ラフィ『カストロ』:ほぼ唯一のまともな意味での伝記。視点も批判的だが明確で最新。

Executive Summary

ラフィ『カストロ』(原書房、2017) は、2021年時点で日本で出ている最新のカストロ伝。他の伝記が公式プロパガンダの羅列にとどまるのに対し、カストロに対するきわめて批判的な視点を元に、一般人がカストロの生涯を見て疑問に思う、革命への参入動機、少人数なのになぜ勝利できたのか、その後もなぜ権力が続いたか、ソ連の工作の影響などについて、明解な視点と説得力ある記述を行っている。

米ソ関係とその中のキューバ の位置づけ、という視点しかない他の伝記に比べ、南米におけるコミンテルンのオルグ活動、兄弟の戦略的な役割分担、政権を取ってからの壮絶な粛清と政敵弾圧の記述は圧巻。また文化的弾圧、人間関係、政策評価など他の伝記で無視されている内容にも、詳細な分析が行われる。

批判的なその論旨に賛成だろうと反対だろうと、議論の基盤として使える情報と論理があり、読者が自分の立ち位置を見極める意味でも参考になる。


はじめに

カストロのきちんとした伝記は、意外に少ない。「カストロ」で検索すると、たくさん出てくるけれど、多くはカストロ自身の演説集だったり、自分で語った我田引水の伝記だったりする。また日本人が書いているものの多くは、完全にカストロ/ゲバラのキューバ神話に丸め込まれている心酔者の単なるビリーバー本。公式プロパガンダを一歩も出るものではない。

で、第三者的な立場の人間が、ある程度は客観性をもって書いたと思っていい伝記は、日本語ではコルトマンのやつ中公新書のやつ、そして今回紹介する、このラフィのものだけ、といっていい。英語圏ではあるのかもしれないね。そっちは今後、調べがついたら加筆しよう。

そしてこの中で、まともな独自取材があり、本当の意味で伝記と呼べるのは、このラフィのものだけだ。

明確な視点と当然の疑問への答

カストロとその人生を見ると、まあ当然わいてくる疑問がいくつかある。でも他の伝記はそういう疑問に全然答えてくれない。カストロは何やらどこかで社会正義に目覚め、あとは一心にそれを追求し続け、米ソのパワーゲームの中で涙をのんで妥協を強いられたこともあるけれど、常に独自の声をあげて〜みたいな話になっている。

が。

そんな単純な話はないだろうし、情熱とひたむきさだけでやっていけるほど、世の中は甘くないということくらいみんな知っているはずだ。成功するには成功のための環境なり状況があるはずだ。本書はそれをきちんと考えている。そしてカストロについて、独自の (非常に批判的な) 視点を持ち、その視点がだれしもカストロについて思う、当然の疑問について答を出すにあたり、かなり説得力のある記述をもたらしている。

そもそもなぜ政治に深入り?

まずみんな知りたいのは、なぜカストロがそもそも政治の世界に深入りしたか、という話だ。家族その他の受けた苦境や弾圧を見て怒りに燃えたのか? もともと正義感が強く人の不幸を見過ごせなかったのか? 全然ちがうようだ。

基本的に、フィデル・カストロは子供時代から自分がいちばん目立ってスポットライトを浴びないと気が済まない人物だった。そのためには競合を陥れ、追いやり、殺すことも厭わなかった。幼い頃から、フィデルは学校でのけんかで負けると家から拳銃持ってきて相手を殺そうとするほどのサイコパスだったのだ (これは他の伝記にも書かれている)。

そしてそれまではまったく政治的な関心がなかったのに、大学に入っていきなり政治活動を始めたのは、当時のハバナ大学が大学紛争華やかなりし頃で、それが注目を集めるための最も手っ取り早い方法だったから (それとバスケットボール)。それが次第に先鋭化してテロ活動になり、セクト紛争で他セクトを陥れたり、自分より有力な活動家を密告したりして足場を築く。そして結婚して、新婚旅行でニューヨークにでかけて、謎の三ヶ月間を過ごしたあとで帰国、さらに先鋭化してテロ革命活動に走る。

この三ヶ月間については記録がまったくない。

なぜ彼の運動は勝てたのか?

彼の革命への道は基本的に欺瞞にもとづくものだった。自分はずっと反共、あるいは少なくとも共産主義ではない、だから自分の活動も共産主義的なものではない、と訴え続けるけれど、でもその裏で弟のラウル・カストロは、ずっと共産主義系の連中をオルグして手懐けている。これにより、親米で強権的だったバティスタ政権には反対だが社会主義・共産主義なんかごめんだ、と思っている連中を取り込みつつ、実質は共産主義テロ集団という活動が可能になった。

このため、彼はキューバから逃げ出してメキシコに赴き、そこでオルグと軍事教練を受け、チェ・ゲバラと出会い、グランマ号での決死の帰国をとげて、短期間にキューバ革命を実現する。

そのキューバ革命の一つの不思議は、なぜ百人に満たないカストロ勢力(M26グループ) が、短期間にキューバを制圧できたのか、というもの。本書はそれについて、次のポイントを上げる。

  • 西洋メディアの利用。カストロはメディア戦術がうまく、やたらに目立つ声明やマスコミ発表で耳目を集めた。バカな欧米のマスコミはそれを見て、カストロが反バティスタ政権の旗手だと思いこみ、さらに山にこもって何もしていなかったカストロ勢を、毛沢東の再来まがいにまつりあげた。ちなみに、この手口は毛沢東とまったく同じ。毛もスメドレーやスノーなどのバカなジャーナリストを手先にして、井崗山で取材させて己の存在感を増した。

  • 他の反バティスタ勢力の手柄横取り。キューバでは他の反バティスタ勢力も動いていて、かなり有力なものもあったが、バティスタ軍の対応でつぶされていった。それをカストロ勢はかすめとっていった。中には、それを狙ってバティスタ側に密告したとおぼしき事例もちらほら。

  • バティスタの敵失を含む幸運。バティスタ軍の士気が低かったのは事実。多くの兵は祖国防衛とかどうでもよかった。また本当ならバティスタ軍につぶされていたはずが、たまたま嵐がきて逃げられたとか、その他ラッキーな出来事も多い。そしてもともと、キューバを東西に分断して地方部をおさえて長期戦にするか東キューバ独立運動でもやるつもりだったのが、バティスタがいちはやく逃げ出してしまい、その空白をあっさり乗っ取った。

もちろん、これはカストロが無能だったということではない。むしろ、機を見るに敏で、非常に有能だったことを示すものだ。人数少ないからヒット&ランに徹するのも賢明。また、キューバに留まっていた部下、特にセリア・サンチェスのオルグ能力は凄かった模様。一方で、彼が単に高潔な理想を掲げて人民の支持を地道に獲得し、という形で革命を実現したわけではないのも事実。

なぜ彼は権力を維持できたのか?

これも多くの提灯持ち本だと、常に揺らぐことなく己の姿勢を維持し続け、人民がそれを支持し続けたからだ、ということになる。確かに人民の支持は強かった。これは事実。でも姿勢が揺らがなかったというのは、まったくのウソだ。

彼は外向きにも内向きにも失策ばかりで、そのたびに方針をコロコロ変えている。その最たるものが、もともと自分もキューバ革命も共産主義ではないと強弁し、それで支持を集めておきながらいきなり社会主義に転換したことだ。

でも、彼らはあるとき仮面をかなぐり捨てて一気に共産主義化を進めた。どうやったか? 対外的には、何でもアメリカのせいにすること。そして対内的には、責任転嫁と情け容赦ない粛清だ。

社会主義化の場合、それはまずアメリカがよくない、ソ連こそ人民の味方と強弁する。そしてどんどん社会主義者や共産主義者を要職につける。そしてそれに対して話がちがうと声をあげたら、その連中はアメリカの手先ということにされる。そしてそことつながりのある人物は、政治的、あるいは物理的に生命を断たれる。革命の三偉人の一人カミロ・シエンフエゴスの死、同じく革命の重鎮ウベル・マトスの粛清、そしてそれに続くかつてのM26グループの要人たちやその派閥の更迭、粛清、謎の死、解体の連続は、まさにそうしたキューバ版の大粛清だった。

この本は、カミロ・シエンフエゴスがなぜかセスナ飛行機に乗ってなぜか晴天の中でなぜか墜落し、なぜか軽量で水に浮くセスナの残骸が一切見つからず、なぜかそれがその後見世物裁判で粛清されるウベル・マトスとの接触直後で、というのがただの偶然の事故だ、という説は取らない。まずラウル・カストロは、軍のトップとして自分よりカミロ人気が高いのを嫉んでいた。またシエンフエゴスはフィデルの不誠実な共産主義転向に懐疑的だったし、それを公然を批判していたウベル・マトスとも仲がよかった。カストロは、ウベル・マトスの逮捕とその舞台の制圧にわざとシエンフエゴスを派遣する。そしてシエンフエゴスがむしろマトスの主張を聞き入れ、カストロに批判的となると、彼の乗った飛行機にニセの航路指示を出して、配下の戦闘機に撃墜させたのだ、と本書は主張する。もちろん憶測ではなく、そのわずかな生き残り関係者に話を聞いて裏は取っている。もちろん、その後カストロたちは、仰々しい真相究明キャンペーンをやっては見た一方で、主要な関係者はすべて口を封じられ、記録もすべてなくなっているという。

ちなみにコルトマン版『カストロ』で、このシエンフエゴスの死について、カストロの陰謀だという証拠はまったくない、と書いた直後に、非常におさまりが悪い形で怪しいスパイ機撃墜の話が同時期にあったという話を一行追加している。これについて、読んだときにえらく違和感があったんだけれど、いまはわかる。これはコルトマンなりに、自分は事情を知っているというのを匂わせた一文なのね。

その後も、政治的な失敗はすべて、自分の政敵(潜在的な相手も含む) をスケープゴートにしたて、人民裁判にかけて潰してしまう。革命直後の失政は、傀儡大統領に仕立てた人物のせいにして、いきなり粛清する。社会主義化が失敗すると、それを旧共産党系の人間のせいにして粛清する。だいたいは、いきなりカストロが何時間もの大演説をうち、その中でいきなり政敵をやり玉にあげ、怒った人民たちがそいつの家やオフィスを取り巻いて、というのがパターンだ。その後は見せしめ裁判だけれど、それが失敗しそうになると分けのわからない8時間演説とかでごまかす、というのを繰り返すのがカストロの政治技法だ。この伝記は、あらゆる段階、あらゆる失策でそれが展開され。勝ち目のないアンゴラ派兵で疲弊した忠実な将校もそれで潰され、もはやキューバ政権内にまともな人材が残っていない状況が生まれていることまで描き出す。

あともう一つは、アメリカがよかれ悪しかれ、ヘマばかりやったこと。カストロ暗殺計画はことごとく失敗している。侵攻もピッグス湾を筆頭に、やってみたけれど予想外に反撃されたらすぐあきらめるし、好機をあっさり逃がすし、またあるときは「潰すぜ!」とイキっておきながら、その直後には「やっぱ手近に悪者がいると便利」と態度を変え、フロリダの亡命キューバ人社会のご威光で方針をコロコロ変える。これでカストロは何度も、政治的にも身体的にも命拾いして、結果的にカストロ支配がダラダラ続く結果となった。

ソ連社会主義との関わりは?

