ハーバート・A・サイモン『人間活動における理性』アンチョコ

はじめに

数日前に、サイモン『人間活動における理性』の海賊訳を公開したら結構みんな喜んでくれて幸甚。

cruel.hatenablog.com

が、これを実際に読んでくれた人でも、結構苦労しているらしい。

note.com

でてくる用語として、馴染みのないものが結構ある、というのがつまづく原因となっているみたいだ。扱っている範囲が野放図に広くて、経済学の効用理論の話が認知心理学みたいな話に逸れつつ、そこから進化論の話に入って、それが制度論だのメディア論だのに飛び火して、という代物だから仕方ないといえば仕方ない。

が、実際にでている話はそんな面倒なことではない。馴染みのない用語の大半は、無視していいものばかり。ゲーデルとか、アリストテレスとかね。

そういうのはただの、インテリの符牒だから気にしなくていい。「アリストテレス云々」というのは、古来の正統派学問の伝統でずっと、という意味でしかない。これ読んでフンフンうなずいている人で、実際にアリストテレスを読んだ人なんか0.03%もいない。ゲーデルだって、みんな「ああ、合理性は自分の中だけでは完結できないって話ね」(ここで「完結」ってのがどういう意味かはモゴモゴした感じ) 程度の雰囲気だけわかってればいい。あと、「ゲーデルで近代科学は崩壊した、客観性などない、すべては幻想なのだ」とかいうトンデモに走ってないかだけ警戒すればいい。

そういう本質でないところに囚われて、全体が理解できなくなると、とてももったいない。ということで、アンチョコ作りました。これ読むと、たぶん「あたりまえじゃん、くだらねー」と思う人がでてくると思うんだけど、でもそれをきちんとまとめられているのが手柄ではあるのだ。

ハーバート・A・サイモン『人間活動における理性』アンチョコ (pdf, 360kb)

pdfだと「あとで読む」にするだけで読まない人が多いので、以下にはりつけておきます。

ハーバート・A・サイモン『人間活動における理性』アンチョコ

2020/09/28

山形浩生

全体の主張

世界のすべてを律する、最高で最適な、至高の合理性なんてものはあり得ない! 合理性は、限られた範囲で、限られた情報に基づき、なるべくよい選択や意思決定を行うためのツール。でもそれで話が全部すむと思ってはいけないよ。

第1章:合理性のいろいろな見方(すべてが合理的に迫るスーパー合理世界みたいなのはあり得るのか?)

1.1 理性の限界

論理というのは、何か入力があって、それを出力に変換するためのツールだ。でも人が何か行動を決めるには、そこにどうしても何か前提がいる。どうあるべきか、という話がいる。あるいは、論理の支えとなるべき支点と言ってもいい(哲学的な話はこれをむずかしく言ってるだけなので無視してよし)。それなしに、完全無欠な合理的な意思決定の体系みたいなのはあり得ない。

1.2 価値観

いまいった、必要となる前提というものの一つが価値観というヤツだ。ヒトラー『わが闘争』は、別に論理展開がまちがっている=不合理だからダメなのではない。前提となっている価値観や事実認識が、変な結論を引き出している。だから合理的であっても変な結論や意思決定はでてくる。そして価値観も一枚岩の絶対ではない。他の価値観とのかねあいで変わる。

1.3 主観的期待効用 (SEU)

 いろんな価値観を統一的に考えようという学問的枠組みがある。それが主観的期待効用 (SEU)。いろんな将来の可能性に確率分布を割り振って、様々な価値観の間でその人にとっての効用を最大化する決定を選び出す手段。すごい理論体系なんだけれど、すごく非現実的。こんな前提が必要になる。

「意志決定者が一回包括的に見るだけで、自分の眼前にあるすべてを考慮するものと想定します。自分に対して開かれている、各種の選択肢の総体を理解しています。しかもいまその時点で存在する選択肢だけでなく、将来のパノラマすべてにわたり登場する選択肢も全部理解しているのです。そして考えられる選択戦略それぞれの結果も理解しています。少なくとも世界の将来状態について、共同確率分布を割り当てられるくらいの理解はしています。自分自身の中で対立する部分的な価値観ですべて折り合いをつけるかバランスを取らせて、それを単一の効用関数へと総合し、その関数が将来のそうしたあらゆる世界状態をすべて、その人の選好にしたがって並べてくれることになります。」

 現実にはこんなの、絶対にあり得ない。自分も工場での意思決定にこのSEU理論を応用したりしているけれど、きわめて限られた状況でのきわめて限られた意思決定の話。実際の工場に当てはめられるものじゃない。

1.4 行動主義的な代替案

 では、そういう限られた範囲の限られた合理性は? つまり、たいがいの意思決定のときには、なんか大ざっぱな相場観みたいなものがあって、将来についても細かいことはわからないけど、根拠の有無にかかわらずだいたいの「こんなもんかなー」みたいな目安があって、それを前提になるべく合理的な決めごとをする、というのは、だいたい実情に合ってるだろうか?

