レッシグ新刊で知ったアメリカ政治二極化の力学

久しぶりにレッシグの翻訳をしているんだけれど、なかなかおもしろい(部分もある)。

かつてのインターネット法や著作権法からレッシグの関心は大きく逸れて、ここしばらくのレッシグの本は、アメリカの選挙献金制度の改革がテーマになっていた。何度か、翻訳の打診もきたし相談も受けたんだけれど、話があまりにアメリカの選挙制度に偏りすぎで、翻訳しても日本人が関心持ちようがないと判断したので、申し訳ないんだがずっと見送りを奨めていた。

さらにその後、レッシグ自身が大統領選に出馬とかして、本人的には真面目なんだろうけれど、端から見るとスタンドプレーにしか思えないことをやったりしたため、言っては悪いんだが、キワモノ的な雰囲気が高まっていたこともあって、もう最近のやつは読んでもいなかった。

それが、まあいろいろあって最新作を訳すことになって手をつけ始めている。おおむね関心は変わっておらず、アメリカ政治の根本的な改革なんだけれど、献金制度だけの話からかなり間口を広げていて、相変わらずアメリカ固有の事情が中心ではあるんだけれど、日本的な文脈にもあてはまる議論も結構あるので、恐れていたよりかなり面白い。

その中で一つおもしろいのが、最近のアメリカ政治の両極化と、それに伴う政治の機能不全と呼ばれるもの。アメリカ議会で、民主党共和党の立場がますます乖離し、昔は様々な問題について両者が歩み寄って妥協点を見つけ、政治をまわそうとしてきた。それがいまや機能していない。両者はひたすら対立するばかりで、ろくに話もできず、数のゴリ押しでしか決めごとが進まない。

この状況自体は、みんながそれなりに指摘していることだ。そして、その原因はというと、クルーグマンの拙訳最新作だと、すべては共和党が悪い、ということになる。

民主党は常に正しく、民主主義と自由と正義のために活動していて、共和等は常に人種差別と大企業や金持ち優遇のためだけに動き、汚い手を平気で使い、詐術、ごまかしもアレで、最近になってそれがどんどん傍若無人で正義のポーズすらなくなり、しゃにむに自分のアジェンダを追求するようになってきて、民主党のやろうとすることはすべて邪魔して、理性的な話し合いにすら応じようとせず、それがこの両党の乖離と政治の極端化の原因なんだ、というのがクルーグマンの主張だ。

でもレッシグの今回の本は、これについてキチンとした背景説明や分析を提示してくれているのだ。

まずそうした二極化の一つの理由は、民主党共和党の性格そのものが変わってしまったこと。もともとこの両党は、いまほどイデオロギーに基づく政治集団ではなかった。昔はどっちも、ずっとごちゃごちゃした寄せ集めだった。人種問題についても、南部の民主党はかなり人種差別的な立場を採っていて、むしろ共和党のほうがリベラルに近い立場を採ることもあった。かつては、基本的にアメリカはどうあるべきかという考え方は国民的にも共有されていて、政党はそれを実務的にどう実現するか、追加的な改善をどう実施するのか、というところでしか争わなかった。だからこそ、妥協も歩み寄りの余地もあったわけだ。

それが変わっていったのは、共和党よりは民主党のせいなんだって。それは決して悪い意味ではない。公民権法や投票権法を1960年代半ばに可決させたことで、民主党は明確にイデオロギー重視の立場を採ることになり、党内の南部民主党を明確に切り捨てる動きにでた。そしてこちらがイデオロギー化すれば、共和党もだんだんイデオロギー重視になるのは必然だった。そして……イデオロギー中心になれば、歩み寄りの余地は当然減るわな。ノンポリの実務なら妥協も握手も合従連衡もあるけれど、イデオロギーはそうはいかないもの。もちろん、公民権法や投票権法はとても重要だ。それを実現するためであれば、イデオロギー上等、ということは言える。でも、それには副作用もあって、それが最近になってジワジワ効いてきていることは認識する必要もある。

