのだ!というのがさんざん出てくる。でも具体策は薄い。まあ親玉の書いた本だし理念中心になるのは当然で、どこかに『ペレストロイカの実務』とかあるのかな。今さら探す気もしないけど。

 ちなみに、2021年末から2022年頭にかけて、キューバがかなり大幅な経済改革を断行したんだが、いろいろ細かい配慮があちこちにあって、当方がそれについて書くときも市場経済化と言ってはならず、市場メカニズムの一部導入と言えとか、計画経済の見直しと言ってはならず、部分的な自律性の導入と言えとか、いろいろ制限がつけられた。この本の書きぶりも、そういう奥歯になんか挟まった書きぶりになっているとはいえる。全体のスローガンの出し方とかはそっくりで、するとキューバの改革の未来も、いろいろ懸念される部分はなきにしもあらずではあるが……

 その後、数年でソ連が崩壊したのは、ペレストロイカが進まなかったせいなのか、それをなまじ進めたせいなのか、それとも別の要因と考えるべきなのか、みたいなことを考えたこともあったけれど、その中身がこういう抽象度だと実際どうだったのか、というのはちょっと思ってしまう。

 あと、外交や軍事面の話もあるんだけど、ソ連は拡張主義的な意図は持っていない、社会主義を広めようともしてない、レーニンだってそんな意図は一度も述べていない、というんだけど、えー、コミンテルンって何するものでしたっけ。当時ですら、こういう物言いはどこまで真に受けてもらえたことやら、という気はする。

 まあともあれ、一応ずーっと抱えていた宿題をササッと終えて、少し肩の荷が下りた感じはあるけれど、30年前にさっくり片づけておくべき本だったなー、こんなに長いこと本棚を占拠させておくべき本ではなかった、と少し悔しい気もする。

ホール『都市と文明』 III: 創造性完全無視、ITはWIREDコピペ、結論ぐだぐだ。

Executive Summary

 ピーター・ホール『都市と文明 III』は、突然イノベーションの話をはずれて、インフラの話をはじめる。だがそのインフラがこれまで重視してきた創造性とどう関わるかはまったく触れない。それぞれのインフラの事例として挙がる都市の記述も、あれこれ詰め込んで整理されず、論点がぼやけてばかりだし、また事例も一大都市から、ドックランズという地区開発をごちゃまぜにして、政策も都市のレベルと国のレベルが混同し、要領を得ない。

 さらに最後はITが都市に与える影響だが、1990年代末のWIRED受け売りばかりで、20年たったいまは無惨に古びてしまい、読むだけで恥ずかしいほど。そして来るべき都市の黄金時代と称するまとめは、いろいろ問題を羅列するだけで、これまでの長い二千ページ近くから得られる将来への指針や視点、重視すべきポイントなどが一切ない。結局、全巻通じてこれだけの長さを読んでそれに見合う知見は得られず、徒労感のみが大きい。


はじめに

 やっと出ました、ホール『都市と文明』の最終巻。これまでは、もうひたすら罵倒になっておりました。

cruel.hatenablog.com

cruel.hatenablog.com

 が、満を持しての最終巻。これまでの二巻分の、支離滅裂な惨状を挽回してくれる逆転満塁ホームランを期待していたんですが (いやまあ、その可能性はないと思ってはいたが、期待はしていたんだよ)。で、1日半かけて目を通しました。

 しかし、期待は (予想通りとはいえ) かなわなかった。というより、これまでの二巻にも増して混乱しており、最後は収拾つかなくなって何を言っているのかもわからなくなっていると言わざるを得ない。

 これまではイノベーションとか創造性とかいうのが主題だった。それが都市の本質だという。そしてそれは、ある種のオープン性で、異質な要素が集まり自由が許されたことから生まれてきたものだ、というのが、混乱しつつも打ち出してきたメッセージだ。大ざっぱな方向性は、最近訳されたノルベリ『OPEN』と同じだ (とすかさず宣伝)。