 これはだいたい合っている模様。これが可能なのは、いろんな決定事項はかなり独立しているから。こっちの意思決定であっちが影響を受けて変わってしまい、みたいな話はあまりない。個別の部分で限られた合理性を通せばまあよい結果になる。

 一方、そういう理詰めで考えて意思決定をするようなやり方以外に、天才が直感でズバッと決めるような意思決定がある。脳の左右半球のちがいをこういう話と結びつける軽薄な議論も多い。でもそういう直感は、1万時間くらい経験を積むことで、すばやいパターン認識ができるようになった結果らしいよ。

 ちなみに、この限定合理性のためには、その限定された部分に意識を集中させることが必要。感情というのはこのために仕組みらしいね。でも、感情はまちがった方向にも発揮できてしまうので、あんまり感情的な判断を重視するのは考え物だ。

第2章 合理性と目的論 (進化で合理性は実現できるか)

2.1 合理的適応としての進化

 合理性の一つのあらわれは、進化。進化では、不合理だと生き残れない。ただ一方で、進化に任せれば自然に合理性が勝つよ、というものでもない。そもそも、人間の文明は若すぎて、進化が遺伝的に作用するほどの世代はたっていない。だからあまり安易に進化を持ち出すのは慎重になったほうがいい。

2.2 ダーウィンモデル

 ダーウィン進化論的な合理性の発達は、環境は固定されてそこにどう適応するか=子孫を残しやすいか、という話になる。でも実際には、動物は自分たちが広まるにつれて環境を変えてしまい、暮らしていたニッチをどんどん深める。たとえば、植物が出てきて環境変えたから、酸素を呼吸する動物の活躍する余地ができた。これは、安易な「適者生存、弱者死ね」みたいな通俗的な進化論とはかなりちがう。

2.3 社会と文化の進化

 人間社会の場合、進化も遺伝的に作用しなくても、文化の伝搬で作用する可能性はある(ミーム論ですな)。でも、文化伝搬は何を最大化するのか、わかりにくい部分がある。遺伝的進化論との相互作用なんてのもあるだろう。

2.4 進化過程における利他主義

 利他性は、社会の進化において重要だけれど、これは開明的な利己主義として考えれば結構うまく説明できる。仕組みとしては血縁淘汰や構造化デームなんてのがあるけれど、社会全体としての最適化を進める仕組みだ。

2.5 進化の近視眼性

 ただし進化は徐々にしか動かないから、ローカルなピークには登れても、大域的なピークに登れる保証はない。だから安定した生態系が外来種に蹂躙されたりする。そして、進化そのものが環境も変えてしまうと、大域的なピークも変化する。植物が発達すれば、酸素を使い植物を食べる動物の適応度はあがり、ピークは変化する。だから、何かきまった最高の合理性を向けて進化が競争する、というようなイメージはあまりに単純すぎる。

進化のローカルピークとグローバルピーク
進化のローカルピークとグローバルピーク

2.6まとめ

 こうした進化論の働きを見ても、局所的で、決して万能ではないというあたりを見ると、前章の最後で見た限定合理性のモデルと同じだ。  

第3章 社会活動における合理的プロセス (社会制度も人間の制約をひきずる)

 人は社会の中で、完全に独立したビリヤードの球みたいに存在しているわけではない。また、自分の行為のすべてについて完全に罰を食らったりごほうびを受けとったりするわけでもない。外部性というのがあるからね。だから、そもそも完全に合理的に行動はできない。各種の社会制度は、そういった中で人々の受けとる情報をなるべく減らして、合理的な選択ができるようにしてくれるもの。