そしてそれに、アメリカの変な選挙制が拍車をかけた。アメリカの選挙は、予備選があって本選があるんだけれど、その予備選は投票率が低い。そこにわざわざ足を運ぶのは、どちらの党内でも本当に政治マニアか極端な特定イデオロギーキチガイばかりとなる。そこで勝とうとすれば、議員としても主張を極端にする必要が出てきてしまう。これはインターネット献金の比率が増えてきた最近はなおさらだ。

そして、どちらの党もお互いの手口を学んでいる。ティーパーティー運動とか、共和党極右勢力が意外な人気をはくした結果だけれど、民主党のリベラル派はその手口をしっかり学び、グリーンニューディールとかはまさにティーパーティー運動の手法を学んで、極端な主張で耳目を集めて支持を固める手法になっている。アレクサンドリア・オカシオ・コルテズに萌えている人々は、彼女が民主党版のサラ・ペイリンなんだと言われると、カッとなるだろう。(あと、彼女がそれを自覚的にやっているのか、というのはまた全然別の話だ)。でも政治的なやり方から言えば、まさにそういうものなのだ。

ペイリンとAOC:実は結構似たもの同士?
ペイリンとAOC:実は結構似たもの同士?

意識の高いリベラル政策の支持者たち的には、そういう極左的な一派こそ進歩的で信念を貫く正義の味方で、それを支持しない民主党中道の連中は、既得権益に流されている堕落した連中だ、と思ってしまいがちだ。クルーグマンの主張はまさにそういうものだ。でも、そういう立場を強力に打ち出すこと自体が、共和党との妥協や歩み寄りを困難にして、政治の二極化に貢献してしまうのはまちがいない。こういうのを支持しつつ、政治の二極化を嘆くということ自体がそもそも変だ。進歩的なアジェンダをドーンと打ち出せば国民は支持するはずだ、というのは希望的観測でしかない。アメリカの相当部分の人は、そういうのになびかない。レッシグもこれには軽くしか触れていないけど、それはトランプ当選のときに、本当は民主党シンパも思い知るべきだったことだし、大統領選直後にはかなり真面目に反省の機運もあった。でもトランプのおバカツイートに気を取られて、それを罵倒していい気になっているうちに、いまやそういう反省が消えてしまっているように見える。少なくとも外野の日本からはそんな感じがする。

もちろん、この両者のうち、外部の何か基準に照らして、だれが正しいとかどっちを支持すべきだとか言うことはできる。そして、すべて共和党が悪いとか民主党が悪いとかは言える。が、実際には少なくとも行動パターンとしてはどっちもどっちで、しかもそれはアメリカ(だけではない)の政治制度がつくり出す、極端な連中ばかり真面目に投票するから極端な主張と行動をしたほうが当選しやすいという力学が大きな影響を与えているんだ、と。

もちろんレッシグはそのうえで、民主主義の本質に照らせば、共和党がしばしばやらかすことのほうがおかしいよね、という話をする。だから、インチキな「どっちもどっち、ケンカ両成敗」みたいな話ではまったくない。でも、クルーグマンのように、共和党だけがすべて悪い、という非常に単純な見方では足りないことは十分教えてくれる。クルーグマンの話からすると、とにかく共和党をぶっつぶせ、という解決策しかなさそうに思えるけれど、両党の乖離を引き起こしている、予備選の仕組みとかいった制度的な面でも完全も結構効きそうだし、いろいろ対応もありそうだ——実現性はともかく原理的にはね。まあまだ本の前半なので、今後どんな感じになるかはお楽しみ。でも、アメリカ人にしか意味のない本ではなさそうで、ホッと安心しているところ。

ハーバート・A・サイモン『人間活動における理性』(1982) 改訳終わった。

はい、コロナ戒厳令開始前に、サイモン『意思決定と合理性』の改訳を始めました。

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で、終わった。まあ読みなさい。

ハーバート・A・サイモン『人間活動における理性』(1982) pdf版

 