 ところがこの最終巻では、それが一切消えてしまうのだ。

インフラの話が創造性の話とまったくつながらない。

 この最終巻の話は、都市秩序。都市を支えるインフラの話だ。上水道とか鉄道とか住宅とか高速道路。あと、財政なんてのも入ってる。

 さて、イノベーションこそが大事、都市の創造性こそが大事、というのが主題であれば、こうしたインフラのあり方がどのように創造性を支えたのか、という話になるんだろう、とぼくなら期待したいところ。たとえば、住宅政策のおかげで従来は都市から排除されてきた層が流入して新しい文化を作りましたとか、鉄道が新しい結節点を可能にしてそれが文化の拠点となりましたとか (渋谷とかそういう例だと言っていいと思う)。

 ところが、本書はそれがほとんどない。普通のインフラの話。創造性とは何の関係もない。

 著者もヤバいと思ったらしく「いやでもこうしたインフラそのものに創造性がいっぱいこめられている」とのこと。もちろん大規模インフラづくりには、いろいろ創意工夫が必要になるのは確かなんだけどさあ…… でもそれは、何か異質な要素がぶつかりあい、刺激し合うことで出てきたような形のイノベーションではありませんよね? つまりこれまでの話と「イノベーションです」と言って連続性を持たせられるものではありませんよね?

事例の粒度がめちゃくちゃで、記述が整理されずに論点が不明。

 そして採りあげられているローマ、ロンドン、ニューヨーク、パリ、ロサンゼルス、ストックホルム……そして次にくるのがロンドンのドックランド開発? 都市全体の話をしているんだと思っていたときに、いきなり都市内の一地区の再開発の話で丸一章というのはなんですの? 話の粒度も何もめちゃくちゃ。

 そのそれぞれの都市についての記述も、あれもある、これもあるの雑然とした寄せ集め。ローマは、二千年前の水道の話がしたいというので、そのための行政機構の話や資金調達の話が出てくるのはいい。でも食料輸送がダメだったとかやり方が強権的だったとか、二千年前の都市を今日の基準であれこれ言ってどうする? その後の都市の話もすべて、だれそれがこう提案したのを別の人がこんな反対してこんな問題があって格差もあり人種問題もありもっといい解決策があったのに云々。そんな、完璧でなかったといって揚げ足とってどうするの? そんなケチつけるんなら、もっといい解決ができた都市をもってきて事例にすればよかったのでは?

 以前書いたことだけれど、歴史は一回限りのものではある。だから細かく見れば見るほど「このときこいつが出てこなければこれは起きなかった」「このときたまたま地震が起きなければこれはあり得なかった」というのが山ほど出てくる。でも、それをやりすぎると、歴史から学ぶことは一切できない。あらゆる事象は、何やらたまたま偶然に条件が揃ったことで、可能になっただけ、ということになる。本書はすべてその調子になってしまう。所得再分配や財政に関しては、都市政策というより国の施策だった面も大きいのに、そういう切り分けもなしで、もうごちゃごちゃだ。

 ドックランズ開発の話が出てくるのは、何か不動産開発が主導する都市開発のあり方という話がしたいから。書かれた当時は、これをやった開発業者オリンピア&ヨークが倒産してえらい話題になっていて、そういう話をしなきゃいけないと思ったのかもしれないね。でも今にして思えば、いつでもどこにでもある話だ。不動産業者主導なら三菱地所とか、東急の田園都市の話をするほうが、ずっとよかったのでは?

 そしてドックランズは、グローバリゼーションの影響なんだという話だけれど、そこでのグローバリゼーションって、ロンドン、NY、東京の都市間競争、くらいの意味でしかない。1999年の本で、それはないんじゃないか。第一巻の冒頭で、都市の事例が欧米だけなのはごめんね、とは言っているけれど、事例はさておきその背景理解として、あまりに不十分じゃないかと思う。

経済の話はすべて景気波動にこじつけようとするが無意味。

 そしてインフラや不動産開発の話は、景気とは切り離せない部分はある。が、景気/経済の話でこの人が出してくるのが、景気循環の波動理論。コンドラチェフだジュグラーだ、というアレ。