3.1 制度的合理性の限界

 その制度も、人間のやることだから人間の限界をひきずっている。みんな、そんなにあれこれ同時にはできないので、その時に流行っているテーマにばかり集中する(インフレとか)。でも他の問題との関係は十分に考えられない。一方、一つの問題だけにこだわるNGOみたいな連中がすぐに議論を乗っ取ってしまう。価値観の相違へのまともな対応方法はないし、不確実性も社会の判断をむずかしくする。これはゲーム理論囚人のジレンマからもわかるし、アローの社会厚生定理でも示されていること。 ただし救いはある。「最適」とか「最高」とか目指すから議論が膠着する。「そこそこいい」「まあ我慢できる」といった水準を目指すなら、合理性を持って問題を解決できる余地はずっと広くなる。

3.2 制度的合理性を強化する

 ではそれをどう強化すべきなのか? 制度の一つの役割は、処理能力の限られている人間のために、限られた情報で判断できるようにしてくれること。いろんな問題毎に独立の組織を作って個別に対応させるのは、限られた判断力を無駄遣いしない昔からの知恵。市場という制度は、価格にものすごく大量の情報を集約してくれるので、強力な情報処理手段。社会の中で、ある問題についていろいろな意見を募って判断するのも制度強化の知恵。最近では、コンピュータや人工知能が意思決定を大いに支援してくれている。

3.3 公的情報のバイアス

  でもそうしたプロセスに入れるべき情報の問題がある。マスコミは基本、センセーショナリズムのバカだ。きちんと本を読め。また専門家は有益ながら、どの専門家を選ぶべきかという点で同じ問題に陥る。そして専門家はみんな自分の専門がえらいと思ってしまうため、かえって各種情報にバイアスをかけるし、いろんな専門家がいるので結局素人がいろいろ判断するしかない。

 そして各種機関は、その設計のよしあしで効力がまったくちがってくる。その調整プロセスが「政治」なのに、最近はみんな政治を何やら悪いものだと思っているので手に負えない。その結果、みんな各種問題について個別に場当たり的に対応するので、政策をパッケージ化するはずの政党などが力を失っており、政治が機能不全に陥っている。

 また、みんなが知識をもっと得ればいいかというと、もちろん知識があるに越したことはないんだけれど、多くの問題についてはそもそも都合のいいデータはないので、知識バンザイというだけでは何も進まない。

3.4 まとめ

 そんなこんなで、スーパー合理的な世界とか完璧な制度とかは考えるだけ無駄。人間の能力には限界があるし、また人間活動で環境が変わってしまい、何をもって最適とするのか、という尺度も変わる。進化も時間がかかるし、せいぜいがローカルピークを目指すしか不可能。そして人間の制度は、人間の限界をひきずっている。 でも、そんな完成された世界なんかできちゃったらつまらない。最高だの最適だのを目指さず、そこそこの水準で目先の解決策を考えればいい。狭い範囲での限られた合理性を目指しつつ、その「狭い範囲」をなるべく広げることでだんだん合理性を高められるといいね!

おしまい。

レッシグ新刊で知ったアメリカ政治二極化の力学

久しぶりにレッシグの翻訳をしているんだけれど、なかなかおもしろい(部分もある)。

かつてのインターネット法や著作権法からレッシグの関心は大きく逸れて、ここしばらくのレッシグの本は、アメリカの選挙献金制度の改革がテーマになっていた。何度か、翻訳の打診もきたし相談も受けたんだけれど、話があまりにアメリカの選挙制度に偏りすぎで、翻訳しても日本人が関心持ちようがないと判断したので、申し訳ないんだがずっと見送りを奨めていた。

さらにその後、レッシグ自身が大統領選に出馬とかして、本人的には真面目なんだろうけれど、端から見るとスタンドプレーにしか思えないことをやったりしたため、言っては悪いんだが、キワモノ的な雰囲気が高まっていたこともあって、もう最近のやつは読んでもいなかった。

それが、まあいろいろあって最新作を訳すことになって手をつけ始めている。おおむね関心は変わっておらず、アメリカ政治の根本的な改革なんだけれど、献金制度だけの話からかなり間口を広げていて、相変わらずアメリカ固有の事情が中心ではあるんだけれど、日本的な文脈にもあてはまる議論も結構あるので、恐れていたよりかなり面白い。

その中で一つおもしろいのが、最近のアメリカ政治の両極化と、それに伴う政治の機能不全と呼ばれるもの。アメリカ議会で、民主党共和党の立場がますます乖離し、昔は様々な問題について両者が歩み寄って妥協点を見つけ、政治をまわそうとしてきた。それがいまや機能していない。両者はひたすら対立するばかりで、ろくに話もできず、数のゴリ押しでしか決めごとが進まない。