ハーバート・A・サイモン『人間活動における理性』(1982) epub版 右クリックでダウンロード

読者のみんなは、ぼくに深く感謝するがよいのだ。これはそれだけの価値がある、すごい本だからだ。

この短い本に収められた叡智のすごさは、ちょっと比類がない。第1章は、彼の限定合理性理論のまとめであると同時に、自分でその限界をバシバシ指摘したおっかない部分。2章は、進化論について一般人の知るべき事を、とんでもなく高度な話まで含めて網羅している。第3章では、1982年の時点で地球温暖化の話にすでに目配りしてあるのに驚くし、また最後に出てくる各種経済学派のちがいは唯一、期待形成のあり方でしかないのだ、と断言するあたり、すごすぎ。そして政治プロセスでも、すでに各種「活動家」政治の危険性を指摘し、さらにポピュリズムの隆盛とそれに伴う政治の不安定性 (いまの政治の危うさは、みんなが政党を無視した意思決定をしたがるせいで生じている!) を指摘したあたりは、もう慧眼というしかない。メディア の話も、専門家の話も、すべてまったく問題なく今に通用する。一瞬出てくる人工知能への期待とか、たぶん執筆時点の1982年から一周か二周まわって、いまのほうがリアリティ高いかもしれん。

結論は、わからんことはわからんし、スーパー合理的な論理も世界運営も期待してはいけない、というあたりまえの話ではある。でも、それをどういうふうに導くか、というのがポイントでもある。SEU理論をきちんと詰め、その限界を見たうえでの発言は、やっぱ重い。

というわけで、きちんと読みなさいな。ぼくは訳してすごく勉強になったし、みなさんも少しはお裾分けされてほしい。

わかんないという人のために、アンチョコも作っておいてあげたぞ!

cruel.hatenablog.com

ケインズ『平和条約改訂案』、結局全訳しちゃった。

しばらく前に、ケインズ『条約の改訂』が仕掛かりだけど放り出す、という話を書いた。

cruel.hatenablog.com

でもなんか、気の迷いで結局全部訳しちまったよ、あっはっは。暇だなあ、オレって。まあ、ご笑納くださいませ。

ケインズ『平和条約改定案: 続「平和の経済的帰結」』 (1922)

内容的には『平和の経済的帰結』から3年たって、実際の賠償の進展、それをめぐる様々な動きをまとめつつ、多少は現実的になった部分と、もっとひどくなった部分を整理して示したものとなる。本人が言うとおり「続編」だ。だから当然、こっちと併せてお読みなさい……まあ本当に読むならね。

ケインズ「平和の経済的帰結」(pdf 1.2 Mb) https://genpaku.org/keynes/peace/keynespeacej.pdf

とはいえ『平和の経済的帰結』の主張がまったく見当違いとか、そこでの見通しとはまったくちがう方向性が出てきた、といったことはない。ほとんどが、おおむね『平和の経済的帰結』での分析通りに進んでいるということで、新規性はない。ただ各国政治の権謀術策や詭弁がすごい、というのが見所。

でも21世紀の現時点では、ロイド=ジョージ氏がどこの会議でクレマンソーとどんな密約をしようが、まあ100年前のどうでもいい話で、歴史的な意義しかない本ではある。たぶん、実際にこれを読む人は……いないよねえ。

で、改訂案というのはとにかくドイツからの賠償金はどんどん減免しろ、というもの。まあ、それが実際にどうなったかは、トゥーズのナチス本を読んで下さい。

ナチス 破壊の経済 上

ナチス 破壊の経済 上

ぼくも、細かく見直して訳を手直しする気力はさすがにない。何か気がついたらご指摘くださいな。

 

ちなみに、ここでケインズは30年にわたって賠償総額の6%を取る、という話を主張しているけれど、それに対する批判もある模様。

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うーん、ケインズの書いたものを見ると、別にケインズがここで責められる理由はないと思うなあ。「彼らは連合国の国民の利潤や収益から30から40年に亘って年貢を徴収するなどということは思いつかなかった」というのは、明らかにウソだと思う。具体的な手法はこの時点では未定だったけれど、でももっと壮絶な賠償条件を課そうとしていたからこそ、ケインズは怒っているわけでしょ。30年割賦にしなかったら、ロイド=ジョージたちはどうやって賠償金をむしりとるつもりだったわけ? それは30年割賦よりマシなやり方だったと言えるの? ウソだと思うなあ。