 でもそもそも、景気は上がったり下がったりするけれど、それを無理に何か法則性のある波動にあてはめる必要はまったくない。それが何年周期か、なんてことを詮索しても仕方ない。これは経済理論としてもそうだし、さらに都市開発の話をするにあっては、何か知らないけれど景気がよくてそれが不動産開発とも連動しました、というのが前提としてあればすむ。その景気のよさが何とか波動の影響だったという話はまったく何の役にもたたない。ところがホールは、このコンドラチェフ波動が〜と言うのが何か重要だと思っているらしくて、要領を得ない議論をあれこれ。前の巻についての話で触れたけれど、本当にレギュラシオン学派に頭をやられていたみたい。でも、その何とか波動って、実体的にあるものじゃないから。この本には一切貢献してませんから!

 で、最悪なのが最終章。

IT話は当時のWIREDの聞きかじりもどきで最悪

 ここは、IT革命と都市、みたいな話をしたい部分。1999年でみんなITで浮かれ、おじいちゃんも「インターネッツっつーもんをやってみたいんじゃが」みたいに思っていたのはわかる。WIRED必死で読んでバズワード漁っていたのはわかる。

 が、自分がどういう本を書いているかわかってないの? そういう目先の流行りにおたついているような話ではなく、千年、せめて百年レベルの話でしょうに。それが、ネグロポンテ〜、情報スーパーハイウエイ、キラーアプリ〜。マルチメディア〜。いろいろ聞いた風なことを言うんだけれど、たぶん自分でもよくわかってないと思う。なんで『ジュラシック・パーク』のSFXやった企業が云々なんていう話が得意げに出てるんだ? MosaicMacUNIXだけにしか提供されなかったことになってるし。ああそうそう、翻訳は、同じページでbpsのbがビットなのかバイトなのか混乱していてアレだし (p.1899)。

 また何かテッキーなことを言おうとして「これらすべての鍵は、一対の電極に挟まれた特定の種類の重合体ポリマーがスクリーンとして機能するという発見である」(p.1862) とか。これって何のことだと思う? ぼくもしばらく考えちゃったよ。液晶の話ね!! いや、1999年でもこんなもったいつけるほどのものではなかったと思う。そうそう、考えて見ればすでに1990年代初頭には、ケチなぼくですらPowerbook180持ってたし、液晶はそこそこ普通の存在だったよね。カラーはDSTNとか、最初の頃はまだ発展途上だったけれど、それも急速に改善されて前世紀末には普通だったはず。いや待て、1993年くらいには、DEC Hinote Ultra買ったし、TNTカラー液晶もだいぶ普及してきてたぞ。この本が出た1999年とかの時点では、そんな特筆するものではまったくなかったはず。だれか止めてやれよ。

PowerBook 180. いいマシンでした。DEC HiNote Ultra。あの薄さは当時革命的だった。

 すべてこんな具合。現時点ですべてが完全に古びてしまっているのは当然どころか、当時としてもかなりはずしていたんじゃないかな。そしてそういうのを羅列した挙げ句に、最後に都市への含意として出てくるのが、距離の死と言われるけれどレストランでの食事とか完全に代替できないものはあるよね、という話。

 いやそんな話であれば、ムーアの法則ILMがどうしたいう話も何もいらなかったのでは?

 原著刊行から四半世紀たってから、そういうのをあざ笑うのは、まあフェアではないんだけどさ。別にスマホの話がないからといってケチつける気もない。いや、がんばってはいるんだけどね。でも次の一節を読むと、脱力してしまうのは人情でしょう。

 1995年6月に日本で画期的な出来事があった。「簡易型携帯電話システム (PHS)」は、小型の低電力ベースステーションを使用して、待機時間400時間と通話時間5時間の化粧コンパクトの大きさの電話を提供した。帯域幅を非常に経済的に使用して、画像と音声を送信し、携帯電話を介して通信でき、パーソナルステレオまたはノートブックパソコン、一種の「ワイヤレス・マルチメディア」に接続できる。(p.1861)

 やはり2022年にピッチ絶賛の本を読むと、遠い目になってしまう。もちろん、後のスマホやモバイルにつながる話ではあるし、目のつけどころはよかった、とほめることはできなくもない。が、それが都市をどう変えるのか、都市にとってどんな意味を持つのか? WIRED的なうわっついた一過性の話を見通して、これまでの都市についての知見をもとに何か見通しを出せるのが、歳寄りの存在意義ってもんだろ? 「都市計画の大家」っていうんだから、その大家の矜持ってもんだろ?