多くの人は、カストロ兄弟の公式の見解をそのまま受け容れて平然としている。つまり、キューバは頑張って独立したけれどアメリカがいろいろ意地悪して、キューバとしては仕方なしにソ連に接近を図ったのだ、というものだ。

でも実際に見てみると、そんなはずはない。ソ連は最初からキューバ革命につながる糸を引いていた。ラウル・カストロが大学時代に親にだまって東欧にわたり、ソ連の教練を受けたのはその明らかな証拠ではある。

そして本書はそれ以外にも、特に運動の初期においてはソ連のコミンテルン対外テロ工作の力が大きかったとみている。1950年代頃、ソ連は中南米に赤化工作のネットワークを展開していた。もちろんアメリカへの足がかりの意味もあるし、途上国の社会主義化はずっとソ連の基本路線だった。その影響力は、たとえばメキシコに亡命したトロツキーを始末するためのラモン・メルカデルなどに典型的だ。ちなみに彼は、晩年はキューバで暮らしている。パドゥーラ『犬を愛した男』は小説だけれど、そこらへんの事情をよく描いている。

その力はアルゼンチン出身のチェ・ゲバラにも及んでいる。『モーターサイクル・ダイアリーズ』の最後に出てくる謎のソ連人はもちろんその一味だ。ボリビアの共産党の重鎮を務め、その後チェ・ゲバラの過激化にも大きな影響を与えた彼の最初の奥さんイルダ・ガデアもそのネットワークの一員だ (彼女との結婚は、コミンテルンが課した試練か罰ゲームなんじゃないかとすら思える。彼女の書いたゲバラ伝を読んでも、関係や親しさが深まるプロセスが一切ないのだ)。本書は、そこに「カリブネットワーク」という赤色工作員のグループがあったことを指摘する。もちろん最初の刑務所襲撃に失敗してメキシコに逃げたカストロ兄弟たちも、そこに関与していたし、キューバ革命もその強い影響下にあった。

これは本書には書いていないけれど、カストロ兄弟の西側メディアの利用手法は、毛沢東とまったく同じだ。そこに同じ影響力の影を見るのはたやすい。その後の見せしめ裁判、粛清等々の技法もソ連のものとまったく同じ。これらが決して独立のものではなかったのではと思うのは自然なことだと思う。

ちなみに本書は、フィデル・カストロはニューヨークでの新婚旅行で、まったく活動記録がない3ヶ月に注目し、そこでおそらくソ連のオルグと教練を受けたのではないかと見ている。

でもカストロはあまりに常軌を逸しており、おとなしくソ連の傀儡にはならなかった。南米全部に自分の息の掛かった革命を広げて、自分が南米合州国の盟主となることを夢見て、その後はアンゴラ戦争を機にアフリカに勢力を拡大できると思い込んだ。南米についてはソ連と連携していた各国の共産党からも苦情がたくさん入ってソ連の不興を買ったけれど、一方でゲバラの臨終時に書かれたボリビア日記を、ボリビアの大臣が盗み出してキューバに渡したことで、まさにキューバが各国の中枢部に手下を送りこんでいたのがあらわになっている。そしてアンゴラでは、もう外国に兵力を出す気のなかったソ連は、これ幸いとキューバにゲタを預けてしまい、結局カストロは最後に自分の野望のおかげでババをひく——その尻拭いをさせられたのはキューバ国民だ。

周辺領域も抑える目配りの広さ

いまのソ連/コミンテルンの影響についての話にも見られるように、本書はキューバを取り巻く地域全体、世界全体の様々な状況にも目配りしている。そしてキューバについて知られている他の側面や、あまり知られていない話まできちんとカバーしてくれる。

アレナスなどの作家弾圧の背景

キューバというと多くの人が、何やら文学も音楽も盛んで文化的に豊かで自由度も高いと思われている。『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』は、そうしたキューバ文化の奥深さを示した映画だとみんな思われている。

でも、実はそれは一部しか真実ではない。『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』は、きわめて才能豊かで活躍していたミュージシャンたちが、社会主義体制下で自殺寸前まで追い込まれていたという話でもあるのだ。

そしてまた、多くの異様な才能を持つキューバ作家たちが弾圧され、亡命を余儀なくされたというのは、多少なりともラテンアメリカ文学になじみのある人々には常識だ。たぶんいま、最も一般に有名なキューバ作家といえば、レイナルド・アレナスだろう。次いで、カブレラ=インファンテかカルペンティエールだ。カルペンティエールはキューバで大御所として祭り上げられているけれど、他の二人はカストロ体制に弾圧・追放されている。なぜだろう? 自由で開放的で文化花開くはずのキューバで、なぜそんなことが起こるのか?

その事情も、この本にしか出ていない。カストロもゲバラも、社会主義に凝り固まっていて、芸術は人民に奉仕しなくてはいけないと考えていて、さらに二人とも南米人のマチスモを色濃く持っていたので、ハバナの芸術界にゲイが多いのを苦々しく思っていた。で、ある映画の公開禁止を皮切りに、しめつけを強化して関連組織を手下で埋め尽くし、気に食わない作家やアーティストを孤立させ、発表の場をなくす。本当なら国外にも出られなかったかもしれないけれど、幸か不幸かカストロは対米プロパガンダの一環で、自分たちは自由で移民受入を拒んでいるのはアメリカなのだ、というのをときどきアピールしようとして、多くの人が国外に脱出するのを黙認している。カブレラ=インファンテもアレナスも、そういうのに乗じて国外に脱出している。

一方、こうした期間にわたりずっとカストロべったりだった人物が、ガブリエル・ガルシア=マルケスだ。カストロの娘のSOSを受け、キューバ作家たちの窮状も知っている。もちろん彼が政敵に行った各種の陰謀その他も熟知している。それでも彼は常にフィデル・カストロの提灯持ちを続け、キューバがまったく意味も勝算もないアンゴラ派兵をやってみせたときにも、それをヨイショする文章を書いたりしている。

ガルシア=マルケスにとって、キューバはまさに自分の作品世界の縮図だ。恐ろしい独裁者に翻弄される南米の小国。ここはガルシア=マルケスにしてみればリアル・マコンドなのだ、というのが本書の指摘だ。彼はそれに魅了されるしかないし、それを否定することなどできなかった、と。そうなのかもしれない。

バルガス=リョサは一方で、キューバの作家たちや人々の窮状を報されて激怒していた。彼がガルシア=マルケスをぶん殴って袂を分かったのは、奥さんをNTRれたせいだと言われるけれど、このカストロ支持をめぐってのこともあるはず。もう少しリアリズム寄りだったバルガス=リョサは、マコンドを外から見て他人事のように愛でることはできなかったのだ。バルガス=リョサはガルシア=マルケスについて『神殺しの物語』という博士論文/絶賛研究を書いたけれど、結局ガルシア=マルケスは、現実の神を殺すだけの度量はなかったわけだ。バルガス=リョサがこの研究を封印したのもむべなるかな。

各種政策のきちんとした評価

他の伝記などでは、カストロの掲げたサトウキビの高い生産目標が達成できなかったり、工業化が進まなかったりしたのを、「うまく行きませんでした」の一言ですませてしまう。でもそうしたものの多くは、そもそも実態をまったくふまえない、ゲバラやカストロが思いつきや勢いで目標をたて、そのために必要なリソースは与えず、とにかくやる気だけですませ、革命が進めば滅私奉公を厭わない「新しい人間」ができるのだと主張し続けた。この本は、それぞれの政策についてちゃんと、当時としての現実的な相場観、それに対してカストロなどがどういう事情でトンデモな目標値を掲げたのか、そしてそれが失敗に終わったときに、彼がその責任をだれにどういう形でなすりつけ、さらなる粛清に使ったかについて非常にしっかりと描き出す。

ちなみにサトウキビの大増産プロジェクトは、都会人を畑に狩り出して、計画時点ではその連中が熟練労働者並の生産性をたたき出せるという計算で作り上げた、下放と大躍進政策をあわせたような代物。西側メディアの利用手段が毛沢東と似ていたと述べたけれど、この大躍進政策もそっくりとなっている。

そして彼が、ペレストロイカにどう反応したのか (もちろん大反発)、その後の様々な東欧解体やアラブの春に対してもどういうふうに対応したのか、融和的な政策に一瞬流れてからすぐに強硬路線に戻った様子、外貨を求める中で手を染めてきた様々な怪しい活動も描かれている。それを見ると、アメリカによるテロ支援国指定も決して思いつきとは言えないように思えてくる。

人物評価

周辺人物に関する記述もおもしろい。特に弟のラウル・カストロ。通常、ラウルは華々しい兄の影に隠れ、無能で愚鈍な追随者と思われているけれど、実はそれは二人が作り上げた役割分担だ。実際にはラウルのほうが執念深くて権力争いに敏感だったという。

チェ・ゲバラとはものすごくウマが会ったけれど、その最後は感情的にはつながりつつも実利的に処分という非情なもの。他の仲間のように陥れて粛清したわけではないけれど——いや、コンゴやボリビアに送りこんだのはどこまで本人の希望で、どこまでカストロの意図だったのか。でも、ゲバラを政府中枢から遠ざけて周縁的な存在にしようとしたのはまちがいない。