この状況自体は、みんながそれなりに指摘していることだ。そして、その原因はというと、クルーグマンの拙訳最新作だと、すべては共和党が悪い、ということになる。

民主党は常に正しく、民主主義と自由と正義のために活動していて、共和等は常に人種差別と大企業や金持ち優遇のためだけに動き、汚い手を平気で使い、詐術、ごまかしもアレで、最近になってそれがどんどん傍若無人で正義のポーズすらなくなり、しゃにむに自分のアジェンダを追求するようになってきて、民主党のやろうとすることはすべて邪魔して、理性的な話し合いにすら応じようとせず、それがこの両党の乖離と政治の極端化の原因なんだ、というのがクルーグマンの主張だ。

でもレッシグの今回の本は、これについてキチンとした背景説明や分析を提示してくれているのだ。

まずそうした二極化の一つの理由は、民主党共和党の性格そのものが変わってしまったこと。もともとこの両党は、いまほどイデオロギーに基づく政治集団ではなかった。昔はどっちも、ずっとごちゃごちゃした寄せ集めだった。人種問題についても、南部の民主党はかなり人種差別的な立場を採っていて、むしろ共和党のほうがリベラルに近い立場を採ることもあった。かつては、基本的にアメリカはどうあるべきかという考え方は国民的にも共有されていて、政党はそれを実務的にどう実現するか、追加的な改善をどう実施するのか、というところでしか争わなかった。だからこそ、妥協も歩み寄りの余地もあったわけだ。

それが変わっていったのは、共和党よりは民主党のせいなんだって。それは決して悪い意味ではない。公民権法や投票権法を1960年代半ばに可決させたことで、民主党は明確にイデオロギー重視の立場を採ることになり、党内の南部民主党を明確に切り捨てる動きにでた。そしてこちらがイデオロギー化すれば、共和党もだんだんイデオロギー重視になるのは必然だった。そして……イデオロギー中心になれば、歩み寄りの余地は当然減るわな。ノンポリの実務なら妥協も握手も合従連衡もあるけれど、イデオロギーはそうはいかないもの。もちろん、公民権法や投票権法はとても重要だ。それを実現するためであれば、イデオロギー上等、ということは言える。でも、それには副作用もあって、それが最近になってジワジワ効いてきていることは認識する必要もある。

そしてそれに、アメリカの変な選挙制が拍車をかけた。アメリカの選挙は、予備選があって本選があるんだけれど、その予備選は投票率が低い。そこにわざわざ足を運ぶのは、どちらの党内でも本当に政治マニアか極端な特定イデオロギーキチガイばかりとなる。そこで勝とうとすれば、議員としても主張を極端にする必要が出てきてしまう。これはインターネット献金の比率が増えてきた最近はなおさらだ。

そして、どちらの党もお互いの手口を学んでいる。ティーパーティー運動とか、共和党極右勢力が意外な人気をはくした結果だけれど、民主党のリベラル派はその手口をしっかり学び、グリーンニューディールとかはまさにティーパーティー運動の手法を学んで、極端な主張で耳目を集めて支持を固める手法になっている。アレクサンドリア・オカシオ・コルテズに萌えている人々は、彼女が民主党版のサラ・ペイリンなんだと言われると、カッとなるだろう。(あと、彼女がそれを自覚的にやっているのか、というのはまた全然別の話だ)。でも政治的なやり方から言えば、まさにそういうものなのだ。

ペイリンとAOC:実は結構似たもの同士?
ペイリンとAOC:実は結構似たもの同士?

意識の高いリベラル政策の支持者たち的には、そういう極左的な一派こそ進歩的で信念を貫く正義の味方で、それを支持しない民主党中道の連中は、既得権益に流されている堕落した連中だ、と思ってしまいがちだ。クルーグマンの主張はまさにそういうものだ。でも、そういう立場を強力に打ち出すこと自体が、共和党との妥協や歩み寄りを困難にして、政治の二極化に貢献してしまうのはまちがいない。こういうのを支持しつつ、政治の二極化を嘆くということ自体がそもそも変だ。進歩的なアジェンダをドーンと打ち出せば国民は支持するはずだ、というのは希望的観測でしかない。アメリカの相当部分の人は、そういうのになびかない。レッシグもこれには軽くしか触れていないけど、それはトランプ当選のときに、本当は民主党シンパも思い知るべきだったことだし、大統領選直後にはかなり真面目に反省の機運もあった。でもトランプのおバカツイートに気を取られて、それを罵倒していい気になっているうちに、いまやそういう反省が消えてしまっているように見える。少なくとも外野の日本からはそんな感じがする。