 そして原著刊行から四半世紀後にそれを翻訳出版しようと思った人、たとえば監訳者の佐々木雅幸は、これに現代的な価値があると思ったんでしょう? それはどこにあるんだろうか? 監訳者あとがきは情報量がないも同然で、目次を読んでいたほうが話がわかるくらい。もう少し弁明なりなんなりがあってしかるべきでは?

あれもある、これもあるで結局結論は……何もなし!

 そして最後に、エッジシティってどうよ、とか自動車中心の都市から云々とか、あるいは貧富の差が都市内格差になってしまってとか、交通機関の発達がそれを煽るかも、あーこれから技術失業が出てくるかも云々という話がまったくまとまりなく続いて、教育投資したほうがいいよね、格差を解消することは考えた方が良いよね云々、といった都市レベルとは関係ない話があれこれ羅列され、そして結論は:

 以前と同じように、技術の進歩は逆説的に悪役でもあり英雄でもある。一方では、雇用、企業、産業全体そして生活様式を破壊するが、他方では、広大な新しい経済的機会を創出し、都市社会の手に負えない問題を解決する。しかし、われわれがそれをどのように利用するかはわれわれ次第だ。それが都市の歴史の次の世紀、そして次の時代へのメッセージである。(p.1926)

 ……全三巻、二千ページ近く読まされてきて、これがまとめだ。

 これだけ。

 いやあ、これを深みのある何かだと思う人も、いるのかもしれないねえ。でもぼくは、ふざけるなと思う。これまで読んできた時間を返せと思う (ついでにこれ全三巻買ったお金を返せと思う。さっさと転売してしまおう、まったく)。

 こう、都市の歴史、いろんな都市のいろんな成功や失敗の事例をみてきた結果として、少しは引き出せる一般論ってないの? 最初のほうでは、都市は創造性がだいじだ、という話だったよね? それを実現するための都市政策とかインフラ作りとか、何かしら示唆はあっていいんじゃない? マンフォードの「都市はネクロポリスになるのだ」みたいな見通しを批判して、いや都市は活気にあふれてこれからも文明の基盤になるんだ! というのが冒頭での宣言だったように記憶してるんだけど、最後は「こんな問題も、あんな問題も、未来はわかんないし、不透明だしうだうだ、でもそれをどうするかはわれわれ次第だ!」って、なんか都市の可能性がまったく見えない終わり方なんですけど! このITがらみの話から続く章の題名は「来るべき黄金時代の都市」なんだけれど、黄金時代の話が一切ない!

 たとえば黄金時代というのは、次のポール・クルーグマンの短い半分ジョークまじりの文章などだ。

cruel.org

 ここでクルーグマンは、様々なテクノロジーの発達が実はさらに大都市を巨大にする役割を果たすことを指摘する。ホールが言いたがった創造性の話も、それがどんな展開を見せるかについて一定の知見を示す。そして、それは当たっていたようだ。いや、短期的には当たらなくても、そこできっちりした視点、見方、都市の捉え方さえ出ていれば……でも、ホールの本にそれはない。結果的に、この二千ページの本よりも、このクルーグマンの小文のほうが、都市や創造性の未来についてずっと明解な知見を出しているという悲しい状態。うーん。もちろんこの頃のクルーグマンは、いろいろな意味で天才的なひらめきを見せていた。それと比較するのは可哀想かもしれない。が、天才のひらめきでも、凡人の二千ページの鈍重ながらも生真面目な作業が少しは超えてほしいと思うんだが……

結論:読むだけ無駄な本だと思う。

 結局…… これだけの長い重い高い本を買って読んで、ぼくはとても激しい徒労感にうちひしがれている。第四部はいいよ、というマイケル・バティの書評を信じていたんだけどなあ……何がよかったんだろうか。