いまのキューバの大統領ディアスカネルが、このカストロ兄弟との関係の中でどういうふうに登場したのかについても、触れているのはこの本だけだ。

また家族との関係も、自分の革命的な活動を正当化するために父親をものすごく悪辣な存在にしたてたとのことで、妹がフィデルに反発しているのはそうした父親をまったくの作り話で捏造しているからだ、という話。女性関係も、コルトマンの伝記ではかする程度の扱いだったマリータ・ローレンツが、愛人で子供まで生まされ、その後CIAに暗殺要員として雇われたのに失敗して、という話をきちんとフォロー。一応伝記なんだから、そういう話はぬかしてはいけないでしょう。

cruel.hatenablog.com

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その他ゴシップ

そしてもう一つ、カストロ本人とはまったく関係ないながら興味深いのが、JFK暗殺との関わり。カストロ自身はもちろんそれにまったく関わっていないんだけれど、犯人とされているオズワルドはソ連共産主義マニアで、キューバにも渡ろうとしている。そしてかつてキューバ侵攻やカストロ暗殺に関わって失敗した人々ともやたらに接触がある。マリータ・ローレンツとオズワルドは知り合いだ。どうもJFK暗殺は、カストロ暗殺を仕組んだ連中が、その後立場がなくなったのに焦って、キューバがJFK暗殺を演出したように見せかけることで、アメリカが本気でキューバ侵攻に乗り出すよう仕向けていた可能性がそこそこあるとのこと。もちろん、JFK暗殺が本当にオズワルドの仕業かはアメリカ陰謀論の定番になるほどで決着がまったくついていないのはご承知の通り。でもそんな変なネタが次々に出てきて、読み出すと止まらないのがこの本のいいところだ。

最後に形式面

この本、上下巻で長そうに見えるので敬遠する向きもあるだろう。でも、一段組みで文字も大きい。二段組で字の小さいコルトマン版に比べて、実はそんなに長いわけではない。そしてカバーする内容は、2002年までのコルトマン本に比べて、2015年までだし、現代的な関心にもずっとマッチしている。まずその点だけでも、相対的にラフィ本の方が優位にある (前世紀の中公新書は論外ね)。

書きぶりは、フランス人の書く伝記にありがちな、見てきたような再現ドキュメンタリー風。「そのとき、カストロ少年は愕然とした!」「フィデルとラウルは、怒鳴り合いの末に声も出なくなり、息を荒げたままにらみ合っていた。キューバ革命の未来がその一瞬にかかっていた」みたいな感じ。ぼくも最初、それにひっかかったんだけれど、やがて気にならなくなる。すべて一応調べて裏はあるみたい。最近の欧米の本にありがちな、一言半句に注で出典がつく形にはなっていないけれど、でもおおむねどこから出てきた話かについては、参考文献を見ればわかる。

まとめ

本書は最終的に、オバマの融和政策でキューバの社会主義はもう完全に終わり、骨抜きにされて過去の話になってしまうだろうと予想している。2015年だと、そう思うのも当然のことだ。でも実際には歴史はそうはいかず、2016年にトランプが当選してキューバに対する制裁を一気に逆転強化させてあらゆる面での締め付け/いやがらせをかえって強化させてしまった。おかげでまた1990年代のソ連崩壊直後に匹敵する苦境にキューバは置かれている。そしてソ連の支援がなくなった1990年以来、メンテせずにだましだまし使ってきたインフラ (電力や道路などの物理インフラも、中央集権計画経済という政治経済システムというソフトインフラも) がもはや残存価額もないくらい完全に崩壊してしまい、停電や物資不足や拙速な経済大改革のよる混乱で、政府への抗議デモも起こり、それを弾圧したことで国際的に孤立し、政権の基盤についても楽観視できない状況だ。

たぶん、それはカストロの遺産 (それもあまりよくない遺産) とどうむきあうのか、という判断をキューバに迫るものとなる。表舞台から退いたとはいえ、ラウル・カストロはまだいるし、彼はずっと院政を敷いてきた人だったからあまり状況は変わっていないとすらいえる。あと数年は現状が続くのかもしれない。いずれ彼が他界したとき何が変わるか——あるいは何も変わらないか——が、キューバの未来を大きく左右するのかもしれない。粛清しすぎて人材が枯渇し、有能は人々はすでに大挙して外国に逃げ出してしまったキューバで、これから何ができるのだろうか?

確かに本書はカストロにきわめて批判的な伝記ではある。それだけで本書を敬遠したり否定したりする立場もあるのかもしれないね。その一方で、ここに書かれた話は完全には一蹴できない重要なポイントばかり。カミロ・シエンフエゴスは殺していないかもしれないけれど、かつての同志たちを次々に粛清してきたのは事実。それに対して、それにもかかわらずカストロはすごかった (または、それだからこそカストロはすごかった) と讃える伝記というのがあり得るのか? 単なる公式発表のおさらいにとどまらない、まともな資料と取材に基づいた話ができるのか?

本書に書かれたことがすべて正しいかは、もちろん一読者には判断がつかない。ぼくだって、そんなことは断言できない。こんなの全部でっちあげで、カストロへの悪意が生み出した妄想だという立場もある。でもそれならば、こうした各種の糾弾についての別の解釈とは何なのか、というのは求められる。公式の証拠がない、というだけでは弱いだろう。

一応、伝記を名乗るからには、キューバやカストロ体制について関心のある人が当然考えるであろうポイントについて、何らかの示唆を与えるものであってほしい。なんとなく「いろいろありました。キューバがんばれー」と米ソ冷戦エピソードのおさらいでは、こんな本を読んだ意味がない。カストロをどう評価するのか (そしてなぜ) について、著者なりの見解とその根拠を与えるものであってほしい。それに読者が賛成するかは、また別の問題ではあるけれど、少なくともその読者なりの判断をする材料は提供してほしい。

そして、ぼくがコルトマンの伝記についての評で冒頭に書いたことを見て欲しい。カストロの人生は単線的で、粛清すべき敵もなく云々。でもこれは完全にまちがっていた。ただ彼はそうした部分をうまく表に出さなかっただけだった。この本は、ぼくのカストロ観を改めてくれた。

本書はそれだけの力を持つ、日本語で唯一の伝記だと思う。その意味で、カストロの伝記を読むのであれば、いまの日本ではこれしかないとすら言えそう (まだぼくが未読のやつがあるのかもしれないけど)。

フアナ・カストロ『カストロ家の真実』:カストロ一家は悪くなかったというだけ

Executive Summary

フアナ・カストロカストロ家の真実』は、フィデル&ラウルの妹が書いた、カストロ一家の内側から見たカストロ兄弟と革命だ。著者は革命に幻滅してCIAに協力し、亡命するに到った人物として、視点は一応は批判的なものとなる。

しかしその動機は「家族の栄誉を守る」とのことで、一家の不倫疑惑とか詐欺犯罪疑惑をひたすら否定するばかり。家族のやった悪いことはすべて、周辺のふしだらな女やチェ・ゲバラなど共産主義者の入れ知恵だという弁明に終始。特に政治の内情については何も知らされておらず、CIAへの協力も全部バレバレだったという情けなさ。ゴシップ的な価値以上のものはない。


フアナ・カストロは、フィデルラウル・カストロの妹なんだけれど、途中で革命キューバの方向性にだんだん疑問を抱くようになり、一時CIAの手先として情報提供しつつ、最後にアメリカに亡命した。現キューバの政治体制にきわめて批判的な人物で、しかもカストロ一家となれば、他では絶対に出てこないエピソードがテンコ盛り、と期待するのが人情でしょう。

ところがねえ。全然ないの。

彼女はもともと、この本の元型を作家といっしょに仕上げたんだけれど、でもしばらくお蔵にしていた。ところが、それを数十年たって改訂し、公開に踏み切ったそうな。その理由が、一家の名誉を守るためだという。

でもそこでの「名誉」というのは、本当にどうでもいいことばかり、なのだ。

この人は敬虔なキリスト教徒で、その価値観というのは基本的に、昔の革命以前の古いキューバ中上流社会の気取った価値観。だから彼女が守りたいというのは、貞節とか家庭重視とか、そんな話ばかり。そしてそれを破壊した共産主義はすごく嫌っているんだけれど、でもそれをフィデル&ラウルがキューバに押しつけたことについては、もごもご口を濁すのだ。そして起こったあらゆることは一家の兄弟ではなく、他の人のせいにされてしまう。

まず、フィデルもラウルも彼女も、父親が家に来た14歳の女中にお手つきして生ませた子供だ。実質的に私生児なので、彼らは長いこと洗礼を受けられなかった。で、正妻はもちろん、それをひどく悲しみ、苦しんでいる。でも彼女は自分たちの母親がすばらしく、立派で、お手つきとかいう不道徳なことは一切なく、正妻とはとっくに切れていて云々、みたいな話を延々と続ける。それどころか、正妻のほうが何やら父親を理解しない女性で、みたいな話も匂わせる。

さらにその父親というのは、ちょっとしたチンピラ用心棒兼農場管理人みたいな立場からのしあがっていった人物なんだけれど、口より銃が先に出るとか、粗暴で荒っぽい手口でも知られていたというのが他の伝記では定説だけれど、この本ではそれは誹謗中傷であり、本当に立派で物静かで謙虚で気前のいい人物であり云々、ということになる。それはかなり苦しいんじゃないかなあ。

そしてその母親については、不倫の噂がある。ラウル・カストロは兄弟の中で全然風貌がちがい、アジアっぽい顔をしているので、革命勢力の中でも「赤い中国人」と呼ばれていたほど。だから彼は不義の子ではないか、という噂はずっとついてまわっている。彼女はもちろん、それをむきになって、母親は絶対そんな人ではありませんでした、と長々と説明する。

彼女が守りたいという「一家の名誉」なるものがどんなものなのか、これで少し見当がつくんじゃないだろうか。

冒頭には、母親が死んだときのエピソードが出ていて、ラウルは取り乱して大泣きしたけれど、フィデルはとっても冷酷で、さっさと葬式して死体を運び出せと言ったそうだ。彼女は、ラウルが非常に好きで、フィデルは利己的で冷たくて、という具合にあまり快く思っていない。それでも、フィデルが何かウソをついたりごまかしたり悪いことをしたり、ということは一切否定するか、あってもそれはまわりの別の人物のせいだった、ということにされる。