もちろん、この両者のうち、外部の何か基準に照らして、だれが正しいとかどっちを支持すべきだとか言うことはできる。そして、すべて共和党が悪いとか民主党が悪いとかは言える。が、実際には少なくとも行動パターンとしてはどっちもどっちで、しかもそれはアメリカ(だけではない)の政治制度がつくり出す、極端な連中ばかり真面目に投票するから極端な主張と行動をしたほうが当選しやすいという力学が大きな影響を与えているんだ、と。

もちろんレッシグはそのうえで、民主主義の本質に照らせば、共和党がしばしばやらかすことのほうがおかしいよね、という話をする。だから、インチキな「どっちもどっち、ケンカ両成敗」みたいな話ではまったくない。でも、クルーグマンのように、共和党だけがすべて悪い、という非常に単純な見方では足りないことは十分教えてくれる。クルーグマンの話からすると、とにかく共和党をぶっつぶせ、という解決策しかなさそうに思えるけれど、両党の乖離を引き起こしている、予備選の仕組みとかいった制度的な面でも完全も結構効きそうだし、いろいろ対応もありそうだ——実現性はともかく原理的にはね。まあまだ本の前半なので、今後どんな感じになるかはお楽しみ。でも、アメリカ人にしか意味のない本ではなさそうで、ホッと安心しているところ。

ハーバート・A・サイモン『人間活動における理性』(1982) 改訳終わった。

はい、コロナ戒厳令開始前に、サイモン『意思決定と合理性』の改訳を始めました。

cruel.hatenablog.com

で、終わった。まあ読みなさい。

ハーバート・A・サイモン『人間活動における理性』(1982) pdf版

 

ハーバート・A・サイモン『人間活動における理性』(1982) epub版 右クリックでダウンロード

読者のみんなは、ぼくに深く感謝するがよいのだ。これはそれだけの価値がある、すごい本だからだ。

この短い本に収められた叡智のすごさは、ちょっと比類がない。第1章は、彼の限定合理性理論のまとめであると同時に、自分でその限界をバシバシ指摘したおっかない部分。2章は、進化論について一般人の知るべき事を、とんでもなく高度な話まで含めて網羅している。第3章では、1982年の時点で地球温暖化の話にすでに目配りしてあるのに驚くし、また最後に出てくる各種経済学派のちがいは唯一、期待形成のあり方でしかないのだ、と断言するあたり、すごすぎ。そして政治プロセスでも、すでに各種「活動家」政治の危険性を指摘し、さらにポピュリズムの隆盛とそれに伴う政治の不安定性 (いまの政治の危うさは、みんなが政党を無視した意思決定をしたがるせいで生じている!) を指摘したあたりは、もう慧眼というしかない。メディア の話も、専門家の話も、すべてまったく問題なく今に通用する。一瞬出てくる人工知能への期待とか、たぶん執筆時点の1982年から一周か二周まわって、いまのほうがリアリティ高いかもしれん。

結論は、わからんことはわからんし、スーパー合理的な論理も世界運営も期待してはいけない、というあたりまえの話ではある。でも、それをどういうふうに導くか、というのがポイントでもある。SEU理論をきちんと詰め、その限界を見たうえでの発言は、やっぱ重い。

というわけで、きちんと読みなさいな。ぼくは訳してすごく勉強になったし、みなさんも少しはお裾分けされてほしい。

わかんないという人のために、アンチョコも作っておいてあげたぞ!

cruel.hatenablog.com

ケインズ『平和条約改訂案』、結局全訳しちゃった。

しばらく前に、ケインズ『条約の改訂』が仕掛かりだけど放り出す、という話を書いた。

cruel.hatenablog.com

でもなんか、気の迷いで結局全部訳しちまったよ、あっはっは。暇だなあ、オレって。まあ、ご笑納くださいませ。

ケインズ『平和条約改定案: 続「平和の経済的帰結」』 (1922)

内容的には『平和の経済的帰結』から3年たって、実際の賠償の進展、それをめぐる様々な動きをまとめつつ、多少は現実的になった部分と、もっとひどくなった部分を整理して示したものとなる。本人が言うとおり「続編」だ。だから当然、こっちと併せてお読みなさい……まあ本当に読むならね。