その条件ですらナチスの台頭につながったのを予見できなかったというのは、あまりに岡目八目すぎる批判だとは思う。が。閑話休題

 

さて、次に何をしようか。もっと読む人の少なそうな、「インドの通貨と金融」でもやろうか、それとももう少しキャッチーな「説得論集」や「人物論集」にしようかな。実はこの本をやっちまうことに決めたのは、「説得論集」のため。本書が終わったことで、「説得論集」はかなり翻訳ができあがっていることになるので (というのもあれは相当部分が、本書や『平和の経済的帰結』や『お金の改革論』の抜粋なんだよね) そんなに手間をかけずに全部できてしまうんだ。期待している人もいないだろうが、乞うご期待。

 

ケインズ「H.G・ウェルズ『クリソルド』書評」

最近、初版諸般の事情でケインズの伝記をいっぱい読んでいるんだが、うーん、スキデルスキーのものすごい分厚い三巻本とかがんばって見ているんだけど、平板だなあ、という感じ。分厚いのだと、その物量にうんざりしてそういう印象になりがちだというのもあるので、あとで再読はするけど。

John Maynard Keynes: Volume 2: The Economist as Savior, 1920-1937

John Maynard Keynes: Volume 2: The Economist as Savior, 1920-1937

John Maynard Keynes: Fighting for Freedom, 1937-1946

John Maynard Keynes: Fighting for Freedom, 1937-1946

チェ・ゲバラのいろんな伝記をたくさん読んだときもそうだけど、長く分厚く詳しい伝記を書いても、手当たり次第ぶちこんだだけだと、「で?」という感じになってしまう。ケインズは、学者面でも官僚面でも私生活面でもいろいろおもしろいエピソードのある人物なので、いろいろ書きやすい。でも、彼がずっと同性愛者だったというのを理解しないと、彼の経済理論が理解できないというものだろうか? スキデルスキーは、もろにそういう物言いをして、ハロッドによる伝記を批判するんだけど、うーん。ぼくはクルーグマンの「波瀾万丈の人生送ってきたからって、団地のサラリーマン小せがれよりすごい洞察が得られるわけじゃない」という主張のほうが正しいと思うんだ。正直、ハロッド版とそんなに印象ちがうかなー、という気はかなりする。

ケインズ伝 上巻

ケインズ伝 上巻

というような話をツイッターに書いたところ、ある人が、ケインズの伝記作者や管財人たちはケインズの遺稿をかなり取捨選択して都合の悪いものを除いているのだ、という話があって、日本でも『説得論集』に収録されなかった「クリソルド」がそういう都合の悪いものだったらしい、と教えてくれた。

ケインズは、もちろん今日的な基準からすれば不適切な心情はあった。優生学にかなり期待していたとかね。で、この「クリソルド」というのは、H.G.ウェルズ『ウィリアム・クリソルドの世界』という、一般には凡作とされる長大な3巻小説の書評だ。その中に、社会のエリート支配を支持する見解が出ていて、そのために日本版からは落とされたんだろう、というのがその暗黙の見解。

もちろん、そんなやっべえ話が載ってるなら是非読まなくては、とこの野次馬は喜びいさんで手元の原著を読んでみたんだが……

なーんだ。ぜんぜんそんなんじゃないじゃん。具体的にどんなものかというと……まあ全訳してやったから読めや。

ケインズ「『クリソルドの世界』書評」(1927, pdf 73kb)

どうせ読まないだろー。今後高齢化で社会の活力が失われることに対する懸念、そして社会主義への失望の一方で右派の連中が新しい社会構築に関心を持たないことへの失望という2点について、基本的に賛意を示しつつ、少しその議論を広げた書評だ。社会のエリート支配待望論なんかじゃないなあ。社会の今後の青写真を構築すべき人々は、バカで感傷的な左派ではありえないけど、右派もやってくれそうにない、というだけの話だねえ。

でも書かれているいろんな問題意識は、今も通用するものばかり。同時に、労組の支配するリベラル左派勢力への幻滅、失望というのはすごく強い。最近だと、ピケティでもクルーグマンでも、昔は労組がしっかりしていて格差を抑えられていた、と述べるのが常だけれど、当時はそうは思われていなかった面もあるんだねー。それは最近読んだバージェス『1985年』でも顕著だった。