フィデルは正妻ミルタがいて、でも彼女をまったく顧みることなく、すぐに上流階級の医者の奥さんナティ・レブエルタと恋仲になり、革命闘争も彼女に資金面その他でいろいろ支援してもらっている。フアナ・カストロ的には、このナティが夫ある身でフィデルをたらし込んだふしだらな女で、ということになる。その正妻も、夫が子供を一切顧みないくせに、メキシコに逃げたりしたときも誘拐まがいに連れ去ったりするので激怒し、自ら取り返しにいって、それを止めようとした著者たちを罵る。するともう、彼女はすぐに悪役になり、自分たちの善意をふみにじる恩知らずになる。

さらにフィデルは異母姉のリディアにずっと革命運動中も頼りっぱなしで、息子をメキシコに拉致するのも、ナティ・レブエルタに生ませた子供のチェックを頼むのもこのリディアだった。フアナはこのお姉さんの暗躍がずいぶん気に食わなかったらしく、それを罵っている。母を苦しめた正妻の娘だから、というのもあるみたいねえ。同時にフィデルの同士というか秘書というか、とにかくありとあらゆる面倒を見てくれたセリア・サンチェスという女性がいて、もちろん愛人だという噂はつきまとい、それどころか女好きのフィデルの女衒役までやっていたという説もある女性だけれど、彼女についてもやたらに手厳しい。

そしてフィデル共産主義の道にひきずりこんだのは、チェ・ゲバラだという。彼はすでに共産主義オルグされていて、カストロをそれに引き込むのが仕事だったし、同時に単なる無鉄砲な冒険屋だからキューバ革命に飛び込んだだけで、別にキューバのことなんか何も考えていない、身勝手な嫌なやつだった、冷たく、魅力もなく、自分とちょっとでも考えがちがうと切り捨てるひどいヤツだったという。いやあ、ラウル・カストロは大学時代にすでに共産主義に入れ込んで、東欧にまでこっそりでかけてどうやらソ連の教練受けてるみたいだし、共産主義ゲバラにだけ押しつけるのは、無理ありすぎじゃないですかぁ? そしてチェ・ゲバラが確かに独善的ではあったし実務能力は疑問だけれど、きわめて魅力的な人物だったのはまちがいないようだ。彼女の記述は他とあまりにちがう。

カミロ・シエンフエゴスの謎の死をめぐる話でも、カストロ一家は常にカミロとはとても仲がよく意見の相違も反目もなく、絶対に謀殺なんかではない、という。でも謀殺はさておき、両者の意見がだんだん分かれていき、特に軍を握っていたラウル・カストロにとって、有能な軍人として非常に人気の高かったカミロ・シエンフエゴスは明らかに邪魔だったのはまちがいない。カストロ兄弟に粛清されたウベル・マトスについても、いい人だったけどあれこれと他人事みたいな書き方で、個人的なつきあいの話しかしない/できない。

結局彼女は、兄たちの革命の中核には入れておらず、うわっつらの交流しか見られておらず、気にしているのは昼のワイドショー的なゴシップと体面だけ、ということだ。

で、革命後の彼女はフィデルの妹だというのをかさにきて、傍若無人のふるまいをするのだけれど、もちろん当人にかかればそれは、己の品位と意志を通す立派な活動だ。そして人々の苦しみを見て政権に刃向かうようになり、というんだけれど、キリスト教の修道女様たちのことがいちばん心配だったみたい。

さらにCIAの手先として活動したのも当然ながら人々を救おうとした立派な活動で、真相を世界に伝えて迫害された人々をこっそり逃がす行為であり、スパイなんかじゃありません、ということになる。実は兄二人は妹のバカな活動なんか全部お見通しで完全に泳がされていた状態。たぶん彼女のせいでつかまった人もたくさんいたはず。そして最後は、今からでも遅くないからキューバ共産主義の呪縛から解いて正しい道に戻して、というラウルへの訴え。

そんなこんなで、あまりおもしろい本ではなかった。おばちゃんが「あの人たちはみんないい人だったんですよ! それをまわりがアレコレと」と言っているだけ。細かいエピソードとか、家族の中でどうでもいい人物(さらに下の妹とか) の紹介とかはたくさんあるんだけれど、カストロキューバ革命については何も新しいことはわからないし、信頼性もはっきりしない。

宮本『カストロ』:1996年の本で古いし、詳しい年表レベルにとどまる

Executive Summary

宮本『カストロ』(中公新書、1996) は、内容的に公式発表の情報を年表にそってまとめただけ。目新しい視点も分析もないし、キューバ大使だったくせに、カストロ兄弟と直接の接触がまったくなかった模様。しかも記述は1990年代止まり。現代的な意義はない。


コルトマンの話で、カストロの生涯を普通に書くだけなら、新書で十分では、と述べた。というわけで、新書です。

1996年に出た本。四半世紀前、つまりソ連崩壊でキューバ経済が未曾有の危機に陥り、一時は存続も危ぶまれた頃のところまで。新書としてもとても薄く、カストロの生涯を本当に駆け足でたどるだけ。そして、あらゆる部分に「なぜ」といった検討はほぼない。

カストロは大学で学生運動に深入りして、革命の道を歩む。当時1945年、ハバナ大の大学は政治運動が盛んだったそうな。でも、まずそれまで政治に関心なかったのに、なんでそんなのに深入りしたの? なぜ急進化したの? わからん。

その後10ページで武闘派過激勢力になり、投獄されてからメキシコに逃げ、グランマ号で戻ってくる。そしてその後5ページほどで革命成功。なんでその革命は成功したの? 強みは? なぜ支持を集めたの? まったく説明なし。こうなりました、という話がひたすら書かれているだけ。

ずっとその調子で、事実は羅列されるんだけれど、それ以上の深掘りはほとんどない。他の人との関係もあまり描かれない。チェ・ゲバラも、「だんだん政府の周辺に追いやられ、コンゴにいってボリビアに行って死んだ」でおしまい。なぜ周辺に追いやられたの? カストロとの関係は? まったくなし。カミロ・シエンフエゴスは名前が一度くらいしか出てこない。当然、キューバ内部での勢力争い、粛清といった話もまったく出てこない。

古い本なので仕方ないんだけど、キューバミサイル危機についても、実はあれが米ソ間においてはトルコへのアメリカのミサイル配備とのバーター取引だった、というようなその後わかってきた話も出てこない。ラ米カリブ海の米ソ確執の枠内でしか記述が進まない。

カストロ絶賛、という本ではなく、彼の持つ非現実的な理想主義、経済的な無知、極端に走りやすい性格、気まぐれ、自己顕示欲がいろいろマイナスに働く話はするんだけれど、それを実際のエピソードで裏付けるわけではなく、ただそのまま言うだけ。

で、最後は、キューバは経済危機で政権も苦境だけれど、経済改革進めていて少しは効果あるみたいだし、交替できる勢力もいないしカストロ政権は安泰なんじゃないの、と書いておしまい。まあその通りではあったわけだけれど、でも当時ですら大した知見ではなかったと思う。

革命に到る経緯もないも同然、カストロの人物像もはっきりしないし、記述も20世紀止まりで、大きな位置づけが描かれるわけでもなく、年表を文章化したにとどまる水準の本。副題に「民族主義社会主義の狭間で」とあるけれど、民族主義の話なんてあったっけ? 話のほとんどは米ソ関係だ。

ということで、読まなくていいのでは? 著者は外交官でキューバ大使をやったそうだけれど、何かキューバカストロについて明確な視点があるわけでもないし、まとめ方としても要領がいいわけでもなく、独自取材があるわけでもないし。コルトマンはイギリスの在キューバ大使で、直接の親交もあり、それがときに記述に深みを与えていたけれど、この本は著者が直接カストロ接触した感覚が一切なくて、二次資料とそこらの新聞論説を適当につないだだけな感じ。こういう伝記を読むときにみんなが思う「カストロってどんな人物なの? どこを評価すべきなの?」というのをまったく与えてくれないのだ。

コルトマン『カストロ』:多少の留保はつけつつ基本はカストロの公式プロパガンダ通り

Executive Summary

コルトマン『カストロ』は、イギリスの外交官が書いたカストロ伝。一応は客観的な書き方になっているが、個人的にカストロと親密だったせいか、きわめて好意的な書き方、というより公式プロパガンダからあまり逸脱しないものとなっている。

カストロの強権性、民主主義の手続き軽視といった面についての批判はあるが、それが全体の視点やストーリーに貢献していない。カミロ・シエンフエゴスの死の謎、愛人による暗殺未遂等々の「ヤバい」話はどれも華麗にスルー。産業政策も、晩年のバイオ注目だの温暖化注目だのは挙げるが、過去の失敗のきちんとしたまとめもない。その意味で、長いがあまり読んだ甲斐は感じられず、すでにキューバの基本的な歴史を知っている人なら、徒労感を抱きかねない。


チェ・ゲバラ伝を一通り制覇して、まあカストロのほうもチェックするのが筋だよな、と思ってはいたが、なかなか手をつけていなかった。理由の一つは、カストロってチェ・ゲバラほどは波瀾万丈の人生を送っていないから。

いや、そういうと語弊はあって、もちろん迫害しつつ反政府運動して、だれも予想しなかった革命勝利を実現させ、ソ連と米国のはざまで独自路線をつらぬいた人生は、波瀾万丈ではある。が、こう、急な転身、突然の天啓で革命への目覚め、派手な愛と別れ、挫折と天工といったものはあまりない。かなりはやい時期に社会正義に目覚め、大学時代から反バティスタで、反ファシスト反帝国主義、反米の急進的な活動を貫き、妥協もなく、それがずっと変わらず死ぬまで続くというのが基本路線。単線的なんだよね。

革命戦争に勝利して、その後もアフリカその他の戦争に口だしし、それなりに戦争遂行力や戦術面で優れているのは確かなんだけれど、どこかでものすごい軍事訓練を受けたわけでもないし、なんかいつの間にか実力つけてOJTで学びました、という感じ。