ケインズ「平和の経済的帰結」(pdf 1.2 Mb) https://genpaku.org/keynes/peace/keynespeacej.pdf

とはいえ『平和の経済的帰結』の主張がまったく見当違いとか、そこでの見通しとはまったくちがう方向性が出てきた、といったことはない。ほとんどが、おおむね『平和の経済的帰結』での分析通りに進んでいるということで、新規性はない。ただ各国政治の権謀術策や詭弁がすごい、というのが見所。

でも21世紀の現時点では、ロイド=ジョージ氏がどこの会議でクレマンソーとどんな密約をしようが、まあ100年前のどうでもいい話で、歴史的な意義しかない本ではある。たぶん、実際にこれを読む人は……いないよねえ。

で、改訂案というのはとにかくドイツからの賠償金はどんどん減免しろ、というもの。まあ、それが実際にどうなったかは、トゥーズのナチス本を読んで下さい。

ナチス 破壊の経済 上

ナチス 破壊の経済 上

ぼくも、細かく見直して訳を手直しする気力はさすがにない。何か気がついたらご指摘くださいな。

 

ちなみに、ここでケインズは30年にわたって賠償総額の6%を取る、という話を主張しているけれど、それに対する批判もある模様。

himaginary.hatenablog.com

うーん、ケインズの書いたものを見ると、別にケインズがここで責められる理由はないと思うなあ。「彼らは連合国の国民の利潤や収益から30から40年に亘って年貢を徴収するなどということは思いつかなかった」というのは、明らかにウソだと思う。具体的な手法はこの時点では未定だったけれど、でももっと壮絶な賠償条件を課そうとしていたからこそ、ケインズは怒っているわけでしょ。30年割賦にしなかったら、ロイド=ジョージたちはどうやって賠償金をむしりとるつもりだったわけ? それは30年割賦よりマシなやり方だったと言えるの? ウソだと思うなあ。

その条件ですらナチスの台頭につながったのを予見できなかったというのは、あまりに岡目八目すぎる批判だとは思う。が。閑話休題

 

さて、次に何をしようか。もっと読む人の少なそうな、「インドの通貨と金融」でもやろうか、それとももう少しキャッチーな「説得論集」や「人物論集」にしようかな。実はこの本をやっちまうことに決めたのは、「説得論集」のため。本書が終わったことで、「説得論集」はかなり翻訳ができあがっていることになるので (というのもあれは相当部分が、本書や『平和の経済的帰結』や『お金の改革論』の抜粋なんだよね) そんなに手間をかけずに全部できてしまうんだ。期待している人もいないだろうが、乞うご期待。

 

ケインズ「H.G・ウェルズ『クリソルド』書評」

最近、初版諸般の事情でケインズの伝記をいっぱい読んでいるんだが、うーん、スキデルスキーのものすごい分厚い三巻本とかがんばって見ているんだけど、平板だなあ、という感じ。分厚いのだと、その物量にうんざりしてそういう印象になりがちだというのもあるので、あとで再読はするけど。

John Maynard Keynes: Volume 2: The Economist as Savior, 1920-1937

John Maynard Keynes: Volume 2: The Economist as Savior, 1920-1937

John Maynard Keynes: Fighting for Freedom, 1937-1946

John Maynard Keynes: Fighting for Freedom, 1937-1946

チェ・ゲバラのいろんな伝記をたくさん読んだときもそうだけど、長く分厚く詳しい伝記を書いても、手当たり次第ぶちこんだだけだと、「で?」という感じになってしまう。ケインズは、学者面でも官僚面でも私生活面でもいろいろおもしろいエピソードのある人物なので、いろいろ書きやすい。でも、彼がずっと同性愛者だったというのを理解しないと、彼の経済理論が理解できないというものだろうか? スキデルスキーは、もろにそういう物言いをして、ハロッドによる伝記を批判するんだけど、うーん。ぼくはクルーグマンの「波瀾万丈の人生送ってきたからって、団地のサラリーマン小せがれよりすごい洞察が得られるわけじゃない」という主張のほうが正しいと思うんだ。正直、ハロッド版とそんなに印象ちがうかなー、という気はかなりする。

ケインズ伝 上巻

ケインズ伝 上巻

というような話をツイッターに書いたところ、ある人が、ケインズの伝記作者や管財人たちはケインズの遺稿をかなり取捨選択して都合の悪いものを除いているのだ、という話があって、日本でも『説得論集』に収録されなかった「クリソルド」がそういう都合の悪いものだったらしい、と教えてくれた。