 

ちなみにこないだ、ケインズ『平和条約改訂:続平和の経済的帰結』を途中までやって投げ出すつもりが、最後に見て「もうちょっとやろうか」とチマチマ足しているうちに、結構進んでしまったんだよね。

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実はこれが終わったら、「お金の改革論」「平和の経済的帰結」は終わってるんだけど、『説得論集』というのは相当部分がこの3冊からの抜粋で、さらに「孫たちの経済的帰結」も終わってるから、なんか『説得論集』の半分以上は終わってることになるんだよなー。

スノーデン自伝 訳者ボツ解説

しばらく前、といってもコロナ前だからはるか昔のように思えてしまうけれど、かのエドワード・スノーデンの自伝を訳したのでした。NSAに気がつかれないよう、原文はタイプ原稿コピー、著者名も偽名、これについてネットで絶対話をするなという条件つきで、しかも少し急かされたこともあり、なかなかおもしろうございました。

さて、この本には訳者解説はない。でも実は、事前に有識者に送ったレビュー用の見本版には、訳者解説があった。そして、出版社が販促用に作ったページにも、一時は訳者の解説が全文掲載されていた。

www.kawade.co.jp

それがなぜ上のページから削除され、実際の本からも訳者解説が消えたのかというと……スノーデン側から物言いがついて、なんでもあの訳者解説はスノーデンに対して disrespectful であるから消せ、と言われた、とのこと。

もったいないので切り刻んだバージョンを販促用の記事などに転用したけれど、全文がお蔵入りになるのもつまらないので、ここにアップロードしておく。

スノーデン自伝 訳者ボツ解説 (470kb, pdf)

さて、いったい何が「disrespectful」と判断されたのかはよくわからない。スノーデンの書いていることを鵜呑みにする必要はない、と書いた部分だろうか? NSAがスノーデンの書くほど壮絶なマルウェアを普通のトラフィックに載せて、だれのマシンにでも仕込めるというのは本当か、と書いた部分だろうか?

そもそも、スノーデンが(一時日本にいたとはいえ)あの訳者解説を自分で読んだようには思えない。少なくとも自伝の中の記述によれば、ひらがなは読めるし簡単な話くらいはできるらしいけれど、この文をスラスラ読めるはずはない。では何が起きたんだろうか。

あくまで憶測ではあるんだけれど、ぼくはたぶん日本のだれかがスノーデン側に、何かをご注進に及んだんじゃないかと思っている。でもわざわざだれが?

もちろんぼくを嫌っている人は多い。日本のケインズ関係者にはずいぶん恨まれているようで、全然関係ない本のアマゾンレビューにまでケインズ訳の罵倒が出てくる。その他あの人とかこの人とか。まあいろいろあったからねえ。

でも今回に関する限り、ぼくはそういう従来の遺恨が出たのではなく、以下のあたりに自分が書いた内容が、何か関係があるんじゃないか、とは思っている。

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ぼくはここで、スノーデンがある種の政治的な動きのために日本で利用されたのではないかと見ているし、それを抜きにしてもスノーデンを旗印にした日本の各種の本はちょっとひどいと思ってそう書いたので、それを気に食わないと思う人は当然出るだろう。が、もちろんこれは憶測だ。

いずれにしても、ぼくは残念だと思っている。言論の自由を擁護するはずの本なんだし…… それにQubesOSの話を多少なりともまともに書いた本なんて、日本には他にないよ?