また単線的な方針がいろんな形で苦境に立たされても、NEPしようとかいう新しい試みもなく、演説して「おめーらがんばれ! 革命か死か!」と国民を煽るだけでだいたいおしまい。レーニンのようなおもしろい後継者争いもないし、粛清するほどの政敵もおらず、最大の危機は初代大統領がカストロ社会主義路線に反発したのを始末したときくらいかな。

私生活面も、あまり派手なことはない。女性はいたし、子供も生ませてはいるけれど、すごいぐちょぐちょの愛欲関係が展開されたりはせず、あまり縁故採用で親戚が傍若無人で、それを泣く泣く始末したり、なんてこともないと思われている。せいぜいが兄弟のラウル・カストロだけど、最後まで日陰の存在だし。

(付記:その後、ラフィ『カストロ』を読んでここでの記述から考えが一変した。でもこの時点ではそう思っていたという記録として残しておく)

そういったあたりを、非常にあたりさわりなくまとめた伝記が、このコルトマンによる伝記だ。

コルトマンはもと外交官で、カストロとも仲良しではあったとのこと。だから全体的に、カストロには大変好意的。ぶれることなく、ずっと反帝国主義や反米みたいなスタンスを維持したことを評価。後半はキューバが、アメリカとソ連に翻弄されつつ独自の立場をつらぬき、双方に依存しつつも属国になるのは潔しとせず、ミサイル危機で冷戦の手駒にされたことに怒り等々。同時に彼が強権すぎた部分、キューバの「民主主義」が形式だけだということ、その他それなりに悪い点は一応は指摘。その意味では、ニュートラルな体裁は整えている。

そして特に後半は、国際情勢の急変や次々にいれかわるアメリカ大統領とのやりとりみたいな話でそれなりにおもしろさをもたせてはいる。

が、それ以上には踏み込んでくれないのが非常にもどかしい。チェ・ゲバラとの関係は「仲良しでした、信用してました」でおしまい。出会いとかも、「会って話し込んで仲良くなった」でおしまい。カストロ的に、チェ・ゲバラのゲリラ能力をどう見ていたのか? 革命時のゲバラは単に実行部隊でしかなく、戦略たてていたのはカストロだったのに、ゲバラがゲリラ本とかまでいっちょまえに書いて、自分の功績まで横取りするのを、あんまり快く思ってなかった説も聞いたことがある。どうなんだろう。金融政策(の不在) や産業政策 (の不在) をどう評価していたのか? そういうのは描かれない。

また、キューバ革命の中で、カストロゲバラに次ぐ、人によってはゲバラよりえらいと評価している、カミロ・シエンフエゴスという人がいる。

ja.wikipedia.org

この人は謎の飛行機事故で突然死んでしまう。そもそもなんでそのときに、小型機にのっていたのかもはっきりしない。その直前にカストロの方針に反発していて大げんかしていたという話もあり、その死をめぐっては憶測もかなりある。このwikipediaのエントリーですら触れられていることだ。が、本書はそういった話には「証拠はない」の一言ですませる。うーん、ないものはない、という話なら仕方ないんだが。それなのに、別のスパイ機がその日撃墜されたという記録があるので実はそれがまちがってカミロ・シエンフエゴスの飛行機を撃墜しちゃったのかも、なんて話を書いている。何も証拠がないといいつつ、なんでそんな憶測の話を持ち出すんだろうか。まあそれ以上何を調べることができるわけでもないんだけどね。

その周辺のウーベル・マトスをはじめとする、革命の共産主義化に反対する人々の一斉粛清についてもあまり触れない。カストロプロパガンダを完全に垂れ流すほどおめでたくはなく、そこでカストロが強権発動して独裁者への道を歩んでいることはそれとなく書くけれど、何も明記はしない。

さらに、マリータ・ローレンツというドイツ系の女を愛人にして、妊娠させると、子供だけほしくて母親を殺しかけ、彼女がその後CIAの手先になってカストロ暗殺に失敗した事件については一切触れない。さらに他の女性関係についてもまったく言及なし。

というわけで、完全にカストロべったりではなく、多少は疑問や批判的なコメントを入れつつも、ほぼカストロの公式プロパガンダを穏健になぞっただけの伝記、という評価になる。ぼくもカストロについて詳しくはないので、この伝記で衝撃の新事実が明かされているのか、とかはわからない。キューバはバイオ分野に力を入れていて、新薬開発も盛んなんだけど、それはカストロの肝いりだったし、温暖化対応を (アメリカへのあてつけもあって) がんばろうとしていた、というのはおもしろかった。が、これも一段落だけだし、全体としてまったく意外なカストロ像が描き出されているわけではないと思う。

というより、まったく意外なカストロ像というのがそもそもあり得るのか、というのはある。そんなに裏表のある人ではなかったようだし。そしてそれならば、そもそもこんな長い伝記に意味はあるのか、というのはどうしても思ってしまう。単線的な人生なら、もっとシンプルに新書くらいでまとめてしまえるのではないか? もちろん、個別エピソードにはおもしろいものもあるけれど。晩年のアメリカへの亡命者をめぐる事件をはじめ、なんだかんだ言いつつ、細かい経緯は今さら知ってどうなる、という面も大きい。

ここらへん、これから他の伝記を読む中で比較のポイントにはなってくるはず。結構長いのは他にもあるけど、そこらへんどうなってますやら。

diffとしての表現、あるいはほぼあらゆる (人間的な) 価値は、逸脱である

Executive Summary

多くのものはいまや、価値が本来の機能ではなく、それ以外の本来の機能との差分/diffに宿るようになっている。酒はもともとアルコールの酩酊感のためのものだが、いまやアルコール以外の不純物がお酒の味の主役になっている。食事は栄養摂取が本来の機能だが、グルメ料理はそれを離れ、単なる舌や感覚への刺激だけを重視するようになっている。

今後、そうした部分が増えるのではないか。車もバイクも、「味わい」とされるのはニュートラルな移動機能から逸脱した歪み。いずれ、そうした部分だけソフトウェアなどで再現されてそれだけが分離されて取引され、その土台となるハード/本来の機能部分はコモディティ化してどんどん低価格化する世界がやってくるのではないか? ジャクソン・ポロックなどある種の芸術は、いちはやくそうした diff だけの世界を予見しているようでもある。


かなり前から考えていることがあるんだが、まとまりそうにないし、まあまとまってどうなるものでもないし、実証できるわけでもないし、抱えておいて何か出てくるとも思えないし、とりあえず吐き出してしまおうか。価値のありかた、みたいな話。それも希少性とかではない、ある種の主観的な価値の話。

価値の根拠というのは昔から謎で、特に実用価値からはずれた部分は面倒だ。実用価値、あるいは少なくとも何か計測できる既存の条件に対応した部分は、ヘドニックモデルを使って、どんな要素にどんな重みが置かれているかを回帰分析でもすればいい。不動産はかなりこの手が使えるので、楽と言えば楽。立地とか設備とか、絶対的な物理要素があるからね。でも、そうした物理的要素にあまり差がなくて、完全な思いこみの世界が増えてくると、なんか手に負えない。アダム・スミスも希少性で説明しつつ居心地悪い。だって希少だけれどまったく価値がないものなんて、腐るほどあるもの。どの希少性に価値があるのか? それはまったくわからない。マルクスも市場価値と製造原価との差みたいなものでウダウダした挙げ句、労働価値説みたいな話に流れて変なほうに流れて、話はうやむやになった。

で、いまの限界主義的な経済学だと、消費者余剰の概念持ち込んでそこらへんに折り合いをつけてはいるけれど、結局根本のところはわからん。消費者の効用関数を描くと、なんか知らないが鉛筆一本に100万円払っていいと思っている、頭のおかしい変な消費者が一人くらいいたりすることになっている。その変な消費者は何を考えているかは、追求しないことになっている。

でも、多くの価値というのは本当に、その物理的な本質と離れた部分に宿るようになっている。それは無形資産とかブランド価値とかいうもの以上の話ではある。

たとえば酒、というものがある。で、みんなこの酒はいい、あのワインは神の雫で乙女がペガサスにのって振り返って〜みたいなことを言う。

でもご存じの通り (って、知ってるよね?)、アルコールというのは味がない。純粋エタノールは無色透明。だから人びとが酒について語る、甘いとか辛いとか、深みがあるとか平板とか、うまいとかマズいというのはすべて、アルコールとは関係ない。純粋アルコールに入った不純物についての議論であるわけだ。ぼくのある友人はドイツ人のくせに「ビールなんかクズだ、ウォッカの純粋アルコール体験が〜」と語っていた。でもそいつも、本当に純粋なエタノールを飲んでいたわけではない。

酒の持っていた、純粋に酔うためというアルコールに依存した機能がある。そしてお酒の本来の機能的な本質はそこにある。だからこそ酒税はアルコールに対してかかる。

でもいまや、お酒の持つ価値というのはその本来の機能的な本質から完全に離れたところにある。お酒が醸造や蒸留の過程で取り除けない (あるいは時には追加さえする) 不純物の部分に価値が宿っている。人がありがたがるお酒の価値は、すべて不純物に存在する。ワインだろうと、ウィスキーだろうと、日本酒だろうと。

(厳密に言えば、アルコールには味をまとめる力があるため、そうした不純物の味わいを成立させるためにアルコールが要る、という主張はありえるが、まあそこは見逃せや)

そして、いまや人はその不純物だけを分離してありがたがり始めている。ノンアルコール・ビールという代物は、お酒のアルコールを除いた不純物だけを飲んでいるものだ。不純物でないアルコールに価値があったのは、人びとが貧しくて、つらさを忘れるために手っ取り早く酔いたかったからだ。でも、その部分はもう化学的にいくらでも合成できるようになった。そしてその部分に価値を抱くのは、間もなくある種の病人とみなされるようになるだろう。喫煙者がいまや貶められているように。そしてそのとき、人はやがて、ノンアルコール・ワインとか、ノンアルコール・ウィスキーとか、ノンアルコール・ウォッカとかノンアルコール焼酎といったものを作り出すようになるんじゃないか。(注:すでにあるって。)