 そのバティの書評によると、ピーター・ホール自身は、この本がかなり自信作だったそうな。本当に決定版の新しいスタンダードになると思っていた。ところが、実際にはほぼ完全といっていいくらい無視されて、まともな書評もほとんど出なかったとか。ホールにとって、それはかなりショックだったらしい。うーん。

 ぼくは最初この話を読んで、読み手にがそれを受け止めるだけの度量がなかったのかもしれない、とは思った。ピーター・ホールだし、まあそんなに外すとは思わなかったし。でも、いま自分で通読してみて、これが無視された理由はよくわかる。それは受け取る側の責任ではない。読んだ人たちがバカだったとかいうことではない。正直、書評を書く人間としては、あのピーター・ホール (いや、業界ではかなりえらい人ではあるんです) 畢生の大作となれば、ほめるほうが簡単だ。でも、それすらできなかったということだ。整理されず、論点もまとまらずに、都市の未来についての知見も指針も希望も出せない——それで誉めるのはむずかしい。

 しかしピーター・ホール自身にとってはこれが自信作だったということは、本当にこれでいいと思っていたんだろうか? うーん。どこらへんを見所だと思っていたのか、訊いてみたかったような気はしなくもないが……まあ、訊いてどうする。それで評価が変わることはないと思う。

 なんというか……全体にこの人、この第3巻で顕著だけれど、あまりに目先の話にとらわれすぎる。ドックランズの話もそうだ。ITの話もそうだ。PHSで大騒ぎしてみせる話もそうだ。レギュラシオン景気循環の話もそうだ。全体的な話に関係ないでしょうに。そしてそれは逆に、大局的な視点がないということ。長い歴史の中で、何が重要かを抽出する能力がない。そうなると、都市の創造性が大事ですとかイノベーションが大事です、といった話も、当人の都市観察や実務から出た知見なのかどうか怪しい。ちょうど、いろんなところでイノベーションとか言われ始めていたのにのっかっただけでは? だからこそ、それが全体を貫徹することもなしに尻すぼみになってしまうのでは? そう勘ぐられても仕方ないだろう。すると最終的に、ピーター・ホールは実務家であって目先の問題を解決するのが得意な人であり、大きなビジョンがある人ではなかった、ということなのかもしれないね。それでもなあ。

 あと、翻訳は生硬。著者が無用にもってまわった言い草をしたところが多いせいもあるんだけれど、訳している人が本当にその意味をわかっているんだろうか、というのが疑問に思えるところが多々あって、ただでさえ要領を得ない記述がなおさらわかりにくくなっっている。そういえば、監訳者の名前はあるけれど、実際に翻訳した人の名前が見あたらない。それは仁義にもとるのでは?

プーチン本その2:プーチンご自身『プーチン、自らを語る』:基本文献。ストレートで明解なインタビュー集

Executive Summary

 プーチン他『プーチン、自らを語る』(扶桑社、2000) は、突然ロシア大統領になってどこの馬の骨ともわからなかったプーチンが、生い立ちから大統領としての問題意識までを率直に語ったインタビュー集。幼少期の記述などはこれがほとんど唯一の文献で、他の本はこれに対する註釈でしかない。また、まだ隠蔽すべき悪事などがないので、かなり率直かつ正直に語られているし、全部が本当ではないとはいえ、一言半句に勘ぐりを入れる必要もなく、ストレートに読める。家族のインタビューも交え、プーチンの全体像をしっかりまとめているし、またチェチェンへの高圧的な態度、反体制ジャーナリストへの冷淡さなどもはっきり出ている。なお英語からの重訳だが、英語版のほうが追加のインタビューを加え、ロシア語版で削除された部分も含んでいることもあり、重訳のデメリットよりはメリットのほうがずっと高いので、懸念には及ばない。