ケインズは、もちろん今日的な基準からすれば不適切な心情はあった。優生学にかなり期待していたとかね。で、この「クリソルド」というのは、H.G.ウェルズ『ウィリアム・クリソルドの世界』という、一般には凡作とされる長大な3巻小説の書評だ。その中に、社会のエリート支配を支持する見解が出ていて、そのために日本版からは落とされたんだろう、というのがその暗黙の見解。

もちろん、そんなやっべえ話が載ってるなら是非読まなくては、とこの野次馬は喜びいさんで手元の原著を読んでみたんだが……

なーんだ。ぜんぜんそんなんじゃないじゃん。具体的にどんなものかというと……まあ全訳してやったから読めや。

ケインズ「『クリソルドの世界』書評」(1927, pdf 73kb)

どうせ読まないだろー。今後高齢化で社会の活力が失われることに対する懸念、そして社会主義への失望の一方で右派の連中が新しい社会構築に関心を持たないことへの失望という2点について、基本的に賛意を示しつつ、少しその議論を広げた書評だ。社会のエリート支配待望論なんかじゃないなあ。社会の今後の青写真を構築すべき人々は、バカで感傷的な左派ではありえないけど、右派もやってくれそうにない、というだけの話だねえ。

でも書かれているいろんな問題意識は、今も通用するものばかり。同時に、労組の支配するリベラル左派勢力への幻滅、失望というのはすごく強い。最近だと、ピケティでもクルーグマンでも、昔は労組がしっかりしていて格差を抑えられていた、と述べるのが常だけれど、当時はそうは思われていなかった面もあるんだねー。それは最近読んだバージェス『1985年』でも顕著だった。

 

ちなみにこないだ、ケインズ『平和条約改訂:続平和の経済的帰結』を途中までやって投げ出すつもりが、最後に見て「もうちょっとやろうか」とチマチマ足しているうちに、結構進んでしまったんだよね。

cruel.hatenablog.com

実はこれが終わったら、「お金の改革論」「平和の経済的帰結」は終わってるんだけど、『説得論集』というのは相当部分がこの3冊からの抜粋で、さらに「孫たちの経済的帰結」も終わってるから、なんか『説得論集』の半分以上は終わってることになるんだよなー。

スノーデン自伝 訳者ボツ解説

しばらく前、といってもコロナ前だからはるか昔のように思えてしまうけれど、かのエドワード・スノーデンの自伝を訳したのでした。NSAに気がつかれないよう、原文はタイプ原稿コピー、著者名も偽名、これについてネットで絶対話をするなという条件つきで、しかも少し急かされたこともあり、なかなかおもしろうございました。

さて、この本には訳者解説はない。でも実は、事前に有識者に送ったレビュー用の見本版には、訳者解説があった。そして、出版社が販促用に作ったページにも、一時は訳者の解説が全文掲載されていた。

www.kawade.co.jp

それがなぜ上のページから削除され、実際の本からも訳者解説が消えたのかというと……スノーデン側から物言いがついて、なんでもあの訳者解説はスノーデンに対して disrespectful であるから消せ、と言われた、とのこと。

もったいないので切り刻んだバージョンを販促用の記事などに転用したけれど、全文がお蔵入りになるのもつまらないので、ここにアップロードしておく。

スノーデン自伝 訳者ボツ解説 (470kb, pdf)

さて、いったい何が「disrespectful」と判断されたのかはよくわからない。スノーデンの書いていることを鵜呑みにする必要はない、と書いた部分だろうか? NSAがスノーデンの書くほど壮絶なマルウェアを普通のトラフィックに載せて、だれのマシンにでも仕込めるというのは本当か、と書いた部分だろうか?

そもそも、スノーデンが(一時日本にいたとはいえ)あの訳者解説を自分で読んだようには思えない。少なくとも自伝の中の記述によれば、ひらがなは読めるし簡単な話くらいはできるらしいけれど、この文をスラスラ読めるはずはない。では何が起きたんだろうか。

あくまで憶測ではあるんだけれど、ぼくはたぶん日本のだれかがスノーデン側に、何かをご注進に及んだんじゃないかと思っている。でもわざわざだれが?