たぶん喫煙者でも似たような話が起きつつあったんだとは思う。タバコはニコチンによる酩酊感が当初の本質ではあった。それが紙巻きタバコで普及して広まり……でもそれが電子タバコに移り始めたところで禁煙運動が強化されたのか、あるいは禁煙運動があったからこそそうした移行が起きたのかはわからない。煙が少なくてニコチンも (ある程度) 限られる代物が普及し、いずれはニコチンはニコチンパッチで供給されて、でも別の刺激を求めてノンニコチン電子タバコ的なものだけが残る世界もあったのかもしれない。禁煙排撃運動の高まりが急速すぎて、それが定着する暇がなかったようなのは、まあ残念といえば残念ではある。

ここにあるのは、何かその活動が持っていた機能的な本質——その活動そのものを成立させて延命させてきた、言わば実体的な価値——から、その活動の持つ価値の中心が離れつつあるという現象だ。そうした活動の中心は、ますます人工的に合成できるようになっている。あるいはそれだけ分離するのがますます容易になっている。それが、その活動の、言わば「零度」だ。この使い方が正しいか調べようとして、わざわざロラン・バルト『零度のエクリチュール』読んだけど、倒れそうなバカだったわ。だから無視して、こういうものをその活動の零度だということにする。それが合成できるようになるにつれてますます希少性は下がり、価値は低下していずれ限界価値は零になる——その活動の価値の中心でありながらほとんど無価値、という部分だ。

そしてかつて、その活動の価値はその零度の部分にあったのが、いまや価値はその零度の部分との差分、つまりdiffに宿るようになっている。酒飲みにとってすら、中心的な価値はアルコールにあるのではなく、差分、diffに宿る。タバコの価値も、ニコチンとはちがう部分で成立するようになる。

こうした、物事の価値がその機能的な中心部ではなく、その中心部からのズレ、diffに宿るようになる現象は、ますます増えるんだろうと思う。それはもちろん、機能的な中心部分はますます合成できるし、機械化し自動化できて、それだけ価値が低下するからだ。あらゆる活動の価値は、その「本質」からの逸脱に宿るようになるだろう、とすら言えるのかもしれない。

これは当然、各種の表現活動ですでに顕著に出てきた。これは写真が出てきたときの絵画の問題でもあり、スマホで写真が大衆化したときの写真の課題でもある。物事の姿を映像としてそのまま描き出す、という絵画の持っていた機能は完全に写真に奪われた。そのとき、絵画の価値はどこに残るだろうか。

あるいは、もはや小説が現実の記録手段としての役割を終えたら? ディケンズやある種の写実主義、リアリズム的な文学、つまりは第一種の小説とアンソニー・バージェスが呼んだものの価値が、他の記録メディアの発達に伴って激減した。そのとき、文学の価値はどこに残るだろうか?

それはやはり、その差分だ。絵画においては、やがて写実的な描き方からの逸脱を誇張するような形で発達が起こった。それこそキュビズムだし、ジャクソン・ポロックだのイヴ・クラインだのが出てきたわけだ。小説においては、アンソニー・バージェスが第二種小説と呼ぶような、リアリズム表現から果てしなく逸脱した、言葉遊びなどのナボコフであるとか、ウィリアム・バロウズであるとかが登場した。

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ジャクソン・ポロックの絵、ある種の「差分」である

音楽はどうだろう。すでに楽譜通りにそのままきっちり演奏するだけなら、機械のほうがいい。「Our music is sampled, totally fake/ It's done by machines 'cause they don't make mistakes!」。それが音楽にとっての零度、とは言える。

Sucks

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が、音楽の価値——少なくともある演奏の価値——というのはそこにはない。その零度からどんなふうにずれるか、というところに味わいがあるし、演奏家の個性や工夫も出る。

一部の料理もそうだ。一部では世界最高のレストランとも言われていた、エル・ブリなるところがある。そのお仲間のようなモレキュラーなんとかいうのが一部は流行っている。どんなものか知りたければ、下の映画でも見て欲しい。匂いのついた紙のに匂いを嗅ぎながら、油を垂らした水をすする——あるいは何かお椀の中に封じ込めた香料を湯気といっしょに吸い込んで喜ぶ——そんなのが彼らの「料理」だ。

結局これって、食べ物から栄養価、生存のために必要な要素を除去して、それと料理の差分だけを残す、という「食」のあり方だ。ここでは、人間の持つ各種のセンサーを刺激する方法だけが考えられている。生存手段としての食べ物、栄養摂取手段としての (お望みならレヴィ=ストロース的な文化的意味づけを加えてもいい) 料理、つまり本当は「食べる」という行為が持っていた実用的な本質は消え去っている。その消え去った部分との差分だけがここにある。

バイクでもいい。人びとがバイクについて語る価値——低回転の力強さが云々とか、高回転でのピーキーな挙動が、とか、コーナリングオーバーステア気味なのを抑えつつ乗りこなすのが楽しいとか——は、すべてあるニュートラルな走りからのズレのことだ。先日、久々に教習所通いをして乗った、バイクの教習車として使われるCB400は本当に信じられないくらい素直なバイクで (だから教習車に使われるんだけれど)、アクセル開いただけスッと加速し、こちらが意図した通りに曲がり、ピタリと止まる。無理してデカいバイクに乗っていた人がCB400に乗って、その扱いやすさにため息を漏らすのをときどき見かける。ぼくはそんなにバイクに乗っているわけではないけれど、それでもある意味で、最もフラットでニュートラルなバイクのあり方だろうと思う。

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CB400。いいバイクです。なんか排ガス規制でなくなるかもしれないって? 惜しいなあ。

でも人びとが価値を置いているのは、まさにそうしたニュートラルな走り方からのズレだ。無音で完全にスムーズな、純粋移動手段的なバイク像がなんとなく念頭にあり、それに比べて急発進するとか加速がもたつくとか、いきなり高回転でトルクが不連続に上がるとか、ブレーキの効きがギクシャクするとか。ホント、みんな何をハーレーなんかありがたがっているんだい、とぼくは思う。でも知っている人ならご存じの通り、CB400とかは「面白みがない」とか「優等生的」とか言われてしまうことも多い。いずれ電動バイクは、CB400さえも凌駕するだろう。いまの電動バイクは、アクセル開いた時の急発進ぶりに課題あるけど、いずれそれもソフトで如何様にも調整できるはず。たぶん、それは「面白みがない」と言われることになるだろう。

そしておそらくは、そこからずらすための様々な電動バイクのソフト的なセッティングが出てくるだろう。それがその「バイク」の「価値」となるのかもしれない。バイクの走る部分とは離れて、カスタムバイクの世界の中に、電動バイクのセッティングだけのソフトウェアとしてのバイク、みたいなものが、案外大きな市場として登場してくるかもしれない。

ということで、いろんな「価値」は、その中心的、本質的な機能との差分、プログラマーならご存じのdiffの部分にますます宿るようになっているわけだ。そして上の例でもわかる通り、だんだんその分離ができるようになってきた。

絵画はすでに、上のジャクソン・ポロックイヴ・クラインマーク・ロスコみたいな、何かを描く技法から離れてその技法や色彩のあり方だけが独立するような世界が成立している。

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クライン・ブルー、のような青。

バイクなら、電動バイクのセッティングによりそのdiffだけ取り出せるようになる。自動車ではすでに、自動車のエンジン音を懐かしんで、一部の電気自動車は録音したエンジン音を鳴らしたりできる。それ以外の「余計な」部分を実装するソフトも出てくる。サスペンションもソフトで調整できるし、ステアリングの特性だってソフトウェアで実装できる。そのうち、車の動く部分は完全にプラットフォームとして共通化され、その差分を司るソフトウェアだけが車の価値を決めるような状況すらあり得るだろう。

今にして思えば、パトリシア・ピッチニーニはぼくが認識していたよりずっと鋭かったな、と思う。彼女にはカー・ナゲットという作品シリーズがある。車から、「速そうに見える車の要素だけ取り出す」という変なシリーズだ。

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ピッチニーニ「カー・ナゲット」

これってまさに、車の「走って移動する」という零度的な機能の部分から、車の価値を生み出すdiffを抜こうという作品ではあるわけだ。

今後、こうしたdiff部分だけを取り出して「価値」を分離できるようになったら、いろいろおもしろい発展になる。ソフトとハードのアンバンドリングは、コンピュータの歴史においてきわめて重要なできごとだった。それがいろんな形で展開する余地が今後出てくる。さっき述べたように、自動車づくりというのはもはや、エンジン設計だの足回りの物理的な構築だのとは無縁の、電気自動車プラットフォーム上にのせるソフトウェアになるかもしれない。機能の中心的な部分とはまったく離れたところでいじるのが価値になるのかもしれない。

その一方で、それがどこまでできるか、というのはまた課題ではある。一部のバカな現代芸術が誤解しているように、ずれればいいってもんではない。めちゃくちゃやって、それでオッケーというわけでもない。ズレの絶対量の大きさで価値が出るわけでもない。うちの子供のつたない楽器演奏が(少なくとも親には) 愛おしくて価値が感じられるのは、それが頑張って「正しい」ものに近づけようとしていて、それでもずれてしまっているからだ。それは意図的にずらしているわけではないんだけれど、でもその人にしかできないズレだ。他のものも、diff部分に価値が宿るからといって、じゃあdiff部分だけあげるからそれだけ享受してね、と言える場合とそうでない場合というのはどうなのか? 一部ではやっている、NFTとかいうバカな話がある。つまらん落書きにNFTつけたら価値があがりました、とかね。たぶんそれは、ここで言っているような話と少し関係はしているんだろう。そしてひょっとしたら、それはこうしたdiffとしての価値の話の、一つの帰結ではある。しょせんdiff部分は、本質的な機能とは何も関係ない、単なるフェティッシュだ。つまらない数字を適当に設定して、それに価値がありますよー、と喧伝してバカがひっかかればいい、というわけね。

その一方で、ぼくは今後、このdiffに宿る価値の根拠というのがもう少しきちんとわかるようになるのではないか、という気がしなくもない。実用から離れた価値なんて、完全に水物で軽佻浮薄な流行りなのかもしれないけれど、でもそうでない部分もあるんじゃないか。なんか、人間の生物学的なあり方と無関係ではない要素が、そうした実用性と離れた価値の何らかの根拠にあるんじゃないか?