 悪口シリーズ続けるつもりが、図書館で順番がまわってきてこの本が読めました! 英語では読んでいたけれど、日本語のほうが楽なので助かります。

 この本は、題名通り、プーチンが就任直後にロングインタビュー受けたのをまとめた本。

 プーチンに関する基本資料といっていいもの。プーチンの子供時代から大統領になるまでの経歴をまとめた文書といえば、基本これしかない。他の本はすべて、ここの記述をベースに、検証したり疑問視したり、その後の話を追加したりするものになっている。

 プーチン自身が公式に大統領就任直後に行ったインタビューで、世界的に「プーチンってだれ?」状態のときに、それに答えるべく出た本。当時は、エリツィンがほとんど気まぐれに首相の首を次々にすげ替えていた頃で、プーチンもそうした短命なツナギの存在としか思われていなかった。だからそれが大統領になったときにも「マジかよ」「またツナギじゃないの?」みたいな感じではあった。

 後からの検証で、ここのところはウソだった、とかいうのはだんだん明かされている。完全に額面通りに受け取っていい本ではない。が、それを言うならプーチンがらみで額面通りに受け取れる本はなかなかない。そして本書は、就任直後の本ということもあって、プロパガンダ的な配慮がそれほど周到ではない。いろんな質問にストレートに答えてくれるし、隠蔽も何やらウソをでっちあげるのではなく、答えたくないという形で対応するので、とってもストレート。

 さらにもちろん、その後の大統領就任後の悪事 (クリミア併合したりとか) 以前だから、各種行動をレトリックでごまかす必要もない。この時点のプーチンの見解として、かなり正直。そしてそれがために、通読していても「こいつ、何が言いたいの?」的な曖昧な発言が少ない。実際の行動を隠蔽する必要がないので、それなりに正直な意見を出しているし、基本的な考え方の表明になっていて明解。

 最後に載っている、「新千年紀に向けたロシアの道」というプーチン論説は、軍事力ではなく経済力やイノベーションによる国力増強を訴える一方で、愛国心、国力、強国、国家主義といった基本的な方向性を打ち出しているのは、その後の動きを考えるにあたり重要なポイントになるのは言わずもがな (英語のキンドル版は、なぜかこれを本に含めず出版社サイトに置いている——そしてリンク切れ)。そして本書で明言されている「チェチェン絶対独立なんかさせない! それ認めたら連鎖反応が起きるし他の国が口はさむようになるし、山の中まで悪党共を追い詰めてぶっつぶす!」という明解なメッセージは、その後の活動にあたっても基盤となる発想なのは明らか。

 聴く方も、おっかないプーチン像を無理に造り出そうとはせず、手持ちの情報の中で、これはどういう人物なのかを素直に尋ねており、相手を罠にかけようとか、失言を引き出そうといった工作もない。また手放しの翼賛個人崇拝インタビューでもなく、結構きつい突っ込みもしている一方で、奥さんや娘たちへのインタビューも交え、それなりにプーチンの全体像を2000年という時点でうまく描き出せていると思う。

 あと、本書は英語からの重訳。前にレビューした朝日新聞『プーチンの実像』は、この本をさんざん参照しておきながら、英語からの重訳だとかケチをつけている。でも文学作品ではないので、重訳であることに大したデメリットはない。朝日新聞も、重訳によってどんな部分に支障があるかについてはまったく指摘できておらず、ぼくはこれはかなり陰湿な印象操作だと思う。

 (ちなみにあの本は、この『プーチン、自らを語る』のインタビューを行ったゲヴォルキアンへのインタビューにかなりページを割いている。その意味で、あの本は本書の注釈書みたいな位置づけではある)

 一方で、本書の解説によれば、英語版は単なる翻訳ではなく、新聞インタビューも加えて内容が拡充されている。さらにロシア語版と英語版を比べると、チェチェン紛争についての質問や、拿捕された反体制ジャーナリストに対するかなり辛辣な発言などロシア語版では削除されている部分があるそうな。該当部分を観ると、かなり重要な部分だと思う。英語版をもとにするほうが、その意味では情報量豊かなので、重訳だからダメ、というものではない。

 ホント、いい本なので扶桑社は再刊してくれないかなー。Kindleでもオンデマンドでもいいから。