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もう少しがんばって販促もできたんじゃないかとは思うけれど、これでなんだか気勢が削がれてしまった部分は確実にあって、これまた残念。あと、上の河出書房のサイト、いまだにhttpsになっていないんだよね。指摘したら、対応すると言っていたんだけれどこの騒ぎもあって、いまだhttpのまま。まあ、すぐにコロナがやってきてしまって、ちょっと世間の関心が逸れてしまった面はあるので、販促してもどこまで行けたか、というのはあるんだけれど。

ケインズ『平和条約改定: 続「平和の経済的帰結 (1922)」』仕掛かり:結局やっちまった

しばらく前に、ケインズ『平和の経済的帰結』を全訳した。

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もちろんご存じと思うけれど、これは第一次世界大戦後に、イギリス外交団の一員としてヴェルサイユ会議に参加したケインズが、あらゆるものをドイツからはぎとって、しかもその上に賠償金をしこたま払わせようとする連合国たちの魂胆に怖気をふるい、席を蹴るとともに発表した告発文書だ。これはベストセラーになり、ケインズはいきなり悪名を馳せた。

で、最近忙しくなったもので、当然ながら余計なことにいろいろ手を出してしまい、あれこれ見ていると、この『平和の経済的帰結』には続編があるという。それがこの The Revision of the Treaty (1921) だ。

www.gutenberg.org

で、いつもながら中身もろくに読まず、『平和の経済的帰結』を訳した身としては続編も一応やっつけるのが仁義だろう、と思って取りかかった。1/3ほどが終わったものが以下のpdf。

平和条約改定: 続『平和の経済的帰結 (1922)』

なんだが……つ、つまらん。

基本的には、前著でさんざん罵倒したヴェルサイユ条約のその後の経緯と、それをどうすべきかというのを論じたもの。非常に時事的な論説であって、いまのぼくたちが読んで何か得られるかというと……あまりない。歴史的な意義とケインズが書いたということだけにしか意味がない文書。

ということで、なんかこの先を全部訳すかどうかは、かなり怪しい。特に補遺にあるいろんな条約や協定や通達の原文は絶対訳さないと思う。

とはいうものの、歴史的な経緯からいえば、この第一次世界大戦の賠償金問題は、まさにナチスドイツの台頭につながる決定的な要因ではあって、それがどのように形成されていったかは、ある意味で重要ではある。ただそれが本格的に問題になるのは、もう少し後の大恐慌をはさんだ後の話であって、この文献に直接関連する部分は小さい。

このドイツ賠償金問題、それをあまりに巧みに処理しすぎたヒャルマル・シャハトの恐るべき手腕、そしてそれがナチス台頭にとって持つ意味については、トゥーズ『ナチス 破壊の経済』を参照してほしい。

ナチス 破壊の経済 上

ナチス 破壊の経済 上

ナチス 破壊の経済 下

ナチス 破壊の経済 下

ということで、他にもいろいろ仕掛かり品はあることだし、たぶんこれはこの先、当分放置されると思う。同じケインズなら、結構できあがっている説得論集とか人物論集とか(これは結構楽しい)、まったく無意味にやりはじめた処女作のインド経済本とかのほうが先に終わりそうだ。続きやりたい人は是非どうぞ。pdfと同じディレクトリにtexファイルが入っているので。

 

それより先に、仕事しないと……

付記

とかいって逃避しているうちに4章まで終わって6割くらい仕上げてしまったよ。なんか結局やってしまいそうだ。(9/17)

結局やっちゃった。

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おまけ:太田昌国『チェ・ゲバラプレイバック』は、ビリーバー本ながら率直で好感は持てる

チェ・ゲバラプレイバック

チェ・ゲバラプレイバック

この本は変な本ではある。現代企画室を主宰し、チェ・ゲバラ関連の本をたくさん出してきた太田昌国が、基本的にはゲバララブを貫徹しつつも、擁護しきれず変な妄想に走っているという本だ。

その意味で、特筆する必要はないし、またぜひとも読みなさい、という本でもない。当然ながらというべきか、立場もぼくとはかなりちがう。ぼくはこれまでの紹介からもわかる通り、チェ・ゲバラを決して高く評価しているわけではない。それに対して、この太田昌国は、やたらに評価している。彼にとってキューバは、北米帝国主義による南米弾圧・収奪・簒奪をはねのけた希望の星だ。

だから本書を読んでいると、こいつ何いってんだ (失笑) みたいなところはたくさんある。その最たるものが、この人は左翼リベラル系にありがちな、社会主義=リベラル=平和主義=人道主義憲法9条バンザイ等々、という妄想を本当に大真面目に信じているという点だ。だから彼にとって、正しい社会主義は軍隊を持たないはずなのだ。よって、キューバ革命軍事革命で、その後のキューバも軍隊に大きく頼っているということが彼には許せなかったり、信じられなかったり、どうしても北アメリカの悪辣な侵略に対抗するためには仕方なかったのかも、とかいう弁明に走ってみたりする。