一方で、価値というのは無根拠に湧いてくるものだ、とも言える。ちょっと前にはただの雑音だったものが、ジャズやロックとして受け容れられるようになる。ノイズの中から価値が湧き出す——価値があるのだと根拠なしに言い張り、それを自分でも信じ込む能力——それが今後の人間の存在意義になるのだ、という議論も、ぼく自身がよく持ちだしていることでもある。

で、それがどうした? いやどうしたというわけでもない。なんか、どうでもいいことのような気もするし、何か重要になりそうな気もするが、よくわからないので、備忘録的に書いておく。たぶんこれは、世界のバーチャル化と呼ばれるものの一側面なんだろうとは思う。そしてその中で、いまは製造業の一部とされているものが、ますます情報サービス的な産業に変わっていくんだろう。産業構造がかわり、経済の仕組みがかわり、一方で人間の物理的な存在も変わる中で、もっとこういうことを考える必要も出てくるんじゃないか、とは思うんだが。どんなものだろうね。

The Economist:「クソな仕事 (ブルシット・ジョブ)」はクソ理論

Executive Summary

デヴィッド・グレーバーは、いまの資本主義を批判するので人気があるが、最近の労働が実は無意味なものと化し、そこに従事している人びとが虚無と疎外感にとらわれているという『ブルシット・ジョブ』(2018) は、実際の人びとの労働意識を調べて見ると、まったく実態に即していない、ただの思いこみでしかない。それを述べたThe Economist記事を勝手に翻訳した。


デヴィッド・グレーバーは何やら一部の人にはえらく人気があって、お決まりのサヨク議論を何やらそれっぽい意匠で語ってみせるから、というのが普通の解釈だけれど、正直いってそれ以上のものだとは思わない。

で、彼のブルシット・ジョブ。ほとんどの人は読んでなくて、これが非正規のウーバー配達員とかそういう仕事のことだとおもっているんだけれど、実はちがう。オリンピック大臣の丸川珠代みたいな、何の技能もなく意味もないお飾りなのに、地位と給料だけは高い社会的に無意味な仕事のこと。

あるいは金融とか、多くのハンコ押すだけの管理職とかね。で、そういう人たちは実は、自分たちの仕事の空虚さにおしつぶされそうになっていて、いまや資本主義の矛盾は頂点に達していまにも崩壊しそうで……

でも、そんなことねーよ、との話。実際にやってみたら、やっぱそういう人たちはそれなりにやりがい感じてて、そんな空疎だとか無意味だとか自分では思ってないよ、とのこと。さて、「グレーバーの言ってるのは当人がどう思っているかではなく、客観的に見たその仕事の意義の話で〜」とかいろいろ言う人はいると思うけど、本当にそう書いてあるかな?

The Economist:「クソな仕事 (ブルシット・ジョブ)」はクソ理論

(Bartleby: Detecting the real Bullshit, The Economist, June 6, 2021, p.56)

www.economist.com

多くの人は、ときどき自分の仕事が無意味だと思ってしまう。故人類学者デヴィッド・グレーバーは、この洞察から入念な理論を作り上げた。彼は2018年の著書で、社会は金融サービスなどの職業で意図的にますます多くの「クソな仕事 (ブルシット・ジョブ)」を作り出してきたのだ、と主張した。彼らは学費ローンを返済するためにそのお金が必要なのだが、その仕事のためにうつ病に陥るのだと言う。彼の理論は、グーグルスカラーによると学者たちにより800回以上も引用され、しばしばメディアでも繰り返されている。

この本が登場したとき、このコラム執筆者はピンとこなかった。これは、官僚主義は本質的に、ますます自分で自分の仕事を作り出す傾向があるのだ、というC. N. パーキンソンの洞察の焼き直しでしかないのだ、というのがそのときに指摘したことだ。学者三人——マグダレーナ・ソフィア、アレックス・ウッド、ブレンダン・バーチェル——はグレーバー氏の主張について系統的な分析を行い、実際のデータを見ると彼の主張とは正反対の結果が見られることを示した*1。つまりブルシット・ジョブ理論は、言い換えればおおむねブルシット (クソ) なのだ。

著書でグレーバー氏は、イギリスとオランダのアンケート調査に大きく依存している。回答者たちに、自分の仕事が世界に対して意味ある貢献をしているか尋ねるアンケートだ。これはずいぶんと高いハードルだ。回答者の37-40%が、自分の仕事はここに該当しないと応えたのも無理はない。これに対して、この学者たちはヨーロッパ労働条件調査を使った。これは35ヶ国にまたがる労働者44000人を対象にしている。そして彼らは、「自分が役に立つ仕事をしていると感じる」という設問に「ほとんど思わない」「まったく思わない」と回答した人びとを調べている。

グレーバー氏の主張する、ブルシット・ジョブの高い比率とは逆に、2015年にはEUの回答者のうち、自分の仕事が役に立っていないと思った回答者は4.8%しかいなかった。そしてこの比率は近年、上がるどころかむしろ下がっている。2010年には5.5%で、2005年には7.8%だったのだ。

さらに事務・管理職の人びとは、グレーバー氏が不可欠と考える仕事、たとえばゴミ収集や洗濯で雇われている人びとに比べ、自分の仕事を無意味と思う比率がはるかに低かった。実際、研究者たちは教育水準とやりがいが反比例していることを発見した。教育水準の低い労働者は、自分の仕事が役立たずで無意味だと考える割合が高かった。そして学費ローンはどうも関係ないようだ。イギリスはヨーロッパでの学費ローン残高が最高だが、29歳以下の非大卒者は、借金の多い大卒者に比べて役立たずだと思う可能性が2倍は高い。

するとどういうことだろうか? 問題の一部はまちがいなく、グレーバー氏のような学者たちが、金融業やその他資本主義的な仕事で働く人びとに対して抱いている偏見だ。そうした人びとが介護職やブルーカラー職で働く人びとに比べて、あまりに高給取りなのはけしからんと彼らは思っているわけだ。公平を期するために言えば、小生は正反対の偏見を抱いている、金融稼業やビジネスマンたちにお目にかかってきた——彼らは、学者だの「世間知らず」職の連中 (ジャーナリストなど) は、資本家が作り出した富に寄生しているだけだと考えるのだ。別の要因としては、人びとが自分の職業の文化を受け容れてしまう傾向だ。アサルトライフルを販売していたり、ホメオバシー薬を販売したりする人びとは、やがて自分が世のためになる仕事をしているのだと信じるようになる。

だがグレーバー氏の理論の一部は、実は正しかった。自分の仕事が無意味だと感じる従業員は、不安で落ち込みがちだ。グレーバー氏の考えるその理由は、マルクス主義の「疎外」の思想と関連している。これは19世紀に職人たちが、自営業ではなくなり、工場に勤めざるを得なくなったときに感じたものだ。

疎外は、労働者たちが監督者にどう扱われるかに依存する。「上司が敬意を持ち、支えてくれて労働者の言うことの耳を貸せば、そして労働者たちが参加の機会を持っていて、自分の考えを使えて、いい仕事をするだけの余裕を与えられれば、自分の仕事が役立たずだと感じる可能性は下がる」と研究者たちは書いている。仕事が無意味だと思うのは、自分の技能を活用する機会がなく、自主性を発揮する余地がないときだ。この問題は、専門職についた大卒者よりは、低賃金職にいる人びとに起こりがちだ。

要するに、これは「人びとは仕事を辞めるのではなく、ひどい上司の下を辞めるのだ」という古い成句の言い換えだ。自分の仕事が役立たずだと考える労働者が5%に満たないというのは、管理職の人びとに対する間接的な賞賛であるわけだ。人びとがときどき、自分の仕事が退屈だとか気落ちするものだと感じるからといって、その説明に何やら手の込んだ陰謀論を作り上げる必要なんかない。人生ってのは、本来そういうもの、でしょ?

*1:"Alienation is not 'bullshit': an empirical critque of Graeber's theory of BS Jobs," Work, Employment and Society, June 2021.

キューバの経済 part 4: 社会主義/共産主義経済の全体像

1. キューバ再び:経済危機のさなか

さて久々にキューバにきているのだけれど、キューバはいますごいことになっている。まず、アメリカの制裁がどんどん厳しくなり、各種の船はキューバに寄っただけで嫌がらせされ、キューバへのフライトもどんどん潰された。おかげで観光客は激減。FDIもやたらに支障をきたす状態。食料やガソリンの不足はとんでもない状況だ。

さらにコロナ。2020年夏に、一時抑え込んで、われコロナに勝利せり、と叫んだらすぐに第二波がはじまり、さらに今年に入って爆発。人口一千万強のキューバで、一日千人規模……だったのが6月にさらに爆発して一日三千人の新規患者数だ。おかげでレストランはテイクアウトのみ。夜8時から朝5時まで外出禁止。

さらにトランプがイタチの最後っ屁で、今年一月にキューバをテロ支援国認定してしまったので、特に銀行のドル送金ルートがほぼ完全に断たれてしまった。キューバ相手のドル取引は極度に困難になった。外貨がなくて、しかも最も流通していた外貨であるドルも使えず、そしてバイデンは、公約ではキューバとの関係改善を謳っていたのに、フロリダ州の票を失うのがこわくて当選後はダンマリで、キューバ国民の失望ったらないくらい。

そんな状態なのに、なのか、あるいはそんな状態だから、なのか、キューバは昨年末に大幅な経済改革を断行。これまで使われていた二重通貨制度が解消され、配給システムは大なたをふるわれ、かわりに公務員 (というのは社会主義だと労働者のほとんどの部分だ) の給与は5倍になった。そして経済のなかで自律性を持つ部分を大きく拡大する、という。

で、今回の調査は、その影響と今後の方向性を調べるのが仕事だ。が、そこで常に障害となるのが、そもそもこの日本の連中 (含む山形) は、社会主義経済の基本的なところがわかっていない、ということだ。ぼくたちは上の方針を見て、「ああ、市場経済化するんですね」と思ってしまう。が、キューバの人々にとっては、そういうことではない。そしてもちろん、変化の影響を考えるためには、そのもともとの状況が本当はわかっている必要がある。でも西側社会の多くの人は、それがわかっていない。だから話がかなりかみ合わない。いや、わかる必要すらないと思っている。非効率で持続性がないダメな仕組みだから、とにかくなんでも自由化、市場化、民営化すればいいのだ、と思って……そしてソ連東欧で大失敗をこいた。

でも今回いろいろ尋ねるうちに、やっと社会主義共産主義の経済での、みんなの念頭にある全体像がわかってきた (と思う)。そしてそのなかで、少なくともキューバの2020年までの仕組みに関する限り、以下の話もだんだん見えてきたと思う。

  • 経済を統制するとか中央計画するとかいうのはどういうこと?
  • その統制はどうやって行うの?
  • なぜ共産主義はお金をあんなに嫌うのか?