もちろんぼくを嫌っている人は多い。日本のケインズ関係者にはずいぶん恨まれているようで、全然関係ない本のアマゾンレビューにまでケインズ訳の罵倒が出てくる。その他あの人とかこの人とか。まあいろいろあったからねえ。

でも今回に関する限り、ぼくはそういう従来の遺恨が出たのではなく、以下のあたりに自分が書いた内容が、何か関係があるんじゃないか、とは思っている。

cruel.hatenablog.com

cruel.hatenablog.com

cruel.hatenablog.com

ぼくはここで、スノーデンがある種の政治的な動きのために日本で利用されたのではないかと見ているし、それを抜きにしてもスノーデンを旗印にした日本の各種の本はちょっとひどいと思ってそう書いたので、それを気に食わないと思う人は当然出るだろう。が、もちろんこれは憶測だ。

いずれにしても、ぼくは残念だと思っている。言論の自由を擁護するはずの本なんだし…… それにQubesOSの話を多少なりともまともに書いた本なんて、日本には他にないよ?

cruel.hatenablog.com

もう少しがんばって販促もできたんじゃないかとは思うけれど、これでなんだか気勢が削がれてしまった部分は確実にあって、これまた残念。あと、上の河出書房のサイト、いまだにhttpsになっていないんだよね。指摘したら、対応すると言っていたんだけれどこの騒ぎもあって、いまだhttpのまま。まあ、すぐにコロナがやってきてしまって、ちょっと世間の関心が逸れてしまった面はあるので、販促してもどこまで行けたか、というのはあるんだけれど。

ケインズ『平和条約改定: 続「平和の経済的帰結 (1922)」』仕掛かり:結局やっちまった

しばらく前に、ケインズ『平和の経済的帰結』を全訳した。

cruel.hatenablog.com

もちろんご存じと思うけれど、これは第一次世界大戦後に、イギリス外交団の一員としてヴェルサイユ会議に参加したケインズが、あらゆるものをドイツからはぎとって、しかもその上に賠償金をしこたま払わせようとする連合国たちの魂胆に怖気をふるい、席を蹴るとともに発表した告発文書だ。これはベストセラーになり、ケインズはいきなり悪名を馳せた。

で、最近忙しくなったもので、当然ながら余計なことにいろいろ手を出してしまい、あれこれ見ていると、この『平和の経済的帰結』には続編があるという。それがこの The Revision of the Treaty (1921) だ。

www.gutenberg.org

で、いつもながら中身もろくに読まず、『平和の経済的帰結』を訳した身としては続編も一応やっつけるのが仁義だろう、と思って取りかかった。1/3ほどが終わったものが以下のpdf。

平和条約改定: 続『平和の経済的帰結 (1922)』

なんだが……つ、つまらん。

基本的には、前著でさんざん罵倒したヴェルサイユ条約のその後の経緯と、それをどうすべきかというのを論じたもの。非常に時事的な論説であって、いまのぼくたちが読んで何か得られるかというと……あまりない。歴史的な意義とケインズが書いたということだけにしか意味がない文書。

ということで、なんかこの先を全部訳すかどうかは、かなり怪しい。特に補遺にあるいろんな条約や協定や通達の原文は絶対訳さないと思う。

とはいうものの、歴史的な経緯からいえば、この第一次世界大戦の賠償金問題は、まさにナチスドイツの台頭につながる決定的な要因ではあって、それがどのように形成されていったかは、ある意味で重要ではある。ただそれが本格的に問題になるのは、もう少し後の大恐慌をはさんだ後の話であって、この文献に直接関連する部分は小さい。

このドイツ賠償金問題、それをあまりに巧みに処理しすぎたヒャルマル・シャハトの恐るべき手腕、そしてそれがナチス台頭にとって持つ意味については、トゥーズ『ナチス 破壊の経済』を参照してほしい。

ナチス 破壊の経済 上

ナチス 破壊の経済 上

ナチス 破壊の経済 下

ナチス 破壊の経済 下

ということで、他にもいろいろ仕掛かり品はあることだし、たぶんこれはこの先、当分放置されると思う。同じケインズなら、結構できあがっている説得論集とか人物論集とか(これは結構楽しい)、まったく無意味にやりはじめた処女作のインド経済本とかのほうが先に終わりそうだ。続きやりたい人は是非どうぞ。pdfと同じディレクトリにtexファイルが入っているので。

 

それより先に、仕事しないと……

付記

とかいって逃避しているうちに4章まで終わって6割くらい仕上げてしまったよ。なんか結局やってしまいそうだ。(9/17)

結局やっちゃった。

cruel.hatenablog.com