だから太田は本書で、チェ・ゲバラカストロキューバ軍を解体できなかっただろうか、という妄想をやたらに展開する。ゲバラたちは、南米にベトナムを2つも3つも作れといっていて、ゲリラ戦の武力闘争しか能がなくて、つまりはもっと戦争しろ、という話だ。でも太田はそれを見ようとしない。ゲバラヒューマニストにちがいない、人道主義にちがいない、だから軍事が本当は嫌いだったにちがいないという思いこみを突っ走らせる。そして挙げ句に、カストロがいきなりキューバ軍の解体を唱えました、なんていう架空の宣言を妄想してそれを本気で載せている。

その他、内容的にはケチのつけどころはいくらでもある。が、その一方で、冒頭の陣野俊史による(ぬるい)インタビューで、太田はぼくと同じーーいや多くの人と同じーー疑問を率直に述べている。つまり、ゲバラはなんでゲバラになったのか、という話だ。二回の南米旅行で悲惨な状況を見て、それで革命に身を投じましたというのは、あまりに説得力がないというのは、彼ですら感じているのだ。

これまでのゲバラ伝のレビューで、ぼくもゲバラの思想成立過程みたいなものはかなり気にしていた。旅行先でちょっと悲惨を目にしただけで、いきなり革命家になったりしないよねえ、と。それに対して、いやそういうこともある、わからんやつはわからん、というコメントがどっかにあった。

もちろん、そういうことだってあるだろう。宮殿を出てじいさんや死体を見ただけで、地位も家族も捨てたゴータマくんなんかの例もある。落ちてきたリンゴや風呂からあふれた水や木漏れ日で、ふと何か回路がつながってしまい「ユリイカ!」となることはある。でも、そうした話のツボは、そうしたつまらない出来事が、その人のそれまでの思索や経歴における空白をどのようにつないだか、というところにある。たぶん多くの場合、その空白やつながるのを待っている回路は、そんなに明らかなものではないんだろう。でも……なんかしらんがそうなったんだから文句言うな、では多くの人は不満なのだ。それはこのぼくであれ、そしてビリーバーたる太田昌国であれ。

一大ビリーバーをもってしてすら、ゲバラがいかにしてゲバラになったか、という部分には納得のいかないものを感じている、というのがわかる点で、ぼくにとって本書はちょっとおもしろかった。そしてそうした不明点を変な妄想と信仰で抑え込まず、わからないところとして書いてしまえるのは、この人のストレートで正直な点が非常によく出ていて、嫌味でなく感心した。出版社として現代企画室は、カブレラ=インファンテ『TTT』やドノソ『別荘』などいろいろ出してくれている、非常にありがたいところでもある。

あと、ゲバラ本をいくつか出してきただけあって、そうした本の版権についてもいくつかヒントがある。基本、キューバはこのゲバラ本などでは、国内版は国内で流通させ、外国版は外国の出版社に任せる、という形をとっていたとか。それも含め、世界の左翼系出版社のある種のコネクションがうかがえるのは、おもしろいといえばおもしろい。それが、『ゲバラ日記』=ボリビア日記がいくつも邦訳がある原因の一つにつながっているらしい。

このゲバラ日記をめぐる様々な国際政治的やりとり(こいつが当時のボリビアの現職大臣の手によりキューバに流出したことで、ボリビアの大臣級にまでキューバの息がかかっていることが明らかとなって現地では一大政治スキャンダルとなり、当時のボリビア内閣総辞職につながった)をめぐる細かい経緯、同行していた他のゲリラたちの手記、その他関連資料を総まとめにしたのが、以下の The Complete Bolivian Diaries of Che Guevara.

さすがに翻訳の話までは出ていないけれど、この日記を流してもらえた世界の左翼系出版社のネットワークとか、なかなかおもしろい。編者は初期の批判的な伝記を書いたJamesとなる。