彼らの念頭にある経済の仕組みとは次の図ようなものだ。

基本、重要なのは実物経済だけだ。お金を使ってまわす部分は、そのオマケにすぎないのだ。が、これだけだとわかりにくいから、各部分を説明しよう。

2. 実物経済:実物接収、実物配給を中心とする経済のベースロード

基本的に、彼らの念頭にあるのは実物経済だ。

社会主義共産主義の最大の基本は、「生産手段の私有がない」ということだ。だから、「生産物」はそもそも私有されない。生産者は、生産物を(ほぼ)すべて上納する。あるいは、市場価格とは乖離したとんでもない安値で売り渡す。そのかわりに、生活に必要な衣食住、教育、医療、娯楽、文化はすべて国家が、計画に基づいて無料で配給してくれる。

あらゆる社会/共産主義がこういうシステムだったかは知らない。でもソ連はこれを1935年までやっていたし、だから社会主義経済の発想のベースとしてこうした考え方はあった。その後はソ連では食品の配給は廃止された。キューバはこれを2021年までやっていた。実際には、配給のパンはまずくて特にオバマ融和後の好況期には、配給のパン食うのは恥、みたいな感覚さえあって形骸化はしていたけれど、でも配給手帳をみんな持っていた。

これは、かつては無理な話ではなかった。というのは、20世紀初頭の社会全体の生活水準は、とんでもなく低かったからだ。ほとんどの人は、毎日同じモノを食べていた。パンだけ、ジャガイモだけ、米だけ。おかずなんて、ないも同然。肉なんて週に一度とか。いや、その同じモノですら、あれば御の字。状況が変わればすぐに、食べ物のない日が続いて餓死もあり得る。衣、住だって同じだ。医療も娯楽も文化も、どんなレベルの低いものだってあるだけ御の字だった。だからこれは、きわめてお得な取引に見えた。「毎日同じパンばかりじゃ飽きるよ」なんてことを言うのは、それ自体が贅沢なブルジョワ的言説であり、プロレタリアの敵だ。そして、人間の生活のベースロード部分は、これですべてまかなえるはずだった。

共産主義は、本当はこれでまわるはずだった。キューバの経済も、これでいいはずだった。そしてこの仕組みでは、お金はいらない。実物を提出して(つーかそれはもともとあんたのもんじゃない)、実物をもらう。それでおしまいだ。これは当然、社会全体の生産力があがって、みんなの必要とするモノの生産が完全に足りていることが前提となる仕組みだ。

だから経済のなかで、ここの統制が最も大事になる。そのときの統制指標として最も重要なのは、生産量であり、次にそれを実現するための投資量だ。

そしてそれを決めるのは、ソ連ならかの伝説のゴスプランであり、キューバでは経済計画省だ。ここは実物経済の生産量を決め、そのための資源配分を決め、投資を決める。それはすべて、この実物経済に奉仕する。中央計画経済の要がこの省庁だ;

ただし、中にはもちろん嗜好の差はある。万人が求めるものではない、一部の人しかほしがらないものもある。そして悔しいけれど、政府が調整しきれないものもある。そこの部分は、お金で調整しようじゃないか。そうして出てくるのが、内貨経済だ。

3. 内貨経済 (キューバならCUP):実物経済の細かい調整役

これは生産されるもののうち、ベースロードとなる配給部分では処理しきれない細かい嗜好の分配に対応するものだ。昔の人はみんなタバコを吸ったので、タバコは配給だけれど、中にはすわない人もいて、それを別のものに換えたいと思うかもしれない。頭痛薬を配給されても、それが不要だという人もいる。それを調整するには、お金を経由したほうがいい。

 でもこのお金は、あくまで実物経済の補助でしかない。実物経済のデコボコを均すためのものだ。ある意味でそんなものが必要なのは、実物経済の収集配給システムが未熟だからであって、つまりそれは共産主義の実物経済に対する侮辱だ。だから共産主義の多くの人——ポル・ポト毛沢東チェ・ゲバラ——はお金を嫌うのだ。ついでにもちろん、お金のため込みは資産格差をつくり……

そして、実物経済と内貨経済をつなぐものが、物価だ。配給にまわるはずのものが勝手に売られたりすると、実物経済に支障をきたす。だから、国が (キューバでは財政物価省を通じて) 物価を統制し、実物経済から内貨経済への流入をコントロールするわけだ。

4. 兌換貨幣経済 (2020年までのキューバならCUC)

本来なら、内貨経済だけでおしまいのはずだ。もともと、内貨経済だって実物経済を均すために不承不承認めただけのはずだ。  そしてここまでで、なんとなくわかると思うけれど、基本的にここでの発想は自給自足経済だ。一つの国の中だけですべてはまわり、完結している。共産主義の連中は、自給自足が大好きだ。最近では環境をカサに、それを地産地消とか言い換えているけれど、それは同じことだ。

でも実際には、自給自足は無理だ。早い話が、実物経済の製品回収と配給をやるためにも、大規模な輸送システムは必須で、それをまわす車や石油や鉄道がいる。機械、資源、食品、その他輸入しないと手に入らないものは多い。そしてそのための外貨を得るには、国内で作った何かを売る、つまり輸出しなくてはならない。

 ある意味で、これは実物経済と、それを補う内貨経済が無能だと言うに等しい。理想とする自給自足ができていないわけだから。

 が、そういうメンツの問題を越えて、もっと現実的な問題がある。内貨を自由に国際決済通貨 (いまはドルだけれど、ユーロでも円でもいい) に換えて、なんでも買えるようにするのはまずい。ヘタに外国の安い代物がドッと入ってきたらどうする? 最初の実物経済の均衡がくずれてしまう。あるいは、原油価格が高騰して、それが国内価格にそのまま反映されたら? あるいは配給品目にガソリンが入っていた場合、国の収支があわなくなったら?

 それを避ける手段が、外貨建ての輸入品を買える専用兌換通貨を作り、その通貨の流通を制約することで輸入品に対する需要をコントロールすることだ。ここはほとんどは生産材と輸出品で、一般市民の経済に流れるのはほんのおこぼれであるはずだ。外貨建て輸出品と外貨建て輸入品とが主流を占める、独立した経済のレイヤーがここに成立する。そのためには、その兌換通貨の流通量 (マネーサプライ/ストック) をコントロールすると同時に、内貨と兌換通貨の為替レートを変えて、外貨建て製品への需要をコントロールすることだ。

 それを実質的に行うのは、銀行と国営両替所を参加に収める中央銀行、ということになる。

5. 外国

そして、外国との輸出入が最後にある。国内の需要を、内貨と兌換通貨の為替レートで抑える一方、ここでは実際の外貨と兌換通貨との為替レートをいじって、本当に出入りするモノの量をコントロールできる。

それもいろいろ手法はある。輸出入は (特にキューバの場合)、出入り口は限られる。港か空港だ。そこを抑えて為替レートをいじれば、何でもできる。 輸入と輸出で使うレートを変えさせるとかFDIなら税制優遇とか、いろんなことが可能だ。

これも本来的に行うのは、銀行と国営両替所を参加に収める中央銀行、ということになる。ただし、ここは実際に外国と接触のあるいろんな関連省庁や国営企業お手盛りが入る余地がある。そこらへんはムニャムニャ。

6. まとめ

つまりここでの基本的な思想は、完全なモノ経済がベースとなり、お金を使った経済はそのオマケだ。そしてそのなかでも、外貨建て商品の経済の部分はさらにオマケだ。そしてそのなかで、実際に外国と出入りする財やサービスの部分は、それよりなおさら小さいはずだ。

でも、どのくらい「小さい」のか? たぶんそれは、上の図の台形の面積に相当するくらいだ。それぞれの台形の面積は、上と下で9:1とか8:2とか、そんな規模が漠然とイメージされている。

そしてそれらのインターフェース/統制手段となるのが、価格だ。それは物と内貨の間をつなぐ、物価だったり、あるいは内貨と兌換通貨との為替レートだったり、兌換通貨と外貨との為替レートだったりする。でもこうして三段構えのバッファを設け、それを政府が統制することで、貿易財の価格変化が、重要な実物経済に与える影響は最小化できる。

キューバ中央銀行は、金融政策ツールとしてMonetary aggregateを使うと言っていた。これはつまり、為替レートや物価の水準が、上の図で実際の面積比と整合性を持つようにマネーサプライを調整する、という意味だと思えばいいだろう。それは当然、ゴスプラン/経済計画省による実物経済の調整と整合したものにしなくてはならない。

というわけで、これが社会主義共産主義の現実の経済のまわりかたと、そこにおける統制だ。

たぶん、こういうのを出すと「知ってた」「常識だ」みたいなことを言うヤツが必ず出るんだけど、でもぼくは (結構いろいろ読んできたけど) こういう基本的な説明にはお目にかかったことがない。マルな方たちの多くって、可能性の中心とかいう人とか、すぐに貨幣がどうしただの価値形態云々だの労働価値云々だの、わけのわからんことを言い出すばかりでこういう具体の話をちっとも説明してくれないし、また資本主義から入ってきた人がキューバ経済とかの説明をすると、これまたインフレだとかいきなりお金の話だとかに陥って、これまたわけわからん。ここに書いたような仕組みが念頭にあると、かなり見通しはよくなると思うんだ。

さて、こういう仕組みを前提にしたとき、たとえばこの経済での「インフレ」って何? 中央銀行って両替屋を仕切る以外に何するの? といったいろんな疑問がわいてくると思うので、その話をいずれしましょう。そして、今回の経済改革というのがキューバにとってどういう意味を持つのかも、ある程度は見当がつくと思うけど、それもまたこんど解説してみようか。